在りし日の 3



8.郁也

「西李、逃げよう」
 明翠が、オレの目の前にいた。
 オレは今、とりあえず村長の家に押し込められている。
 見張りがいたはずなんだけど、どうしたんだろう。
 そんなこと考えながら、でも、オレは、もう、どうでもいいと、思っていた。
「どこに?」
 何故、あの時死ねなかったのか。
「ごめんな、明翠」
「どうして謝るんだよ」
 オレより年上の、オレよりもおおらかで逞しい女が、地団太を踏むように、オレに迫る。
「オレが全部忘れてたから、迷惑かけた」
 オレが、あいつのところに帰れば、こいつにはお咎めはなしだって、約束してくれた。
 王の愛人が、王を裏切れば、ふたりとも殺されても文句は言えないんだそうだ。
 オレの場合、全部忘れてたって言うのが、あいつの怒りを、少しは宥める役にたったらしかった。
 怪我をして死にかけてたオレを、明翠が助けてくれたっていうのも――だ。
「あたしのことが、嫌いになったのか」
「違う」
「じゃあ、なんで」
「オレと逃げたら、おまえが、殺される」
 満足に走れないオレなんか、すぐに捕まっちまう。
「殺されたって、かまわない」
「馬鹿だな。おまえが死んだら、李翠が困るだろ」
 おまえには、李翠がいる。
 本当の西李との間にできた、息子が。
 李翠がオレのこどもじゃないことも、あいつの怒りを宥めた一因なのだろう。卵が木になるのは、天帝が、ふたりを夫婦と認めた場合だけだそうだから、李翠がオレと明翠の子だったら、あいつは、天帝の意に逆らってまでオレを、取り戻したことになる。天帝が王を決めるということだから、そこらへん、色々あるんだろう。
「オレのせいで、おまえが殺されたら、オレが李翠に恨まれる」
 多分、あいつは、オレを殺しはしないんだろう。
 四年も経ってるのに、なんで、オレなんかにあんなに執着するのか、オレにはわからない。
 けど………
 昨夜のあいつの執拗さを思い返す。
 死ぬかと思った。
 殺されると。
 けれど、また逃げたとして、捕まれば、殺されるのは、明翠だけだ。
 逃げないと、誓うまで、許してくれなかった。
「逃げないと、約束した」
 もっとも、この足では、逃げ切れまいが――――そう言うあいつが怖かった。
「李翠が、あんたを恋しがってる」
 あんたに懐いてるんだから。あんたがいないと、淋しいって、泣くんだ。
 あたしだって、淋しいよ。
 淋しいんだ。西李。
 一緒にいよう。
 逃げ切れないことなんかない。
 あたしが、あんたを負ぶうから。
 そうして、三人で、行こう。
「オレを、困らせないでくれ」
「なんで。そんなに王様がいいって? あたしより? 李翠より? そんなに酷いことされてそれでも?」
 慌てて、前を掻き合わせた。
 夜着の前が少し開いていて、昨日のあいつの仕打ちの痕が、見えていたらしい。
「贅沢な暮らしがいいなんて、言わないよね。あたしたち、幸せだったし」
 幸せだった。
 そう。
 愛してる。
 明翠を、李翠を。
 愛しているから、貧しかったけど、幸せだった。
 はじめて、ひとを愛したんだ。
 蓬莱にいた頃だって、誰かを愛したことなんかない。
 ガールフレンドは欲しかったけど、あの頃目先にあるのは、大学受験だった。
 少しでもいい大学に入って、少しでもいい会社に入って、そうして―――――。そんな世界は、蜃気楼より遠い。
 オヤジもオフクロも、今頃オレのこと死んだって思ってるだろう。
 親不孝なんだろうけど、でも、帰れないんだ。
 方法もない。
 それに、オレは、こっちで好きなひとができた。こどももいるんだ。
 明翠と李翠。
 妻と、こどもだ。
 可愛い。愛しい。
 愛してるんだ。
 だから、突き放さなければ。
「あれが、幸せだった?」
 オレは、明翠を、見上げた。
 吐き捨てるように、言う。
 明翠が、真っ青になって、震えた。
 ごめん。ごめん、明翠。でも、オレのことは、もう、忘れてくれ。最低なヤツだったって、そう、思ってくれていいから。
「嘘だっ」
「寒くて、飯だってまずくて、着るものだってろくにない。なのに、おまえは、あれが、幸せだって?」
「嘘だ。嘘だって、言っておくれよ。あたしのことも、李翠のことだって、大好きだって、愛してるって、言ってくれたじゃないか」
「あんなこと。嘘に決まってるだろ。オレより年上のおまえに、よその男とのガキじゃないか。どうして、オレが、そんなやつらを愛せる? おめでたいよな。明翠。おまえ、本気で信じてたのか」
 明翠が、震える。
「嘘だ」
「嘘じゃない。だから、帰れ」
 庭を指差す。
「もう二度と、顔も見たくない」
「西李っ」
 顔を背けたオレは、だから、その時なにが起きたのか、わからなかった。
 明翠の放った重いボディーブローが、オレの腹を抉ったというのを理解した時、オレは、布団の上に、崩れ落ちていた。
「信じないからな」
 乾いてひび割れた声が、オレが覚えている、明翠の最後の声だった。


