国は災厄に覆われていた。
長い長い災厄だった。
つむった目からは涙が流れ、食いしばろうとする口からは悲鳴が迫りあがる。塞いだ耳には、ひとびとの苦鳴が絶え間なく届いた。
空を閉ざす黒煙は、ひとの焼かれる独特の臭気をふりまく。
大地を濡らすのは、ひとの血潮や涙に他ならない。
災厄の源は、大理石と翡翠と黄金とで造られた王宮である。
民もが踏み込むことのできる外殻では、無惨な光景が繰り広げられている。
掘られた深い穴の底には焼けこげた人間の成れの果てが積み重なっている。鋭い杭にはひとが貫かれ、後ろ手に縛められたものの引き裂かれた腹からは腸が溢れとぐろを巻いている。
振り下ろされる鞭、刃。
馬の蹄鉄は横たえられたものたちのからだを害してゆく。
鋭いガラス片の上を引きずられるもの。
四肢を引き裂かれるもの。
首をはねられるもの。
泣き叫ぶ被害者たち。
黙々と行為を繰り返す灰色の衣をまとった男たち。
山と積まれた死人の山。
拷問。
処刑。
酸鼻極める光景に、王宮を見る者はいない。
芯から凝りつくかの心地で、目を逸らせるのだ。
民の祈りも嘆きも、王宮の主には届かない。
狂える神に誰が逆らうことができようか。
ひとは怯え嘆き、身を縮こめる。
恨みや呪詛は黒雲に混じり、大地から立ちのぼる臭気と合わさって、あまたの魔物が生まれ落ちた。
王は、無情に眺めるばかりだ。
楽しんでいるわけではない。
血に酔っているわけでもない。
酔っているのも楽しんでいるのも、王の隣にいる腹の大きな美姫だった。
手を叩き、火に投げ込まれる子供の絶叫を楽しんでいる。
魂消るような断末魔の痙攣を、恍惚と味わう。
そんな女を、王以外の者たちは嫌悪に引きつった表情でそっと見る。
誰ひとりとして、処刑を止めるものはいない。
そんなことをしようものなら、次は自分たちに火の粉が降り掛かる。
先ほど火にくべられた少年は、美姫をたしなめようとした重臣の長男だった。
灰色の処刑人の服装をまとった男たちに新たに引きずり出されたまだ少年の面影を残す若者に、つややかな黒髪に金の飾りをつけた赤いくちびるの美姫が、舌なめずりせんばかりにその彩られた瞼を見開く。
紅をさして血塗れたようなくちびるが、細い三日月めいた嗤いをかたどった。金の瞳に残酷な喜悦がともる。
火にくべるか、槍で貫くか。
それとも、ノコギリで挽くか、馬に引かせるか。
幾通りもの残虐な殺害方法が、女の脳裏をいっぱいにしていた。
ぞろりと赤い舌がくちびるを湿した。
ちろりと隣をみやれば、何を考えているのか、王は眉間に皺を刻みつけたいつもの無表情のままである。
くつくつと笑いをこぼす。
膨らんだ腹を撫でさする。
眼下に引き据えられた若者こそが、王の後嗣を産むはずであったのだ。
見た目からはわからないが、若者は、双つの性を持つ者であり、誰よりも王の恋着を受けた者であった。
王の恋着を厭い、宿った子を堕ろすまでは。
若者は身内に宿った生命に恐慌した。
彼は元々この世界の人間ではなく、両方の性を持っていたわけでもなかったのだ。
元の世界で、彼はごく普通の高校生だった。
ある日、何かに呼ばれたような気がして振り返らなければ。
立ち止まらなければ、彼は今頃平凡な大学生になっていたことだろう。
立ち止まった時、彼は白金色に輝くなにかを見たような気がした。
すっぽりと抱きしめられたような気がした。
そうして、
『すまない』
男とも女ともつかない声で、謝られたような気がしたのだ。
そのまま、何かがからだの中にはいってきた。
そんな錯覚を覚えて気を失った。
からだが内側から作り替えられてゆくかの苦痛に、どれだけの間さらされつづけたのか。
