2.昇紘
【オレは、あんたのこと、愛してなんか、ない】
【抱かれたくなんか、ないんだっ】
郁也の悲痛な叫びが、記憶から消えない。
この世界に、異邦からの迷い人は、あらかじめ、現れることがわかっていた。
蓬莱という未知の世界と、崑崙という未知の世界。それは、この世界と、どこかで繋がった、異邦である。そう。だから、いずれ、現れることがあるだろうからと、彼らの国のことばは、仙である自分の中には、知識として存在していた。
異邦人が現れるとすれば、蝕の後だと、誰から教えられるまでもなく、予は、知っていた。
未知の世界に対する予の興味は強く、異邦人に対する関心も、同じくらい高かった。
だから、ことばの通じないものがいる――と、噂を聞けば、迎えをやった。
何度か、噂のもとが異邦人ではないことが続き、失望した。
それでも、いつか、現れるだろう。
天は、不必要な知識をその僕に与えはしない。
だから、予は、待っていた。
そうして、現れたのは、薄汚れた少年だった。
幾日食べていないのか、痩せ細り、ぼろぼろの衣類は、さして役をなしていない。
意識のない冷たいからだは、命の火が今にも消えそうなことを伝えていた。
予は、すぐに、少年のからだを温めるよう命じた。
医師を呼び、女官達に、風呂の支度、食事の用意、着替えの準備を、命令した。
湯を使わせ、着替えさせ、火をいこして温めた部屋の牀榻に、横たえさせる。医師が、脈をとり、薬湯を、含ませ、下がってゆく。
やがて、意識が戻った少年が、飢えた獣のように、薄い粥を啜るのを、見守っていた。
【もう、食えない】
天井を向いて呻く少年に、
【それはよかった】
予は、声をかけていた。
ほんの少しの間があった。
思い切ったように顔をあげた少年の、その瞳に、予は、堪えられた、涙を、認めた。
青ざめていた頬が、赤く染まっている。
【今の、あんた?】
おそらく、その刹那、予は、恋に落ちたのだ。
馬鹿馬鹿しいほどに他愛なく。
それまで、予が、色恋沙汰とは無縁だったとは、言わない。
後宮に、妃がいないわけでは、なかった。
なのに、予は、なにをしているのだろう。
郁也が来て、七日。
たった一口の酒で酔いつぶれた少年を、予は、自身、寝室に横たえていた。
最初、深い意味などなかった。ただ、こちらの部屋が近いという、それだけでしかなかったのだ。
薄暗い角灯の灯に照らされた郁也を見ていると、身の内に、熱が生じる。
ただの少年だ。
どこにでもいる。
整った顔立ちはしているが、美形というのではない。
痩せた、海客の、少年。
見下ろしていると、取り返しのないことをしてしまいそうで、予は、牀榻から、離れた。
しかし、結局。
泣き叫ぶ郁也を、予は組み伏せていた。
嫌がるさますらもが、愛しくて、身内からこみあげてくるものを、抑える術さえ、見失っていた。
そうして、郁也を手放せなくなった。
逃げる郁也をどうにかして、予に繋ぎとめておきたいばかりに、無茶を繰り返した。
自分の行いが無茶だという自覚は、あった。
後宮を、郁也のために、空けた。
郁也のことばも何もかも、予は、理解しているようでいて、理解していなかったのだ。
郁也が、予との行為を嫌がっていると。
予に抱かれることを、嫌っていると。
予を、嫌っているのだと、認めたくなかった。
【オレは、あんたのこと、愛してなんか、ない】
【抱かれたくなんか、ないんだっ】
「郁也………」
それでも、だ。
「予は、お前を愛しているのだ」
崖から落ちる瞬間の、郁也の褐色のまなざしを、予は、思い返した。
予にはじめて抱かれて以降、予を見ようともしなくなった、褐色の瞳。
なによりも美しいと思った、一対の貴石が、あれからはじめて、予を見た。
そうして、予は、かけがえのないものを、失ったのだ。
こんなにも、愛しい。
手放せない。
手放したくなど、ないというのに。
なぜ、こんなことになってしまったのだろう。
郁也の行方は、知れない。
ひそやかに囁かれているのは、あれの、死。
しかし、そんなこと、決して、認められなかった。
あれは、予のものなのだ。
予が心底愛した、否、愛している、ただひとり。
認めるわけにはゆかない。
失ったままではいられない。
世界中をくまなく探してでも、郁也を見つけ出してみせる。