 明翠は、死んだ。
『信じないからな』
ということばを残して。
 李翠を残して、明翠は、死んだのだそうだ。
 気がついたとき、オレは、まだ、村長の家にいた。
 動かすとまずい状況にオレはいて、それで、滞在が延び延びになっているのだそうだ。
 別に、先に帰ってくれたって、オレは、もう、逃げない。
 なのに、目を離せないとばかりに王が離れないものだから、しかたがないのかもしれない。
 明翠が死んだということをオレに聞かせたのは、やはりというか、王だった。
「どうしてっ!」
「自殺だ」
 信じられなかった。
 明翠と自殺というのは、あまりに不釣合いで、どうしても信じることができなかった。
 悪趣味な冗談としか、思えなくて、それで、呆然としていたオレは、しばらくしてやらやっと、
「李翠……李翠はっ」
 李翠のことに気がついたのだ。
「李翠……ああ、あの女の息子のことか」
 さて………。
 興味がないとばかりに、昇紘は、肩を竦める。
 立ち上がったオレの手を掴み、
「どこへ行く」
「李翠を探す」
 淋しがっているのに違いない。
 あいつは、まだ、五つだ。
 どうすればいいのか、不安でしかたなくて、泣いているだろう。
「探して、そうして、どうする」
「オレの息子だ。オレが育てる」
 オレは、昇紘を見据えた。
 本当は、オレの息子じゃないことを昇紘も知っている。けれど、今までオレが育ててきたのは、事実だ。だから、これだけは、譲れない。譲らない。
 その決意だった。
 昇紘の黒い目が、オレを、見ている。
 黙ったままで、オレを見上げ、やがて、
「いいだろう」
 昇紘が、そう言った。
「それくらいなら、譲歩しないでもない」
 外へ行こうとするオレに、
「どこへ行く」
「迎えに」
「そのなりでか」
 なるほど、オレは、寝巻きのままだ。
 昇紘が、ひとを呼ぶために、手を叩いた。

 オレが予想したとおりだった。
 李翠は、オレたちの家で、泣いていた。猫を抱えて、しゃくりあげている。
「李翠」
 涙のにじんだ目が、オレを見上げて、大きく瞠かれた。
「父さん?」
「ああ」
「母さん、死んだの……」
「ああ」
「父さん、ぼくを置いてどこかに行くって」
「誰が、そんなこと」
「だって、父さん、王さまのだって」
 李翠のことばに、顔が強張るのを、とめることができなかった。
「馬鹿だな。父さんが、李翠を捨てるわけないだろ」
 やっと、思いついたのは、それを無視することで。声は、ひび割れていたに違いない。それでも、
「よかった………」
 そうつぶやいて笑った李翠が、健気でならなくて、オレは、どうにかなってしまいそうだったのだ。
「ほら、おいで」


