在りし日の 6




16.李翠

 王に気付いて、父さんが、立ち上がろうとした。
 そんなに急に立ち上がったりしたら。
 僕の危惧は、的中した。
 父さんの足は悪いままだというのに、父さんは、そのことをいつも忘れてしまうらしい。
 急に立ち上がろうとして、膝崩れを起こす。
 焦れたように、悔しそうに、父さんがくちびるを噛みしめるのを見て、僕は、切なくなる。
 父さんは、王のところに走ってゆきたかったんだ。
 一年前のあのときから、父さんにとって、王は、特別な存在だった。
 それより前には、あんなにも怯えていたというのに。
 僕が、医者を呼びに行っていた時に、ふたりの間に、なにかがあったのだろうか。
 腕に感じる父さんの重みが、王へと移る。
 手にしていた父さんの体温が、冷めてゆく。
 父さんが、王を求める姿を見るのは、辛い。
 だから、あまり頻繁には、戻らない。
 けれど。父さんの姿を見ないでいることも、淋しくて。
 それで、二週間に一度だけ、僕は自分に、父の元へ戻ることを許していた。
 ニャア――と、猫が、足元にからだをこすりつけてくる。
 僕は、猫を、抱き上げた。
「おまえ、父さんと仲良くしてるか」
 まるで僕のことばがわかったかのように、ニャアと、鳴く。
「そっか」
 急に手持ち無沙汰になったので、僕は、さっきまで父さんが座っていた、陶製の丸い椅子に腰掛けた。
 小さな黄色の花びらが、ひらひらと降りこぼれる。
 父さんの飲み残したお茶に、そっと、僕は、口をつけた。
 冷めたお茶といっしょに、黄色い花びらが、僕のくちびるに触れて、喉を通り抜けていった。

 夜の牀榻の中で、僕は眠れずにいた。
 あちらこちらと、向きを変えても、眠ることができない。
 父さんは、まだ、起きているだろうか。
 牀榻の上に起き上がり、僕は、父の屋敷がある方角を透かし見た。
 父の元を夜訪ねることは、できない。
 帰ってくるたびに、夜、僕は、後悔する。
 昔、ここに着たばかりの頃の夜を思い出して、眠れぬ夜を独り明かす羽目になる。
 なのに、父に会いたくて、どうしても、帰ってきてしまうのだ。
 昔、王に組み敷かれていた父を、思い出して、僕のからだが、熱く滾る。
 僕が変だと、そう、気がついたのは、いつだったろう。
 大学に入ろうと決意した頃には、既に、父のことを特別に思っていた。
 父親だというのに。
 僕を育ててくれたひとだというのに。
 男のひとなのに。
 父は、王の、寵愛を受けているひとだというのに。
 僕は、王と同じ意味で、父を愛しているのだ。
 王に適うはずなどないというのに。
「いくや」
 そっと、父の名をつぶやいてみる。
「郁也。愛しています」
 報われることがないとわかっている想いを、だれにも聞かれないように、小さく、小さく、つぶやく。
 こみあげてくる涙をそのままに、僕は、父の屋敷がある方向を、透かし見ていた。



