Elixir Vegetal



 薄暗い室内を、外からの陽射しが、照らしている。
 天井に近い箇所に作られた、換気用の小さな窓から、外に生えている植物越しの光がふりそそぐ。
 光は、ガラス製らしい、巨大な円筒形の容器を、薄闇の中に照らし出す。
 他には壁際に木製の棚とテーブルがあるだけの、広い部屋である。
 透明な容器の中では、ひとりの少女が、眠りを貪っていた。
 こぽこぽと音たてて泡が湧き上がっている液体の中、直接の陽射しを知らない白い肌は、青くさえ見える。
 長い銅色あかがねいろの髪が、少女のまろやかなからだのまわりで、ゆらめいていた。
 肌の白と髪の赤とのコントラストは、強烈で、どこか、この光景を、現実味のない不確かなものへと変えてしまっていた。
 音をたてて、黒い鉄の扉が開かれた。
 衣擦れの音を響かせながら、男がひとり、入ってきた。
 紫紺に金糸で刺繍をほどこした丈の長い着衣の裾が、惜しげもなく床を掃く。
 テーブルの上に、手にしていた濃い緑の布を置いた男が、少女を振り返った。
「憐れな」
 ガラスに掌を押し当て、男が、つぶやいた。
 精悍な表情が、かすかに歪んだ。
 王都に男の兄が放蕩の挙げ句に死んだとの報告が届いたのは、昨夜のことだった。
 替え馬も煩わしいと思いながら都から馬を飛ばして、故郷の荘園に着いたのは今朝方だった。
 兄との別れも慌しく、伴侶も跡継ぎも作らず急逝した兄の後を継がされたのだ。そんな男に、息もつかせず父親の代から仕える男が、ささやいたひとことが、男を、離れの地下へと寄越したのである。
「まさか、兄上がこのようなことに耽溺なさっておられようとは」
 神をも恐れぬ所業………と、男は、天井を仰いだ。
 コツン。
 男の秀でた額が、ガラスに当たった。
 と、深い眠りにあった少女の透けるような瞼が、動いた。
 かすかな振動に眠りを破られたのか、薄い瞼の下、眼球がかすかに動く。
 もたげられた瞼の下に現われたのは、緑柱石よりなお色濃い一対の瞳だった。
 いまだなにものにも汚されていない、二粒の貴石めいた瞳が、戸惑うように、揺らいだ。
 不思議そうに、少女は自らの両手を見、全身を見下ろす。顔のまわりに漂う髪の毛を見、そうして、無垢なまなざしが、男を捉えた。
 何かが、男の視界の隅を過ぎる。
 訝しく思った男が顔を上げた。
 男の、紫紺の瞳が、大きく見開かれてゆく。
 ガラス一枚を隔てて、緑のまなざしが、男を見つめていた。
 少女が、ふわりと、笑う。
 その瞬間だった。
 少女の無垢な笑顔が、男の心を、捕らえた。
 男の瞼から、涙が、あふれる。削げた頬を伝い、雫は、足元をかすかに濡らして消えた。
「時が満ちたのか」
 男の震えることばに、少女が首を傾げた。
 容器の下に設けられていた排液用の栓を開く。たちまち、床に穿たれた溝からあふれんばかりの勢いで、液体が流れ出てゆく。
 少女を抱いていた液体がなくなってゆく。はじめて触れる乾いた空気と自分の重さとに、少女は蹲り、喉を押さえて震えている。
 男は、反対側にあった容器の蓋を開き、少女を、抱え上げた。
 テーブルの上に乗せ、背中をさすると、少女の口から、こもった音をたてて、液体があふれ出した。
 咳きこむ音が、しばし、地下室に響いた。
 少女を緑の布で手早く包み、衣擦れの音をたてて、壁際の棚へと近づく。
 革装丁の本を手早く開き、男が、なにごとか反芻する。
 棚の中を漁る、硬いもの同士が触れ合う音がした。
 小皿の上の小指の先ほどの白い塊に、小指ほどもないガラス容器から何かを数滴落とした。
 かすかな刺激臭と、芳しい薬草の香が、男の鼻腔をくすぐった。
 じわりと、透明な液体が、白い塊に染みてゆく。
 少女は、喘いでいた。
「口に含みなさい。少しずつ溶けてゆきますから」
 薄く開いているくちびるに、湿った塊を、押し当てた。
 ひんやりとした刺激の後にくる熱に、少女が、藻掻く。
「エリクシル - ヴェジタルはあなたに、ひとの命を約束するものです」
 このまま、溶けてゆくのにまかせたほうがあなたのためかもしれませんが。
 人さし指で、男は、白い塊を、少女の口腔へ押し込んだ。
 塊が溶けてゆくのだろう。
 嫌がっていた少女が、ぼんやりと、男を見上げた。
「甘いでしょう。砂糖ですから。まだ欲しいですか?」
 口を開ける少女に、喉の奥で笑いながら、男は別の塊を、少女の口元へと運んだ。
 少女は、それが何か知らぬままに、口にする。
 やがて、霊薬を染み込ませた最後の欠片を口にすると、少女は、糸が切れたように頽おれた。
「あなたをどうすればいいのでしょう」  乱れた長い髪を手櫛で一本に梳き集め、男は、やわらかくささやいた。
「私があなたを、守りましょう」
 この世界にとどめた責任を取って。
 男は少女を抱き上げると、地下室を後にした。
 鉄の扉の立てる音が、しばらくの間地下に響いていた。


from 20:21 2006/01/10
to 20:54 2006/01/10
◇ メモ & いろいろ ◇
 え〜と、突発も突発です。郁也くんの生まれた日――から派生した、桓x陽パラレルです。
 育ちのいい坊ちゃん桓堆将軍になってしまったような………。本来ヘビーな話ですが、切り取って軽く。
 少しでも楽しんでいただけると嬉しいですが。


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