 禁軍が、オレと昇紘、それに、李翠を囲むような隊列を取る。
 村人達が見守る中、将軍の声に、騎獣が、宙を駆ける。
 四年と少し。
 愛した女と過ごした村にオレが暮らしたのは、それだけの間だ。
 かつて死にかけて流れ着いた素性の知れない男は、王の愛妾だった。
 愛した女の亡骸を残し、息子を連れて、男は、王と共に空を駆ける。
 喜劇のような悲劇。
 それとも、悲劇のような、喜劇なのか。
 これからを思えば、不安しかない。
 この先、オレは、どうなるのか。
 そうして、李翠は。
 怖かった。
「寒いのか。震えているな」
 昇紘の声が、聞こえる。
 オレは、真実を、知らなかった。
 昇紘の真実も、明翠の真実も。
 なにひとつ知らないままで、ただ、未来を恐れていたのだ。



9.昇紘

 この肌の手触りだ。
 予がこの四年以上というもの、求めていたもの。
 手に馴染む、すべらかな感触。
 ほんの少し、以前よりも硬さを増したきらいはあるが、少年らしい青臭さが抜けているが、それも、予の興を殺ぐことはない。
 なによりも、これは、郁也なのだ。
 予が愛する、ただひとり。
 後宮を解放してまで、執着した、ただひとりの存在。
 左の腰から腿にかけて、酷い引き攣れができているが、それすらもが、愛しい。
 足を持ち上げた時、痛がって泣いた。その表情が、どれだけ、予を煽ったか。郁也は、身をもって知っただろう。
 この傷があれば、以前のように、逃げることは困難になる。
 足を引きずる姿は、哀れみを誘う。時々、杖に頼らなければならないとは―――貧しい村で、ろくな医者もいなかったのだろう。いたとしても、かかれたかどうか。すぐに見つかっていれば、城の医師に診せることもできたのだが。それでも、治ったかどうかはわからないが。もちろん、それは、今となっては、せんない繰言に過ぎないことではある。
「予から逃げたりするから、こんな怪我を負う羽目になる」
 喉の奥、こみあげてくる笑いを、予は、噛み殺す。
 予が直に手を下すより、よほど、手痛い、罰ではあったろう。
 殺しても、殺しても、笑いが湧き上がってくるのは、郁也が、気を失う寸前に、
『逃げない』
と、そう、誓ったからだ。
 あの女を見逃す代わりとして、予は、郁也を、完全にこの手にすることができた。
 心の底から憎いと思ったあの女に、殺しても飽き足らないとそう思ったあの女に、心からの感謝を捧げよう。
 誰がなにを言おうと、郁也は、予のものなのだ。
 未来永劫。
 手放しはしない。
 城に帰り立太させれば、郁也も仙になる。
 数十年もすれば、あの女は、存在すらしない。
 郁也は、老いることなく、予の手の中に、あるだろう。
 その頃になれば、郁也も、さすがに落ち着いているにちがいない。
 郁也が手の中に戻ってきたことで、予は、今夜は眠れないと思っていた。
 しかし、郁也がここにいる。
 その体温を、匂いを、感じているのだ。
 それは、予を、何よりも落ち着かせることでもあるようだった。
「愛しているよ」
 郁也を抱きしめたまま、予は、いつの間にか、眠りに落ちていたのである。


 それは、予が、郁也から目を離した隙だった。
 どれだけ、郁也のことだけを考えていたくても、予は、王だ。王宮から、書類を持ってこられては、目を通さなければならない。
 禁軍の兵に、郁也の警護は、させている。
 警護という名の見張りでもある。
 交わした約束を、信用していないわけではない。
 ただ、不安なだけなのだ。
 郁也の心がどこにあるか、予は、知っている。
 それを逆手に取っての約束だった。
 だからこその、不安なのだろう。
 また、予の手の中から、愛しいものが、消えはしないかと。
 こんなこと、他者が聞けば、あきれるか、爆笑するか。
 雷燕など、どういう反応を見せるだろう。
 長らく予に仕えている、禁軍将軍の顔を浮かべた。
 書類に目を通し、供された茶に口をつける。
 もう一息か。
 予が、残る書類に手を伸ばした時だった。
「主上」
 いつもは、泰然自若としている雷燕が、慌しく入ってきた。
 無作法を、咎めはしなかった。
 彼の行動には、いつも、意味がある。
「なにものかが、侵入いたしました」
 即座に、予の脳裏に浮かんだのは、郁也の無事だった。