17.雷燕

 しくじったと、臍を噛んだ。

 昔から、後宮が荒れれば、国が傾くと言われている。
 私の敬愛してやまない王が、ひとりの少年のために、後宮内の美姫を国に戻されたとき、今がそのときだと、私は、感じたのだ。
 だれひとり、気付いてはいない。
 ただ、私だけが、危ういと、そう、感じたのだ。
 だから、私は、少年が崖から落ちるのを見ても心を動かさなかった。
 これで、王は、いつもの王に戻られる。
 そう、安堵したのだ。
 なのに。
 なぜ、これが、ここにある。
 部下のひとりが持ってきた腕輪に、私は、記憶があった。
 内密に持ってくれば、含めおくこともできたものを。
 少年が崖から落ちるときに腕に嵌めていた、平打ちの黄金に翡翠を象嵌している高価な腕輪が、私の卓子の上にある。
 これでは、王にお知らせ申し上げないわけにはゆかぬだろう。
 あれから四年。
 一見平静を装いながらも、王が狂ったようにあの少年を探されているのを、探索を任された禁軍の将が知らない顔をするわけにもゆかない。
 まさか王が、御じきじきにお出ましになられるなどとは考えていなかったため、すべてが後手後手にまわることになった。
 腕輪を売ったというものを、討ってしまえばことは済む。
 妖魔の囁きに、私は、耳を貸していた。
 大事が起きる前の小事だ。
 なにごとにも、犠牲はつきものなのだ。
 王も、いずれは、単なる少年など、お忘れになられるに違いない。
 しかし。
 切っ先に捉えた者が、まさか、当の少年だったとは、私は気づかなかった。
 潮に焼けた肌の村人の間にあって、確かに、その男は、色も白ければ、線も細い。しかし、四年の歳月が、こんなにもひとを変えるということを、私は、忘れていたのだ。
 王が、近づいてこられる。
 もはや殺すわけにもゆかないと、私は、刀を、収めた。

 愛妾を王宮へと連れ戻り、王は、即座に、太子に取り上げられた。
 そうして、十年は、あっという間だった。
 王の評判は、悪くはない。
 王を謗るものは、いない。
 しかし、時折り耳にする、寵妃に関する噂話は、同時に王の治世の 瑕瑾(かきん)に思えてならなかった。
 どうすればいいのか。
 王の閨での作法とか好みを捏造し、恐れ多くも面白おかしく書き認めた、赤本など、取り締ってもいつまでも、きりがない。
 王の寵妃が男だということが、人々の興味を掻き立てずにはおかないのだろう。
 悩む私の心の中で、再び妖魔が、目を覚ました。
 いずれなんらかの汚れ仕事をさせるために、罪人を処刑したと偽り、懐に入れていた。数名の子飼いのうちから、腕が立ち、後腐れのないものを選んだ。
 失敗すれば、暗殺者として、首を場外に曝す。それが嫌さに、自害して果てるくらいの気概があるものに、命じたのだ。成功の報酬は、なにがしかの金品と自由。それをちらつかせれば、目の色を変えた。
 ―――王の寵妃を殺せ。
 何人もに任せては、どこからか、命じたものが知れる危険がある。ために、暗殺者は一人、好機を選びとり、一度きりの、(はかりごと)だった。
 夏の離宮で、舟遊びの直後に、男は、行動を起こした。
 事が成ったと、そう思ったのもつかの間。
 男は、駆けつける私たちに怯え、こともあろうに主上を質に取ったのだ。
 呆然と、ただ、信じられないものを見るように、主上は、足元を、見られていた。そのせいで、主上は、お逃げになられなかったのだ。
 その場に立ち尽くす私たちの目の前で、主上の喉に白刃を向けて、男が、『どけ』と、喚いた。
 策を弄するなど、分不相応だったのか。
 そう、私が、わが身の不甲斐なさに、忸怩たる思いを噛みしめていた時、ふいに、主上が、なにごとかをつぶやかれた。
 その時、男が、信じられない――というかのように、主上を、見たのだ。

 主上がなにを言われたのか、私にはわからない。
 男は、結局自害して果てた。
 王が執着なされるあの男も、助かってしまった。
 しかし、元はといえば、我が身が蒔いた種である。切り取ることができただけでも、ましであったろう。
 そう、私は、思ったのだ。
 思うことにしたというべきか。

 もっとも、後に、私は、臍を噛むことになるのだ。
 種は、刈り取られてはいなかった。
 私が殺そうとした相手は、より強烈に、主上を魅せるようになってしまったからである。

