艶体詩 完
「連れて行け」
「遠医師っ」
必死でオレは遠医師に手を伸ばした。
その手を、片手に剣を持ったままで将軍が掴んだ。
途端喉の奥からほとばしりでた悲鳴に、
「おまえはっ」
将軍の眉間に深い皺が刻まれた。
遠医師は後ろ手に両手を捻りあげられて、どこかにつれて行かれようとしている。
遠医師の黒い瞳が、彼がオレの視界から消えるまで、オレを見ていた。ことばなくまなざしに秘められているものは、絶望ではあっても、オレに対する恨みではなかった。それどころかまだ、オレを気遣うかのようだった。何も返してやれなかったオレを、彼はただ、オレのこれからを心配しているのだ。
遠医師のくちびるが、言葉を紡ぐ。
ただひとこと。
愛しています――と。
オレに優しくしてくれたひとだ。オレのことを愛しているといってくれた。行き止まりなのを知っていながら、一緒に逃げようと手を差し伸べてくれた。
オレも―――。
答えようとして、かなわなかった。
遠医師を追っていた首を、将軍が無理やり自分のほうへと向かせたのだ。
涙がながれた。
震える喉が、声をへんな風に揺らがせるだろう。
それでも、
「こ、殺さないでっ。お、おねがいです。遠医師をっ」
やっとのことでそれだけを口にしたとき、オレは、自分が間違いを犯したことに気づいた。
「そうか。自分のことよりも、遠のことが気がかりなのか」
力をなくしたようなその独白が、オレの耳に奇妙なほど大きく響いた。
そんな気がした。
シャラリ―――と、金属が触れ合わされるような音がして、右手の剣が柄の中に戻される。
右手が、オレの首を撫であげた。
「いやだ」
顔を上向かされて、噛み付くようなくちびるが落ちてきた。
深く貪るばかりの激しさに、将軍の怒りと苛立ちとが感じられた。
違う。
こんなくちづけを望んだのじゃない。
オレが望んだのは、遠医師の、おそらくはやさしいに違いないくちづけだった。
そのくちびるの感触を知ることもなく、ただ、彼の想いとその手の震えをだけしか、オレは知らないままだ。
やがて逸れたくちびるが、オレの耳の付け根に移った。
首を振る。
振りつづけるオレに、
「遠の手足を断って壺に活けてやろうか」
「どうしてっ。オレを殺せばすむことじゃないか」
「このあたりにその壺を据え置いて、私に抱かれるおまえを死ぬまで見せつづけてやろうか」
喉の奥で笑いながらの残酷なことばに、オレの血が下がる。
将軍の肩に手で縋りつくようにしながら、床の上に膝をつく。
「オレを殺せよ。殺したらいいじゃないかっ。だから、それだけは、遠医師を罰するのは」
最後まで将軍は言わさなかった。
オレの頬で、鋭い平手が爆ぜたんだ。
後ろざまに倒れたオレを、将軍は髪を鷲掴んで引きずった。
脳震盪を起こして青暗い視界が、ぼやける。
自分の体が自分のものではないような、変な感覚があった。
痛みは痛みとしてあるのに、どこか他人事のような感じで、オレはただ将軍のなすがままだった。
そのままオレは、寝床に引きずり上げられた。
ぼんやりとただ天井を見上げているだけのオレの着衣をはだけてゆく。
なぜなんだろう。
涙が止まらない。
裏切った奴隷なんか、殺してしまえばいいじゃないか。
これまでだってそうしてきたんだろう。
いつかの女たちの会話が頭を過ぎる。
遠医師を殺さないで。
遠医師だけは殺さないで。
遠医師だけを殺さないで。
遠医師を殺すなら、オレも、殺せ。
遠医師の手足を断つなら、オレのを断てばいい。
これまでだって、散々オレの体を変えてきたんだ。
もう、どうだっていい。
好きにすればいいんだ。
オレを女に変えてしまいたいというなら、変えればいい。
どうせ、オレなんか、ただ息をしているというだけの人形なんだから。
将軍がオレを貫く。
その衝撃に、全身が震える。
痛みも、見も世もない快感も、どこか遠いことのように感じられた。
ただ、乱暴に揺さぶられて、しつこいと、わずらわしいと思うだけだった。
ただ、涙がながれるだけだった。
不意に将軍の動きが止んだ。
オレの体の中で、何かがはじけた。
オレを貫いたままで、将軍がオレを抱き上げる。
自分も起き上がり、その膝の上にオレを抱き上げた。
背後から抱きかかえられたままのオレの耳元で、
「遠の名を呼ぶのは止めろ」
そんなことをいう。
「私がこんなにもお前のことを愛しているというのになぜ、おまえは少しも私のことを見ようとしないのだ」
今更そんなことをいわれても、そんなことオレは知らない。
「私を見ろ」
体勢を変えられた。
肩をつかんで揺さぶられた。
ただ、オレは、将軍が言うように、遠医師を呼びつづけているらしかった。
遠医師。
ごめんなさい。
ありがとう。
愛していると言ってくれて、ありがとう。
誰かを愛せて嬉しかったんだ。ほんとうに。
あなたを助けられなくて、ごめんなさい。
あなたを殺してしまうオレを許してくれとは言えないけど、それでも、ごめん。
「テルム」
愛しています。
遠医師。
刹那、
「ぐっ」
喉を絞められる苦しさに、オレは、手を泳がせた。
目を見開いた。
鋭い黒いまなざしが、オレを見ている。
いこった炭のような赤い光が、瞳の奥でちろちろと揺れている。
「いいだろう」
低い声だった。
そこまでおまえが私を無視するというのなら、望みどおりおまえを殺してやろう。
オレは笑ったに違いない。
