「なんだ、これは」
背中の数カ所をやわらかく触れて来る指先に、全身が震えた。
決して罪悪感ではない。あのことで責められる謂れなどないのだ。そう自分に言い聞かせてみても、この男の自分に対する執着やら束縛やらを思い返せば、自然、怯えが現われる。
嫌だと思ってみても、逃げられないのだと、諦観が脳内を占拠する。
「こんなもの、いつできた」
訊ねてくるのは、黒い瞳が鋭い壮年の男だ。醜くもなければ、美しいというわけでもない。ただ、どこか現実離れしたような雰囲気をまとっているせいか、印象的ではある。
オレとの関係は、主と愛人ということになる。
そう。不本意なことに、ではあるが。
今、オレはというと、ベッドの上で、主である昇紘に服を脱がされていたところだったりする。
「だから、あれほど嫌がったというわけか」
ガラス越しの夜にも似た黒いまなざしが、オレを見てくる。その奥に静かにしかし確かに燃える熱を宿して。それは、あの男の野望に満ちたものとはあきらかに異なっていて、それでいて、オレを同様の不安へと陥れるのだ。
「誰のことを考えている」
オレの思考を読んだかのように、昇紘がオレの目を覗き込んでくる。
「わずか二日ばかりの私の不在のあいだ、おまえは何をしていた」
ばれないはずはない。
判っている。
おそらくは酷いことをされるだろう。
どれほど不可抗力だと説明しようと、昇紘以外の男に抱かれていたことは、事実だからだ。
その事実の前では、オレの説明など、ただの言い訳に過ぎなくなってしまう。
昇紘にとってはたったの二日間の出来事に過ぎない。しかし、オレにとっては、たった二日どころではなかった。気が焦るばかりの長い悪夢の日々だったのだ。
「昇紘」
オレは、彼の頬に手を伸ばした。
※ ※ ※
指折り数えるのも諦めた。
いつかのあの日と同じに。
ただひたすらに、笑いがこみあげてくる。
諦めに染まった、悪い笑いだ。
諦めることには、なれた。
そのはずだった。
そう、あの日。
見知らぬ世界に落とされたあの日。
オレは必要の無い存在だと、断定され、帰るすべさえないのだと、冷たく言い放たれたあの日。
食ってかかる気力もなく、ただ、オレは、へらりと笑っていた。
あとは、運を天に任せるしかないのだと、静謐で冷ややかな空間を追いやられた時でさえ、オレはすぐに諦めることができたのだ。
そうして、ことばも通じない見知らぬ世界で、食うものもなく、飢え死に寸前へと追いやられていたオレを昇紘が拾い上げてくれたあの時でさえ、オレは、何も信じてはいなかった。
信じることなどできなかったのだ。
事実、昇紘はオレにとっては危険人物だった。
衣食住、すべてを満たしてくれた存在であっても、危険な存在であることには変わりがなかった。
オレをこの世界に間違って呼び寄せた存在が、例えば自称した通りに真実“神”であったのだとするなら、昇紘は“悪魔”だろう。
この世界で最悪最強の“魔王”だった。
ただし。
その名にふさわしい歳月存在しつづけてきたという昇紘は、世界そのものに倦み果て、自らを世界そのものから切り離してしまっていた。
それでも、完璧に乖離してしまうことは不可能だった。
ただの傍観者には、なりきれなかった。
『魔物であれ、情はあるからな』
それでも、“王”であるからには、彼を頼るものが存在した。
かすかな絆をよりどころに頼り縋り、そうして、支えられる。
魔王であり魔物だというのに、相互の関係としては、最良じゃないかと思ってしまう。
『王と呼ばれ、ありとあらゆるものを搾取しながら、それでいて、私のほうこそ、真に彼らの奴隷に他ならない』
永劫のな。
そう苦い笑いを口角に刻みながら、それでも彼が縋りついてくる者たちに与えるのは、確実なご利益であるらしい。
