24.李翠
さて、どうしようか。
俺は、肩を回した。
艀を降りて、荷物の受け渡しを済ませた。
後四日は、船が出ないから、その間に、俺は、新たな商品を探すつもりだった。
国を放逐されて、三年。俺は、どうにかやってきた。
みようみまねではじめた傭兵家業が、不思議と順調で、俺は貯めた金で、小さな船を買った。
そうして、ささやかながら、貿易業を営みはじめたのだ。
しかし、ここは、俺が三年前追放された国だ。
旅券の名前は、変えてあるが、なんとなく、気後れがする。
父さんは、元気だろうか。
俺は、関所を通り抜けながら、遠く輝いている王宮の屋根を見晴るかしていた。
懐かしい。
知った顔がいるかもしれないが、今の俺を、李翠だと見破れるものは、いないだろう。
日に焼け、潮に焼け、筋肉もつき、背も伸びた。かつての生白い大学生の李翠とは、似ても似つかない。
ひょっとして、父さんだったら――と、思わないでもなかったが。
どうせ、会うことは、できないのだ。
未練を引きずらずに、さっさと用事を済ませて、船に帰ろう。
旅券の偽造がばれると困る。
それに、街中にいると、つい、王宮に目が行ってしまう。
忘れていた切なさが、目を覚ます。
市の立っている広場に来て、俺は、市の賑やかさがどこかおかしいと感じた。
上っ調子なのだ。
無理しているような、なにか不安を押し隠しているような、奇妙な雰囲気があった。
さわさわと、ひそひそと、王宮のほうを見上げては、寄り集まり、離れてゆく。
なにがあった。
なにかが、王宮で起きたのだ。
いったいなにが。
手近のものを捕まえて訊こうとしても、慌てて、逃げてゆく。
何度それを繰り返しただろうか。
走ってくる役人の姿に、俺は、慌てて、ひとごみに紛れ込んだ。
気になる。
勘でしかなかったが、しかし、俺は、この三年、この勘で救われたことが少なからずあったのだ。
気になる。それは、不安に直結しているようでならなくて。
俺の不安が向かう先は、ただ一点にしかないということを、俺が知らないわけがない。
早々に俺は、宿を決め、旅装束を脱いだ。
中の下というところだが、それでも、独り部屋だ。
俺は、さっそく、飯を運ばせた。
昼日中から酒というのはあまり趣味ではないのだが。
俺は、酒を飲むふりをしながら、酌婦に勧めた。
酌婦の、白粉で塗り固めた白い顔が、染まってゆく。
目尻が赤く染まり、頬が、紅のように照り映える。
こんなに勧められては、仕事になりませんよぉ――と言いながら、嫌いな性質ではないのだろう。手は、代わりをせっつく。
「この国って、雰囲気が変なんだよな」
何気なさを装って、俺は、こぼしてみた。
波紋と言うには、大きな反応が、酔っているはずの酌婦から返ってきた。
ぱっと目を見張って、俺の顔を覗き込んでくる。
知っていて、口にしたいんだが、口にするには憚りがある。
そういった感じらしい。
「これが、この国の気質かい?」
国によって、ひとの性格に違いがあるのは否めない。
おおらかな国、静けさを尊ぶ国――いろんな国を見た。もちろん、一人一人には、個性がちゃんとあるが、国の気質と言うのは、個人にも影響を及ぼすものだ。
「まさか〜」
ケラリと笑う。
「じゃ、どうして? なんかこう、奥歯に物が挟まったような、しゃっきりしない雰囲気で、他国者を警戒してるみたいな気がするんだ。気分が悪いんだよな〜」
酒を呷るふりをする。
「もう来ないからなって思っちまう」
あんたも、他国者だって、俺のこと警戒してるんだろ?
