ああ、お使いの虎か。
 上弦の月の薄い光にかすかに照らされた庭に現われたのは、一頭の虎だ。
 ここは、仙人になろうと修行中の道士が集まる山の中の古い屋敷だ。
 十日に一度くらいの割合で、堂にこもる道士たちの中の一人が選ばれて、仙人の世界からの使いだという虎に連れられてゆく。
 オレは、ぼんやりと、虎を見ていた。
 本当は、見ちゃいけないんだろう。
 ここにいるのは、他人とか些細なことにはあまり興味のない、修行に夢中な道士たちがほとんどなので、お使いの虎が来たって、あまり騒がない。
 どちらかっつうと、彼らの邪魔をしないように、彼らが迎えにやってくる深夜には、自分の部屋で息を殺している。
 そりゃあ、多分、内心は自分が選ばれなかったことに不満はあったりするんだろうけど。それを表に現すんじゃ、修行不足っていうもんだろ?
 あ、と、ちなみにオレは、道士じゃない。
 ここで修行中の道士に拾われた、孤児というか―――拾われたとき十五くらいだったから、孤児っていうのも変か―――家なしだ。多分、住んでた村が強盗か何かに襲われて、それで逃げて行き倒れたんだと思うんだ。――多分思うっていうのは、オレ、道士に拾われた時からしか記憶がないからだ。まぁ、別段困ることはないんで、へらへらしてるけどな。
 仙人修行とはいったって、道士たちも飯くらいは必要だろ。だから、飯炊きとか掃除とか、こまごました雑用をここでやってる。やりだして、まだ、二年くらいだけどな、オレも雨風しのげるし飯に困らないので、助かってる。
 足るのを知るっていうのが、大事だよな。やっぱり。
 今日の晩飯の片づけをしてオレが寝ようと厨房から出たときだったんだ、虎を見つけたのは。どれくらいの時間虎を見てただろう、そんなに長い間じゃなかっただろう。けど、虎はオレの気配を感じたらしい。
 ささやかな月の光を受けて、虎の瞳が、妖しい緑に輝いた。
 ぞわり――と、背中が粟立つ。
 仙界からの使いだっていうことは、聖なる虎なんだよな。なのに、なんで、こんなに怖いんだ。ぞっとする。なんだか、からだが芯から震えてくるのを止めることができない。
 視線を外すこともできなくて、オレは、ただ、緑に燃えるような虎の目を見返していた。
「なにをしているんだね」
 その道士がオレに声をかけるまで、ただ、オレは見てた。
 その道士が、オレは、苦手だった。
 そりゃあ、この道士がオレを見つけて助けてくれた道士なんだけど。
 けど、なんか、ダメなんだ。
 この道士が近くに来るだけで、背中が強張りつく。
 黒々とした目で高い位置から見下ろされるだけで、膝が笑うのがわかるんだ。
 この道士といるときに感じるのは、まるで、あの虎に間近から見下ろされてるみたいな、恐怖のようなものだった。
「ああ。お使いの虎を見ていたのか。失礼に当たるから、あまり見るべきものじゃない」
 さあ、と、道士の手がオレの背中にあてられた。
 それだけで、オレは、震えた。
 クッ――と、道士が喉の奥で笑ったような気配があった。
「私が怖いのか」
 ―――ここに集った道士共よりも、おまえのほうがいっそ………。
「えっ?」
 聞き逃した言葉に首を傾げたオレの顎に、道士の手がかかる。
 月の光が、道士の瞳を、ありえない色に染め上げた。
 井戸の水を頭からぶっ掛けられたような気分だ。
 背筋が引き攣れる。
 それまでの震えが、いっそう激しくなった。
 なのに、肉食獣に魅入られた獲物のように抗うことすら忘れて、オレは、そのまま、道士のくちびるを受けたのだ。
 触れては離れるくちびるが、深く浅く、幾度となく。
 道士の舌が、ぬるりとオレの口の中に入ってきたとき、オレのからだのどこか奥深いところに走ったのは、熱い痛みだった。
 喰われる。
 痛みから連想したのか。
 それとも。
 オレのくちびるを吸っている道士が、いつしか虎へと変貌を遂げたような錯覚にオレは、やっと、抵抗することを思い出したのだ。