二日の不在も、そのためだった。
そんなとき、オレは、彼が造り出した空間に残される。
そのときだけが、オレに与えられた自由な時間だった。
いつも、いかなる時も、オレは昇紘の抱き人形にほかならない。昇紘が好んで使う「愛人」なんてことばは、まだしも穏当な呼び方だとオレは思う。
拾われてすぐ、オレは抱かれた。そこにオレの意思は存在しなかった。いや。あった。ただひたすらの嫌悪と拒否が。それは今も変わらないけれど、それでも、のべつまくなしに肌を重ねていれば、嫌悪や恐怖以外になにやら情のようなものが涌いてくるのもまた、諾えはしないものの、やはり現実で。それを絆されていると言うのかもしれないなどとオレは考えてしまうのだ。
何故、昇紘がオレに執着するのか、オレには判らない。知りたいと思うものの、判ってもしかたないのかもしれない。所詮オレは、間違ってこの世界に落ちて来たのだから。手違いの果てにこの世界に存在するオレは、何の意味もありはしないのだ。そう。異世界召喚と言われて思いつく、剣と魔法のヒロイックファンタジーなど、夢のまた夢にほかならない。最初はオレも妄想したことがある。綺麗なお姉さんや、可愛らしい姫君を守って戦うヒーローであるオレを。しかし、異世界での現実の前で、夢想は粉々に砕けて散った。
なぜなら。
ある意味で、オレは身の程を知っていた。
オレはいたって普通のガキだ。
ちょっとした個性はあっても、誰とも変わらない。特別な力も、魔法の剣も、定められた宿命なども、なにひとつ持っていない。
元の世界のオレは、兼業農家の長男だった。両親も、オレと姉貴にふさわしく、ごく普通だった。住んでいたのは県名からすれば田舎だったけど、徒歩で高校に通えるていどの町でもあった。そこで普通に悪友たちとわいわいやりながら、将来はどうしようとか、それ以前に大学を受けるかとか、受けるならどこにするかとか、そんなことを考えていた、ほんっとうにどこにでもいるガキだった。こんな自分自身など、どんなに狂った悪夢の中でも、考えたことはなかった。
それなのに。
何故、こんな。
心の奥深くに押し込めたはずの繰り言が、閉ざした扉をこじ開ける。
苦しい。
辛い。
帰りたい。
もう嫌だ。
叫び出しそうになる。
それは、再びの転移に遭遇したからだろう。
何故。
どうして。
間違いだと。
不要な存在だと。
そう断じられたオレが、何故、再び見知らぬ世界に立っているのか。
ああ、そうか。オレが不要な存在だからか。だから、遂に、自称”神“とやらに、あの世界からも追い出されたのかもしれない。昇紘がいない時を見計らって。
全身を、寒気が襲った。
それは、恐怖と、喪失をともなったものだった。
空を見上げる。
あの大きな赤い月。
禍々しいまでに血肉の色をたたえた赤い月が、昇紘不在の夜にオレを見下ろしていた。
そうして、気がつけば、オレは、立っていた。
空気すらも異なって感じる、異世界に。
※ ※ ※
赤く大きな月が、不穏なまでにオレを見下ろしていた。
過去に戻ったような錯覚に、目の前が揺らいだ。
そんな気がした。
月の色に似た、鉄臭い匂いが鼻孔を満たす。
そんな気がした。
顔を雲間に隠した月が、再び顔を出す。
近くの木立がざわめいた。
現われたのは、乱れた着衣も痛々しい、浅黒い肌の女性たちだった。
剥き出しの肌のあちこちに血がにじむ。
彼女たちの乱れて荒い息が、まるで風を巻き起こしているかのようだった。
怯えた表情で、オレを見て立ち尽くす。
何が起きているのか。
複数の馬蹄の音と低い恫喝の声に、予想がついた。
オレの背中が逆毛立つ。
「逃げよう」
オレは近い方の女性の手首を掴んだ。
逃げる場所など思いつくわけもないが、逃げないわけにはいかない。
そうだろう?