気がついた時、そこは異世界だった。
「郁也」
「にいちゃん」
伸ばされる二対の腕と郁也と呼ばれた若者との間を、剣呑な光を宿す二本の刃が断ち隔てる。
「メガン、マルカ」
流れ落ちた脂汗が、若者の目に入った。
痛みに涙があふれそうになる。
「イヤだっ!」
血なまぐさい王宮へと連れてゆかれることは、どうしようもないくらいに恐ろしい。しかも、あの二人と別れるのだ。
この世界で呆然としていた彼を、助けてくれたのがあの二人だ。
そうして、彼をこの状況へと陥れた力を見いだしたのも、また、彼らだった。
この世界に来てまだ一月にも満たない。そんな郁也にとって、彼らは頼もしい家族も同然の二人だった。
巻き込んでは駄目だ。
そう思う心の反対が、彼らに縋りつこうとする。
伸ばす手を下ろすべきか。
悩む郁也の手を取ったのは、メガンだった。
「俺たちも行く」
震えながら、それでも、メガンは兵士たちを見上げた。
「お前たちが?」
邪魔だと言いたそうなまなざしで、二人を見下ろす兵士に、
「二人も一緒なら、逆らわない」
郁也は、そう言ったのだった。
郁也はまだ知らない。
自分が何故王宮に連れてゆかれるのか。
王宮でなにが彼を待ち受けているのか。
震える手を、メガンとマルカのやはり震える手が握りしめた。
そんな彼らを感情のこもらない視線が見下ろす。
「行くぞ」
機械的な声が、彼らを促し、三人はようやく慣れようとしていた町外れの治療所を後にしたのだ。
郁也を頼りに治療所へと足を運んだ老若男女たちが、絶望に青ざめて、彼らの背中を見送った。その中の幾対かが滾る憎悪を瞳の奥に潜めていることを、兵士たちは歯牙にもかけてはいなかった。
王は同時に神なのだと。
だからこそ、絶対であり、逆らうべき相手ではなかった。
ただひとりの王が統べる世界は、かつては平穏であったのだ。
それがいつ変貌を遂げたのか。
メガンとマルカが生まれた頃には既に、世界は恐怖に支配されていた。
貴族や兵士に逆らうこと、それは王に逆らうのと同じことだった。
それは、即彼らの破滅を意味した。
運が良くて、収監。
悪ければ、拷問の果ての処刑が待っている。
ふたりの両親は、地方の領主に逆らったとして、連れてゆかれた。
ふたりが逃げられたのは、幸いだった……のだろうか。
彼らがどうなったのか。
ふたりはそれを考えないようにしていた。
崖下の迷路のような洞窟で他の似たような境遇のものたちと一緒に、ケモノのような毎日を過ごしていた。
そんなある日、マルカは跳梁する魔物に襲われた。
日が陰る頃から夜が明ける寸前までは、魔物の時間だ。人々は、恐れ、震え、ただ何事もなく夜が過ぎることを祈る。
そんな時間に食べ物を探して洞窟に帰りそびれればどうなるのか。
奇跡的に逃げ延びたマルカだったが、魔の毒は、まだ十才の少年の細いからだを冒していた。
たった一人きりの弟を救いたい。
その一心で森の中薬草を探し求めていたメガンの目の前に、郁也はいた。
同い年くらいだろうか。
ただ立ち尽くしている。
見たこともない、しかし綺麗な身なりをしていた。
襲って金でも奪うか、物乞いよろしく哀れを誘うか。
悩んだのは少しの間のことだった。
「危ないっ」
咄嗟に郁也の腕を掴んでいた。
しかし、どこからか突然現れた魔物の毒の爪は、郁也の肩を抉っていた。
流れる血に気をとられている暇などない。
「なに惚けてるっ」
「死にたいのかっ」
郁也を引きずるように逃げていた。
サルを縦に伸ばしたような魔物は、サルに似ている割には動きが俊敏ではない。だからこそ、彼らは逃げられたのだ。