 私は、自分の手で、傾国を、作り出してしまったのかもしれない。
 何もしなければ、もしかして、太子は、ただ、存在するだけの人形でありつづけたのかもしれない。
 薬にもなりはしないが、毒にもならない。
 賢すぎて政に口を出すようになるよりも、愚かさゆえに口を挟むようなものよりも、ただ存在するだけというありかたもあったのかもしれない。
 主上が「好し」と言われるのなら、私ごときが、策を弄するべきではなかったのだ。



18.郁也

 誰かが、ぼくを呼んでいる。
 あの声は―――――
 そうだ。
 王さまだ。
 王さまが、ぼくをさがしてるんだ。
 心配そうな声に、いかなくちゃ――と、回りを見渡した。
 どこ?
 ぼくは、どこにいるんだろう。
 王さまは、どこにいるんだろう。
「昇紘」
と、ぼくは、王さまの名前を呼んだ。

 ぼくは、王さまの、あの手が好き。
 ぼくを呼ぶ声が好き。
 ぼくを見て、笑ってくれる、あの、顔が好き。
 はじめてみた時、とっても怖そうだって思った顔が、とっても素敵に笑う。
 ぼくだけに向けられる笑顔に、ぼくは、とっても、誇らしく思う。
 だって、玉絹が言うんだ。
『主上は、郁也さまといられるときには、あんな笑顔を見せられるのですね』
って。
 いつもは、笑わないんだって。
 ぼくだけが、王さまの笑顔を知ってるって、なんかぼくが特別な人間になったみたいで、とっても、嬉しくなる。
 そう言うと、
『とっくに、郁也さまは、特別なかたですよ』
と、玉絹はコロコロ笑う。
 ぼくが、特別?
 よくわからないけど、玉絹は、嘘なんかつかない。
 嬉しくて。
 ぼくは、王さまに訊いてみた。
『ぼくって、特別なんですか?』
 王さまの腕の中で、あやされるみたいに、王さまに背中をなでられていた時に、訊いたんだ。
 王さまは、今にも眠ってしまいそうだったけど、ぼくの声に、くちびるを、ゆったりと引き上げた。
 そうして、
『郁也は、予の特別だ』
って、そう、言ってくれたんだ。
 そう言ってくれた、王さまの声。
 とってもやさしくて、甘くて、ぼくは、王さまの声が大好き。
 なのに、今、聞こえてくる王さまの声は、なんで、あんなに、悲しそうなんだろう。