わけは判らないが、彼女たちが追いかけられているのは判る。
でもって、彼女たちが悪人で、追いかけて来る方が善玉だなんて、考えられるはずもない。
男って、そう言うもんだと、オレは思う。
そう、オレだって、男だし。
綺麗なおねーさんたちが実は悪人なんて、咄嗟に思い浮かぶはずがない。
そうして、どうにか追っ手から逃げ切った後、オレは、オレの想像が正解だったことを知ったのだ。
よかった。
逆だったら、目も当てられないよな。いや、それはそれで、ある種のロマンかもしれないけど。
ともあれ、追っ手をまいて、今度はオレが彼女たちに案内された。
そこは小さな日干しレンガ造りの小屋だった。
その二階の一室で、彼女は彼女たちを待っていた三人の男女に紹介されたのだ。
「ミーシャとリーシャを助けてくださって、ありがとうございます」
旅の踊り子とその仲間だと自己紹介されたけど、そんな雰囲気には少しも思えなかった。ふたりの女性に、三人はとても丁寧で、それは、昇紘に対する魔物の態度を思い出させるものだったからだ。
ああ、訳ありなんだと、鈍いオレでもピンときた。でも、オレは突っ込まなかった。何故って、三人がオレを警戒してるって感じたからだ。おそらくそこに触れたら殺される、もしくは、それに近い目に合うと、警鐘が鳴ったからだ。
「私はライ、これは弟のアダ、彼女はマーヤと言います。貴方は?」
「お、オレは、郁也イク。呼びにくいようなら好きに呼んでください」
そうしてオレは、彼らの一行に加えてもらった。
音楽も踊りも、オレは芸なしに近い。
歌を歌うのはまぁ嫌いじゃないが、人並みだ。音痴じゃないとは思ってるが、そこそこ。それに、この世界の歌詩は、韻を踏んだ複雑なもので、メロディ自体どこか中近東風のあまり馴染みないものだったから、歌えるようになるのに案外時間が必要だった。それに合わせて踊りを踊るとなると、もうひとつ時間が必要で、オレは普段使わない筋肉を酷使する踊りに四苦八苦する羽目になったんだ。
そう。
オレは旅の仲間に入れてもらうのに、ただでというわけにもいかないだろうから、できることにチャレンジすることにしたんだった。
そこそこ踊って歌えるようになると、オレは舞台に引きずり上げられた。
ミーシャとリーシャの後ろ、所謂バックダンサーってやつだったけど、妙に受けたらしい。それは、オレの肌の色が関係してたようだ。この世界の人間は浅黒い肌というのが一般的で日本人であるオレの黄色味がかった肌色というのは珍しいと教えられた。
で、いつしかオレはソロまでやらされるようになってしまった。
下手だと思うんだけどな。
ま、それでも収入の幾ばくかになるわけだと思うと、嫌だというわけにもいかないだろ。一応は、オレも仲間だし。
うん。一応……だ。訳ありの訳なんか軽々しくは教えてもらえないからな。そのへんのボーダーラインはしっかり引かれてたし、オレはそれを踏み越えるつもりはなかった。
それが気楽だったし、オレ自身いつどうなるのか判らないって不安もあったからだ。
今まで必死だったから、あまり考えはしなかったけど、慣れてくると、不安に襲われる。
今度もオレは帰れないのか。
どうなるのか。
あまりにも寄る辺がなさすぎる状態に、恐怖を覚えずにはいられないのだ。
状況的には、昇紘に拾われる前までよりもよっぽどマシだと判ってはいても、怖いことには変わらない。
それには、今回は、ことばに不自由しないという不思議があげられる。
だって、そうだろう?
オレは別にことばを覚えた訳じゃない。
普通に日本語を喋っているつもりなんだ。
それなのに、通じる。
あちらでは通じなかったのに、だ。
この違いが、不安の原因だった。
「どうした?」
ふたりが顔を覗き込んでくる。
「べつにっ」
顔を背けた。
そんなオレの頭を、ふたりは軽くなだめるように叩いてくれた。
ぱちぱちと薪が音をたてて燃えている。
なにも会話のない夜。
とても深い闇の中で、オレの不安は少しずつ心の奥へと沈んで行ったのだった。
「イクは上達したな」
片頬を歪めるようにして不意に笑ったのは、ライだった。
女性陣は簡素な箱形の馬車で既に眠っているだろう。薪の周囲に陣取って男たちだけで何となく夜更かしをしていた時のことだ。
「たしかに。もう立派な稼ぎ手だしな」