「逃げたのか」
 手を、きつく握りしめた。
「争った形跡がかすかに」
 それでは、郁也は、自分から逃げたというわけではないのか。
 安堵に、全身から、少しばかり力が抜ける。
「見つけ出せ。禁軍の兵であろう。余人に、ましてや、海女に、夢、遅れをとるでない」
 侵入者があの女だというのは、直感だった。
 雷燕が、深く、叩頭する。
 出てゆく後姿を見やりながら、
「不様な」
 予は、つぶやかずにはいられなかった。
 村の女に出し抜かれた禁軍兵に対する感想か、予自身に対してのものなのか、予にもわかってはいないつぶやきだった。
「女。郁也を、返してもらおう」
 それは、やはり、郁也の愛した女だった。
 日に焼けて逞しいその女は、郁也を抱きしめて、離そうとしない。
「西李は、あたしのものだ」
 郁也は、気を失っている。
「郁也に、なにをした」
 いつかの悪夢を思い出させるような、海に突き出した崖の上で、女が、首を振る。
「西李は、あたしの夫だ。夫なんだ。誰にも、それが、王様だって、やらないから」
「西李ではない。郁也。予の、妃だ」
 たとえ男であろうと、ただひとりの。
 それを、姿を消した夫の身代わりにするなど、許せることではない。
 郁也は、死んだ夫の名を貰ったというようなことを言っていたが、違う。正確には、この女の夫は、この女を、捨てたのだ。
 なにがあったのかなど、興味もない。ただ、妻を捨てる夫の名で、天帝と妻への誓いを平気で破棄するような男の名で、郁也を呼ぶことなど、そんな不実な男と郁也を重ねるだなど、どうして、許せるだろう。
「今なら、郁也を攫ったことを罪に問うことはすまい」
 手を差し伸べる。
「主上」
 雷燕が、予を押しとどめようとする声が、耳に届く。
「構うな」
 たとえ、狂っているとは言え、女ひとりに、王たるものが、怯える道理など、ない。
「あたしから、西李を奪おうとするやつに言われたくない」
 あたしの西李なんだ。
 西李……
 涙をぼろぼろと流しながら、崖の上に座り込んだ女が、郁也を掻き口説く。
 意識のない郁也に、くちづけようと、顔を寄せる。
 限界だった。
「主上っ」
「来るなぁ」
 女の悲鳴など無視して、予は近づいた。
「西李。西李、いいよね。愛してるよ。一緒に、死んでくれるよね」
 ぞろりと、女が、立ち上がる。
 後一歩下がれば、荒れ狂う波頭が岩を抉る、海だ。
 郁也を抱えたままで、女が、嗤う。
 全身が、が鳥肌立つ。
 こんな、こんな狂女のために、郁也を失うというのか。
 失えない。
 郁也を失ったまま、この先、永劫の生を行きつづけるなど、拷問にも等しい。
「西李、行こう。ふたりで」
 見せ付けるかのように、くちづける。
 予は、気がつけば、走っていた。
 王という立場も、予たちを見ているだろう、禁軍の存在も、居合わせた村人達の存在も、すべて、予の脳裏からは、消えうせていた。
 そうして―――――
「郁也っ」
 目の前から、郁也が、消えた。
 いつかしらの悪夢が、再び予に襲い掛かる。
「主上」
 雷燕の声も、駆けつけてくる禁軍の兵たちの足音も、すべては、意味のないものだった。
 郁也が、死んだ。
 同時に、予の、心が、凍りつく。
 予を取り巻くすべてが、色を失くす。意味を失う。
 予の存在する意味さえも。
「何故、予から、郁也を奪われるのです」
 天を仰ぎ、天帝に、訊ねる。
 当然、天帝が、予に答えることはない。
 国と人という、重い責務だけを予に与えておいて、予の問いに、耳をかたむけることもない。
 予はもう、この先、ただ、生きつづけるだけの、屍にほかならない。
 予から郁也を奪った女。
 女の育った、村。
 いっそのこと。
 怖ろしい考えが、予の脳裏に形なしてゆこうとしていた。
 狂いかけていたのだろう。
 その時、波間に浮かぶ郁也の姿を、ひとりの兵が発見しなければ、予は、この村を、焼き払っていたかもしれない。
 それほどの、狂気だった。


