「まったく。何度逃げれば気が済むのです」
エンリケ・チャンのあきれたような冷たい声が、耳を貫いた。
引きずられながら歩く足の裏が、燃えるみたいに、痛かった。
冷たい大理石の床に、オレは、投げ出された。
膝も、からだも、全身が痛い。
後ろ手に縛られて、顔だけを、持ち上げられる。
目の前には、白くかすんだ視界一杯に、あいつの黒い目。
がんがんと心臓が喚く。荒い息。全身が震えて、涙が、こぼれる。
前は、こんなに、涙もろくなんかなかったんだ。なのに、今のオレは、ちょっとしたことがあると、すぐに、泣いちまう。
情けないけど、怖くてならない。
怖くて怖くて、こみあげてくるんだ。
黒や灰色の、くすんだ色調のスーツに身を包んだ男たち。彼らの視線は、きっと、蔑むように冷たい。
実際、馬鹿にされてるんだと思うと、いたたまれなくなる。
やっとの思いで逃げたのに、一日どころか、数時間も経たないうちに連れ戻されるようなへたれ――彼らが生きる世界じゃ、男とは見做されないに違いない。
ここには、オレの人権なんか、ない。
オレは、男たちのトップに気に入られているから、殺されずに済んでいる、ただの――――ペットでしかない。
男たちのトップ――マフィアのドンとかってなるんだろう。
マフィアなら、イタリア系か。彼らは、アジアンだから、別の、名称があるんだろうなぁ。よく知らない。
そんなことなんかもよく知らないオレが、ここにこうしているのは、留学先でバイトを探してて雇われた先が、男たちの支配者の家だったからだ。パソがぶっ壊れてさ、金が必要だったんだ。だから、面接を受けて受かったから、ペットの世話係として、オレは、毎日地下鉄で通ってたんだ。ただのバイトで、ペットの面倒を見るだけだった。
それがどうして、こんな情けない羽目になったのかっていうと、オレにも、よくわかんない。
自分で言うのもなんだけど、オレは、並だ。実に、ふつーの、どこにでも転がってるような男――というか、ガキでしかない。
なのに―――――――。
こいつ、籍昇紘という男は、どんな気まぐれを起こしたのか、オレを、玩具にしやがったんだ。
いつもは、顔なじみになった門番に挨拶をして門をくぐったら、まっすぐにペットのとこに行くんだ。最初は怖かったトラも、気をつけてさえいたら、巨大な猫だってくらいに、懐いてくれた。けど、最後の最後で、警戒は、抜けないけどな。よくあるじゃん、突然本能に目覚めたペットに襲われて大怪我したとかってニュース。だから、ちょっとだけ、あいつの相手をするときは、気を引き締めるようにしていた。けど、その日は、最初から違ってた。
面接の日に会ったことがあるエリート然としたエンリケ・チャン――こいつが籍昇紘の秘書だっていうのは、後で知ったけどな――が、オレを待っていたんだ。
『籍さまがお待ちです』
とか言って、首をかしげるオレを、でっかい屋敷の奥へと連れ込んだんだ。
これが、オレの運命が最悪最低のドツボに落ち込んだ瞬間だった。
そう。
重厚な彫刻を施してあるドアが開かれて、オレは、初めて、この家の主人と対面していた。
部屋の中よりも、窓際に立ってオレを見てる男に、目が行った。
五十くらいだろうか。黒い髪をオールバックに撫で付けたポーカーフェイスは、鷹とか鷲みたいだった。決して個人的にお近づきになりたいって思うようなタイプじゃない。その鋭いノミで彫り出された鋭角的な顔の中、心持ち目尻のつりあがったきつくて黒い目が、オレを、凝視してたんだ。
ぞっとした。
わけのわからない恐怖で、全身がぶるりと震えたんだ。
『浅野郁也だな』
低くて、感情のないような声だった。
ダメだ――って、オレを急きたてるなにかがあった。
こっちへ――とか言われても、足が床に張り付いたみたいになって動けない。
脂汗がだりだり流れて、なんかもう、ほんとに、なにがなんだかわからなかった。まともな思考ができないんだ。ただ見つめられて、呼ばれてるだけなのによ。
結局、焦れたあいつが次の行動に移る前に、エンリケが、オレの背中を押したんだ。
その日のうちに、オレは、あいつに無理やり抱かれた。
怖くて痛くて辛くて、快感なんか微塵も感じやしなかった。
そうだろう?
