in the soup  2




 ノックもなく扉を開き、昇紘は足を止めた。
 郁也にあてがった部屋にはいるとき、ノックをすることはない。
 ノックをすれば、いつも郁也が強張りついて昇紘を凝視するからだ。
 怯えたまなざしを見るたびに、胸が煮える。
 昇紘が動くたびに、逃げ場を求めて瞳がさまよう。
 近づくごとに、まるでその奥へ解け消えたいと願っているかのように後じさり、背中をベッドヘ ッドに貼りつける。
 血色の悪い顔に、冷や汗が跡を残す。
 扉を開くたびに、甘美な記憶が苦いものへと変貌を遂げる。
 それでも開かずにはおれない己を痛いほどに感じ、自嘲に口を歪めるのだ。
 寒々しいほどに部屋を広く感じるのは、夕べの日の傾きのせいだろうか。空気の中に人の気配を 感じない室内は、朝彼が部屋を出たときのままのように見えた。
 ぐるりと薄暗い部屋を見渡す。
 閉ざされたままのベッドの帳を開き、昇紘がその場に凝りついた。
「郁也?」
 ガウンが寝乱れた寝具の上に投げだされているだけで、ひとの気配もない。
 切れ長の瞳が、徐々に見開かれた。

 ――逃げたか。
 クツクツと、薄ら寒い笑い声が、昇紘の喉を震わせはじめた。

 郁也を最初に抱いてから、半月が経とうとしていた。
 起き上がることすらままならない郁也を抱く気にはなれなかった。
 高い熱に苦しみながらも自分の気配を感じるたび頑なにからだを竦めようとする少年に、苛立ち がつのりはしたが、己の所業を鑑みる余裕があった。
 だから、暫くの間、彼の部屋へは近づかなかったのだ。
 十日ほど経つと、少年はようやく熱も下がりよろめきながらも立ち上がることができるようにな った。
 エンリケより報告を受けた昇紘が、少年の部屋へと足を向けた。
 わずかに十日ばかりでげっそりと頬はこけ、からだの肉付きが薄くなったように見えた。
 医者の診断におとなしくパジャマの前を開いていた少年が、彼を見て青ざめ強張りついた。
 がくがくと発条の切れかけたブリキ人形のようにパジャマのボタンを合わせてゆく。
 全身の震えは、まだ熱が引いていないのではないかと思わせるものだった。
「体調は好くなったか」
 ベッド脇の椅子に腰を下ろして、昇紘が医師に問いかけた。
「もう大丈夫です。後は栄養のあるものをしっかりと摂るようにすれば、すぐ元通りになりますよ 」
 送ってさしあげろ。
 エンリケに命じた後は、昇紘の興味は医師からは消えていた。
 エンリケに先導されて、医師が部屋を出てゆく。その気配を遠く感じながら、昇紘は郁也を振り 返った。
 少年はベッドヘッドに背中をつけ、いざるように動いている。
 褐色の瞳が、昇紘を凝視する。
 まるで少しでも視線を外せば昇紘に襲いかかられるのではないかと恐れているかのようだった。
 片手は帳を握り締め、もう片方はベッドヘッドの飾りを探っている。
 片足はベッドから落ちさまようような動きを見せ、もう片方はベッドの上で折り曲げられている 。
 そうやってじりじりと、ベッドから降りようとしているのだ。
 昇紘は楽しむようにして、そんな郁也を眺めていた。
「足が震えている。手もだ。そんなようすでベッドから降りて、どうするつもりだね」
「帰る」
 かすれた声だった。
「帰さないと言ったらどうする」
「帰る。ここには、もういたくない」
 ベッドから降りた郁也が走り出す。
 しかし、覚束ない足どりの少年を捕らえることなど、容易いことだ。腕を掴み、引き倒すように して胸の中に閉じ込める。
 瞬間、短い悲鳴が郁也の喉からほとばしった。
 腕の中でもがく郁也を逃すまいと、昇紘の拘束がしだいにきつくなる。
「もう嫌だっ」
 抱きかかえベッドに投げ出すと、郁也の息が詰まったらしい。
 数度咽た後、涙をたたえた瞳が呆然と昇紘を見上げていた。
 郁也の瞳が、これ以上はないほど見開かれてゆく。
 全身の震えが激しくなった。
 昇紘が、引き抜いたネクタイで郁也の両手を縛めたのだ。
「この間のような無理はしない」
 昇紘の黒い瞳が、ねつい光をたたえて郁也を見下ろした。
「いやだっ! いやだいやだっ、嫌いだっ!」
 刹那、昇紘は郁也の頬を張っていた。
 かなり強い一発は郁也の頬を赤く染め、郁也の顔からただでさえ乏しい血の気を失わせている。
 怯えが、恐怖が、嫌悪が、次々と郁也の褐色のまなざしを彩ってゆく。
 ながれつづける涙に惹かれるようにして、昇紘は郁也にくちづけていた。