予は、自儘に動けない我が身の代わりに、禁軍に、郁也の探索を命じたのだった。
3.西李
海は苦手だ。
海辺に、オレは、打ち上げられていたのだという。
かなり酷い怪我をして、生死の境をさまよったらしい。
そんなオレを看病してくれたのは、翡翠のような髪と目の色をした、
明翠だった。日に焼けて、赤銅色をした筋肉質なからだの、オレよりも年上の、海女である。
意識が戻った時、オレは、自分の名前すら、わからなかった。
ことばも、聞きとることはできたけど、喋れなかった。
そんなオレに、明翠は、死んだ夫のだけどと名前をつけてくれて、いろいろなことを教えてくれた。
逞しくて、おおらか過ぎるけれど、それでも、オレは、明翠は、いい女だと思う。
明翠のことを、オレは、愛している。
焚き火の近くに腰を下ろして、オレは、明翠が海に潜っては浮かび上がってくるのを、眺めていた。
「
西李」
明翠が手を振ってくる。オレは、手を振り返した。
海を見て頭が痛くなるなんてことは、言っていない。
やっぱり、一応、夫としたら、妻に、心配かけたくないって、思ってしまう。
オレが家事一切をやって、明翠が海女で金を儲けてるんだし。
あんまり、この辺は、裕福な村じゃない。
潮風にさらされてるからか土地は痩せていて、作物はあまり育たない。収入源の海は、気まぐれに牙を剥く。
真珠とか珊瑚とか、値の張るものを採れればいいけど、なかなかそうはいかないらしい。それでも、みんな何とかやっている。
昼飯に握り飯を持ってきたっていうのに、もうちょっと――と言って、海から上がってこない。
晩飯の支度しないといけないんだけどな。
洗濯物を取り込んで、繕いもしとかないといけない。
風呂も沸かさないとな。
寒くなってきてるから、明翠にあったまってもらわないと。
今日は、ほんのちょっとだけだけど、酒を買ってある。
オレは、飲めないけど、明翠が案外いける口なんだよな。
ここに来てから四年と少し。まるっきり主婦してる自分に、オレは、苦笑する。
「父さん」
走ってくるのは、オレと明翠の息子。
今年、五つになる、李翠だ。銀色の髪と、緑の目をしている。
「どうした?」
立てろうと、オレは、杖を手に取った。
「あのさ」
「どうした?」
大丈夫? と、李翠が、オレに手を貸してくれる。
流れ着いたときに負っていた怪我のせいで、オレはちょっとだけ、左足を引きずるようになった。あんまりこれみよがしに杖を突きたくはないんだけど、今日みたいに寒い時は、痛むから、つい、杖に頼ってしまう。
ふと、李翠の着ている服が目についた。
これから冬が来るっていうのに、伸び盛りだからか、やけに、短くなっている。
冬支度もしないとなぁ。
オレは、空を仰いだ。
李翠が懐から取り出した猫の仔を見て、溜め息が出そうになる。
飼いたいわけか。
猫の一匹くらいはどうにかなるかなぁ………。
「面倒、自分でみるんだぞ」
しかたない。オレが流れ着いたときに身に着けてたっていう何かを、売ろう。
どれくらいの価値のものかは、わからないけど、ないよりましだ。
李翠が嬉しそうに笑うのを見ながら、オレは、決めていた。
4.昇紘
あれから、何年が過ぎたのか。
四年と、数日になる。
遙か眼下に寄せ返す千の波を眺めながら、予は、溜め息をつく。
ここから、郁也は海に落ちたのだ。
郁也の行方は、杳として知れない。
噂のとおりに、死んだのだろうか。
夢に見るのは、今でも、郁也の、あの瞳だ。
予を見上げている、信じられないと瞠かれた、一対の褐色のまなざし。
予の中で、郁也は、まだ、少年のままだった。
愛妾といいながら、まだ、立太して仙にはなっていなかったため、今頃はおそらく、二十才。いい青年になっているだろう。
成長した郁也の姿を、予は、想像もできなかった。
それでも、予は、自分が、郁也を見間違うはずはないという、自信を持っていた。
どんな青年になっていたとしても、他の誰が気付かなくとも、予は、決して、郁也を見間違いはしない。
決して。
「陛下」
こちらでございましたか――と、現れたのは、禁軍将軍雷燕だった。
ひざまずく雷燕を見下ろし、予は、目で先を促した。
「これを」
差し出されたものに、予は、記憶があった。
細工師に、予がこと細かく意匠を伝えた、この世に二つとない腕輪だった。
