in the soup  4






 爆ぜるような音をたてて、鋭い鞭が少年の背中を切り裂く。
 象牙色のなめらかな肌が苦痛に染まり、じわり朱く血がにじむ。
 逃げられないようにと縛めたからだが、痛みに怯えて強張りついていた。
 そのさまが愛しく、また、憎くもあった。
 あの血を啜り、肉を喰らい、最後の一欠けまでこの身に取り込みたい。そうしてしまってやっと、逃げはすまいかと怯えることもなくなるのではないだろうか。
 この腕の中から郁也が逃げたあのときの喪失は、思った以上のものだった。
 郁也が連れ戻されるまでの数時間、ほかのことは何一つ考えられなかったのだ。
 年甲斐もない。
 自分の歳を顧みる。
 郁也の歳もまた。
 そうしてはじめて、無表情に郁也を責めていた彼の容貌に、苦い笑いがわずかないろどりとなった。
 こどものような年齢の少年だ。
 下手をすれば、孫と言って通るかもしれない。
 なのにどうしてこんなにも失いたくないと強く願ってしまうのか。
 ベッドマナーもなにもありはしない。
 自身を駆り立てる怒りのままに少年を扱った。
 自分を見てもただ怯えるだけの少年に、からだから始まるものもあるのだと、覚えこませたかったのだ。
 しかし。
「い、やだっ」
「おね、おねが………いっ」
 短い悲鳴のあと絶え絶えに許しを請う声が、赤く鞭の痕に染まった背中のしなりが、痛いほどにしめつけてくる彼を受け入れている箇所が、違いようもなく劣情を刺激する。
 手酷い蹂躙に血を流す少年は、ただ頑なに目を閉じるばかりだった。
 誰に言われるまでもない。
 溺れている自覚はある。
 怯えたまなざしで自分を凝視する郁也の肌の手触り。ほのかにくゆる体臭や、すべらかな皮一枚下から滲み伝わる血と熱さえも、こぼれる吐息や悲鳴までもが、愛しくてたまらない。
 これまで、こんなにも誰かに心奪われたことがあっただろうか。
 首を振る郁也の褐色の髪が、ぱさぱさと跳ねる。
 その色に、ふと、昇紘の視線が、揺らいだ。
 三十年以上昔の少女の面影を、昇紘は思い出していた。
 それは、郁也によく似た髪の色をした、ひとりの少女だった。
 思い返せば似ていたのは、髪の色だけかもしれない。
 快活で、よく笑う、屈託のない少女の名前を、昇紘は久しく思い出すことはなかった。
 旧大陸の血を引いた少女の名前は、マリアといった。
 本宅に出入りする精肉店の娘だった彼女と親しくなったのは、まだほんの幼いころのことだった。本当に子供のころのこととて、彼女と親しくすることに両親も何も言わなかった。もともと新大陸のマフィアの成立に肉屋の関わりが深いということもあっただろうか。しかし、寄宿学校に入学した昇紘は、いつしか彼女のことを忘れていた。
 大学入学前に家に戻り再会するまで、思い出すことすらなかったのだ。
 そうして。
 陳腐な映画のような再会。
 しかしそれは、まぎれもなく生まれてはじめての恋のはじまりだった。
 思い返せばままごとのような恋の日々。
 大学は家から地下鉄で数駅の距離だったが、昇紘は家を離れて大学近くに部屋を借りた。寄宿舎とはまた違ったひとりきりの生活で、マリアからの手紙が彼をすべてのストレスから解放してくれた。
 大学の課題や試験をやりくりしてのデートで互いの心を確かめた。
 今とは違い女性の外泊には親の目がひどく厳しかったが、長期のバカンスにはふたりで出かけた。
 互いに結婚を約束していたが、最後の一線を越えるつもりはなかった。
 どれだけ心が沸き立とうと、若い熱情が滾ろうと、一時の情熱で愛するものを傷つけてはならないと、結婚をするまではくちづけ以外はしないと、心に誓っていたのだ。
 この想いは、決して遊びなどではないのだと。
 どれだけ互いが真剣なのか。
 それは、その証にほかならなかった。
 マリアの微笑だけで、どれほど心が豊かになっただろう。
 互いに見詰め合うだけで、時が永遠を約束するかのようだった。
 至福の時。
 お互いの両親に結婚の許しを得るのは、昇紘が大学を卒業した一年後にしようとふたりで決めていた。
 すべては、順調に進むはずだった。
 家に相応しい妻として連れてこられた女さえいなければ。
 名ばかりの妻を思い出し、昇紘の動きが不意に激しいものへと変わる。
 郁也の鋭い悲鳴に、昇紘は、我に返った。
 からだの中からの熱にあおられたかのように、郁也の全身は紅潮し最後まで残った数条の背中の傷がいっそうの赤味を帯びている。
 それを見て、腹立ちが治まる。
 すべては過去のことなのだ。
 傷にくちづけると、体勢が変わったためなのだろう、郁也が逃れようとするかのように身じろいだ。
「逃がさない」
 獰猛な囁きを耳もとに吹きかけ、対の肩甲骨の中ほどに歯をたて、きつく吸いあげた。
 耐え切れないとばかりに息を詰まらせ背中を撓らせた郁也を抱きかかえ、昇紘はベッドの上に胡坐を組む。
 瞬間、悲痛な悲鳴をあげて、郁也が意識を飛ばした。
 力なく自身の胸の中で意識を失った郁也を、昇紘はきつく抱きしめた。
「誰が横槍を入れてこようが、おまえを手放すつもりはない」
 昇紘の黒い瞳は、その場にいない誰かを凝視するかのようにきつく結ぼれていた。