「ただし―――殺すのはおまえだけだ。死んだ後も、おまえに自由はないものと思い知るがいい」
将軍の最後の一言は気になったけど、遠医師が殺されないのならそれでいいと、オレは思ったんだ。
オレは、笑いながら死ぬことができた。
喉を絞められるのは苦しかったけど、遠医師が生きているのならそれでいいと、オレはそれだけを強く考えた。
そうして、オレは死んだ――――――はずだった。
なのに、どうしてオレは、ここにこうしているんだろう。
オレが見ているのは、オレだった。
オレだったものが、ぐつぐつと滾る鍋の中で煮溶かされてゆく。
大きな鍋の横に、青黒い顔をした将軍が佇んでいる。
その手に玩んでいるものが、オレの髪だと、オレにはわかった。
髪の束はなにかの呪いを施してあるらしい。
それが、オレをここに引き止めているのだ。
どうせなら、遠医師が無事かどうか確かめたかった。
死んだ後も自由はないと思い知れと、将軍が言ったとおり、オレには自由はなかった。
「テルム」
将軍のくちびるがオレの名前を口ずさむ。
「愛している」
生きていたときに一度も聞いたことがない切ない声で、手の中のオレの髪にくちづける。
そのさまだけを見ていると、憐憫を覚えそうな光景だった。
可哀想にと。
けれど、オレは、オレのくちびるが嗤いをかたどってゆくのを止めることができなかった。
苦しめばいい。
苦しんで苦しんで、狂ってしまえばいい。
オレも苦しんだんだ。
遠医師だって。
だから、オレは、将軍を許さない。
死んだ後までオレを縛る将軍を、絶対に許してなんかやらない。
オレは、煮溶けたオレの骸が大鍋から取り出され、残った骨が砕かれてゆくのを将軍の傍らから見ていた。
足の甲の半分近くと、左右の肋骨の幾本かが足りないオレの骨が砕かれる。
砕かれて細かい粉状になったオレの骨が土に混ぜられて、最終的に壺がひとつ作られるのを、オレはただ見ていたんだ。
白い壺になったオレの骨は将軍の寝室に置かれた。
将軍がオレであった壺を撫でさすり語りかける。
将軍は狂ったのに違いないと、気味悪がって侍女たちがひとりまたひとりと屋敷を出てゆこうとするのを、家礼が必死になって止めている。
そんな将軍の傍らに立ちつづけて、オレのくちびるはいつしか嗤いを失っていた。
口角がしだいに下がってゆく。
なぜ――――と。
オレをその手で殺しておきながらそんなになるというのなら、なぜ。
生きていたあいだにひとことでいい、優しい言葉のひとつでもかけてくれていたのなら。
心が弱っていたオレのこと。
容易く、将軍に惹かれてしまったことだろう。
あんなにも酷いことをされていても、それでも、将軍に縋ってしまっただろう。
愛していると泣いたかもしれない。
それほどまでに、オレの心は弱りきっていたというのに。
―――――蕭将軍。
聞こえない声で、将軍に語りかけてみる。
酒を呷るようにして飲む将軍の傍らで、しずかに、喋ってみるのだった。
戦装束の将軍が、オレであった壺を砕いた。
大き目の欠片をひとつ取り上げると、オレの髪とともに皮袋に収め首からつるした。
出陣した将軍が、再びこの屋敷に戻ることはなかった。
将軍は、この国の最後を見ることなく戦に散った。
日々の深酒がからだを弱らせていたのだろう。
将軍の最後はあっけないほどのものだった。
そうして、将軍の首級があげられた時、ようやくオレは将軍から自由になれたのだ。
呪いの施された髪は戦火に溶け消え、壺の欠片は戦靴に砕かれた。
髪が火に焼かれた時、施されていた呪いも消え、オレもまた、この世から消え去ることができたのだ。
「大丈夫か」
耳に馴染んだ声なのに、これまで聞いたことのないトーンだなぁと、暢気に思った。
目を開けると、まだ少し薄らぐらい視界いっぱいに、男の顔があった。
前髪を掻きあげられる。
首を少し左右に振って、何度か目をしばたかせてみる。
―――似ている。
夢の中の男に。
そうしてもうひとり、西夫人と呼ばれた少年が自分に似ていたと、思い出す。
「まさか…………」
声がひずんでいるのが自分でもわかるくらいだった。
「寝ぼけているのか」
幾何学模様の螺鈿細工の天井が眩暈を誘う。
オレはもういちど首を左右に振った。
「ここは?」
「本宅だ」
無造作に言われて、オレは周囲を見渡した。
円形の出入り口の外には、長い夢の前に手折られた小さな星のような花がたくさん咲いている。
うっすらと藤色がかったような空の色は、確かに、これまでオレがいたところでは見たことがないものだ。
上半身をベッドの上に起こして、オレは、蕭の顔を正面から見た。
似ていた。
瞳の中にあるものこそ違うものの、端整な顔、鋭い目つき、黒い髪、夢の中の将軍そっくりだった。
オレは、震えながら籍の頬に手を伸ばした。
「蕭―――将軍?」
怖いと思った。
それでも、確かめずにはいられなかった。
籍がひとつゆっくりと瞬きをすると、
「今生でおまえを見つけたとき、私がどれほど歓喜したか、おまえは知るまい」
と、遠まわしな肯定は穏やかだった。
そうして、
「懐かしいだろう、テルム。いや、西夫人」
籍は楽しそうにそうつづけた。
おわり
start 13:40 2009/06/16
end 09:17 2009 08 01
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