結局、オレは、雇い主に、レイプされたんだぜ。
からだはだるいし、腰は痛いし、なんかもう、ぐだぐだだった。
ベッドの上でどうにか上半身を起こして肩で息をついてると、
『目が覚めたか』
ネクタイを締めながら、あいつが近づいてきた。
怖かった。
恐怖と嫌悪に、全身がすくみ上がる。
そんなオレの背中を、あいつの手が、撫でたんだ。
鳥肌が立った。
だから、からだが傷ついているとか忘れてさ、
『さわんなっ』
腹が立って食ってかかったら、逆に、平手が飛んできた。
無言で、きつい一発だった。
衝撃で、腰が床に落ちて、ベッドの柱に頭をぶつけた。
くらりと眩む視界の中、冷たい目が、オレを、ただ、凝視する。
オレの顎を持ち上げて、
『いいな、郁也。おぼえておけ。これから、お前は、私の、愛人だ』
一言一言をゆっくりと区切りながら、刷り込むように、そう、言ったんだ。
あれは、何ヶ月くらい前になるんだろう。
あれから、何度、逃げただろう。
逃げるたびに連れ戻されて、そのたびに、あいつは、不機嫌になった。
ポーカーフェイスは変わらないけど、まといつかせている空気が、冷えるんだ。まるで、いきなり、北の氷山にでもいるみたいな、芯から凍えつく冷たさだ。
どれだけ、それが、恐ろしいか。
オレは、打たれる。
逃げないようにぎちぎちに縛り付けておいて、そうして、よく撓る長い鞭で、オレが気絶するまで、打ち据えつづけるんだ。
オレは、気が狂いそうだった。
だから、逃げたのに。
全身が、震える。
逃げたいと、周囲を見渡す。
けど、ここは、あいつの部屋で。
オレは、とっくに、ベッドの柱に縄で縛られちまってる。
涙がこみ上げる。
いやだ。
怖い。
誰か。
助けてっ!
空気を裂く音に、竦み上がる。
背中で爆ぜる、熱い痛み。
癒える間もなく、間断ない痛みが、オレに襲い掛かる。
痛い。
痛い。
痛い。
助けて……。
…………どうして、こんな目にあうんだろう。
どうして、オレが……………。
黒い目が、どこかからオレを凝視している。
気づいたときには、すでにはるかな上空から滑降してきた鋭い爪が、オレを掴みあげる。
オレは、ただの、小さな、ネズミのように、悲鳴を上げて震えるばかりだ。
鉤のように曲がったくちばしが、オレを、引き裂き、飲み込んだ。
息が止まった。
そんな気がして、オレは、一気に目が覚めた。
心臓が、恐怖に、喚いている。
最悪の、目覚めだった。
天井に描かれているたくさんの天女がオレを哀れんでいるかのようで、オレは、こみあげてくる涙に、身をよじった。
途端、じくじくとした痛みが、背中から全身に広がった。
寝苦しさにあちこち体勢を変えつづけていたのだろう。もがくように上半身を起こしたオレは、白いシルクのシーツがオレの血を吸っているのに気がついた。
三日前の傷は、まだ、血をにじませている。
足の裏も、まだ、熱を持って、痛かった。
最近、傷の治りが遅くなっているような気がする。
ベッドを出るのも億劫だった。けど、自分の血で汚れているシーツにくるまっているのも、気持ちのいいもんじゃない。
ローブは、椅子の背にかかっている。
オレは、最悪の体調のまま、ベッドの上を移動した。
包帯だけのからだの上に、ローブを羽織って、腰紐を結ぶ。
どうせ医者が来るだろし、着替えるのも面倒だったが、やっぱ、落ち着かない。
クローゼットまで歩くのかと、オレは、足の痛みを思い出して、溜息をついた。
オレがもたついていると、ドアがノックされた。
「はいりますよ」
エンリケの声だ。
オレが返事をする前にドアが開いて、エンリケのすらりとした姿が現われた。
怜悧な印象の三十くらいの男は、あいつの片腕なんだろう。オレにあいつからの言伝とかをもってくるのは、いつも、エンリケだった。
「まだ着替えていないんですね」
オレは、こいつが、苦手だった。
「今日は来客があるのですが、あなたにも晩餐に加わって欲しいと、昇紘様のご指示です」
咄嗟に、オレは、首を振っていた。
横に、だ。
「服装の指示も受けておりますから、後で届けさせます」
「…………嫌だ」
きびすを返したエンリケに、やっとのことで、声を出す。
くるりと振り返ったエンリケは、
「あなたに、拒否する権利はありませんよ」
うっすらと笑って、オレに止めをさした。
スタンドカラーのドレスシャツに、乾いた血のような赤のスーツとズボン。髪をオールバックにされて、耳にピアスをつけられた。ピジョン・ブラッドとかいうルビーの粒だ。
どんなに嫌がっても、ここではオレの意思なんか、ないも同然で。けっきょく、晩餐のテーブルに、オレはついていた。
テーブルについている相手がどういう人間なのかは、オレは、知らない。