「昇紘」
 自分の声で、びっくりして目が覚めた。
 背中が痛い。
 寒い。
 ぼくは、胴震いをして、起き上がった。
「ここ、どこ………」
 いつか見たことあるみたいな、小さな部屋に、ぼくはいた。
 オレンジの火が、ぼんやりと、周囲を照らしてる。
 影が、ふたつ。
 あれは、僕の影だ。
 もうひとつは?
 ふたつの影が、なんにもない、薄汚れた部屋の壁に、大きくなったり小さくなったりを、繰り返す。
「昔、僕たちが住んでた家だよ」
「李翠?」
 背中を向けて、いつもの李翠じゃないみたいだ。
「僕たちって?」
「どうでもいいことだよ。郁也」
 噛みしめるみたいにぼくの名前を呼んで、李翠が、振り向いた。
 ぼくは、びっくりした。
 だって、李翠がぼくのことを郁也って、名前で呼んだんだ。
 いつも、李翠は、ぼくのことを、別の呼び方で呼ぶ。
 xxxx――って。
 xxxx――――あれ? いつも呼ばれてるのに、なんで、思い出せないんだろう。
 そう呼ばれるのも、ぼくは、王さまに呼ばれるのと同じくらい好きなのに、なんで、思い出せないんだろう。
 ぐるぐると、なにか、思い出さないといけないことがたくさんあるみたいな、重苦しい気分になる。
 必死に考えてると、
「郁也は、あそこにいちゃ、だめだ」
 そんなことを、言われた。
「あそこって?」
「お城」
「なんでっ」
 びっくりした。
 びっくりして、それ以上、声が出せなかった。
 どうして、李翠がそんな意地悪なことを言うのか、わからなかった。
 滅多に会えないけど、李翠はいつだってやさしくて、ぼくは、王さまの次に李翠のことが好きだった。
「ああ。泣かないで」
 ごめんね。でも、本当に、郁也は、もうお城にいちゃダメなんだ。
 李翠が立ち上がって、ぼくの隣に座った。
「このごろ、郁也は、どこでも王さまの隣にいるんだってね」
 うん。
 頭を振った。
 声を出したら、しゃくりあげそうだったから。
「朝議の時も、謁見の時も、いろんな時間、いつも、王さまといっしょなんだって、聞いたんだ」
 うん。
「でもね。それが、ダメなんだよ」
 やさしい声で、李翠がささやくように、言う。
「な、んで」
 涙が出る。
 しゃくりあげて、声は、踊るみたいになった。
「昇紘が、一緒にいないとダメだって、そう、言ったんだ」
 見上げた、李翠の顔は、オレンジに染まって、でも、悲しそうだった。
「王の命令だもんね。郁也は、逆らえないよね」
 李翠は、誰か別の、知らないひとみたいだった。
 寒い。
 心細かった。
 全身が、震えた。
 床の上に石で囲った炉の中で、炎が音をたててあがっているのに、寒くて、たまらなかった。
 王さまが、昇紘が、恋しかった。
 ここは、寒い。
 李翠がいるのに、淋しい。
 毎晩怖い夢を見て、切なくて泣いた。多分、あれが、始まり。昇紘は、困った顔をして、ぼくを抱きしめてくれた。
 なにか怖いものがぼくを捕まえて頭から食べる。そんな、恐怖が、ぼくに襲い掛かって、ぼくは、昇紘がいない間、布団に包まって震えていた。
 原因は、毎晩見る夢だったのかもしれない。
 昇紘を困らせるつもりはなかったのに。
 玉絹を困らせるつもりも、なかったんだ。
 けど、ぼくの態度は、みんなを困らせたんだ。
 だから、昇紘は、いつもぼくの傍にいることはできないから、逆に、いつもぼくを傍に置いてくれた。
 知らないひとがたくさんいるところにいるのは、不安だったけど、いつも昇紘がいることに比べれば、些細なことだった。
 夢はあいかわらず見ていたけど。
 昇紘がいつもいっしょだから、怖くないって。
 そう、思ってた。
「それが、ダメなの?」
 どうして、一緒にいるようになったのか、説明していたら、おさまったって思ってたのに、また、泣きそうになった。
「そっか。そういう理由があったんだ。けどね、郁也。たいていのひとが、そんな理由を知らないから、たくさんのひとが、郁也のことを、変に言ってるんだ」
「変?」
 ぼくは、一緒にいるのが嬉しいだけなのに?
「そう。郁也に頼めば、王さまは、願いごとをなんでも叶えてくれるって。それくらい、王さまは、郁也のことが好きなんだって」
「………それ、ダメなこと?」
 ちょっと震える。
 だって、一度、女官に呼ばれたんだ。
 玉絹じゃない。顔も覚えてない女官だった。
 こっそりと、物陰に手招かれて、恋人を助けて欲しいって、そう言ったんだ。
 王さまに頼んでくれって、泣きながら言われて、わからなかったけど、ぼくは、『うん』って、そう応えた。
 だって、女官に泣かれたら、どうすればいいのか、ぼくは、わからなかった。
「で、王さまに、言ったの?」
「やくそくしたから」
 李翠が、上を向いた。
 天井の破れているところから、星が見える。
「いけなかった?」
「そう……だね」
「だから? そんなことしたから、ぼく、昇紘のところにいちゃダメになったの?」
 上を向いたまま、李翠が、深くうなづいた。
「郁也は、女官のお願いを断れないだろ」
「う……ん」
「だからね、今、女官に、贈り物をして、郁也に、王さまにお願いしてもらいたがってるひとが、たくさんいるんだって」
 それは、本当は、賄賂って言って、いけないことなんだ。本当に立派なひとは、そんなことしないんだ。きちんと、どんなに時間がかかっても、順番を待って、自分で王さまにお願いする。叶えてもらえなくてもね。
 だから、賄賂で買収された郁也が、王さまに、おねだりしてるって、そう、ぼくの耳に入ってきたんだよ。
「帰れないんだ」
「郁也が女官のお願いを断れないみたいに、王さまは郁也のおねだりなら、なんだってかなえちゃうからね」
 王さまが、そうじゃ、ダメなんだよ。
 王さまは、誰にも公平じゃないと。
「ぼくが、いけないんだ」
「違う。郁也が悪いんじゃないんだ」
 李翠が、肩を抱き寄せてくれた。
「特別だって、昇紘が言ってくれたのに……………」
 調子に乗った?
 甘えすぎてたのかな。
 だから、こんなにいたいしっぺ返しをもらった?
 ぼんやりと、ぼくは、揺れる炎を見ていた。
 李翠の肩を枕にして、ぼくは、いつか、眠りかけてたんだろう。
「………ぼくじゃダメ?」
 ふと、そんなことばが聞こえたような気がした
「郁也は僕にとって、特別だよ。僕の特別じゃ、嬉しくない?」
 返事しないと――そう思うのに、ぼくの瞼は、下がってゆく。
 返事しないと――そう思うのに、ぼくの全身はだるくて、口を開くことができなくなる。
「郁也?」
 李翠が、ぼくを見ている。
「眠ったの?」
 疲れたんだね。
 ごめんね。無理させたみたいだ。
 李翠の声を子守唄にして、ぼくは、本当に、眠ってしまったらしかった。