 金髪に青い瞳、ミルク色の肌、服の上からでもわかるみごとな曲線。それらを引き立てる化粧とドレス。どれをとっても自分の男性をひきつける魅力を熟知しているタイプと知れた。
 くっと顎を上げた姿勢がいかにも高慢そうで、昇紘は眉をひそめる。
 クレア・レイモンド。
 名乗った女性が自分の婚約者なのだと。
 父親からそう告げられたとき、それは既に動かしがたい決定事項なのだと、昇紘は理解していた。
 しかし。
「私は、自分の妻は自分できめます」
 自分が愛しているのは、マリアなのだ。
 ふたりして大切に育て上げた想いを打ち消すことこそ、不可能だった。
 なぜ今になって。
「これは、決定だ。反論は許さない」
 見返した父親の自分によく似た黒い瞳の奥に、ファミリーのトップに立つ者の意志を感じて足元が揺らぐのを覚えた。
 理性ではわかっていた。
 この女の手を取らなければならないのだと。
 それでも。
 捨てることができるはずがない。
 穏やかで軽やかな、そうして、その名に相応しい恋人を無碍に打ち捨てることがどうしてできるだろう。
「いいえ。私には愛している女がいます」
 総てを捨てても、自分の妻はマリアだけだと。
 踵を返した昇紘を、しかし、父親は許さなかった。
 自室に閉じ込められた昇紘の元に、母親が説得に訪れた。
「お父様の言うことは絶対ですよ」
 逆らってはいけません。
 そんなことを言われて唯々諾々と従うのは、ローティーンまでだ。
 既に大学卒業も目前に迫り、勤める会社も決まっていた。ファミリーとは縁のない会社に内定している。
 家を継ぐことは昔から決められていることだったが、継ぐことで妻一人自由にならないというのなら家を捨てることも厭わない。
 その覚悟が自分にあることが嬉しかった。
 最低限必要な荷物をトランクに詰めて、家を後にした。
「マリア」
 マリアの部屋の窓に小石を当て、彼女が顔を出すのを待つ。
「何もない私では、君を妻にする資格はないかもしれない。それでも、共に来てくれるだろうか」
 陳腐な台詞にマリアはうなづいた。
 その刹那の感動をどう言えばいいのだろう。
 素のままの自分を愛してくれる、そんな恋人をどうして打ち捨てることができるだろう。自分が心の底から愛するのは、この女性だけなのだと。昇紘は、きつくマリアを抱きしめた。
 家を捨てたふたりは、小さな田舎町に腰を落ち着けた。
 その町の小さな教会でふたりきりの式を挙げ、はじめて互いを受け入れたのだ。
 そうして一年近くを二人で過ごした。
 学生時代よりもはるかに小さなアパートだったが、それでも、不満はなかった。互いがそこにいる。愛しあっている毎日に、不足などありはしなかった。
 マリアが昇紘の子を身篭ったとわかった翌日だった。
 どれほど嬉しいと思っただろう。
 まだ膨らんでもいないマリアの腹に耳を当て、母親になるのだという自覚を滲ませた彼女に笑われた。
 その次の日、ふたりの居場所は彼らの親たちの知るところとなった。
 頑として家に戻ることを承知しない昇紘に、最終的には親が折れた。それには、マリアが彼の子どもを身篭っているということが一因でもあったろう。