 ネクタイを締めていた昇紘は背後に気配を感じて振り返った。
 上半身を起こした郁也が肩で息をついている。
「目が覚めたか」
 怯えた表情で見上げてくる郁也に、昇紘のくちもとがふっと弛んだ。
 あちらこちらに赤い花が咲いている。
 昨夜の郁也を思い出し、その背中のなめらかさを思い返し、手を置かずにはおれなかった。
「まだきつかったようだな」
 触れただけで、郁也は全身を震わせた。
「触んなっ」
 自分を拒絶するきつい声音に、思わず手が出ていた。
 ガツン。
 硬い音がして、郁也の頭がベッドの支柱にぶつかった。
 脳震盪を起こしかけている郁也に、昇紘は、
「いいな。郁也。おぼえておけ。これからのおまえは、私の愛人だ」
 それだけを言うと、スーツを取り上げ、部屋を後にした。


 会合が早く終わり、時間が空いた。
 オフィスのほうに顔を出すまで、まだ時間があった。
 部屋に入ると郁也が弾かれたように昇紘を振り返る。
 別に部屋から出るなとも言っていなければ、ドアに鍵をかけているわけでもない。
 執事の話では、一日中なにをするでもなくベッドの上でぼんやりしているらしかった。
「顔色がまだ悪いな」
 掬い上げるように顎を持ち上げ、昇紘が言う。
 郁也はといえば、ただされるがままだった。
 からだを硬くして興味が自分から逸れるのを待っているかのようだ。
「そんなに恐ろしかったのか」
 昇紘が言うと、郁也の全身がかすかに震えた。
 初めての時も先日の情交も、郁也には厳しいものでしかなかったろう。
 怯える表情や、自分を受け入れて苦しむ表情を思い出し、
「そうか」
 喉の奥でかすかに笑いながら、郁也の肩を抱いた。
 郁也の中で心臓が激しく乱れているのを感じながら、
「逆らわなければ、なにも恐れることはない」
 私だとてやさしくするということは知っているのだからな。
 嘯くようにささやいた。
「庭に出て、陽にあたったほうがいいだろう」
 気分転換になるだろう。
 さあ――と、先に立ち上がった昇紘は、ベッドの上から彼を凝視している郁也の手を取った。
 唯々諾々と従う郁也のさまは、人形遊びの人形が等身大になっただけのように見えなくもない。
 昇紘が庭の芝生に直に腰を下ろす。
 木の幹に背もたれて、夏めいてきた空を見上げた。
 隣を見れば、郁也は立ちはだかったままである。
 軽い手触りの極上の絹のシャツが陽射しに透けて、細いからだが薄くシルエットになって見える 。
 ぼんやりと空を見上げているように見えた郁也が、一歩、また一歩と芝生を踏みしだく。
 うっすらと郁也の口角がほころんでいるように見えた。
 久しく忘れていた穏やかな空気に、昇紘は郁也の手を掴んだ。
 郁也がよろけるのを掬うように受け止める。十七歳にしては軽いからだが昇紘の腕の中にあった 。仰のいた象牙色の喉元が、無防備に目の前にある。
 歯をたててやろうか。
 迫り上がってきた熱を、自制する。
 あの朝以降、昇紘は意識して性的な接触を抑えていた。抑えていれば郁也は怯えながらではあっ たが、彼に逆らうそぶりを見せないのだ。
 腕の中で強張りついた郁也を芝生の上に下ろす。
 褐色の瞳が、怯えた色を刷いて昇紘を探るように見た。
「今の私は機嫌がいい。黙って座っていろ」
 そう言うなり、昇紘は郁也の肩を抱き寄せた。
 かすかな抵抗を楽しみながら、昇紘は穏やかな一時を楽しんでいた。


「あれを見つけ出せ」
 廊下ですれ違いかけたエンリケが足を止めるのを認めるや、昇紘は言い放った。
「少々手荒くでもかまわないが、手心は加えておけ」
 エンリケの表情から血の気がかすかに失せるのを見ながら、
「屋敷にいる配下の半分を使えば充分だろう」
 そう遠くまで逃げれまい。
 肩を竦めた。
 いつもなら配下が溜まる階下の遊戯室は人の気配もない。
 昇紘の顔色を見た途端、ひとりまたひとりと男たちはキッチンのほうへと移動したのだ。
 ビリヤードテーブルの奥のバーからブランデーを取り上げると、適当なグラスに注ぎそのまま、 呷る。
 とろりと密度の濃い酒が、口腔を喉を焼くように胃の中に滑り落ちた。
 大理石のカウンターにグラスの置かれる音がかすかに響く。
 逸らした視線の先では、 宵闇迫る窓の外、不穏に黒い雲が垂れ込めはじめる。
 やがて赤黒い空から、大粒の雨が降りはじめた。
 逃げたのか。
 こみあげる笑いは、自分に対してだったろう。
 自分自身の愚かさに対する、苦いばかりの嘲笑だった。
 どうやって逃げようと、どこから抜け出そうと、そんなことはどうでもいい。
 逃げたことが、問題なのだ。
 昨日の郁也を思い返し、あの従順さの裏側で逃げ出すことをだけ考えていたのだと思えば、腸が 煮えくり返るかの思いだった。
 騙されたのだ。
 この自分が。
 新大陸の裏世界に隠れもない、この籍昇紘が。
 一介の学生風情にこの醜態とは。
 ふ―――と、声がこぼれた。
 笑い声は、聞くものとていない遊戯室に低く流れて消えた。


つづく

up 18:11:46 2009 09 11
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