 郁也が、目を覚ます。
 褐色のまなざしが、とりとめなく、揺らぐ。
 誰を探しているのか、見当がつく。
 いっそ、話してしまおうか。
 あの女は、おまえと心中をしたのだと。
 思いとどまったのは、郁也が、何も覚えていなかったからである。
「酷いことを言ってしまったから……、だから、殴られるくらい、しかたがない」
 殴られたくらいで、熱出したのか。情けない………。
 そうつぶやいたからだ。
 これ以上郁也に衝撃を与えたくなかった。
 冬の海が、心身ともに弱っていた郁也に、いいわけがない。
 だから、せめて、殺されかけたことは、伏せておくことにした。
 村人達には、緘口令を発した。
 王の取り乱した姿など、ふれまわられては、何かと差しさわりがある。
 あの女は、こどもを残して自殺した、身勝手な女でいい。
 それでいい。
 呆然としている郁也を見ながら、予は心の内で、つぶやいた。
「李翠……李翠はっ」
 しばらく沈黙していた郁也が、予の手を掴んだ。
 起き上がろうともがくのを、支えてやる。
「李翠……ああ、あの女の息子のことか」
 さて………。
 どうしたものか。
 王に逆らった女のこどもである。
 しかも、王の寵妃と自殺しようとした。
 そんな女のこどもに、村人が関わろうとするだろうか。
 まあ、いい。
 死んだ女の、しかも、郁也を殺そうとした女のこどもに、興味などない。
 予は、肩を竦めることで、答えに代えた。
 しかし、郁也が、突然、立ち上がった。
 少々よろめきはするものの、杖は必要ないようだ。
 慌てて、予は、手を掴んだ。
「どこへ行く」
 見上げた予を見下ろし、見知らぬ男の顔をした。
 褐色のまなざしが、決意を秘めて、退かないと語る。
「李翠を探す」
「探して、そうして、どうする」
「オレの息子だ。オレが育てる」
「……………いいだろう。それくらいなら、譲歩しないでもない」
 言った途端、弾かれたように、一歩を踏み出す。
「どこへ行く」
「迎えに」
「そのなりでか」
 手を叩き、予は、着替えを持ってこさせたのだった。




10.郁也

 声が出そうになるのを、堪えてた。
 昇紘が、オレを、見下ろしてくる。
 窓から射し込む月明かりが、眩しい。涙でかすんだ視界が、白く、ぼやける。
 頼むから、もう、やめてくれ………。
 変になりそうだ。
 言いたいのに、口を開くと、喘ぎ声が漏れてしまいそうで、それも、できない。
 悔しくて、オレは、顔を背けた。
 と、ふと、誰かの泣き声が聞こえたような気がした。
 あの声は……。
 声の主の見当がついた瞬間、頬に熱が爆ぜた。
「ひっ、あ……」
 堪らず、変な声が、出て、オレは、口を手で、塞いだ。
「まだ、足りないのか」
 怖ろしげなことを、昇紘が口にする。
 オレは、必死に、首を横に振った。
 気を失いかけるたびに引き戻されて、どうにかなってしまいそうだというのに。
「なら、気を散らすな」
 でも……。
「何か言いたそうだな。ああ、あのこどもが泣いているのが気にかかるか」
 首を縦に振る。
「言っておこう。予とふたりの時には、他に気を向けるな。あれを追い出すなど、造作もないのだぞ」
 イヤだ。
「わかったのなら、続きだ」
 言いのけざま、昇紘は、オレに、深くくちづけてきた。