 生まれるはずだった子ども。
 妻であった女性。
 彼らは、永遠に昇紘の手から失われたのだ。

 胎児の安定期を待って盛大な結婚披露パーティーが行なわれた。名実共に夫婦になったふたりが出かけたハネムーンで、まさか彼らを失ってしまうなどと、誰が想像するだろう。
 先祖が生まれたという旧大陸の国が、ふたりの新婚旅行先だった。
 予定は一月。
 古い遺跡を見て回り、ブティックの並ぶ町並みで買い物を楽しむ予定だった。
 夜は貴族の城だったという由緒正しいホテルで蜜月を過ごすはずだった。
 しかし、まずは知り合いから借りた別荘で互いの幸せを噛みしめた。
 森の中にある別荘は、居心地のよい隠れ家だった。
 一面ガラスの窓から入る森の空気に染まった日の光は、夜になれば白い月の光になった。
 少し迫り出した腹部も、ほんの少し増した肉付きも、少しもマリアの美しさを損ねるものではなかった。それどころかまるでルネサンスの名画のようで、昇紘はふとしたはずみに彼女に見とれている自分に気づくことがよくあった。
 窓辺の椅子に腰掛けて静かに目を瞑るマリアに、ミケランジェロの有名な彫刻を思い、そのタイトルに思い至るや即座に打ち消した。
「マリア」
 抱きしめる。
 確かな鼓動と熱を確かめる。
 花のように甘い香りが鼻腔を掠める。
「愛している」
 クスクスとうれしそうに笑いながら、マリアが答える。
「君が奪われでもしたら、私は狂ってしまうだろう」
 覚えていてほしい。
 君は私の半身なのだと。
 残された半身のままでは、生きてなどいけない――――――と。
「だから、約束してほしい」
 私を残してどこへも行きはしないと。
 マリアの褐色のまなざしが、真摯に昇紘の黒い瞳を見つめ返す。
「約束」
 マリアの細い小指を自らの小指に絡めた。
 そのまま互いの手を握り締めるように合わせて、ふたりは深くくちづけを交し合った。
 嘆き悲しみとは無縁の今だからこそ、不安を抱くのかもしれない。
 そう思うと、マリアも子どもも必ず守ろう、悲しい思いなどさせはしないと心の中でつぶやくのだった。
 しかし、昇紘のその予感は的中する。
 わずか数時間の不在が、総てを彼から奪い去ったのだ。
 その日の用はあらかじめ決まっていたことだ。だから、彼の親しいものなら誰もが知ることができた。
 見送るマリアが琥珀の光の中、はかなく映った。それはいつか見たミケランジェロの彫刻を髣髴とさせて、しんとした悲しみを昇紘の心に宿した。
 このまま彼女を残して出かけたくない。
 しかし、親交のあるマフィアとの会合は、女性抜きのものだった。
 不安とも怯えともつかないざわめきを胸に覚えながら、昇紘は出かけたのだ。
 会合は難なく終わり、次の機会には家族連れでという和やかなムードで握手を交わした。
 そうしてマリアが待つ林の奥の別荘に帰った昇紘は、ゲートを抜けた途端本能的な胸騒ぎを覚えた。
 アクセルを踏み込みなだらかなカーブをいくつ曲がっただろう。
 開け放たれたドアを見た瞬間、ブレーキを踏み、車から降りた。
 組木細工の床に鈍く照明を弾くのは、点々と滴り落ちた血の跡に他ならない。
「マリアッ」
 駆け出した昇紘が向かったのは、マリアが好んだリビングだった。
「――――――っ」
 声にならない悲鳴が彼の喉を引き裂いた。
 そこには、マリアを守るように命じておいた部下たちが血を流して倒れている。
 一人として息のあるものはなく、何があったのかを知る術はない。
 ただわかることは、マリアがいないということだった。
 生きているのか死んでいるのか。
 倒れるものもいないひときわ大きな血溜まりが、昇紘の心にそれがマリアの流した血なのかもしれないという危惧を抱かせるばかりだった。

 時が過ぎてゆく。
 半身をもぎ取られた傷口は癒えないまま、マリアの行方もまた杳として知れない。
 いつしか昇紘の口はきつく結ばれ、頬は扱け、眉間には深い皺が刻まれた。
 半身の存在を忘れるかのように仕事に没頭した。
 気がつけば六年が過ぎていた。
 そうして、両親の勧めるままに昇紘はクレア・レイモンドと再婚したのだ。

