呼ぶ声 3




 ひとのからだから流れ出す液体とひとの鼻を麻痺させる香の混じりあった臭いが、ゆるやかに吹く風に追いやられてゆく。
 昼の時刻に休みを取れと追いやられて、郁也は北の塔を後にした。
 うねる蔦に絡めとられた黒い石造りの北の塔は、この大理石の白と翡翠と黄金から成る城には異質の存在だった。
 黒々とその不吉な姿を晒す北の塔の周囲には、その塔の役割を考えると不釣り合いな光景が広がっている。
 匂いの良い鮮やかな花々が、地面を覆う芝や木々の梢の間に咲き乱れている。
 郁也は北の塔に来るたびに見る羽目になるこの鮮やかさに、背中が逆毛立つのだった。それは、ここを過ぎれば地獄が口を開けていることを痛いほどに感じるからだ。
 北の塔に入れられた者たちは、待ち受ける地獄に、どれだけ絶望しただろう。
 特に、謂れの無い讒言に陥れられた、罪のない者たちの心はどれだけの恐怖に震えただろう。
 郁也は幾人もの傷を治しつづけていた。その中には、確かに本当の罪人もいた。ひとを殺した者も、金を奪った者も。しかし、罪人の多くは、裏切られた者が大半だった。
 王妃のお気に入りの罪人が、無実なのだと、郁也は知っている。
 日々彼を癒しているからなのか、彼の記憶もまた郁也の中に流れ込んできたのだ。
 王の近衛だった彼は、だれよりも高潔な騎士だった。
 王に忠誠を誓い、その命を捧げた。
 彼の中の王の姿は、何よりも凛然と崇高ですらあった。
 黒々とした鋼のようなまなざしが彼に向けられる。たとえその瞳の中に何一つとして感情が見えなかったとしても、彼はそれだけで満足だったのだ。
 王のために自分は存在する。
 王を守るためにある近衛のひとりが、その王の妃に触れることができるはずもない。
 たとえ、王妃自身に望まれたとしても。
 彼はただ、王妃の手を拒んだだけなのだ。
 それだけで、彼は日々死ぬ寸前までの拷問を受け、郁也の手に癒されつづけなければならない。
 まるで、昔読んだことがある外国のおとぎ話の中の登場人物のように。
 彼の救いは、死だった。
 王によって与えられる、死。
 求めるそれには王妃の求愛を受け入れなければならず、高潔な彼にはなによりも忌むべき行いだった。
 しかし。それを経なければ、王による断罪は与えられることはない。
 それ以外の死は他ならない郁也によって奪い去られ、彼は狂気と恐怖とを行き来しつづけている。
 その絶望を思い、それに加担している自分を思い、郁也の心は重く沈んでゆくのだった。
 馥郁とした匂いが、風にぬぐい去られた様々な粒子に取って代わる。
 しかし。
 それらは、郁也の心を癒すことはない。
 恐ろしいだけだった。
「……っ!」
 誰かが名前を呼ぶ怒声じみた声に、郁也の肩が震えた。
 休憩時間が終わったのだ。
 重く鈍る足を、塔に向かって動かした。



 それはとても、美しい世界だった。
 七色に輝く白銀の世界。
 空はラベンダーに染まり、大地は緑を育む。
 存在するものと言えば、白銀のたてがみをなびかせ細かな鱗を輝かせる不思議な生き物。
 濃密な大気は彼らを抱き、彼らは飢えも渇きも知らなかった。
 世界は穏やかで、ただそれだけだった。
 ただそこにある幸福を享受するだけでよかった。
 それがすべてだったからだ。
 あの時まで。

 あれは、影。
 存在して二度目に見る漆黒だった。
 同胞のからだにあんなにたくさんの闇が内包されていると、誰が知っていただろう。
 たくさんの異形の生き物が、前足に光り輝くものを持ち、同胞を斬り殺してゆく。
 救う術もなく、逃げることすら思いつかなかった。
 ただ、狩られてゆく。
 ひとりまたひとりと消えてゆくたびに、同胞の中から闇があふれだし、世界を染めた。
 そうして、残るものは、自分、だけになったのだ。
 死を捧げる光り輝く刃。
 それを握る黒い影。
 その顔に見覚えがあった。
 気まぐれに助けた、異界の住民。
 ならば、同胞を殺したのは、自分なのだと。
 押し寄せてきたのは、生まれて初めて感じた後悔だった。