 翌朝のオレは、寝床から這い出すことすらできなくて、どうしようもない有様でへたれていた。

 そんなオレに道士は食い物を持ってきてくれたが、顔を見ることすらオレにはできなかったんだ。
 そうだろう?
 あんな、めちゃくちゃやった相手に今更――だ。
 声もかすれて出せないし、動くのも苦痛だ。
 なのに、道士は、オレの首筋に顔を寄せてきやがった。
 ぞろりと舐め上げられた時、オレは、痛みを感じて、震えた。
 道士の舌が、猫の舌みたいに、ささくれてるように感じたんだ。
 だから、オレは、からだが悲惨なことになってるっていうのも忘れて、逃げを打った。
 次の瞬間にオレに襲い掛かってきた痛みに、すぐに寝床でうずくまる羽目になったけどな。
 その時には、道士の舌のことなんか、忘れてた。
 なんでこんなヤツが道士なんだとか、そんなことも、もう、頭の中にはなかった。
 うずくまるオレの背中にのしかかってくる道士の重みに、全身がすくみ上がるばかりだったんだ。

 なんでこんなことに。
 オレは、もう、ぐだぐだだった。
 掃除や洗濯それに料理、オレの仕事である雑用をこなしているときに、あいつが視界の隅を横切ろうもんなら、オレは、その場で金縛りになった。
 オレがあいつを怖がってるのを知っていて、あいつはオレを無視する。
 けど。
 夜。
 全部の仕事を終えた後のオレのところに、あいつは、決まってやってくるんだ。
 オレの頭は、真っ白になる。
 からだは、動けなくなる。
 そんなオレを、あいつは、情け容赦なく、抱く。
 どんなに拒絶しても、どんなに泣き喚いても、あいつは、やめやしない。
 翌朝のオレは、ふらふらで。
 でも、やっぱ、仕事はあるし。
 休んだら、仕事は増えて、自分がしんどくなるわけだし。
 毎日、オレは、必死で、雑用をこなしつづけた。
 けど、人間、限界ってあるじゃないか。
 いくら衣食住に困らないっていったって、あいつの相手をさせられるのは苦痛でしかなくて。辛いだけで、怖いだけで、オレはどうにかなりそうだったんだ。
 だから、その夜、オレは、山を下りる決意をしたんだ。
 きっかけ?
 そんなもん、ない。
 ただ、もう、これ以上は堪えられない。
 それだけだった。
 その夜は、道士の一人が仙人に選ばれた夜だったから、いつもは外で修行をしてる道士も誰も自分の部屋から出ない。
 そりゃあ、別に雇われてるわけじゃないから、オレが出て行くのも残るのも、結局は自由なんだけどさ。けど、こんな夜じゃないと、あいつに見つかっちまいそうな気がしたんだ。そうしたらオレがどうなるか。あいつが、オレをどうするか。そんなこと、想像したくもない。
 とにかくこの機会を逃がしたら、また、次まで我慢しなきゃなんない。
 考えるだけでも寒気がする。
 給金はなかったけど、頼まれごとをこなすとなんやかんやくれる物があったから、それを布で包んでさ、オレは、屋敷を後にしたんだ。

 今夜の月は、満月だ。
 暗い夜の山道を歩くオレの足元を照らしてくれるけど、簡単に見つかりそうでびくびくする。
 一応、明かりは持ってるんだ。でも、これも、不安材料で。だって、そうだろ? 誰かが追っかけてきたら、これ、目印にしかなんない。かといって、火がないと、さ、獣に襲われたとき、困るし。散々悩んだんだ。
 静まり返った空気が、時折、乱される。
 そのたびに、頭から冷水をぶっかけられるような感覚で肝を冷やしながら、オレは、あてどなく歩いた。
「うわっ」
 フクロウが、梢から飛び上がる羽音で、オレは、まじで、魂消るほど驚いた。
 足元に転がった明かりの火が、大きく燃えて消えた。
 胸を押さえて、深呼吸を数度。
 変わって、オレは、耳が痛くなるほどの静寂に取り囲まれた――ような気がした。
 耳を澄ませば、聞きたくないような音を聞いてしまいそうな、それくらいの、静けさだ。
 治まった心臓が、また、焦る。
 なにかの悲鳴を聞いたような気がしたからだ。
 なにか――いや、人間の―――だろうか。
 厭だ。
 オレはそう思うのに、そう思って脂汗すら流してるっていうのに、足は、勝手に、悲鳴がしたかもしれない方向へと向かってく。
 なんでよ。
 逃げようよ。
 逃げてる途中だろ、オレ。
 なのに、どう言っても、足が、勝手に、動くんだ。
 顔が、泣きそうなほど歪んでるのが、自分でもわかった。