ゆるくドレープをたくさん入れた布越しに見える鍛えられて均整のとれたライとアダの肢体に、オレは見とれた。ボディビルダー風な筋肉のつき方じゃなく、実践的というのか、実用的な筋肉のつき方だ。ああだったら、きっと、オレは今のオレじゃなかったんだろうなぁ、なんて、無い物ねだりをしながら、褒めてくるふたりに照れて笑い返した。
「オレなんか、まるっきり即席なんだけどなぁ。それにどうせ、この肌の色のせいで物珍しいだけだと思うけど」
「下手にイクの肌を染めなくてよかった」
にやりと笑うアダに、
「どうせ」
上目遣いでふくれてみせた。
男がやっても可愛くはないだろうから、わざとだったりする。
嫌がらせだ。
「拗ねるな。妙な気分になってくる」
「なんだよそれ」
豪放に笑いながら、ライが頭を撫でてくる。
「肌の色のせいだけじゃないんだよな、イクショの人気って」
「おまえ、妙な色気があるからなぁ」
しみじみとふたりに全身を見られると、ぞくりと全身が粟立った。それは、決して気分のいいものじゃない。あっちじゃ毎日ってくらい感じてた、不快感だった。
「なんというか、無垢な花を無理矢理散らしたくなるような嗜虐的な気分になるというか」
「虐めたくなるというか」
「それ、嬉しくないから。しかも、花ってなんだよ、無垢な花って。男に言って楽しいか?」
「それなりに?」
「そうそう、それも人気のうちだからなぁ」
あっけらかんと言われて、オレは脱力した。
「けど、ひとりになるのは止めとけよ。誰に押し倒されるかわからんからな」
「そうそう。俺たちか、ミーシャやリーシャと一緒にいるといい」
「おふたりと一緒にいるなら、マーヤが守ってくれるさ。彼女は俺たちと同じくらい強いからな」
「たいていの男なら、彼女には適わない」
一応は慰めてくれているんだと思うと、そんなふたりに、何となく、胸があたたかくなってきた。
衣食住を一緒にしはじめてみれば、最初のころの生真面目な印象を拭い去ってしまうくらい、ふたりはなんというか、かなり砕けたタイプだった。
彼らの砕けた雰囲気が見せかけというわけではないだろうが、それでも、彼らはそれだけじゃない。最初に感じた、隠された何か、それは決してオレの錯覚と言うわけではないだろう。そうしてそれは、おそらく、この世界にとってかなり重要なことに違いない。そんなことにオレが関わったとて、何ができるだろう。オレは、無用の存在なのだ。あちらでそうだったオレが、こちらに必要だなどということはないに違いない。
オレは決してその一線を越えないと、みんなの邪魔になるようなことはしないと、決心していた。
けれど。
この世界は、ずいぶんと荒んでいる。
旅をしていると、それがよくわかる。
十年近く前の内乱の時に、皇帝はその座を追われ家族もろとも弑逆された。
内乱を起こした神の代理人と言われる神官長が権力を握り、世界をよりよくしようと粛正をくり返している。
そういう話だった。
よりよくしようという姿勢はいいと思う。けれど、良いと定められた決まりに抵触すれば粛正を受けるとなれば、それはどう考えても独裁というヤツだろう。
昇紘とは違う。
あいつは、魔物たちがなにをしようと、基本締めつけなかった。興味がないわけではないらしいが、永い生に倦み果てて、彼らから一線を画したのだ。だからといって、見捨てたわけではない。オレにいわせれば、間違いとはいえオレを巻き込んだあげく責任も取らずに捨てた、あの自称“神”よりもよほど神らしい。オレにとっての神ではないが、少なくとも、魔物たちにとっては、そうに違いない。
ともあれ。
戒律戒律戒律と、きゅうきゅうに締めつけられたひとたちが、疲れきった心とからだを癒すために、オレたちの一座でささやかなひとときを過ごすのだった。
旅芸人にも、戒律が押し付けられていた。
女性が肌を露出した踊りは駄目だとか、神を讃える歌や踊り以外は演目としては禁止されていた。
それでも、人々は、娯楽と癒しを求める。
夜間家を出ることができるのは、基本、成年に達した男とその妻だけだったが。
※ ※ ※
その夜のバックダンサーはミーシャとリーシャのふたりだった。
一行は田舎から都市部へと登っているようだった。
ライとアダが弦楽器と笛を奏でている。
そろそろ、神都が近いらしい。