逃げ帰った洞窟で、メガンは見た。
抉られたはずの郁也の肩の傷が綺麗に治っているのを。
郁也自身はそれに気づいていないようだったが、メガンは躊躇しなかった。
マルカを助けたかったからだ。
洞窟の奥に郁也を引っぱり、草を寄せ集めただけの寝床に座らせる。そうして、マルカの傷に郁也の手を当てさせた。
それから後は、奇跡だった。
郁也が触れるだけで、マルカの傷はまたたくまに治ってしまったのだ。
それを見ていた洞窟暮らしの者たちが郁也に手を伸ばす。
メガンのように負傷していないものの方が、少なかったのだ。
すがる手の主たちをすべて癒した郁也の噂は、瞬く間に都から遠く離れたこの森から村へ町と広まっていった。
その速度は、まるで、なにかに操られるかのようだった。
癒しの手を持つ郁也に、町の有力者が治療所を与えるからそこでひとを癒してほしい。そう言ってくるまで、どれほどもかかりはしなかったのだ。
メガンはためらった。
郁也にはもうひとつ秘密があったからだ。
それは、彼が偶然知ることになった、郁也のからだの不思議だった。
決して最初から、郁也はそうではなかったらしい。
マルカたちの傷や病を治してから、しばらくの間床についた郁也の世話をしていたメガンは、それに気がついた。
汗ばんだからだを清めていたあの時、郁也の下半身の不思議に気づくことになったのだ。
それは、同時に郁也も自身の変化に気づいた瞬間だった。
自分のからだの変化に気づいたあの時の彼の恐慌に、メガンはただ激しく震える郁也を抱きしめることしかできなかった。
「オレ、こんなじゃなかった。オレ、男だった。女じゃなかったんだっ」
男であると同時に女でもある。そんなものが存在するなど、メガンは知らなかった。自分が知らないだけかもしれないが、それでも、これまで、彼は聞いたこともなかった。もちろん、見たこともなかった。
からだを拭っていた時に見てしまった、不思議をかたどる下半身が、目に焼き付いていた。
信じてくれと縋りついてきた郁也に、メガンは、うなづいた。
うなづくよりなかった。
そうして、それは、メガンと郁也、ふたりの秘密になった。
町になどいたら、知られはしないだろうか。
いや、それは、どこにいても同じだろう。
秘密などなにからバレるか、知れたものではない。
メガンは首を振った。
守ってやる。
オレが、お前を。
郁也は決して、女のような外見をしているわけではない。
一目見て誰もが少年だと看做すに違いない。
彼が主張するように、ずっと男だったのだろう。
ちょっとした仕草もなにもかも、男のものだ。
決して美形ではない。
鳶色の髪と瞳の、凡庸な顔立ちの少年だ。
けれど。
メガンは思い返す。
あの時感じた、郁也から立ちのぼった彼の体臭を。
うっとりするほど甘い匂いだった。
あの瞬間、メガンはそうと知らず、郁也に囚われたのだ。
男だけど間違いなく女でもある、そんな郁也を、いつまでもこんな環境の悪い洞窟暮らしなどさせていていいはずはない。
色々な恐ろしいことはどこにでもある。ならば、少しでも住みやすいところにいたい。食事にも困らなくなるだろう、寒さに震えることもなくなる。だから、
「承知しなよ。オレとマルカも手伝うから」
そう、勧めたのだ。
勧めなければ良かった。
メガンは兵士たちについて歩きながら、後悔せずにいられなかった。
つづく
start 20:28 2010/10/10 (2010/09/29)
22:01 2010/10/23
あとがき
とりあえず途中でメガンが主役っぽい感じになってますが、あくまでイクちゃん主役ですので。
少しでも楽しんで頂けると嬉しいです。