19.李翠

 無謀なことをしている。
 自覚はあった。
 けど、どうしても、父さんを、助けたかったんだ。

 その噂を大学で耳にしたとき、僕は、自分の耳を疑った。
 だって、そんなこと、あの父さんがするはずがない。
 でも、今の父さんは、あまりにもこどもだ。ひとを疑いもしない。
 もしかして………。
 僕の心に、嫌な予感が走った。
 父さんがこどもに還ってから、四年が過ぎていた。
 父さんがこどもに還ったことを知っているのは、あの時居合わせたものたちだけだ。彼らに王が因果を含めていたことを、僕は知っている。
 外に、漏らしてはならないと。
 不思議なことに、その噂を僕が聞いたことはなかった。
 どこからともなく、そういうものは、漏れ聞こえてくるというのに。
 僕が耳にする父さんの噂は、尾ひれがついて、まるで、悪女だ。
 王を誑かす、傾城、傾国。
 まなざしひとつで、王を意のままに操ると。
 違う!
 叫びたかった。
 父さんは、そんなんじゃないと。
 けれど、言えない。
 僕は、父さんの養い子だけど、それは、誰にも言ってはいけないことなんだ。
 早く帰って、真偽を確かめたかった。
 だから、週末までの残り二日を、僕は気もそぞろに過ごしてしまった。
   逸る気持ちのまま、父の元へ急ぐ僕は、けれど、なんとなく、王宮の雰囲気が違ってきているのを感じていた。
 何がという、具体的なものじゃない。
 漠然と、感じたのだ。
 ――やばいのかもしれない。
 父さんは、このまま、王の元にいたのでは、ダメな気がする。
 傾国、傾城と呼ばれるものの末路は、いつも、決まって、死―――だった。
 僕は、父を失いたくない。
 僕にとって、父だけが特別なのだ。
 だから、父の噂には気を張り詰めた。
 どんな些細な噂でも、聞き逃さないように。
 たとえ、早とちりでも、本当に、父が“死”に捕まえられてから――よりは、遙かにましだ。
 僕は、後宮に足を踏み入れるまでに、心を決めていた。