神の慈悲を讃える歌をマーヤが歌っている。
神に仕える神官長が支配しているから、帝都から、神都へと呼び名を改めたそうだが。
静かな旋律が篝火に照らされた夜の闇にただよう。
神都に近づくにつれて、ミーシャとリーシャはバックに回り、表に出ることはなくなった。おかげですっかりオレが花形みたいになっている。オレなんか、素人に毛が生えたていどだと、誰よりもオレ自身が自覚してるんだがな。
そんなことを言ったら、ライとアダは、そんなことはないと言ってくれはしたが。
それこそ、そんなことはないだろうに。
けれど、きっとこれは、彼らの事情なんだろう。
知りたくもない。
巻き込まれたくも。
そんなことがオレに起こるはずもない。
そう思いながらも、そうは言っていられないかもしれない。そんなイヤな予感を薄々とはいえ、感じているオレがいた。
オレは、急ごしらえの舞台の上で、手足につけた鈴を鳴らしながら踊っていた。
肌の露出のない舞台衣装は、さらしのような布を巻き付けた上半身にほのかな色彩を引いた薄物のくるぶしまでもある布を幾重にも巻き付け刺繍のしてある帯で縛るもので、女性が着ればおそらくは下手な半裸よりも色っぽいような気がしないでもない。そのうえ、胸元と頭とに紅の造花をつけられて首には銀のチョーカーをつけられている。溜め息を吐かずにいられなかったが、少しずつ慣れてきてもいた。
まるで女の子のようなと羞恥を感じはするが、この世界にしてもあの世界にしても、男もくるぶし丈の裾の服を着るのが通常だったし、神に捧げる踊りに花はつきものだというから、郷に入っては郷に従うしかない。
それにしても、と、思う。
あっちで魔王の愛人だったオレが、神に捧げる踊りなんぞを踊っていても良いものなのか。
首を傾げてしまうが、これといって罰が当たるわけでもないので、かまわないのだろう。
鈴が鳴る。
篝火がはためくたびに、オレの影が、長く短く揺れる。
観客の誰ひとりとして、声を出さない。
食い入るようなまなざしが、オレに絡み付く。
いつものことだったが、昨夜ライとアダとにいわれたことが頭をよぎって、少しばかり不快になる。
なんでだろう。
オレのどこに色気があるのか。
たとえあるのだとして、それが有効なのが女性にであればまだしも、なぜ、男性限定なのか。
嫌だ。
踊りに対する集中力が切れてきていた。
ああ。
これはみんなに注意されるな。
そう思い集中力を立て直そうとする。
ただでさえ素人踊りだというのに、これで金を取るのは、癒しを求めてきているひとたちに申し訳ない。
そんなことを考えた時だった。
怒号と悲鳴とがオレの耳に届いた。
動きが止まる。
気がつけば、曲も歌も止んでいた。
ぴりぴりと緊張した空気の中、篝火がはためく。
「神殿騎士だ」
だれかがつぶやいた。
「神官長よりの布礼である」
舞台の上に上がってきた神殿騎士が巻物をオレの前で解く。
刹那、香油のかおりがただよった。
このかおり。
ねっとりと絡み付くような、動物性の匂いに、閉じていた願望が疼きだす。
オレの視界が、歪む。
カエリタイ。
帰りたい。
ドコヘ?
どこへ。
ずっと、家に帰りたかった。
けれど、家といって、今、咄嗟に頭をよぎった光景に、目眩をおぼえずにはいられなかった。
どこへ帰りたいのか。
それが、誰のところなのか。
脳裏をよぎった面影に、地面が撓んだような気がした。
ああそうか。
そうなのか。
すっかり感化されてしまっている自分に、オレは、泣きたいような笑いたいような心地になった。
その時。
「なにを突っ立っている。礼をとらぬか」
肩を硬いもので叩かれた。
アダがオレの肩を抱くようにして、舞台の床に両膝をつかせた。
「申し訳ございません。これは緊張しているのです」
ライの声が聞こえた。
咳払いのすぐ後、騎士が巻物を読みはじめた。
※ ※ ※
頬を張られて気がついた。
気を失っていたらしい。
「ショ……」
と、あいつの名前をくちにしかけて、もう一度強く頬を叩かれた。
「誰の名を呼ぶつもりだったのだ。この淫乱な踊り子風情が」
灰色の冷たい瞳がオレを見下ろしていた。
「私の寵を得たからといって、勘違いするな。おまえのいのちなど、私のひとことで簡単に消える。その時には、わかっていよう」