 愛することはできないと、最初からわかっていた。
 不実だと知っていても、彼女とでは心が休まらない。
 しかし、彼女は妻なのだ。
 愛せないことが負い目となった。
 愛の代わりが高価な品物となった。
 共に出かけるのはもはや義務でしかなく。
 彼女のひとつひとつの行いが、鼻につくようになった。
 それは、彼女にも感じ取ることができたのだろう。クレアは自分に向けられる負の感情には敏感だった。
 三年目にしてようやく授かった命がこの世に生れ落ちることなくはかなくなった時、病室に見舞いに訪れた彼を待ち受けていたのは甲高い批難の叫びだった。
 両親に諭されはしたものの、それから、昇紘はクレアとの距離を置くようになった。
 夫として情が薄いと昇紘自身思わないではなかった。しかし、あの出来事は昇紘の忍耐に罅を入れるのに充分だったのだ。
 クレアが別荘で療養したいと言い出したとき、昇紘は安堵の溜息をこぼした。
 父の死を契機に半年に及んだ療養からクレアが帰ってきたとき、心の中に離婚の二文字がなかったとは言わない。
 失敗だったのだ――――と、痛いほどに感じていた。
 それでもそれを言い出さなかったのは、独り取り残された母のためだった。
 母にとってクレアは理想の娘だったのだろう。
 金髪で青い目の、理想的な白人の娘。
 母が望んで持つことのかなわなかった、金の髪と青い瞳。
 母にとってその組み合わせは、なによりの憧れであったのだ。
 もちろん、いくら母がクレアを気に入っていようと、容赦なく切り捨てることはできたのに違いない。
 それでも、最後の最後に、情が勝ったのだろう。
 結局昇紘は、離婚を思いとどまった。
 そうして二年後、跡取りが生まれた。
 幸せ――と、呼べたのかも知れない。
 その最後の一年のほとんどを、母は微笑んで過ごしたのだから。
 しかし、昇紘にはそれが限界だった。
 理由は、突然湧き上がったひとつの疑惑からだった。
 クレアの寝室に昇紘が立ち入ることはほとんどなかった。
 母が死にしばらくしてから、空気の綺麗なところで子供を育てたいと、いつもの気侭ぶりをふりかざしたのはクレアだ。
 既に別居状態だったこともあり、好きにすればいいと答えた。
 宝石箱の中に必要なものを忘れたと連絡があったのは、ちょうど昇紘が本宅に足を運んでいたときだ。
 執事が手にした宝石箱の中を覗くともなく視線をやった昇紘は、それほど高価ではないと見做されたらしいおびただしい数のジュエリーの中にふと心惹かれる何かを見たと思ったのだ。
 それが何かわからないというのに、全身が脈打った。
 手を伸ばしていた。
 動きを止め自分を見ている執事のいぶかしむような視線も気にはならなかった。
 ザラリ―――と、加工された宝石類が音をたてた。
 掌の中に転がるそれを見て、昇紘の顔から血の気が引いた。
 なぜこれが。
 こんなところにあるのだろう。
 てらりと艶めくなめらかな金の細工。
 これが何かわからないほど、間抜けではない。
 自分が彼女の指に嵌めたのだから。
 誓い。
 病めるときも、健やかなるときも、愛をもって生涯支えあう事を誓いますか――――
 誓います。
 二人きりの教会で、自分自身の意志で誓い、そうして彼女の薬指に嵌めたのではなかったか。
「マリアっ」
 小さな長四角にカットされたダイヤモンドが光を鈍く弾いている。
 決して華美ではないものの、彼の祖母が彼にと譲ってくれたアンティークだ。
 見間違うはずもない。
 はにかむような微笑が、昇紘の脳裏によみがえった。
 あの時も、彼女の指に嵌っていたのではなかったか。
 あの最後となった別れのとき、彼女の薬指にはこの指輪が嵌っていたのではなかったろうか。
 新たに贈ったエンゲージリングよりも、最初に貰ったこれが一番と指に嵌めていなかったか。
 しかし、それも、彼女とともに失われたのではなかったか。
 形見となった彼女の宝石箱の中からこの指輪が見つかることはなかったはずなのだ。
 それがなぜ今になって。
 それも、よりによってクレアの宝石箱の中にあるのだ。
 昇紘は頭を打ち振る。
 自分の心の中に芽生えたものを打ち消そうとする。
 ありえない。
 あっていいことではない。
 そこまで自分が愚かだと。
 あの女がほくそ笑んでるのだと。
 すべては、自分の思い込みに過ぎないのだ。
 しかし。
 ならば、この事実はどうなるのだ。
 紛うことなく、あの女の罪の証なのではないか。
 あれから十一年後に転がり出した小さなリングが、昇紘を懊悩の深い淵へと追い詰めたのだった。


つづく

up 18:25:52 2009 10 01
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