 そうして――――
 僕は王に捕らえられ、獄舎につながれた。
 しかたがない。
 どんな理由からにしろ、太子を、寵妃を誘拐したのだから。

 僕は、手と足を獄舎につながれたまま、幾度も夜のことを思い返した。
 僕の肩によりかかって、眠った郁也の重みも、体温も、息遣いも。
 すべては、僕だけのもの。
 そうして、獄舎につながれたまま幾日を過ごしたのか。
 ガチャリと、扉の開け放たれる音がした。
 顔を上げて、僕は、その場に凍りついた。
「李翠」
「郁也」
 なんで。
 郁也が。
 寒く冷たい獄舎の中、炉の炎だけが、暖を放ちながら揺れている。
 その炎が、数段高い位置にある入り口を照らしていた。
 郁也が、立っている。
 先に立つ玉絹が、足元を照らし出すように、角灯をかざした。
 丸くでこぼことした石敷きの床の上を、苦労しながら歩いてくる。
 今にも躓いてしまいそうで、床の中央に切られた炉の傍を通るときには特にハラハラしながら、僕は、郁也を見ていた。
「ひどいや。こんな………。逃がしてあげる」
 そんなことをしたら。
「ダメだよ、郁也」
「だって。李翠は、昇紘のために、ぼくを逃がしてくれたんだよ」
 そう言ったのに、昇紘は聞いてくれないんだ。
 ぼく、もう、昇紘の特別じゃないのかなぁ。
 つぶやきは切なく響いた。
 違うよ、郁也。王にとっての特別は、いつだって郁也だけ。その郁也を、王の元から奪った僕に、王が容赦するはずないんだ。
 こんな時でも、郁也は、王のことを考えている。そう思えば、僕の胸にも、切なさが押し寄せてきた。
 返事をもらえなかった告白を、郁也は覚えているだろうか。
 あの時の、いとけない寝息を思い出す。
 身の内からこみあげてくる熱を抑えるのに、僕はどれだけの自制心を掻き集めなければならなかっただろう。
 こんな僕の思いに、郁也が気付くことは、決してない。
 郁也にとって、僕は、少し前に天寿を全うしたあの猫と、あまり変わらないのではないか。そんな気がしてならなかった。
「もういいよ。手が、傷だらけだ」
 僕を繋ぐ短い鉄の鎖を留める鍵穴に、郁也の手にした小さな刀が差し込まれる。
 そんなもので外れるはずがない。
「だって。こんなの、ひどい」
 肩が震えている。
「泣いてるの」
「だって」
 しゃくりあげる声が、ひどく傷ついているみたいで、たまらなくなる。
「郁也さま」
 玉絹の声が、鋭く響いた。
「郁也。もういいから。ほら、もう、行って」
「ヤダ」
 聞き分けのないこどものように、郁也が、頑なに、鍵穴をこじ開けようとする。
 僕には、もう、獄舎に入ってきている王の姿が見えていた。
 壁際で気配を殺す玉絹も、息を呑むしかなかった僕も、ただ、郁也の背後に立っている王から、目を逸らすことができないでいた。
 どれくらいの間、郁也が鍵穴をこじる音だけが、静まり返った獄舎に響いただろう。
「いいかげんにしないか」
 苦々しげに吐き捨てられた声が、郁也の動きを止めた。
 恐る恐るといった風に顔を上げた郁也の手から、小さな刀が、転がり落ちる。
「玉絹」
「はい」
「大僕に命じて郁也を部屋へ連れてゆけ。予の部屋だ」
「いや………」
 首を振り続ける郁也の目から、涙がこぼれ落ちていた。
「やだ」
 助けられないこの身の不甲斐なさにくちびるを噛みしめながら、僕は郁也が落とした小刀を見ていた。足で、そっと、背後の石壁と腰の間へと、滑らせる。手も縛められている状態で、役には立たない。それでも、それが他ならない、郁也のものだったからだ。
 多分、もう、会えないだろうことは、予感ではなく、確信だった。
 しかし、
「なら好きにするがいい」
 王のそのことばに、興奮が過ぎた挙げ句に神経が切れたのかもしれない。人形のようにくったりと力をなくした郁也は、壁に背を預けたまま、僕と王とを見上げていた。
 静まりかえった獄舎の中、王が、僕を見下ろしてくる。
 黒い瞳が、僕を見る。
 瞳の奥に、いこった(おき)のように赤い色を潜ませて。
「僕を、殺しますか」
 沈黙に耐え切れなくなったのは、僕のほうだった。
 目の端に、郁也が爆ぜるように震えるのが見えた。
「………いや」
「なぜ」
「郁也が悲しもうからな」
 深い声音だった。
「おまえの処刑は、郁也を苦しめるだろう…………だからといって、処罰せぬわけにはゆかぬ。おまえは、郁也を、攫ったのだ。たとえ、そこにどんな理由があろうと」
 予は、おまえを、この国から、追放する。
 明日の、いや、もう今日だな。早朝、おまえを国境へと連れてゆくために、獄吏が来よう。
 それまで、郁也と別れを惜しむがいい。
 思わぬことだった。
 殺されるのが当然のことを、僕はしたのだ。
 なのに。
「王の御厚情に、感謝いたします」
 縛めは解かぬがな。
 そう言って、王は、獄舎から出て行ったのだった。
 それからのひとときを、僕と郁也とは、ただ寄り添って過ごした。
 冷たく暗い獄舎の中で、炉にくべられた炎だけが、唯一の暖であり灯だった。
 揺れる炎が、あの海辺の寒村での一夜を思い出させる。
「ごめんね」
 郁也が、つぶやいた。
「郁也、僕は、ずっと、どこにいても、郁也の味方だから」
「ぼくも、ずっと、李翠のこと忘れない」
「うん」
 うん。父さん。
「僕も」
 後は、ことばもなかった。
 ただ、互いの体温を、感じて、夜を過ごした。
 獄吏が来て、僕の縛めを解くまで。
 引き立てられてゆく僕を、父さんは、泣きそうな顔をして、見ていた。
 僕は、こうして、父さんと、別れた。
 僕は、二度と、父さんに会うことはなかった。