じろんと睨んでやると、
「そんなことないですよ〜。宿屋がそんなことしたら、すぐにおまんまの食いっぱぐれになっちまうじゃありませんか」
だよなぁ〜。
ケラケラと、笑う。
「じゃ、なんでだ?」
顔を寄せると、
「あたしが言ったって、内緒ですからね」
きょろりと周囲を見渡して、顔を耳元に近づけてきた。
酒臭い息が、生温かく、耳にかかる。
酌婦の話を聞くうちに、俺は、血の気が下がってゆくのを感じていた。
25.郁也
鎌が振り下ろされて、オレは、死んだと、そう思った。
明翠に殺されたのだと。
しかし、誰かが、オレの名前を呼んだ。
耳もとで大きく、叫ぶようにして。
その声の主を、オレは、知っているはずだった。
何度も繰り返し呼ばれて、オレは、目を開けようと、もがいた。
安心させてやらないと。
そう思ったんだ。
言わなけりゃならないことがある。それは、何よりも強い、思いだった。
まだだ。
まだだめだ。
何かに抗いながら、ようやく開いた視界の先に、オレは、オレの手を握りしめてる男を見つけた。
泣きそうに顔が歪んで、いつもの苦みばしっている男前な顔が台無しだ。
「しょうこう?」
それだけを喉の奥から搾り出すようにすると、
「そうだ」
と言って、起きようとするオレを、とどめた。
「……オレ………どうして」
混乱していた。
何かを言わなけりゃ――そんな決意だけがあった。けど、それがなになのかとか、なんだって昇紘がこんなに心配そうな顔をしているのかだとか、オレはなにをしているんだろうとか。何もかもが漠然としていて、取っ掛かりが見つからなかったんだ。
オレの目の前で、昇紘の目が大きく瞠かれてゆく。
それを見ていて、わかった。
そうか。
一気に、記憶が流れてくる。
今までオレがどうしていたのかも、すべてだ。
赤面モノの記憶の山は、しかし、思ったほどオレをうろたえさせなかった。
「郁也」
「…………オレ……………そうか。オレ、あの時、あんたを選んだんだ」
舟遊びのあの後、オレは、死にかけて、そうして、オレの本心に、気付いてしまった。
どうしてか、わからない。
オレは、いつの間にか、昇紘のことを好きになってたんだって、そう気付いて、夢の中、明翠じゃなく昇紘の手を選んだんだ。
退行しちまった理由は、多分、気付きたくなかったんだ。自分が、明翠じゃなく、昇紘を選んだことを気付きたくなくて、でも、傍にいたいって思っちまった自分に、どうしたらいいのかわからなくなったんだろう。
卑怯だった。
結局、オレは、自分のことしか考えてなかったんだ。
すべてを忘れちまえば、昇紘を受け入れることは簡単だった。
素直に、昇紘だけを信じていられた。
李翠には、悪いことをしちまったけど。
なんだかな――って思っちまう。
差し出された手を、ただ受け入れていればよかったのに。
何もかもが怖くてならなくて、からだを繋げることが嫌でたまらなくて、男のオレが男に抱かれることが、どうしても認められなかったんだ。
だから、オレは、こういう風にしか、昇紘に素直になれなかったんだろう。
きっとオレは、めちゃくちゃ変な顔をしてたんだろう。
昇紘が、珍しく戸惑ったような顔をしてる。だからかな、
「オレ、あんたが好きだ。昇紘」
それは、オレの口から、するりと出た。
言っちまえば、不思議と抵抗がないもんだな。
そんなことを思ってると、
「郁也か」
昇紘の驚いた声が、耳に届いてきた。
「そうだ。ごめん。もっと早く気付いてたら、もっと早く言えてたのにな」
なんつーか、オレって、ほんっと、石橋叩くタイプなのな。って、ちょっと違う気もするけど。叩きすぎて壊して、尻込みしちまうんだ。