これは、予が、郁也に贈った腕輪に違いない。
「これを、どこで」
彼を失って以来、はじめての、郁也の手がかりである。
雷燕が、腕輪を見つけた経緯を喋っている。
「行くぞ」
「お待ちください」
追いすがる雷燕の声すら、予には、聞こえてはいなかったのだ。
5.西李
「おきゃくさん」
李翠が、オレの服を引っ張った。
オレは、井戸の水を汲んでるところだった。
「客?」
「うん。村長さんのお使いがきてね、みんな、村長さんの家に来るようにって」
大丈夫? と、李翠が、オレに手を貸してくれる。
「じゃあ、李翠。お母さんも呼んでおいで」
「うんわかった」
ちっこい鹿みたいに俊敏に、李翠が砂を蹴立てて走ってゆく。
五本あった腕輪の一本を、オレは、町で金に換えた。思っていたよりも高く売れて、家族の一冬分の服の生地も、酒も、買うことができた。それでもまだ金は残ってる。けど、大事にとっとかないとな。
オレも縫い物は苦手なんだが、明翠は、オレより苦手――というか、下手だ。結局、李翠の服は、近所のおばさんに教えてもらいながら、オレがどうにか、縫いあげた。
ちょっとでかすぎたかなって思わないでもないけど、でも、まだまだ成長期だしな。次は、明翠のだ。
すっかり主夫してる自分に、苦笑する。
オレは、肩の凝りをほぐそうと、手を振り回してた。
なにが起きているのか、咄嗟にわからなかった。
オレが、明翠と李翠と一緒に村長の家に行くと、村長の家の庭には、村中の人間が集まっていた。
それだけじゃない。やけに立派な服装をした男たちが、あちこちに立っている。
心臓が、ドキンと、痛いくらいに、波打った。
「なにがあるんだろうね」
明翠が、こそりと、耳もとにささやいてきた。
なんだろう。
気分が悪い。
「どうしたんだ」
明翠の心配そうな声に、オレは、首を横に振った。
でも、なんで、こんなに、心臓がドキドキするんだろう。
足が重い。
これは、傷が痛いからじゃない。
なんだ。
いったい。
「村長に言って、帰らせてもらおう」
さっさと、村長のところに明翠が行こうとする。
明翠……。
待ってくれ。
行くな。
苦しい。
「父さん?」
李翠の手が、服の裾を握る。
「ああ、李翠」
明翠が、村長のとこに行く前に、村長が、
「みなの衆座ってくれ」
と、叫んだ。
のろのろと、座る。
座るって言っても、土の上に直なんだ。オレの足には、ちょっときつい。
ざわざわと、不安げなざわめきは、やまない。
明翠がオレの傍に戻ってきて、座った。
李翠の手を握って、オレも、座る。
全員が座ったところで、誰かが、濡れ縁に出てきた。
誰だ?
ざわめきが大きくなる。
こんな村には似つかわしくない、立派な装束の武人だったからだ。
さっと、男の視線が、場を撫で斬るように、動いた。
思わず、首を竦めていた。
眼光が鋭い。
その眼光がざっとオレを通り過ぎた瞬間、オレは、もやもやとした何かを感じていた。
鳥肌立つような、なにか。
「禁軍将軍、雷燕さまが、みなの衆に聞きたいことがあると仰られている」
禁軍将軍!
あちこちで、そうつぶやく声が、する。
禁軍将軍。
雷燕…………。
なんだ。
オレ、おかしい。
知ってるはずないのに。
「大丈夫か」
「父さん」
明翠と李翠が、オレの手を両側から、握ってくれる。
落ち着け、オレ。
関係ない。
あんなの、知らない。
なのに、この不安は、なんだろう。
全身が小刻みに震え、脂汗までにじんでいた。
ざわざわと、ひときわ大きなざわめきに、ふっと、視線を上げた。
「?」
なんだ?
村人達の視線が、オレに向かっている。
オレ、なんかしたっけ。
と、なんかどっかで見たような感じで、村人達が、二手に分かれていった。
きれいに一本の道ができて、それで、禁軍将軍が、そこを、歩いてこっちに来る。
「西李」
「父さん」
なんで。
ぴたりと、オレの前で、将軍が、止まった。
思わず、オレは、杖を握りしめてた。
「これは、そのほうが、売った物か」
硬い、声。
なにを考えているのかわからない、声だった。
目の前に突き出されたものを見て、オレの目が、大きく瞠かれてゆく。
この間、冬支度の金が欲しくて、売り払った腕輪が、将軍の手の上、濃い紫の布の上にある。
まさか、盗んだとか思われてる?
