呼ぶ声 4




 夢を見る。
 知る者とているはずのない名を呼ばれる夢を。



 うたた寝をしていたのか。
 男は書類を一瞥すると不裁可の山に落とした。
 その夢を見た後は、久しく頭痛に苛まれる。
 眉の間を指先で揉みほぐした。
 椅子から立ち上がると、男は場所を移す。壁際のカウチのひとつに身を横たえた。片手の甲を額に、目を閉じた。
 鈍いものの確かな痛みが、男の頭を冒してゆく。
 夢の続きのように、視界が赤く染め上がった。
 聞こえるはずのない声が、悲痛な響きをはらんで聞こえてくるような気がした。
 絶望に囚われた声が、男の耳に谺する。
 静かな、落ち着いた声の主だった。
 男とも女ともつかないやわらかな声で呼ばれることが、好きだった。
 憂いを帯びた琥珀の瞳と七色に輝く白銀の髪の、男が愛したただひとり。
 まなざしの奥に絶望を宿して、それでいて男を愛したただひとり。
 いや。
 あれもまた、男と同じく、一柱(ひとはしら)と呼ぶべき存在だった。

 太古の獣。
 男が世界を手にするための犠牲となった、最後の古の神だった。

「王よ」
 扉の外からの声に、男は夢幻の世界から現実へと立ち戻った。
 カウチの上に身を起こし、ゆるくひとつ首を振る。
 男の記憶からあふれだしたかのようなあたたかな色に染まった部屋の中、黒をまとう彼だけが闇のようだった。



 黒をまとった丈高い男が郁也を見下ろしてくる。
「なにをしている」
 霞む視界の先、着衣の黒にも似た男の声に、郁也の背中が鳥肌立つ。
「答えないか」
 別の誰かの声と同時に、郁也の顔が仰向けに晒された。
 首に走った痛みに、新たな涙がにじみ出す。
 その歪む視界の先に、無表情に郁也を見つめる瞳があった。
 整えられた漆黒の髪を後ろに梳き流した秀でた額に嵌った鈍い黄金の額飾りの下、猛禽にも似た鋭い二つの目があった。それは、若くもなく老いてもいない、理想的な男性の容貌の中から、無表情に郁也を見下ろしていた。
 ただ黒い、いや、昏いものに倦みはてたようなまなざしが、郁也の視線を捉えた刹那、ふと揺らいだかに見えた。それは、誰にも捉えられることのない錯覚とも思える束の間のことではあったが、ほんのわずかな戦慄ではあったが、確かに男の心が小波立った証であった。
 もちろんのこと、男のまとう雰囲気に怯える郁也には、捉えることができないほどかすかな変化に過ぎなかった。
「その制服は、北の塔に詰めるものだな」
 男の示唆に、郁也を背後から縛める誰かの手が震えるのを郁也はかすかに感じていた。
「まだ若いな。十、四か、五といったところか?」
 鋼めいた鋭さをはらむ視線には、幾ばくかの暖かみも感じることはできない。
「答えないか」
 繰り返される強要に、
「じ、十七……」
 郁也は絞り出すように答えた。
「歳の割には幼いな。名はなんと言う」
 三たびの強要を恐れた郁也が、
「フミヤ」
と、口にした。
 その刹那に、郁也は頬に軽い衝撃を感じた。
「誑るか」
 衝撃に閉じた瞼をもたげた瞬間、郁也は後退さろうとして、ならなかった。
 目の前に、男の顔があったからだ。
 男の目が、先ほどとは違う何かを宿して、郁也を凝視していた。
 視線を逸らすことなど、できなかった。
「た、たばかってなんか………」
 それだけを口にするのさえ、やっとのことだった。
「なら、本名を答えよ」
 言っちゃ駄目だ。
 青ざめたメガンの顔が脳裏をよぎった。
 しかし。
 目の前の男の怖いほどのまなざしに、迫力に、逆らうことはできなかったのだ。
「イクヤ」
と、郁也は、ここに来て以来呼ばれることのない名を口にしていた。



 郁也が自分の名前を告げた時、後ろから彼を押さえつけている手が外れた。外れると同時に、鋭い悲鳴めいた叫びが空気を引き裂いた。
 振り向いた視線の先に、それまで郁也を押さえつけていた男の見開かれた瞳があった。
 青い二粒は、恐怖に震えながら郁也を見下ろしている。
 いや。
 忌まわしいものを見るような、見てはならないものを見るような、そんなまなざしだった。
 なんで………。
 わからなかった。
 そう。
 そんな目で見られる謂れなどない。
 どうしてだと、ただ見上げていた。
 凍りついた空気を砕いたのは、黒をまとった男の含み笑いだった。
 ゾッと、頭からぬるりとした生あたたかな何かを浴びせかけられたかのような不快な感覚が、郁也を捉えた。
「そうか。その名では、口にはできぬな」
 では、私もお前のことはフミヤと呼ぶことにしよう。
「?」
 男の真意を汲むことなど、この時の郁也にできるはずもない。
 何故、この、目の前にいる迫力のある男が、自分の名前を呼ぶ必要があるのか。
 金輪際会うこともないだろう、地位の高そうな男だというのに。
「ジリア。先ほどの名は忘れよ」
「ぎ、御意」
 ジリアと呼ばれた男が深く腰を折る。
「さて。フミヤ」
 全身の震えを堪えようと両手で自分自身を掻き抱いていた郁也は、男の声に全身を震わせた。
 強いまなざしに背けた顔を、無理矢理男に向けられた。
 顎を捉える男の手から有無を言わせない意志の強さを感じていた。
「我が名を告げるわけにはゆかぬが、我を恩と呼ぶことを許そう」
「王っ」
 ジリアの悲鳴が再び郁也の耳を射た。
「ご自身が何を仰られているのかっ」
「ジリア」
 静かな、それでいて有無を言わせさない鞭の一振りのような声音だった。
「も、申し訳ございません」
 王と呼ばれ、恩と呼べという男を、ただ、郁也は見上げる。
 何を言っているのか、恩のことばを理解するための情報が、郁也には欠けていた。
「わからない。と言う顔をしているな」
 クツクツと喉の奥で押し殺すような笑い声が、郁也を逆毛立たせる。
 粘つくような笑い声だ。
 しかし、郁也はそんな笑い声であれ、彼が笑ったことがどれほどの驚愕をジリアに与えているか、わずかも気づきはしなかった。
 王がどれほどの歳月を笑うことなく過ごしてきたのか、郁也が知るはずもなかったのだ。
 顎を、恩が引き上げようとする。
 地面に腰を落としていた郁也が膝立ちにならざるをえないほど強い力だった。
 眉間に痛みのために深い皺が寄せられる。
「男であり女である。まるで、反対だな」
 誰と?
 聞くよりも先に、驚きが立った。
 どうして、知っているんだろう。
 知っているのは、メガンだけなのに。
「お前のからだが完成されれば、私はお前を抱こう」
 揺るぎのない主張が、郁也を縛めた。
 それは決定であり、覆されることはないのだと。
「では」
 ジリアがすべての感情を押し殺し、
「ご側室さまにお部屋を準備致します」
 そう告げた。
 告げられたことばを理解した郁也は、そのまま、意識を手放した。
 もはや、すべては、郁也の手には負えないところまで追いやられたことを認識したための、現実逃避に過ぎなかった。
 それでも、それは、郁也に必要な休息でもあったのだ。




つづく



start 20:28 2010/10/10 (2010/09/29)
17:55 2010/12/12




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