そんなことを考えてると、いきなり、抱きしめられてた。
さっき起きるなって言っておいて、抱き上げるんだから、こいつって。
そんな文句も、すぐに忘れた。
昇紘の、ぬくもりを、匂いを、すっごい久しぶりに感じた気がして、目の前が、くらくらしはじめた。
「郁也」
昇紘の嬉しそうな声に、オレは、
「あいしてる」
そう、つぶやいた。
途端、オレは、熱い塊が、喉の奥にこみあげてくるのを感じていた。
オレって、ほんっと、まぬけだな。
ごめん、昇紘。
ごめんな。
オレの口からあふれ出るものが、昇紘の背中を、赤く染めてゆく。
それが、オレが見た最後の光景だった。
こうして――――
オレの時間は、永遠に止まったのだ。
26.昇紘
うなされている郁也に、予は、その場から動くこともできないでいる。
いつかのように、牀榻に横たわる郁也の手を握りしめ、ただ、天帝に祈るばかりだった。
朝、郁也が血を吐いたと聞いて、予は、駈けたのだ。
冢宰の声が聞こえたような気がしたが、朝議などより、郁也のほうが大切だった。
ここ数日、郁也の気分が悪そうだったのには、気付いていた。
大丈夫かと訊ねると、暑さ負けしてるんだと、笑って答えていた。
しかし―――
なぜもっと早く、医師に命じなかったのか。
悔やまれてならない。
毒だ――と。
仙をも侵す強い毒が、郁也を苦しめているのだと医師に告げられた時、予の脳裏を駆け抜けたのは、間違いなく、絶望だった。
少しずつ、誰かが郁也に毒を盛っていたのだと。
今夜が、山だと。
郁也が、苦しんで死ねばいいと、誰かが、企んだのだ。
なぜ、気付かなかったのか。
青ざめ、その場に叩頭する玉絹以下女官達を罰する気力すらなかった。
罰したとして、郁也が助かるのか。
郁也が助かるのなら、幾人の女官を殺したとしても、助けずにはおかない。
しかし………。
なぜ、郁也なのだ。
郁也がなにをしたというのか。
角灯のあかりが、大きく揺らぐ。
郁也が、目を開いたような気がした。
「いくや」
しかし、錯覚だったようだ。
郁也が、予の名を、養い子の名を、女官の名を、何度も呼ぶ。
助けてと。
怖いと。
声にならない声を、紡ぐ。
「郁也」
予が、郁也の額の汗を拭った時、郁也が予の名を、李翠の名を、玉絹の名を、呼んだ。
そうして、かつて、彼の愛した女の名を。
――明翠と、そうつぶやいて、大きく震えた。
「郁也」
大きく息を吸って、郁也の震えがやんだ。
いやな予感に、時が止まったかのように思えた。
「いくや?」
恐る恐る、声をかけた。
まさか。
怖ろしい予感に、からだが震える。
まるで、郁也の苦痛が予に乗り移ったかのように、予のからだから、脂汗が、滲み流れる。
「いくや?」
阿呆のように、名前をつぶやくしかできない予の目の前で、郁也の青白い、今は角灯のあかりに染まった瞼が、蠢いた。
「郁也!」
予は、きつく、郁也の手を握りしめていた。
「しょうこう?」
「そうだ」
不思議そうに、周囲を見回しながら起き上がろうとする郁也を、予は、押しとどめた。
「まだ、起きるな」
「……オレ………どうして」
聞きなれない人称に、予の目が、大きく瞠かれてゆくのが、感じられた。
「郁也」
「…………オレ……………そうか。オレ、あの時、あんたを選んだんだ」
照れくさそうな笑みが、郁也の顔をほんの少しだけ、明るくした。
戸惑う予に、
「オレ、あんたが好きだ。昇紘」
ゆっくりと、郁也が告げる。
しばらく、時間が必要だった。
ゆるゆると、郁也が口にしたことばが、予の心にしみとおってゆく。
信じられなかった。
これは、予を頑なに拒んでいた、あの、郁也なのだ。
あの郁也が、予のことを好きだなどと、夢を見ているに違いない。幸せで、残酷な夢を。