「どこで、手に入れた」
ああ、やっぱそうだよな。
そう思われたんだよな。
でも、なんで、禁軍の将軍がわざわざ?
ゆっくりと、オレは、顔を上げた。
「答えぬか」
「それは、元々うちのひとのだよ」
オレが応えるより先に、明翠が、吐き出すように、言った。
「それを売ろうがどうしようが、勝手だろ」
「明翠っ」
「お偉い禁軍の将軍さまは、あんたが、これをどっかから盗んできたって、そう、思ってらっしゃるんだ」
あんたにそんなことできるはずがないって言うのに。
「だからって………」
下手したら、斬って捨てられるかもしれないっていうのに、いくらなんでも、無謀だ。
ほらっ。
将軍の手が、腰の辺りで動いてる。
やばいって。
オレは、李翠と明翠を背中に庇ってた。
咄嗟の判断だったんだ。
足の痛みなんか、忘れてた。
村人達の視線が、怯えたように、オレたちを見ている。
手にしてた杖が、ギシリと、撓った。
抜き身の白刃が、中腰のオレの、喉元きりきりに突きつけられていた。
「西李っ」
冷たい、刀の感触が、オレの顎に当てられ、オレは、顔を仰向けられた。
「おまえの、だと」
憎しみさえ込められているかのような、冷たい、声音だった。
怖い。
けど、ふたりを、守らなければ。
いつも気丈な明翠の震えが、李翠の怯えが、背中から伝わってくる。
「これが、何なのか。知っても、そう、言えるか。これは、漁師風情が持てるような代物ではないのだぞ」
せいぜいがとこ、どこぞで、拾ったのであろうが。
どこで拾ったのか、正直に言うがよかろう。
そんなことを言われても。
そう。
気がついたときには、腕が重いと思うくらいの腕輪が五本、オレの腕には嵌っていた。
『邪魔だからのけようと思ったんだけど、どうやってのけるのかわからなくてさ―――こんなの縁がないし』
照れくさそうに笑ってた明翠を思い出す。
あれ以前の記憶は、オレには、ない。
なぜだか、思い出したいって、そんな渇望すらなかった。
『忘れてしまいたいくらい、辛かったのかもしれないね』
じゃあ、忘れておしまい。
ことばを聞き取れても、喋れないオレに、明翠は、
『全部最初からやり直したらいいよ。あたしだって、今、やり直してる最中さ。あのひとが死んじまって、残されたのは、ほら、この子だけ』
そう言って、乳飲み子だった李翠を抱き上げたのだった。
「なんとか、言わぬか」
グイと、切っ先に力が入る。
ぷつりと皮膚が一枚切れたような、そんな感触があった。
その時だ。
「雷燕。待て」
村長の家の奥から、よく通る低い声が、聞こえてきた。
オレは、その声に、なぜだか、逆毛立つのを、堪えることすらできなかった。
そうして――――――
6.昇紘
そこは、海辺の小さな、貧しげな村だった。
突然の予の訪れに、村長は、混乱と衝撃を隠しきれないようすだった。
そうだろう。
いくら、しのびとはいえ、禁軍将軍が名乗りを上げては、予の正体など隠していないも同じことだ。
まあ、いい。
予の頭の中は、愚かしいほど、郁也の手がかりを得ることができるかもしれないということで一杯だったのだ。
村長の命令で、中庭に、村人がすべて集められた。
予は、庭を見渡すことができる部屋の奥から、ひとが集まるのを、じりじりしながら、見ていた。
遅れてやってきた三人が、ふと気になったものの、気が急いていた予は、雷燕を促した。
そうして――――
その刹那の衝撃を、どう表現すればよいのだろう。
あれは、遅れてきた親子連れである。
どうして、予があの時、彼らを気に留めたのか。
予は、背中から頭頂部にかけて、駆け抜けた感情を抑えることで精一杯だった。
あれは、間違いなく、郁也だ。
四年あまりの歳月が、郁也を成長させていたが、予には、やはり、わかった。
予が、郁也を、見間違えるはずがないのだ。
手がかりがあれば――と、ここまで来たが、望外の幸運に、予は、天を仰いだ。
天帝に、感謝を。
郁也は、いくぶんか陽に焼けたようだが、線の細さは、変わっていない。
あいかわらず痩せているし、背の高さも、さほど変わってはいないようだ。
あの一瞬でわからなかったのが、不思議なくらいだった。
杖?
