呼ぶ声 5







 名前を呼ばれることはない。
 誰からも。
 名などないのだ。
 与えてもらえなかった。
 ただ、“王妃”と、呼ばれるだけだ。
 “王妃”
 形だけの。
 ただ、そこにあるだけの存在。
 悲しみはない。
 あるのは、胸に滾る、怒りだ。
 すべてに対する。
 欲しいと思う心だけだ。
 けれど、欲しいと思い手を伸ばしても、支配する存在のために、受け入れられることはない。
 “彼”がいるから、自分は“彼”の王妃であるから、手に入れることができないのだ。
 それを思えば、怒りが滾る。
 自分という存在に。
 “彼”という存在に。
 そうして。
 自分を受け入れることのない、すべてに。
 何もかもを呪っていた。
 受け入れないのなら、死ねばいい。
 滅べばいい。
 白く濁った灰色の瞳を見下ろしながら、王妃の赤く彩られたくちびるが笑みをかたどってゆく。
 ああ、これも、もう、死ぬのだ。
 結局、自分の手を一度として受け入れることのなかった騎士である。
 もう少し。
 もうしばらくの間命をつながせて、手を取らなかったことを後悔させたかったというのに。
 あれは、“彼”に奪われてしまった。
 あの、自分とは正反対の、両方の性を持つ存在。
 あれが苦しむさまも、楽しかった。
 なにも持たない自分とは違い、両方を兼ね備えたあれが、自分の命令になす術もなく翻弄され髪の色を無くしたと知った時、こみあげてきたのは、喜悦だったのだろう。
 暗い、闇の底に沈む喜悦だ。
 しかし、あれも、もう、無い。
 膝を曲げ、騎士の汚れた髪を掴んだ。
 うめき声とともに、口から血が滴り落ちる。
 その心地好い匂いに、王妃は目を細めた。
 絶望の死に瀕する者の流す血は、心地好い甘さを感じさせる。
 先の細い舌で、それを舐めとった。
 この甘さを、できる限り長持ちさせたかったのだ。
 なのに、あれは、“彼”に奪われた。
 “彼”の愛妾として、今頃は抱かれていることだろう。
 自分は、抱かれることなどないというのに。
 金輪際。
 ただの、名のみの“王妃”なのだ。
 子を生すことも、性の歓びも、知ることは無い。
 代わりのように、“彼”が自分に与えてくれるのは、壊す悦びだった。
 誰を殺そうと、何を潰そうと、“彼”が自分を罰することは無い。
 これまでも。
 これからも。
 心の奥底に渦巻く飢渇が何のゆえなのか、“王妃”は深く考えること無く、騎士の髪から手を離した。
 小さなうめき声が騎士の末期(まつご)と知りながら、“王妃”が屍となった騎士を顧みることは無かった。



 馴染んだ声が、郁也を目覚めさせた。
 泣きつかれて腫れた瞼が熱く重いような気がする。
 からだも、だるい。
 からだが内側から変わってしまったのだと、自分から流れ出る血の生温さに戦慄する。
 少し動くだけで、ぬるりとした感触が流れ出る。
 止める術は無く、ただ、布を幾重にも折り畳んだものをあてがうだけなのだ。
 イヤだと思った。
 自分は女ではないのだと。
 それなのに。
 新たな涙があふれだす。
「フミヤ」
「メガン…………」
 辛いのか。
 囁かれて、顔を伏せた。
 褐色の髪が、白いシーツにこぼれた。
 恩と名乗った男に命じられたと、髪は元に近い色に染められたのだ。
 あの日。
 気を失ったあの日のうちに、郁也はあの男の愛人へと祭り上げられた。そうして、そのまま、この部屋へと連れて来られたのだ。
 広く贅沢な部屋だった。
 孔雀石の床と天井に、アクセントとして繊細な細工の銀がふんだんに使われている。
 置かれた家具は褐色の組木細工で、これにもアクセントは銀細工が使われている。
 玄関のような前室と、応接間、居間に寝室、それに、メガンとマルカの部屋がついていた。
 それでも、居心地は良くない。
 シルクや毛織物にくるまりながら、心は休まらない。
 目が覚めた時、メガンとマルカが目の前にいた。
『王さまにフミヤにいちゃんの世話をするように言われたんだ』
 マルカの説明に、郁也は、怯えた。
 それはとりもなおさず、ふたりに知られているということだ。
 メガンの自分を見るまなざしが痛かった。
『からだが完成されれば、お前を抱く』
 あれは、つまり、この出血が止まれば、と、そういうことなのだ。
 なぜ、知っていたのか。
 王であると同時に神であるあの男にとって、知らないことは無いとでも言うのだろうか。
 自分のからだから流れ出す血が女である証だと思えば、嫌悪に引きつる。止まれと願う。
 しかし。
 それが終われば、女として扱われるのだ。止まらなければいいと、願う。
 あの男。
 恩が王であろうと神だろうと、いずれ訪れる未来に、絶望がこみあげてくるばかりだった。
 救いは、あれから一度として恩の顔を見ることがないということだ。
   それでも。
 こんな状況がいつまでも続くわけがない。
 遠からず、ことばの通りにされてしまうだろう。
 背中に、あたたかな掌の感触を感じた。
「逃げようか」
 小さな声だった。
 顔を上げた郁也の目の前に、メガンの真剣な顔があった。
「バカ言うな」
 首を横に振った。
「お前の方が、よくわかってるだろう」
 生まれてからずっとこの世界で暮らしているメガンの方が、王に関する虚実織り交ぜた噂をよく知っているはずなのだ。
「できるわけない」
「できるさ」
「できないよ」
「決めつけるなよっ!」
「決めつけるさっ! あれは人間じゃないんだろ、神だって話じゃないかっ。そんな訳の分からないものから逃げられるわけないだろう。そんな危ない橋、メガンやマルカに渡らせられるわけないじゃないか」
 叫べるだけ叫ぶと、郁也はベッドから起き上がった。
 それだけでも不快な感触が襲ってくるが、構ってなどいられない。
 寝室を出、居間の窓を開け放つ。
 窓の外には庭園が広がっている。
 美しい花が咲き乱れ、小振りな噴水からは水が沸き出し、噴水を拠点とする小川が円を描くように循環していた。小川に囲まれたささやかな空き地にはテーブルセットが据え置かれた四阿のようなものまである。
 のどかな風景に、しかし、不似合いな存在がある。
 窓から外に出るそぶりを見せた郁也の左右にふたりずつ、剣を腰に落とした騎士が片膝を地面についた姿勢のまま並んでいるのだ。
「これでも?」
 メガンが知らないはずはない。
 なのに逃げようという彼の心が嬉しくて、それでも逆に、痛くてならなかったのだ。
 逃げたらどうなるか。
 判っていても言わずにいられないメガンが、自分をどう思うのか。
 恩に抱かれた自分をどう見るのか。
 辛くてならなかった。
 助けられなかったと自分自身を責めるだろうメガンが、辛くて、そうしてほんの少し、鬱陶しくて、ならなかった。
 行き止まりだと。
 既に王手はかかっている。
 あとは、摘まれて、飲み込まれるだけなのだ。
 諦めてしまえば楽なのに、それができない自分が惨めで、それを許してくれないメガンが憎かった。
 泣き笑いの顔のまま見やるその先で、メガンもまた顔を引きつらせて項垂れた。
 四人の騎士が王直属の近衛の制服に身を包んでいることを、メガンは見て取ったのだった。




つづく



start 20:28 2010/10/10 (2010/09/29)
15:51 2011/01/03




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