「ごめん。もっと早く気付いてたら、もっと早く言えてたのにな」
郁也の褐色の瞳が、予をひたと見つめて、恥ずかしそうに、眇められた。
その表情は、いつも予に向けられていた、稚い青年のものと同じだった。
だからだろうか。
予に、喪失感はなかった。
郁也のことばが、予の心に、するりと嵌り込む。
求めつづけていたものを、ようやく手に入れることができた幸せが、予を捕らえる。
やっと、完璧に、郁也をこの手にすることができたのだ。
「郁也」
予は、郁也を、抱きしめていた。
細く、今にも折れそうなからだを、強く、確かめるように、抱きしめる。
苦しそうに、くすぐったそうに、郁也が、耳もとで、
「あいしてる」
そう、つぶやいた。
そうして――――
郁也の時間は、永遠に止まったのだ。
27.雷燕
「主上」
固く閉ざされた部屋の扉が開く気配は、ない。
太子が亡くなられてから、六日になる。
主上が、太子の部屋から御自分以外の人間を追い出されて、閉じこもられてからも、六日だ。
こそとも音はしない。
窓にかけられた帳もそのままに、主上は、死人といったいなにをしていらっしゃられるのか。
お食事も、お飲み物も、主上は口にされていない。
主上が倒れられたら。
ことを大きくするつもりはなく、後宮にいるのは、私と、信用のおける数名の部下のみである。
政務を滞らせるわけにもゆかず、冢宰らは、動けない。
とりあえず、こちらでのことは、私にすべてが任せられていた。
私は、部下に命じて、扉を、開けさせた。
「うっ」
鼻をつく腐臭は凄まじく、私も部下も、扉を開いた刹那、たじろがずにはいられなかった。
「なんて匂いだ」
「主上!」
気を取り直して、一歩室内に足を踏み入れた私は、その場で、凍りついた。
薄暗い室内、私たちが開けた扉から差し込む日差しだけが光源となっている中に、ゆらりと立ち上がる黒い影。
扉の形に切り取られた日差しの中、床の上に転がり落ちている冠が、私の視界の隅に映っていた。
思わず、私は、後退りかけた。
首筋から全身へと、ぷつぷつと粟立つように広がってゆくものが、嫌悪であると、私は、思いたくなかった。
しかし、それは、紛うことなき生理的な嫌悪であったのだ。
うげぇ――と、蹲り、吐き戻す部下達の嘔吐きを耳にしながら、私は、全身の血液が足元へと下りてゆく、そんな寒気を感じていた。
「なにものか」
魂の抜けたような、平坦な声が、私の耳に届いた。
「主上」
床に膝をつきかけていた己を鼓舞しながら、私は、必死になって、立ち上がった。
叩頭している場合などではない。それが、痛いほどに感じられた。
「よといくやのおうせをじゃまするのはなにものか」
ずるずると、何かを引きずるような音が、恐怖を高めてゆく。
逃げ出したい気持ちと、踏ん張らなければという気持ちとが、せめぎあう。
日差しの中に現れようとする主上を、見たくない。
それは、心からの思い。
結局、私は、どこまでも、主上を裏切り続けたのだ。
主上にとっての毒は、あの太子ではなく、私自身の猜疑心だったのだ。
主上を、何よりも敬愛していると言いながら、心の底では、主上を信じていなかった。
狂ってしまわれるほどの、主上の御執着の強さを、私は、軽くしか見ていなかったのである。
「らいえん、よのゆるしなく、なにゆえこうきゅうにそなたがおるのだ」
「ひっ」
私の膝が、大きく笑った。
意地が脆くも挫けるのを、他人事のように感じながら、私は床に尻をついたまま、主上を見上げていた。
部下が、尻でいざるように後退さる。
主上の変わり果てられたお姿が、そこにあった。
髷の解けた、蓬髪。