 木々の間を抜けてくと、とつぜん、木が一本も生えていないところが現れた。
 月の光に照らし出されて、見て取れるものがある。
 岩棚とでも言うのか。
 広場みたいだった。
 そこに、なにか、生き物がいる。
 それも、一頭や二頭なんかじゃない。
 はぁはぁという荒い息。
 ぐるるという、喉鳴り。
 ぴちゃぴちゃとがりがりと、水分の多い何かを食べているような、生々しいばかりの、音。
 合間にか細く、悲鳴が、聞こえる。
 獲物は、まだ、生きてる。
 冴えた月の光が、憐れな生き物に降り注いだ。
 っ!
 朔道士……だ……………。
 途端、全身が、震えだした。
 朔道士は、今日、仙に選ばれて、お使いの虎を待っていた。
 お使いの虎………。
 ああ。
 朔道士を食べているのは、間違いなく、虎だ。
 虎。
 もしかして。
 イヤな予感が、脳裏を過ぎる。
 過ぎり消えることなく、確信へと変化する。
 今まで、選ばれた道士たちは、全員!
 喰われたんだ。
 見つかったら、きっと、オレなんか、すぐに捕まっちまう。
 どうしよう。
 逃げないと。
 なのに、焦れば焦るだけ、足が笑うんだ。
 血が下がるような気さえする。
 それでも無理やり一歩下がろうとして、オレは、その場に尻餅をついた。
 ああっ。
 小さな悲鳴すら出てさ。
 もうだめだ。
 だって、な。
 ほら、あれ。
 緑や金の小さな明かり。
 あれが何か、わかるか?
 あれ、獣の目だ。
 獣の目が、全部で、十、八……九頭の、虎がいるってことだ。
 そんでもって、オレを見てる。
 厭だ。
 朔道士みたく、生きたまま、喰われるのか?
 厭だ。
 近づいてくる。
 そうして、今、すぐ、目の前に、いる。
 一対の大きな目が、オレを見ている。
 虎―――だ。
 オレは、虎に食われて、死ぬんだ。
 厭だっ!
 涙が、下瞼に盛り上がる。
 頬を流れ落ちる。
 ぞろり―――――ささくれだった舌が、それを舐める感触に、鼻先をかすめた生臭い匂いに、オレの全身が、石のように強張った。
 跳ね起きて脱兎のように逃げる根性すらないのか。
 頭の奥でそんな突込みをしたような、おぼろな記憶がある。
 ゴロゴロと、猫に似た喉鳴りが、クツクツという笑いに変化して、よく知った声が耳元でささやいた。
 逃がさない―――――――と。
 刹那、オレの神経は、灼き切れるように、暗転した。


おわり

start 10:31 2008 12 09
up 23:30 2008 12 11
◇ いいわけ その他 ◇

リハビリです。
タイトルは、考え付かなくて。
某サイトの管理人、Hさまの描かれたイラストから、萌が広がった一本です。その節は、素敵なイラストを拝見させていただいて、ありがとうございます。
「不知語」だったか、「知不語」だったか、中国の怪異譚を収拾した中に、虎というか、虎の妖が人間を騙して食べてたというのがあったんですよね。で、まぁ、くりくりと頭の中で転がしてたのですが。その結果が、これです。
明らかに、魚里テイストだとは思うのですが。
相変わらずの浅野君の不幸さを、少しでも楽しんでいただけると、嬉しいです。
もちろん、この後、ダイレクトに喰われるわけではありませんよ〜vv
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