判っている。
この粘りつくようなまなざしの持ち主は、簡単に、ライたちを殺してしまうだろう。
復讐を胸にイレギュラーなオレを加えたりして、ようやくここまでたどりついた彼らを、恨む気はない。
そう。お約束的に。
薄々感じていたから知りたくなかったんだ。けど、知っちまった。
彼らは、十年前の弑逆を免れた、帝王の血縁者だった。ミーシャとリーシャが帝王の姪たちで、ライとアダが帝王の従兄弟なんだそうだ。マーヤは、彼らの乳兄弟になるらしい。
彼らの身元はまだばれてはいないけど、神都に来たことで水面下で動き出した彼らを見てるとそれも時間の問題じゃないかって気がしてきて、気が気じゃない。
オレのほうが彼らを巻き込んだみたいな形に、罪悪感がこみ上げてくる。
言ってしまえば、オレの素人芸は神官長の耳に届くくらい有名になっていたらしい。
なんでよと、あまりにも思いがけない成り行きに巻物を読んでた騎士に詰め寄らなかった自分を褒めてやりたい。いや、きっとできなかったとは思うけど。
あの日の布礼は、召喚状というか招待状だったんだ。
白亜に金銀の神殿の豪華な舞台の上で、オレは踊った。
薔薇窓みたいなステンドグラスを通して降り注ぐ色とりどりの日射しが、舞台衣装の純白の薄物を色とりどりに染め上げていたらしい。
それがやけになまめいて見えたと、後でライが言っていたけれど、そんな感想なんかいらない。
神に仕える神官長がそれを理由にオレを押し倒すって現実は、もっといらない。
銀色の髪と灰色の目をした神官長は、その外見から一見現実離れして見えたが、その両目を覗き込めば、ぎらぎらとした燃え滾る欲望を見出すことができた。それは、神に仕えるものにはあまりにもふさわしくない光だった。
どうして、誰も、こいつの本性に気づかないんだ。
そう思った。
外見が現実離れした美形だからなのだろうか。
神々しいほどに俗世には感心ありませんと言う風情を漂わせながら、その実瞳の奥の野望はギラギラと萌え滾っている。
だれよりも残虐で残酷で俗にまみれた欲を持ったこの男の本性を知るのは、今はオレだけなのか。
こいつは、オレを抱いた。
色欲自体を戒めながら、神殿で高位の役職にあるものたちは、性を解消するための相手を踊り子と称して囲っていた。
神自体に夢も希望も持っていないオレは、嗤うだけだった。どこの世界にもあることだ。生臭坊主とか。
けど、そんなことを言っていられたのは、オレが神官長に手を出されるまでのことだった。
男色を禁じることばを口にするそのくちびるでオレにキスをした。
噛みつくような深く激しいくちづけだった。
どんなに拒んでも、昇紘から離されて時間が経つオレの欲を煽るのには充分なものだったんだ。
そう。
自覚はなかったが、オレは、餓えていた。
どんなに拒もうと、オレは、とっくに昇紘との関係に慣らされていたのだと、思い知らされた。
嫌悪と恐怖しか感じないとのその思いが、オレの昇紘に対する最後の抵抗だったのだと、その時になって知った。
昇紘のいない世界で。
あまりに遅すぎる自覚に、オレは、泣きたいような笑いたいような、複雑な感情にとらわれたんだ。
オレってなんでこうなんだろうな。
頑固で、自分の心に気がつくのが遅すぎる。
昇紘はいない。
帰れないのだろう。
多分。
あいつにとってオレは抱き人形にすぎないから、探すこともしないだろう。
もう会うこともないんだ。
そう思うと、また、馴染んだ諦めが、オレの心を覆っていったんだ。
抵抗をすべて封じられた荒々しい相手本位のセックスを強いられる苦痛が勝った行為の最中に、オレの心は凝りついた。
どうでもいい。
いや、違う。
ライたちの役に立つのなら、こんなオレのからだなんか、神官長にくれてやる。
どうせもうあいつには会うことはない。
神官長の視線を復讐の下ごしらえをしている彼らから逸らせることができるなら、それでいい。
名前も知らない銀の髪の美貌の男の愛人に、オレは身を落とした。
表向きは神への供物を捧げる踊り子として、その実、神官長の相手として、オレは白亜の神殿の奥に囲われたのだ。
ライたちは、オレが逃げないための人質だった。
けど、実際は、オレこそが彼らの人質だったのかもしれない。
毎日のように神への供物を捧げた後、オレは神殿の舞台裏で背徳的な行為に耽る。