お顔は、六日のうちに、目は窪み、頬は扱け、まなざしだけが、炯々と尋常ならざる光を宿し、私をねめつけてくる。
全身に赤黒い汚れがこびりつき、それは、今も尚、ぽたりと耳を塞ぎたい音をたてて、滴り落ちている。
私は、私の犯した罪を、今こそ、天帝に詫びなければならない――と、そう、後悔した。
にちゃりと、逆毛立つような音をたてて、主上が、頬ずりなされた。
残暑の厳しさに、悪臭を放つそれ。
主上が、手の中に、愛しげに抱かれている、それに、堪えても堪えきれない嘔吐が、私を捉えた。
吐瀉物のたてる音が、遠い。
生理的ににじんだ涙にぼやける視界の先で、主上が、愛惜しげに、太子の骸に、くちづけた。
血に塗れなおも青白い骸は、その半ばまでの肉を、失くしていた。
「何者」
誰何した。
夜の闇の中、私は、月に光る何かを見たと思ったのだ。
主上の正寝の見張りの最中だった。
「誰もいない?」
私が、ひとの気配を読み間違えるはずがない。
そう思ったときだった。
鳩尾に、固いものを感じた。
引き抜いた刀の一閃に、手ごたえを感じる。
「やっぱ、将軍だけあるか」
銀の長い髪が、月光に輝いていた。
「悪いね」
フッと、息を強く吐くような音が聞こえたと思えば、鼻の先を掠めたのは、
「卑怯な」
足元から力が抜けてゆく。
「適わないみたいだからね。ひとが来たら面倒だし」
トンと、とどめに、後頭部を手刀で叩かれ、私の意識は、途切れた
28.李翠
睡眠香を吹きかけると、ふつうならひとはすぐに眠るのに。
「適わないみたいだからね。ひとが来たら面倒だし」
まだ倒れていない将軍の後頭部に手刀をお見舞いして、俺は、正寝の扉を、開けた。
目が眩むほどの、香のかおりに圧倒されて、俺は、数度目を瞬いた。
橙色のあかりに照らされた室内が、まるで燻されているかのように、白く煙っている。
しかし、それでも消えない、かすかな異臭があった。
腐臭だ。
俺は、目を、閉じた。
町の噂は、本当だったのだ。
こみあげてくる熱を堪えながら、俺は、部屋の奥へと進んだ。
扉をひとつ開けるたびに、煙は濃度を増し、腐臭も強くなる。
煙が、目に染みる。
そうして、遂に、最後の扉を、俺は開け放った。
蜀台の炎が、いっせいに強くゆらめく。
落日めいたあかりに照らされた室内に、王は、いた。
手にした
ものを抱きしめ、狂おしげに蠢くさまは、醜悪でありながら、哀切に満ちていた。
俺の目から、これまで堪えてきた涙が、あふれ出した。
そんなにも、王は、父さんのことを愛していたのですか。
父さんの死を認められないほどに。
王の抱く
ものは、もはや、父さんとは呼べないものだった。
かつてはひとであった、腐れ爛れた、父の骸。
父さんの屍を抱いて、王が、睦言をつぶやく。
宿の酌婦に、王の寵妃の死と、王の乱心とを聞かされたとき、俺は、父さんの骸を取り返そうと、そう思ったのだ。
取り返して、せめて、葬ってあげたかった。
今のままでは、父さんは、死に切れないのに違いない。
そう思ったからだった。
城の抜け道なら、ひとつだけ知っていた。
塞がれていなかったのは、幸いだった。
後宮から正寝に出るのは、比較的簡単だからだ。
「父さん………」
俺は、その場に、膝をついた。
狂った王から、父さんを取り上げるのか。
「おまえ、李翠か」
いつの間にか、背後に、将軍が立っていた。
首筋に、刀を当てられた。
「放逐されたものが帰ってくることはならん――知らぬとは言わせぬぞ」
わかっている。
しかし。
「死罪を免ぜられての放逐であったなら、この場で首を落とされても、文句は言えまい」
このまま殺されてもかまわない。
そんな気さえした。
だから、将軍が刀を振り上げるのも、気にはしなかったのだ。
