ふつり。
ふつり。
こみあげて来る不快な思いを、王妃は噛み締める。
暗い赤で彩られた部屋の中、ひときわ印象的な白い花を花瓶から引き抜いた。
白。
自分は知らぬ、王の過去。
それでも、それがなくては、自分が創られることはなかったろう。
それだけは理解していた。
王の過去の傷が、自分を創ったのだ。
虚無を宿した王のまなざしが、王妃の最初の記憶だった。
「白はならぬ」
と。
王がつぶやいた。
白とつぶやくその声音の底に、何か得体の知れぬものを感じ、目覚めたばかりの王妃は全身を震わせた。
「お前がまとうは明け知らぬ闇の業火。我が心を炙る深淵の苦痛」
それを総て、おまえに贈ろう。
心のままに振る舞うがよい。それこそが我が志に適うと知れ。
王の苦痛が空白の心に流れ込んだ。
総て、負の感情だった。
王の慟哭、王の憎悪、王の絶望それらをもたらす飢渇と渇望と。
自然、王妃は理解する。
自分がうまれたのは、王の復讐のためなのだと。
自分が為すべきことは、ひとを苦痛のうちに殺すこと。
ただそれだけなのだと。
殺すだけ。
そうすれば、自分を創った存在はくちびるの端を少しだけ持ち上げて笑ってくれる。
黒いまなざしが自分を見てくれる。
それが何よりも嬉しかった。
それを、なによりも求めた。
だから、王より贈られた彼の思いに従いつづけた。
それがなくては自分が存在する意味などないと理解していた。
これがあるからこそ、自分は王の隣に存在しつづけることができるのだ。
それなのに。
王は、自分を見ることはない。
いつからそうなったのか。
思い出すことはできなかった。
そんなにも長く、王は自分を見なくなっていたのだ。
改めて気づいて、王妃は王の望みを思い返した。その心に沿うべく動いた。
なのに、王は、名ばかりとはいえ王妃である自分を見なかったのだ。
ギリギリと、心が何かに食まれてゆく。
何故だと、慟哭がほとばしった。
苛烈にひとを苛んで、それでも、心は癒えなかった。
見てほしいのだと。
心にかけてほしいのだと。
心は悲鳴を上げていた。
だから、王妃は、自分を見てくれる者を求めた。心の底から欲しいと願った。そうして、見つけたのだ。つねに王の傍らにあって、清廉潔白な、神王の騎士、近衛とも呼ばれる。欲しいと思ったのは王を見る心酔しきったそのまなざしのゆえだったろうか。そのまなざしが自分を見て、微笑んでくれれば。性別のない自分を受け入れてほしいと、そう思ったのだ。
けれど。
何一つ得られないのだと。
思い知らされた気がした。
『私は神王に忠誠を誓った身。神王妃であられるあなたさまのお手をとることはかないません』
なぜ?
一度でいい、受け入れてくれたなら、おそらくは、満たされただろう。
なのに、拒まれた。
理由は、彼の妃だから。
名ばかりの妃でしかないというのに。
例え誰を求めようと、受け入れようと、彼が自分とその相手を罰することはあり得ない。
涙を流すことをよしとはできなかった。
もとより、王の憎悪を引き受けた器である。いとも容易く、悲しみは憎悪へと変貌を遂げる。
王は、何とも思いはしないだろう。しかし、他の者たちは違う。
王妃の赤く彩られたくちびるが、ゆるやかに弧を描いてゆく。
野生の獣がその場にいれば、全身の毛を逆立てるだろう、壮絶な微笑だった。
王以外のなにものかが、彼が王妃に欲望を抱いていると知れば、どうなる?
クツクツと、王妃は嗤った。
涙を流しながら、嗤ったのだ。
それは、王妃が王以外にはじめて欲しいと思った存在への死の宣告に他ならなかった。
王のまなざしが向かう先を思う。
ふつり。
こみあげてくる不快な思いに、王妃の眉根が寄せられる。
この不快な感情はなになのか。
目の前の人間が、苦痛の叫びをあげ許しを請う。
ひとの関節のはずれる音に少し遅れて、悲鳴があがる。
しかし。
絶叫とともに耳に届くそれが、いつもの心地好さを王妃に感じさせることはなかった。
北の塔に詰める者の怖じ気を背に、王妃は塔を後にする。
一歩塔を出れば、外は、色とりどりの花が咲き乱れる。
鼻孔を満たす血と汗と恐怖の臭いを凌駕するほどの、甘い花の匂い。
見れば、傍らに、白い花。
この花が匂いの元凶かと、毟り取る。
甘い匂い。
甘い。
どこか、あれのまとう匂いに似ていた。
人間の怪我や病気を治せる者がいるという噂が耳に届いたのは、いつだったろう。
それはいい。
そう思った。
ただ殺すだけでは物足りないと、常々考えていたのだ。
どうすれば苦痛をより長引かせることができるのか。
その答えが、あった。
だから、招いたのだ。
北の塔で自分のために働かせようと。
それが、こうなるとは。
皮肉というべきか。
あれの膨らみつつある腹を思う。
憎い。
そう思った。
王の心が、変貌してゆく。
いつになく速い速度で。
自分の血を引く子と言う存在が、王をそう変えたのか。
ならば、自分が孕めば、王は、今度こそ自分を見てくれるだろうか。
しかし、自分には子を孕むことはできない。
性がないのだ。
あれとは正反対の意味で、自分は男でも女でもないのだ。
「ほしい」
王妃はつぶやいていた。
あれの腹の子がほしいのだと。
つづく
21:43 2011/09/18
HOME
MENU