耽らされる。
男は自制することもなくオレを引きずり倒す。
それまで神聖な踊りを行っていた場所と壁一枚隔てただけの場所で、淫らな行いをしかけてくる。
強いられる。
誰にも見られたくないあられもない行為の数々に、オレは必死で声を噛む。
それを喉で嘲笑いながら、銀の髪の男は、自身の欲を解放する。
諦めたはずなのに、そんなときは、思いやりのひとつもない行為に感じてしまう自分自身に自己嫌悪がこみあげてくる。
涙が出る。
ずたずたに引き裂かれた踊りの衣装を握り噛み締めながら、目を閉じる。
ほのかに香る匂いだけが、あいつを連想させるからだ。
けれど、それは、逆に、男とあいつの違いを際立たせた。
「誰のことを思い出している」
頬を張られ、見開いた瞳の先でオレを見る灰色のまなざしが、そこに宿るいつもと違った光だけが、不思議とあいつと重なるような気がした。
「このていどでは満足できないと言うつもりか」
ならば。
嘯くように独り後ちたことばとともに、野蛮な色が男の秀麗な顔を醜く覆い尽くしてゆく。
オレの全身から血の気が引く。
恐怖に、全身が震えた。
※ ※ ※
オレがただ男に嬲られている間、ライたちは着実に不満の種を集めていた。
神都に暮らすものほど、内心に鬱屈したものをかかえている。
それは、身近に神殿の腐敗を感じることができるからだろう。
たとえ建前を取り繕ってはいても、にじみでるものがあるのだろう。
表が綺麗であればあるほど、その裏側に隠された醜いものは、滲みだし際立つ。
そう。
オレが、神官長に醜悪さを感じるように。
すこしずつすこしずつ、神官長が整えようとしていた偽善的な世界は軋みをあげはじめていた。
※ ※ ※
食いしばったくちびるが呻きを漏らす。
下から突き上げられて、気が狂ってしまいそうだ。
まるでオレの心を読んだかのように、
「狂え」
神官長のことばに、涙が、ほとばしる。
縋る名を口にしようとして、ならなかった。
それすら許さないと、男が動きをより激しいものにしたからだ。
裏切りつづけて、どれほどになるのか。
彼を。
昇紘を。
一年なのか、二年なのか。それとも、もっと長い間なのか。
ライとアダが、少し前にオレにささやいた。
もう少しの辛抱です―――と。
神官長の愛人として、もう少し我慢していてほしい。
男の意識を他に向けないように、溺れさせていてほしい。
関係のない君に、最も辛い役目を押し付けて申し訳ない―――と。
辛そうな視線を、彼らはオレに向けた。
それだけだ。
彼らは、もう、オレの人質ではない。
オレが彼らの人質でもない。
すべては男の知らない間に逆転したのだ。
今となっては、神官長こそが、人質だった。
すべからく、神の名を騙り人々を欺いた対価を払わされるまでの。
神殿は、孤立していた。
怒れる人々に包囲され、神殿騎士より高位の神官たちは、神殿に篭城していた。
部下たちに名を呼ばれ、縋られ、しかし、男の耳を目を、オレは、塞ぐ。
聞かなくていい。
見なくていい。
オレだけを見ていろ。
オレの声だけを聞いていろ。
愚かで哀れな、神の使い。
欺いた人々に偽りの仮面を剥がされるまで、おまえに許されているのは、オレに溺れることだけだ。
背中が大きく反り返るのは、苦痛か快感か、もはや判らない。
熱い。
痛い。
苦しい。
……虚しい。
欲は満たされても、望むものは、これではないのだ。
これは、違う。
これでは、ない。
オレが愛しているのは、彼では、ない。
オレが欲しいのは、この男ではないのだ。
「私を見ないか」
掠れた声が、汗にしとどに濡れた全身が、オレを詰る。
オレの口から悲鳴が、上がった。
※ ※ ※
すべては急転直下の出来事だった。
「誰だっ」
誰何の声を無視して、扉が開かれた。
生温く澱んだ空気が、追いやられる。
入ってきた誰かが、息を呑む。
そうだろう。
情報と現実とは違う。
清廉潔白にして冷徹な神官長が、男を腹の上に乗せているのだ。そんなシーンなど、誰が見たいと思うだろう。
「堕落の使徒よ」
オレは、そのことばとともに、顔も知らない誰かに、殺された。
生理的な涙があふれる視界に、驚愕した顔で強張り付く灰色の瞳を見た。
引き立てられてゆく男の大きく開いたくちびるが、はじめて、オレの名を呼ぶのを見たと思った。
