半ば以上閉ざした恩の意識に、下座に控えるものたちのうちのひとりが奏上する声が届いてくる。
軽く瞼を閉じて片手を顎に乗せた姿は、まるで眠っているかのように見える。しかし、その場にいるものは誰ひとりとして、恩が彼らの言葉を聞いていることを疑ってはいなかった。
事実。奏上の声が止まるや、恩は鷹揚にうなづいた。そうして、顎を支える手とは逆の手を一振りする。奏上していた男が頭を下げて椅子に座ると、その隣に座る次のひとりが椅子から立ち上がった。
奏上されるものにうなづき手を振る。それをどれほどつづけただろう。
閉ざした意識はいつしか、過日側室へと召し上げた存在へと向かっていた。
「リ・クゥアか」
恩が思わずと言った風情で口角を持ち上げる。
禁忌の名を恩が口に上らせたことに、周囲の動きが止まったことを感た。
クツクツと、喉が震えた。
目を剥き青ざめたものたちが凝視してくるのに目を向け、
「どうした。もう終わりか」
と、恩が言う。
穏やかな口調ではあったが、見開かれた瞼の下から現れた瞳は暗い。
感情の感じられないまなざしに、凝りついた空気が動き出す。
恩がテーブルから持ち重りのする銀のゴブレットを取り上げた。赤い液体が、ゴブレットの中で緩慢に揺れている。
赤。
あの日、目の前の少年から立ちのぼったのは、甘い女の匂いだった。
北の塔で働いていると判る灰色の服をまとった白い髪をした少年。見た目は少年であるというのに、その周囲に燻り立つものは、紛うことなく女のそれだったのだ。
両性か。
かつて愛した古の神を恩は思い出していた。
種の違いからか、そこに存在していながら異なる次元の存在だったからなのか、男であり女でもあった愛した存在との間に子を生すことは適わなかった。
子なりといれば、世界も自分も違ってはいただろう。
しかし。
恩は自身の罪を理解していた。異界にあった古の神を殺したことが、彼の唯一にして最大の罪であるのだと。
あまつさえ、彼は、最後の古の神を自身の欲で汚した。
汚れも知らぬ両性の神を、抱いたのだ。
古の神は、穢れ、堕ちた。
恩は古の神を囲い、ただ愛した。
愛しつづけることこそが、古の神に対する贖罪だと恩は信じていたのだ。
そうして、いつしか、古の神を“神”と知る者は、恩以外には存在しなくなった。
なぜなら、王でありながら神である恩と同じ時の流れを生きるものは、神以外には存在しなかったからである。
この上ない存在だった。
ふたつとない、極上の、宝物。
しかし、存在は明らかに彼らの世界にあるものとは異質でしかなく、だから、ひとは、その異質な存在が彼らが崇める“神”の唯一であることを認めることができなくなったのだ。
ただ、神である恩にも神であったそれにも、ひとの心は理解できないものであったのだろう。
まるで親に見捨てられた子供のように、親の興味を惹こうと闇雲に泣きわめく子供のように、自分たち以外に向けられる恩のまなざしをひとは厭うようになったのだ。
嫌悪はいつしか憎しみへと変貌を遂げた。
良くも悪くも絶対の存在である神は、急激な変化を知らない。ゆるゆるとただ自然が我慢強くその形を変えてゆくかのような変貌しかしないのが、神である彼らの性質のひとつであった。ゆえに、ひとならぬ彼らに、それは伺い知ることのできない心の動きであったのだ。
蛋白石で飾られた淡く不思議な風合いの部屋で、異界の神はただ恩を待っていた。
異界の不思議な旋律で紡がれた神の名を、この世界のことばに直せば、“リ・クゥア”となった。
リ・クゥアと、愛する神の名を呼ぶ。
淡い花の色に染まる布に埋もれて眠っていた神が頭をもたげる。
同胞を失い世界を失い流した涙に琥珀の色は色褪せて、そうして血の色を宿すようになった。
しかし、それすらも恩には至上の宝珠としか思えなかった。
彼に仕える人間たちが何代も代替わりをしてゆくうちに、彼らの時間はどうしてもひととは同じには流れないのだという証のように、堕ちた神はゆるやかに変容を遂げていた。
恩に抱かれるようになって、異界の神はひとがましい存在へと変貌を遂げはじめたのだ。
すこしずつすこしずつ、ただ恩という存在にふさわしくあろうとするかのように。
その健気とさえ言える変容を、恩がどれほど愛しく思い愛でていたのか、知る者はといえば、リ・クゥアに仕えたほんのひとにぎりの人間だけだった。
苦痛に歪むまなざしは汚濁も残酷も知らないとでも言うかのように、美しい。
その一対の宝玉に盛り上がる透明なしずくが何故なのか、知らない振りをすることなど簡単だった。
慎ましやかなまろみを帯びた胸のふくらみが、双の性を持つのだと主張する下半身の象徴が、切なく震える。
それらを愛しみ、その名を呼ぶ。
悲しむことなどどこにもありはしないのだと、すべては自分の罪なのだと、囁いた。
そなたを欲した自分の罪なのだと。
あの日あの時、たまさかに迷い込んだ異界の存在にどれほど心を奪われただろう。
未だ神でなかった頃の幼い恩は、ただ一目で魅了されたのだ。
そうして、知った。
どうすればそれを手に入れることができるのか。
手に入れた後はどうなるのか。
神になりたくて手に入れたのではない。
愛して手に入れたから、神となったのだ。
古き神々を殺し、その血に濡れて、新たな神は世界を創造する。
いずれは、自分もまた、そうして殺されるのだろう。
しかし、そこに恐怖はなかった。
普遍の存在としてそこに只在りつづけることは、ひとが想像する以上に苦痛なことなのだ。
いつか訪れるだろう死は、神にとってはある種の救済ですらあるのだから。
だから、リ・クゥアから死を奪ったことに対する罪悪は常に恩を苦しめた。
それでも、どうすればこの愛しい存在を失うことができるだろう。
彼にだけ教えた真の名を、彼のやわらかな声音で紡がれることの悦びを、失うことなどできなかった。
つづく
16:27 2011/2/06 (2010/09/29)
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