ああ、やはり、無傷でとはいかなかったのか。
かわいそうに。
今すぐ、抱きしめたい。
生きていたのなら、何故すぐに戻ってこなかったのかという疑問は、どうでもよかった。
郁也が、そこにいる。
生きて、喋っている。
生きていてくれただけで、いい。
その思いが打ち砕かれたのは、ひとりの女が郁也のことを『うちのひと』と、ひとりの少年が『父さん』と、そう、呼んだからだ。
頭から、水を浴びせかけられたかのようだった。
なぜ、郁也とわからなかったのか。その疑問が、解けた気がした。そう。家族連れだったからだ。
なぜ。
おまえは、予のものだというのに。
郁也は、予のものだ。
あの日、郁也の最後の言葉が、予の脳裏によみがえる。
【オレは、あんたのこと、愛してなんか、ない】
【抱かれたくなんか、ないんだっ】
予よりも、その女を、おまえは選んだと、そう言うのか。
予に抱かれるのは嫌でも、その女ならば、いいと、そう、おまえは、言うのか。
キリキリと身の内を苛むのは、まぎれもない、あの女に対する、嫉妬だ。
王である予が、こんなにもおまえを愛しているというのに、おまえは、その女といたいがために、わたしの元に戻ってはこなかったのか。
予を、裏切ったのだな。
王の愛人たる身でありながら、余人と情を交わした罪がどれほどに重いか。
ふたりを庇って、白刃の前に身を曝せるほど、おまえは、その女を、愛しているのか。
雷燕と郁也の遣り取りなど、予は聞いていなかった。
ただ、どうしようもない、愚かしいほどの嫉妬に駆られていたのだ。
「雷燕。待て」
気がつけば、予は、庭に、降り立っていた。
7.西李
あれは誰だ――と、村人達があっけに取られている。
静まりかえっていた庭に、新たに現われた男を見て、オレは、杖を持つ手に力を入れた。
近づいてくる。
黒い瞳は、オレを見据えて、離れない。
――逃げなければ。
頭の中は、そればかりだ。
守らなければと、そう思いつめていた明翠も李翠も、喉元に当てられたままの剣の切っ先さえも、この時オレの頭の中から綺麗さっぱり拭い去られていた。
頭が痛かった。
まるで、海を見ているときのように。
逃げろ。
逃げるんだ。
でないと―――――
でないとどうなるというのかわからないまま、オレは、杖を握る手に、力を込める。
将軍がオレに突きつけていた切っ先は、収められていた。
「主上」
将軍のよく通る声が、オレの耳を射抜く。
村人が、引き攣りながら、ひれ伏してゆくのを、オレは、目の端に捉えながら、それでも、逃げなければと、考えていた。
将軍が、主上に、近づいてゆく。
オレから、みんなの視線が、はずれた。
ただひとりを除いて。
必死になって立ち上がり、オレは、オレの恐怖が煽るまま、駆け出そうとした。
しかし、
「いくやっ!」
まるで、鞭で打たれたみたいな、衝撃だった。
なにごとかとざわめいていた周囲が、静まり返る。
オレの全身は、どうしようもないくらい、震えている。
いくや
誰の名前だ。
イクヤ
呼ぶな。
郁也
イヤだ。頼むから、オレを、呼ばないでくれ。
オレは、オレが叫んでいることすら、意識してはいなかった。
主上が、王が、震えるオレの手を掴み、抱きしめてくる。
耳もとで、王が、ささやく。
「こんなに手が荒れている。苦労したのだろう、郁也」
王が、オレの名前を、
「どこへ逃げようと、無駄だ。これで、わかっただろう、郁也」
しつこいくらいに、呼ぶ。
王が、オレの顔を、包み込むようにして、そうして、オレに、くちづけてくる。
噛みしめた歯列の間に、強引に舌を割り込ませて、王はオレに、オレの忘れていた感覚を取り戻させようとする。
オレが何であったのか。
それを、思い出させるように、くちづけは、いつまでも、執拗だった。
つづく
from 11:43 2005/10/14
up 07:00 2005/10/27
あとがき
二回目
お約束の記憶喪失です。
浅野くんと記憶喪失って、滅茶苦茶似合う気がする。
年上で押しの強い奥さんと、できのいい子供。この四年間は色々あったと思うけど浅野くんには幸せな歳月だったと思われます。
なんとなく、逆転夫婦にしてみました。浅野くん、主夫のが似合うような。裁縫までこなしています。案外、いい奥さんだvv
こんな感じで微妙にトーンは鈍いまま続いていきます。
だ、大丈夫かな。
もうしばらくお付き合いくださると、嬉しいです。