※ ※ ※
悲鳴と歓声とが混じり合う空間に、オレは突っ伏していた。
意識は朦朧となり、視界は白く滲んでいる。
そうだよな。
ただ、口角が皮肉に持ち上がってゆく。
新たな支配者の誕生に、オレのような者が関与していたとは、知られたくないことだろう。
神官長を誑かして、野望と現実から彼の目を背けさせた者など。
新たな世界は、朝日と朝露とに洗われた穢れのない支配者の元で。
そう願うものだろう。
汚れ役は、闇に葬れ。
特にオレのような、身元不確かな者となれば、後腐れもない。
そうでないなら、支配者ではないのだろう。
おそらく。
オレの存在を生かすことは、新たな世界の支配者になるだろうミーシャやリーシャ、それにそのどちらかの伴侶になるだろうライとアダにとって、抜けない棘になると、誰かが判断したのかもしれない。
遠い潮騒のように、ひとの気配が消えてゆく。
最後まで名前を知らないままだったあの男の灰色の目が、懐かしい黒い瞳と重なった。
記憶の底で。
対照的な二つのまなざしが、それでも、オレに向けられる時には同じ光を宿すことを、オレは気づいていた。
それは、多分、執着。
愛情などではないだろう。
オレは、彼らが、ただの快楽を得るための道具にすぎないのだから。
だから、ここで、こうして、死んでゆこうとしている。
誰にも見とられることなく。
「ショ………」
あいつの名前を最後に呼ぼうとして、こみあげてきたのは、鉄臭い血の塊だった。
脇腹と背中とを突き刺され、放置されたオレを待ち受けているのは、死しかありえない。
ああ、もう、死ぬんだ。
所詮オレは、これだけの存在。
利用され、打ち捨てられる。
不要だと、見捨てられる。
それだけの、無様な。
笑えるよな。
最期の最後、オレはただあいつのことだけを思っていたかった。
なのに。
誰もいなくなったこの部屋に、青白い光が差したんだ。
ぼんやりとした青白い光は、まるで蝶のようにひらひらと舞い、目を閉じようとしていたオレのすぐ前に降りてきた。
そうして。
気がつけばそれは人の姿をとって、オレの傷口に手をかざした。
痛い。
灼けるように熱い。
なにをするんだと非難しようと見上げたオレの視界の先で、男とも女とも見えるそいつは、ただ痛ましそうにオレを見下ろしていた。
かたちよいくちびるが、何かことばを紡ぐ。
しかし、もう、オレには、それを理解する気力は残っていなかった。
オレの意識は、やっと、闇に落ちることができたのだった。
巻き込んで済まなかった。
それがそう言ったのだと、理解できたのは、次に目覚める一瞬前のことだった。
※ ※ ※
「昇紘」
懐かしい、黒いまなざし。
これが夢でもかまわない。
彼の頬に伸ばした手は、掴まれた。
「なにを泣いている」
オレは、泣いているのか。
言われて気づいた。
そうか。
好きだと自覚して以来、ずっと会うことができなかった相手だ。
「愛してる」
不思議なほど簡単に告白することができた。
黒い。
闇のように黒い、ガラスを一枚隔てた夜の底のように黒い、そんなまなざしが、オレを凝視する。
「なにをされてもかまわない。覚悟はできている」
もう二度と会えないだろうと、覚悟を決めていた。
だから。
だから。
「ごめん」
おまえのいないどこか別の世界で、長い間、オレは、おまえ以外の男の愛人だった。
オレのことばに、昇紘は目を見開いた。
ここに帰ることができて、もう一度顔を見ることができて、オレは幸せだ。
たとえ、どんなに酷いことをされようと、かまわない。
殺されても、恨まない。
もう一度殺されるのは、本当はとても怖いけれど、あんたに殺されるのなら、本望だ。
そう言って、オレは、目を閉じた。
だから、昇紘がどんな目でオレを見ていたかなんて、知らない。
その後、昇紘がどうしてオレを酷く扱わなかったのかも、判らない。
ただ、あの日まで昇紘と暮らしていたのと同じ毎日に戻っただけだった。
目を閉じた後に、昇紘がつぶやいた言葉の意味だけが、いつまでもオレの耳に残っていた。
「馬鹿が」
終わり
start 22:06 2012/02/12 to 17:30 2012/03/05
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