逃げようとすら、思わなかった。
刀が風を切る音がした。
その時だった。
信じられなかった。
「まさか………」
将軍の震える声が、かすかに聞こえた。
見上げた僕の目の前に、懐かしい、父さんの姿があった。
生前そのままに、父さんは、佇んでいる。
ただ、それだけだ。
なのに。
ガシャン――と、重い鋼が床を打つ音がした。
「た、いし………」
さっきの僕のように、将軍が、床に膝をついていた。
手にしていた刀は、床に落ちている。
父さんが、僕を見て、笑ったような気がした。
そうして、ふっと、動いた。
まるで、微風に押されて進んだって感じだった。
牀榻の脇に佇んで、悲しそうに、顔をゆがめた。
くちびるが、ことばを紡ぐ。
ごめん――――と。
昇紘、ごめん―――と。
そうつぶやいて、自分の骸を手放そうとはしない、そんな、王の、背中に、そっと、触れた。
その刹那。
王の動きが、不自然に、止まった。
止まって、そのまま、牀榻に突っ伏す。
僕も、将軍も、動けなかった。
突っ伏した王のからだから、もう一人の王が、蝉の羽化みたいに現れるのを、ただ、呆然と見ていた。
現れた王は、僕が知る、将軍が知っている、狂う前の、王だった。
王が、父さんの手を取った。
父さんが、王に、ゆっくりと、からだをあずける。
ふたりは抱き合い、そうして、消えた。
僕は、ただ、ふたりが消えた虚空を見つめていた。
耳に、将軍の慟哭が聞こえたけれど、僕は、ただ、虚空を見つめているしかできなかったんだ。
王と太子の国葬はおわった。
主を亡くした王宮は寂しげで、魂をなくしたかのようだった。
将軍は、王宮を去った。
俺も去らなければならない。
訝しげな視線が、いくつも俺にそそがれていた。
太子の養い子を思い出すものが出てくるかもしれない。
「玉絹、元気で」
こっそりと、目を赤く泣き腫らした女官に、俺は、耳打ちした。
俺を一目で李翠とわかったのは、玉絹だけだった。
「お元気で」
玉絹に別れを告げて、俺は、王宮を後にした。
父さん、幸せだよね。
空を見上げて、俺は、声を張り上げた。
「帆を下ろせ」
日に焼けた帆が、海風をはらんだ。
おわり
from 11:43 2005/10/14
(end 15:17 2005/10/25)
up 09:44 2005/11/10
あとがき
八回目
最終回です。
なんかもう、役職とか役割とか、めちゃくちゃなんですが。後宮に禁軍兵士が入っていいのかとか。普通は、後宮内の役職で動かしたほうがいいのでしょうが、後宮は後宮で閉じちゃってるからなぁとか。まぁ、NHKで見た、イスラムのハレムも、成立当初のほうは出入りが案外自由だったとかなかったとか。記憶があやふやですけどね。突っ込みどころはあいかわらず満載ですが、なんといっても、主要登場人物を増やしたくなかった魚里の極道さが、原因ですな。言い訳としては、人称ぶつ切りだから……って。反省ですかね。10:57 2005/10/25
李翠、三年で、スーパーマン化です。いくらなんでも、ありえんだろうという突っ込みは、なしで。よろしくです。
山場になるはずだったのだが。
結局、李翠は、昇紘の首を刎ねませんでした。まぁ、刎ねるほど敬愛してなかったしな。おかげで、李翠が次の王さまになるって最初の予定は、ぽしゃりました。残念。刎ねるべきだった雷燕は、後悔からか泣いてるし……。
ちょっとあっけないかなぁ。少しでも楽しんでくださった方がいれば嬉しいです。
最後までおつきあい、ありがとうございました。
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