艶体詩 1
「行くぞ」
「えっ」
帰ってきた男はネクタイを引き抜きざま、オレの手を引いた。
そのまま車に乗せられて、オレは、男の本宅だという豪勢な屋敷に連れ込まれた。
男はオレの手を掴んだまま屋敷の奥へとずんずんと進んでゆく。
奥の部屋の縁側から庭に降りる。
やがてオレの鼻腔を満たしたのは、甘い花の匂いだった。
むせかえるばかりの香が、オレを眩惑する。
男のわなにかけられてからはじめての外の空気だと、気づくまでに時間がかかったのもしかたがない。
男がどういう素性なのか、実を言うとオレにはいまだにわかっていない。
やくざの上のほうの人間だろうと最初は思っていたが、どうも、違うような気がするのだ。
その素性のわからない男に、なぜなのか、オレは、囲われている。
ほんの少し前まではその辺にごろごろ転がっているだけのただの高校生だったオレが、だ。言っておくが、オレは別に女っぽくもなければ、なよなよしてるわけでもないし、乙女系でもない。よっぽどがんばらなければ目立つこともない、そんなタイプだ。
そんなタイプのオレを、この男――籍は、悪魔のような陳腐な手法で、自分に縛りつけたんだ。
家族を人質にとられては、オレはこいつから逃げることすらできやしない。
籍家の本宅は、豪邸だ。
あいつが仕事用に持ってる別宅だって、めちゃくちゃ豪勢だけど、規模が違う。
なんでなんだか、へんに中国っぽい造りの家で、落ち着かないんだ。
まぁ、落ち着かない原因の一つは、オレが置かれてる状況っていうのもあるんだろうけど。
かなりな間、オレはぼんやりしてたんだろう。
「どうした」
背後の高いところから声が降ってきて、オレは我に返ったんだ。
「なんでもない」
首を振ったオレの耳に、かすかに、何かが折れた音が届いた。
「そら」
無造作な声がして目の前に差し出されたのは、白と紫の星型をした小花がたわわに花ひらいた一枝だった。
オレは女じゃない――んだけどなぁ。
こいつにとっては、オレは似たようなもんか。
肩を落として受け取ったときだった。
ほんと、受け取ってすぐだ。
目の前がくらんで、頭の置くがへしゃげるような、こころもとなさを感じたんだ。
最近外に出てなかったしな。貧血だったんだろう。
その場にへたり込みそうになったオレの脇と腹に、あいつの腕が絡みつくのを感じた。
そうして、オレは意識を失くしたんだ。
「奥さま。ああ、たいへん。誰か、奥さまが………」
鈴を転がすような声だった。
「ですからお散歩などまだ無理です――と」
涼やかな男の声だった。
くらむ目を眇めて見上げると、心配そうにオレを見下ろしているまなざしがあった。
きれいに撫で上げた前髪の下に、秀でて白い額がある。
弓なりの眉、ほんの少し上がり気味の、切れ長の瞳は、黒い。
眉目秀麗という言葉が脳裏をよぎって、消えた。
―――誰だこいつ?