「郁也」
 呼ばれて目が覚めた。
「………気分が悪いのか」
 酷い顔色をしているとメガンに言われて、郁也は首を横に振った。
 たしかに体調は悪い。腹が切り込まれるように痛んだ。しかし、これ以上心配をかけてはいけないと思ったのだ。
 メガンとマルカは、ここでこき使われている。
   髪が白くなっただけでもとても心配されたのだ。
 あの時は、ふたりとも厨房や掃除の手伝いをできずに、きつく叱責されたと後になって聞いた。
「夢見が悪かっただけだ」
 よくは覚えていないが、胸に残る感情が、夢がいいものではなかったのだと教えてくれているかのようだった。
 夢の名残の感情が、胸にいつまでもわだかまって、それで腹痛が起きたのかもしれなかった

 花を見ていた。
 メガンが持たせてくれた弁当を食べる気力は相変わらずなかったが。
 細かくちぎったパンをばらまくと、すっかり待ちの体勢となっていた鳥たちが寄ってくる。
 挟んでいたハムを落とせば、野ネズミが銜えて走り去った。
 ファンタジー映画のようなシーンではあったが、郁也の心は癒されない。
 花の香りが高く香れば香るだけ、その裏側に隠そうとする闇がより強く感じられた。
 やめてくれと服を握りしめてきた手の感触を思い出す。
 おそらく以前は逞しかったのだろう手は、今や節が目立つだけの骨と皮へと変貌を遂げている。
 その弱々しさにすがられて、どうすればよかったのだろう。
 メガンとマルカを思った。
 あのふたり。
 彼らがいるから、寂しくない。
 彼らがいなければ、自分は立っていられない。
 誰も自分を知らないこの世界で、彼らだけが、家族のように思えた。
 高みから自分を見下ろした金の瞳の冷酷さを思い出す。
 王妃だという彼女に逆らえばふたりが殺されるのだと、暗に示唆した毒をしたたらせるような甘い声に、郁也は背中を震わせた。
 王妃は絶対に、するだろう。
 元近衛の拷問を見るために北の塔へと足を運ぶ王妃であるならば、自分が逆らえば必ずふたりを傷つけ殺そうとするだろう。あまつさえ、自分に、彼らの傷を治させるかもしれない。幾度も痛めつけるために。
 だから。
 ふたりを守るためにも、郁也は今日もまた、王妃の贄の傷を治したのだ。
 彼らの手を無視して。
 幾つもの手が、縋りついてくる。
 虚ろなまなざしの奥に、悲しみや苦痛、諦観をたたえて。
 それらを無視する自分もまた、彼らには、拷問吏たちと何ら変わらぬ血も涙もない者と見えているだろう。
 もう放っておいてくれ。
 治さないでくれ。
 殺してくれ。
 と。
 自分自身の耳を塞ぎ目を潰したくなるような、彼らの嘆きに、郁也の視界が、揺らぐ。
 流れる水のようなかすかな音が耳の奥に谺した。
 目の前に薄いレースのカーテンがおりてくるような、周囲の不鮮明さ。
 次いで襲いかかってきたのは、青いインクが水にこぼされたような視界の暗さだった。
 毛穴という毛穴から、脂汗が滲み出す。
 吐き気と耳鳴りに堪えきれず、郁也はその場所にうずくまった。

 開いた口から犬のような息を繰り返し、どれくらいそうしていただろう。
 汗と唾液が、地面を濡らす。
 それがわかっていても、立ち上がることさえできなかった。
 関節がばらばらにちぎれそうなほどに、自分のからだが重い。
 できれば、このまま地面に横たわってしまいたかった。
 それをしないでいるのは、そうなったが最後、起き上がることができなくなるかもしれないからだった。
 昼の休憩もそろそろ終わる。
 なんとかして立ち上がり、引き返さなければ。
 郁也が地面を引っ掻くように力をこめたときだった。
 ともすれば霞む視線の先に、人影が現れたのだ。
「なにをしている」
 降ってきた背筋が粟立つほどの冷たい声からは、感情のかけらも感じることはできなかった。




つづく



start 20:28 2010/10/10 (2010/09/29)
17:55 2010/11/21


あとがき
名前がめちゃくちゃですが〜済みません。


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