 各国を放浪していた僕が、その噂を耳にしたのは、三年後のことだった。


つづく



from 11:43 2005/10/14
up 07:02 2005/11/03


あとがき
 六回目
 段々魚里が混乱してきてるのが丸わかり。
 書きながら、恥ずかし〜と喚きたかったり。
 いや、根底は……ですが、ラブラブですがな。
 新たな視点、雷燕さんは、微妙に、失敗だったかなぁと思ったりしつつ、一回書き上げた話を弄れない魚里がいるもので、ご容赦。
 あまりにお約束な展開に、笑っちゃうしかない魚里なのでした。
 もうしばらくお付き合いくださると、嬉しいです。

  後半、獄舎の中のはなしが、王家の紋章っぽいですね。なんて思いながらいたのですが、後になると、そうでもないな。
 一応、大雑把な粗筋というか、組み立ては書いてるんですけど、大雑把過ぎて話が広がりすぎです。視点がぐりぐり変わって、わかりづらいですかね。11:59 2005/10/21
 あとは、具体的にあまり書けないなぁと。反省。
 ともあれ、浅野くんは、お姫様ということでvv
 時々見るBL系のお話だと、こういう異世界巻き込まれがたの主人公って、なんとか後宮でもがんばるって感じが多いんですが。浅野くんは、なにやっても裏目に裏目に出てしまうタイプだと思うので、動かないのが一番って思ったんですがね。動かんでも、裏目にしか出ないか。
 今回の救いは、昇紘さんが、しっかり浅野くんを愛してるってことを表に出してるってところだと思うんだ。けどね。14:07 2005/10/23
 愚痴ながら、書いてたと言うxx


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