呼ぶ声 13




 悲鳴は出なかった。
 足下が不意に撓んだような気がした。
 撓み、崩れ、崩落した穴から、無数の虫が涌いて出たのだ。
 原色の、グロテスクな虫だった。
 無足のぬらりとした虫、多足の長い触手を揺らめかせる虫、大きく尖った口を持つ虫。小さなそれでいて尻に棘を持つ虫。それらが、イクヤの脚を這い登ろうとした。
 それは、生理的な嫌悪だった。
 毒虫かもしれないと言う、恐怖でもあった。
 だから、イクヤは走ったのだ。
 虫はしつこくどこからでも涌いて出た。
 頭上の木々の梢から降って落ちる。
 逃げた。
 逃げて、逃げた。
 イクヤ自身は、かなりな距離を逃げたように感じていた。
 しかしその実、どれほどの距離を稼いでいたのだろう。
 気がつけば虫は消えていた。
 どこからでもまるで悪夢のように涌いて出たというのに。
 荒く苦しい息をなだめながら、滲む涙を拭ていた。
 地面に膝から下を付き、掌を押し付けて、肩を大きく喘がせる。
 途端鼻孔を満たしたのは、鉄さびて生臭いにおいだった。
 じっとりと湿った感触が、掌と膝下とを濡らしてゆく。
 暗い月明かりに、掌を染める黒い液体を凝視する。
 血だ。
 直感だった。
 途端こみあげる吐き気を堪える術をイクヤは持っていなかった。
「ようや外に出たか」
 嘲るトーンのある声に、イクヤは顔を上げることもできなかった。
 声の主を知っていた。
「我が主が守りのある部屋をようや出たか」
 伸びてくる白くたおやかな手が、イクヤの顔をなぞり、やがて腹部に触れる。
 その手首から先が、黒かった。
 ぬるりと不快な冷たさが、頬を伝い首を濡らした。
「この腹」
「子種を受け入れ、育み、生み出すことができる腹」
「っ!」
 腹部に、王妃の爪が食い込んだ。
 そのとき、底意地悪い暗い月が悪戯を仕掛けた。
 明瞭な光が、刹那王妃の背後を照らし出したのだ。
 刹那であったが、見開かれていたイクヤの視界を占めるのは簡単だった。
 引き攣れる。
 全身が震えた。
 おさまったはずの吐き気が、こみあげてくる。
 鼻孔を満たす臭気の原因が理解されたのだ。
 王妃の背後に山と積み上げられた黒い塊があった。
 臭気の原因は、それだった。
 塊は、下へ行くほど、醜魁なありさまを曝している。頂上には、へその緒も生々しい青白い胎児が赤黒く染まっていた。
 イクヤの視線に気づいたのか、王妃の赤いくちびるの端が持ち上がる。
「これか?」
 くつくつと嗤い、己の腹をさすった。
「役にも立たぬ我が腹には、どの子種も着床することはない。どの赤子も育まれることはない」
 そこでな。
 内緒話をするかのように、耳元にくちびるを寄せてくる。
「役にも立たぬこの腹とて、既に育まれた子ならば入ると、そう思うての」
 試したのよ。
 幾度もな。
「母体から引きずり出した胎児をな、ここからこう押し込んだものよ」
 王妃が自分の下腹を指し示した。
 そのあからさまな仕草に、イクヤは状況も忘れてうろたえた。
「だというのに、な。どれもこれもが、我が腹はイヤだと言いおるのよ」
 泣きながら、笑いながら、
「ぬしは良いよなぁ。我が主の子を孕むことができて。その子を、我にくりゃれや」
 その子であれば、我が腹でも育めようよ!
 言うなり王妃はイクヤの腹に両の手を突き立てた。


つづく



15:57 2012/01/01




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