 王宮に連れ戻されたオレは、昇紘に太子にさせられた。
 男とは結婚できないからということらしい。
 オレは、昇紘の妻なのか、それとも、愛人なのか。わけがわからない。
 どうせ、後宮にいて昇紘の相手をするのはオレだけだから、どっちでも構わないってところが正直なところなのかもしれない。
 もう、どうだっていい。
 オレは、疲れてた。
 からだもだけど、心がもっと。
 愛した女に死なれて、男の妻か愛人かにさせられて、オレは、もう、後宮から出ることができないのだ。
 こんな運命、誰が、考えるだろう。
 狂ってしまいたかった。
 けれど、狂えない。
 李翠が、いる。
 オレの、家族。
 彼の立場は、不安定だ。
 オレが、昇紘の機嫌を損ねようものなら、すぐに、放り出される。
 たった、五つでだ。
 十六の時のオレだって、寄る辺なくこの世界を彷徨っていたとき、どんなに辛かっただろう。死を覚悟せずにいられなかった。
 李翠は、オレが守らなければ。
 李翠がいるから、オレは、正気でいられた。
 この時は、まだ。


 百日紅の木の根元に蹲っている少年に、
「李翠」
 呼びかけた。
 小さな猫が、李翠の足にじゃれている。
 足元を見ていたあどけない顔が、オレを見上げて、嬉しそうに笑った。
「父さん!」
 走ってくる。
 この子は、身の回りの変化を、どう思っているんだろう。
 不安になる。
 王宮に連れてくるのは、軽率だったのだろうか。
 小さな家で、三人で眠っていた。
 その家よりも広い寝室で、李翠は、夜毎泣いている。
 一緒にいてやりたいけど、できない。
 せめて同じ年頃の友達――を、と思っても、王宮には、子供の姿は、ない。
 学校に上がるにはまだ早いらしい。
 生き物を飼うのも、限度があるだろう。
 できるだけ、オレが、ここにいてやるしかない。
 けど……。
 昇紘は、オレを、夜だけ呼ぶわけじゃない。昼に来ることもある。
 さすがに、こどもの目の前では、あからさまなことはしないだろうと思う。でも、万一ということもある。李翠に変に思われるのは、辛い。
 冷静に説明する自信など、なかった。
「父さん、気分悪いの? 足が痛い?」
「父さんは、大丈夫。それより、李翠は、ちゃんと眠ってるのか?」
 子供だというのに、目の下に、隈がうっすらと、見える。
「猫がいるから」
 名前をつけそびれて、猫と呼ばれている小さな猫が、李翠の足をよじ登る。
「ごめんな……李翠ごめん」
 オレがあの時、嘘でもいいから、一緒に行くと言っていれば、明翠は、死なずにすんだのかもしれない。
「父さん?」
 オレなんかといるより、明翠といたほうが、李翠は、幸せだったに違いないのだ。
「ぼく平気だから。だから、泣かないで、父さん」
 みんな優しくしてくれるの。
 見たことないおやつもたくさんくれるんだ。
 とっても美味しいんだよ。こんど、お父さんにも持っていったげるね。
 だから、ね。泣いちゃダメだよ。
 小さな掌が、その場にしゃがみこんでいるオレの、頬に当てられる。
 そのぬくもりに、オレの涙腺は、完璧に弛みきってしまったのだった。



つづく



from 11:43 2005/10/14
up 06:44 2005/10/29


あとがき
 三回目
 あっけなく連れ戻されて、あいかわらず引きずり回されてます。
 この話の救いは、救いになるかどうかは謎だけど、昇紘さんが浅野くんへの愛情を隠さないってところですかね。まぁその愛情が問題ですが。
 愛情が問題と言えば、明翠もですね〜。本当に浅野くんを好きだったのかどうか。好きだったと思いたいですが。夫に捨てられたって時点で、微妙に壊れてたんでしょう。少しは、浅野くん、旦那さんに似てたのかも。ふ、不憫です。浅野くんは、明翠さんのこと好きだったのにね。
 もうしばらくお付き合いくださると、嬉しいです。


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