ウィルコックスとかいう白人の男と長い黒髪のリィという青年が、客だった。
食器の触れ合う音が、照明を絞った部屋に響いている。
オレは、食欲なんかあるわけもなく、スープを少しすすった後、パンをちぎっていた。
目の前にいるリィは、きれいな男だっだ。白い肌、長い黒髪はやわらかそうで、目の色は緑だ。しかもくちびるは赤くて、切った肉を噛む歯は、キャンドルの火を弾いてきらめく白だった。
妖艶、優美――そんな印象の男で、オレは、気を呑まれていたんだと思う。もっとも、最近のオレは、いつだってぼんやりしてるんだけどな。
彼が、高級男娼という存在だって知ったのは、食事の後、昇紘とウィルコックスがなにか話し合った後のことだ。
「どうぞお楽しみください」
と、ウィルコックスが、リィをまるで物のように昇紘に勧めた。
そのためにつれてきたのか、それとも、彼と契約――よくは知らないけど――しているのか。リィは、驚くでもなく、にっこりと、蝶のように笑ったのだ。
オレは、なんとなくホッとしていた。
今日はゆっくり眠れるのか。
リィを気に入って、そうして、オレに見向きもしなくなってくれればいいのに。
そうなれば、オレは、家に帰るんだ。
帰って、全部忘れて、普通に暮らすんだ。
オレは、すこしだけ、微笑んでいたのかもしれない。
「昇紘様が呼んでいますよ」
エンリケの声に我に返ると、ドアのところで昇紘が立ち止まって、オレを見ていた。
「なにをしている、来ないか」
信じられなかった。
オレの脚は、動かない。
昇紘の黒い目に射竦められて、この場で死んでしまいたかった。
そうすれば、オレはもう、抱かれずに済む。
意識していなかったが、オレは、首を横に振っていたらしい。
「しかたないひとですね。あまり拗ねて見せると、呆れられますよ」
信じられないことを、エンリケが言った。
耳元では、
「また、鞭で打たれますよ」
と、ささやかれ、オレは、重い脚を、必死になって、動かした。
一歩歩くたび、足が、痛んだ。
けど、鞭は、いやだった。
鞭の傷がどれだけ治りにくいか。どれだけ、痛いか。オレは、嫌ってくらい知っている。この間の失敗で、さすがに、もう、逃げようなんて、オレは、考えてはいなかったんだ。
本当に。
「君って、バカ?」
顎に手をついて、リィの緑の目がオレを見下ろしていた。
オレは、頭上で縛られたままの手を忘れて、無造作に引っ張って、後悔していた。
ドレスシャツのタイで縛られた手首は、繊維に擦れて、赤く血をにじませていた。
「楽しみなよ」
セックスは、気持ちいいだろ?
「いやだ」
やっとのことで声になったことばは、ひどくしゃがれていた。
「そんな態度だから、籍氏が機嫌を損ねて、ひどい目に合わされるんだよ、わかってるの?」
それとも、ひどくされるのが、好き――とか?
「ちがう」
「なら、素直に、快感に従いなよ。そうすれば、籍氏は君を可愛がってくれるし、君は籍氏を満足させることができる。ふたりとも幸せだろ」
「嫌だ」
なんでこんなこと言われないといけないんだ。
オレは、まるでオレが悪いみたいに言ってくるリィに、腹が立っていた。
「オレは、本当に好きなやつとじゃないと、こんなこと、したくないんだ」
それももう、怪しい。今は、誰とも、したいとは思わない。それが、本音だった。
そういったオレを、丸く見開いた緑の目が、不思議なものを見るみたいに見下ろす。
そうして、ひとつ、ひどくゆっくりと瞬きをしたと思ったら――――吹き出したんだ。
けらけらと、バカみたいに笑うリィを、今度はオレが、呆然と見上げていた。
「How innocent boy,you are!」
突然笑止まったと思うと、吐き棄てるような早口の英語が聞こえた。
そうして、
「や、やめろっ」
リィの赤いくちびるが、オレの口を覆った。
白い手が、オレの背中をすべり、散々昇紘にされた場所を、まさぐりはじめた。
オレはといえば、まだ手首を縛られたままの格好で、ただ必死でもがいた。
エンリケがドアをノックするまで、オレはリィに弄られていたんだ。
「なにをなさっているんですっ」
エンリケの焦った声を、オレははじめて聞いた。
リィを部屋から出した後の、
「大丈夫ですか」
気遣うようなことばも。
エンリケはオレの手を縛っているタイを解いて、コップに水を注いでくれた。
「どうぞ」
これまでの冷たい態度が嘘のようだったけど、オレは、ともかくパニックしてたから、それらに気づいたのは、後になってのことだった。
つづく?
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