いぶかしむオレに、
「失礼を」
と言いざま、男はオレを掬い上げるようにして抱き上げたんだ。
いわゆるお姫さま抱っこというやつに、オレは慌てた。
「遠医師っ」
オレの口が勝手に動いて、知るはずのない男の名を呼んでいた。
オレの口から出たのは、かすれて小さな音だった。
「しばらくごしんぼうなさってください」
穏やかな声に、オレは、なぜだろう、ひどく安らいだ気分になって、目を閉じていた。
鼻腔を満たす甘い花の香が、そうさせたのだろうか。
遠医師の歩調に合わせて、オレはゆらゆらと揺れる。
なぜだろう。
オレはとても泣きたくてたまらくなった。
いつまでも、こうしていたくてならなくて。
オレは遠医師の胸に、そっと顔を伏せた。
遠医師の鼓動がせわしないものに変わった気がして、オレはそっと遠医師を見上げた。
遠医師の白皙が、首まで赤く染まっている。
「遠医師?」
呼びかけたときだった。
「奥さま。旦那さまが」
鈴のような声に、
「私が運ぼう」
かぶさるのは、太く威厳のある声音だった。
とたん、オレの全身が大きく震える。
襲い掛かってくるのは、恐怖だった。
オレは、振り向くことさえできない。
遠医師にしがみつくことはかろうじて堪えていた。
そんなことをすればどうなるのか――――――本能的に予測がついていた。
「さあ」
背後の男の気配が濃密になる。
逆らうなと、頭の中に赤いランプが点滅を繰り返す。
わかっている。
けど。
からだを返させられて、痛みが走ったような気がした。
からだをちぢこめる。
「奥さま」
鈴の音が高く鳴る。
「まだ治っていないのか」
得心顔をして、黒く鋭い視線がオレを貫いた。
オレのことを人形のように扱う男の威厳に満ちたまなざしの奥に、厭な光を見て、オレの震えがいっそう小刻みなものとなる。
「ゆ、ゆるしてください」
悲鳴じみた叫びは、男の目の奥の光のせいだ。
あれを見た後に、ろくなことがあったためしはない。
このからだの痛みも、このぶざまなオレの形も。
すべて、この男の逆鱗に触れたからだ。
ひらひらと金魚のように揺れる長い袖がめくれ上がり、細く白くなってしまった腕が、剥き出しになる。
はしたないもなにもありはしない。
第一、オレは、男だから。
どんなにきらびやかな女物の衣装や飾りをまとっていても、白や赤の化粧に顔を彩られていても、たとえ足を金の刺繍をした赤い小さな沓に押し込められているとしても、オレは男なのだ。
よみがえるのは、この男にからだを変えられた時のことだ。
もうこれ以上痛みを感じたくはない。
よちよちと、他人の手を借りなければ歩くことすらおぼつかなくされた足も、高い声がでるようにといじられた喉も。腰を細くと、肋骨を折られたことも。それが、まだ、癒えきっていないことも。すべて。
そうして、なによりも、男に抱かれる胸の痛みを―――
「今激しく動かれては、治るものも治らなくなります」
と、遠医師のとりなしに、心の乱れを感じたのは、気のせいなのか。
「―――――そうか。気をつけることにしよう」
遠医師が静かにオレを男の腕に移動させる。
男の腕に抱かれて、オレの鼓動が激しく乱れた。
オレの脇に痛みが走った。
鼓動が熱く乱れる。
脂汗を流しているオレを、男は憮然と眺めていた。
オレは、男だ。
少なくとも、まだ。
痛む箇所をかばいながら、男の脚の間にいる。
気まぐれで肋骨を何本か折られたうえに、手術で取り除かれたときを思えば、何だってできるだろう。
女のようなしなやかにくびれた胴を作りたいのだと、笑った男の獣じみた顔がどれだけ恐ろしいものだったか。
けれど、それより前に、逃げたとき。連れ戻されたオレを待っていた仕置きだという処置に比べれば、それでも、あれは、ましではあったのだ。
「女の小さな足のようになれば、諦めるか」
嘯くような声に孕まれていた昏い熱が、男がいつもオレに向ける感情のほとんどすべてだった。
最初、男の言ったことがオレにはわからなかった。
オレを捕らえた男たちに両腕を左右からつかまれたまま、オレは阿呆みたいに男を見上げていたんだ。
背筋のそそけるような音を立てて、男が長剣を引き抜いたときも、殺されるのだと尻込みしていた。
男に殺されるのだと。
まだそのほうがましだったろう。
そう。
女が逃げないように、子どもの時分に小さな足を作る纏足という風習があるのを、オレだって知っている。
オレの国にはなかったことだけに、その処置の後に悪い風をもらって、女の子のうちのどれだけかは耐え切れずに死んでしまうということを聞いて、信じられないって、ぞっと震えたものだ。
違う民族でよかったとか、女の子じゃなくてよかったとか、思ったもんだ。
なのに。
まさか。
男の狙いが、オレの足なのだと知って、男が振りかぶった剣を信じられない思いでオレは見上げていた。
つづく
start 13:40 2009/06/16
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