昨夜もまた酷く抱かれた。
大きなものがまだ数条残っているものの、ほかは治っているという背中の傷が熱を持って疼く。
医者に傷を消毒されるのを全身を強張らせて、郁也は堪えた。
鼓動が乱れる。
どんなに痛くても背中の治療は痛みを堪えるだけで済むのだからまだましだ。
噛みしめたくちびるが、かすかに震える。
嫌でたまらないのがこの後にされるだろう、あの男を受け入れた箇所を暴かれることだった。いくら治療のためとはいえ、あんなところを他人の手で開かれ様子を見られ、最後に薬をいれられるのだ。羞恥で理性が焼き切れてしまいそうだった。
どうしてこの場にいるのが医者と看護師だけでないのだろう。余計なことを言わないように見張らせているのか、いつも執事か、エンリケ・チャンが立ち会っている。医者だということでも我慢できないというのに、それ以外の人間にまで見られていると思うと、どうしようもない。
あまりに嫌がるため鎮静剤を最初に打たれるのも、苦痛につながった。
初老の医者の薄い青の目が、冷静に診る。
薬を塗りこめられたとき、医師の指先がある箇所をかすめた途端、突然からだが震えた。何が起きたのかわからないまま、男にされる時のように衝撃だけを感じて自身が熱く滾ってゆくのにうろたえていた。
「ああ恥ずかしがることはありません。ごく自然な反応ですよ」
穏やかなそれでいて事務的な声に、しかし、郁也はただ首を横に振る。
例え自然な反応でも、昨夜あれだけ酷くされた後に反応を返す自分が疎ましくてならなかったのだ。
ドアが閉まる音に、郁也は身じろいだ。
長く感じる診察の時間が、ようやく終わったのだと思っても、気が晴れることはない。
ただぼんやりと、壁を見る。
そのまま胎児のように蹲る。
まだ鎮静剤は抜けないらしい。
こんなときにあの男が来てしまったら。
来るだけならまだしも、いつものようにされてしまったら。
ただ思いついたというだけなのに、それが現実になるかもしれないと思えば怖かった。
郁也の全身が、小刻みに震えはじめる。
なにもかもが怖くてならなくて、気が狂いそうだ。
熱に浮かされたような鈍い感覚のまま、郁也は必死になってベッドの上に起き上がった。
くらくらと周囲が揺らぐ。
気分が悪い。
吐き気が治まらない。
あの薬はからだに合っていないのかもしれない。
頭を数度振り、胸元に手を当てる。
大きく呼吸を数度繰り返し、吐き気が去るのを待った。
もどしてしまいそうで、生理的な涙がこみあげてきた。
駄目だ。
四つん這いになってにじり寄り、ベッドの隅に腰掛けた。
支柱に束ねた帳を掴む。
立ち上がった途端揺らいだからだを、近くのソファの背に縋って堪えた。
ホッと息をつき、一歩進んだときだった。
コツンと、足が何かを蹴ったような感覚があった。
椅子の脚ではない。
もう少し軽い、でも、硬いなにか。
肩で息を吐きながら、郁也は覚束ない視線を惑わせた。
やっとのことで拾い上げたそれは、
「ライター?」
かなり持ち重りがする。
使い込まれているのだろう、メッキもくすんだ金のライターだった。
「誰のだろう」
ぼんやりとつぶやいた。
あの男はタバコを吸わないらしい。
エンリケ・チャンというあの男の秘書もだ。
執事も吸っていないだろう。
タバコの匂いを嗅いだ記憶などここにきてから、ほとんどありはしない。
そう。
あの夜を除いては。
あの部屋には、かすかにタバコの匂いがしていたような気がする。
逃亡から連れ戻されたあの夜のことを、思い出しそうになり、郁也は頭を振った。
「っ」
途端、忘れていた吐き気を強く感じ、郁也の顔が蒼白になった。
だらだらと脂汗が全身を濡らした。
かろうじて間に合った。
洗面台に顔を突っこむ。
悶えるようにして郁也はこみあげるものを吐き出したのだ。
ひとしきり吐き出せるものを吐き出し、顔を上げた。
鏡には、情けない顔をした自分が映っている。
顔を半分ほど覆っている水に濡れた前髪のあいだから、充血した目が覗いていた。
艶のなくなった肌は土気色をしている。
かさかさに罅割れたくちびるは、噛みしめるたびに噛み破られて、乾いた血をこびりつかせている。
頬はこけ、やつれ果てた自分は、まるで、病人のようだった。
ボタンの外れた胸元には、なんども吸いつかれ噛みつかれた痕が色濃く残っている。
「っ!」
ゾッとする。
自分は男なのに。
男なのに、男にいいようにされて。
逃げることさえできずにいる。
このままでは、死ぬまでここであの男の玩具にされつづけるのだろう。
死ぬまでなのか、あの男が飽きるまで。
どちらもどんな悪夢の中でさえ及びもつかなかった妄想だ。
妄想であってすら恐怖でしかない歪な現実が、今の郁也をとりまいているすべてなのだ。
「狂ってる………」
枯れた声が、ぽつりと落ちた。
あの男が飽きれば、解放されるだろうか?
それとも。
殺されるのだろうか?
臓器密売という言葉が、ふと脳裏をかすめた。マフィアとか暴力団とか、危ない話が好きだった友人がサイトか何かで拾ってきたという話だった。『人身売買って、売春やポルノ、性奴隷だけじゃないんだぜ』と、得々として話していたのが、どこか国のマフィアや暴力団の資金源についてではなかったろうか。
ばらばらにされて臓器だけにされた自分を想像して、血が下がる。
鳥肌が立った。
ふたたび空嘔吐きがこみあげてきた。
こみあげてくる涙を、全身の震えを郁也は堪えることさえできなかった。
肩を震わせ、喉に嗚咽を詰まらせる。
駄目だ。
死を考えないわけではない。
自らの怯懦のために自死を選べないことは痛いくらいにわかっていた。それでも、それをもてあそんでいる間は現実の恐怖からつかの間とはいえ逃れられる。
けれど、暴力で殺され臓器を取られるなど、本能が拒否する。
流れ落ちる脂汗を拭いもせず、郁也はふらふらとバスルームを後にした。
逃げないと。
やっぱり、逃げないと、殺される。
殺されるんだ。
どうやって。
どうやって逃げよう。
ぶつぶつと小声でつぶやきつづける。
ああ。
着替えないと。
パジャマのままじゃ、逃げられない。
ワードローブを開いて、シャツとズボンを取り出そうとして、それに気づいた。
ずっと手にしていたのだろうか。
顔を洗ったときに、手放さなかったのか。
拾ったライターがそこにはあった。
カチリ。
蓋を開ける。
慣れない手つきで、火をつけた。
音をたてて、小さな火が点る。
赤く青く揺れるともし火から、魅せられたかのように視線を外すことができない。
服を着替えることなど忘れていた。
ふっと、火が消えた。
もう一度点す。
揺れる小さな火を見つめる郁也の全身が、小刻みに震えはじめる。
何度も、首を横に振る。
そのたびに小さな炎が消え、かすかな音と共に、点される。
「うううう………」
獣が唸るのにも似た呻きを上げて、郁也は、ベッドに炎を近づけた。
音もなく透明な青白い炎がシーツの上を走る。
立ち尽くす郁也の手から、ライターが床に落ちた。
「ははっ」
張りのない笑い声が、郁也の喉から転がり落ちる。
よろめくように後退する郁也の手がソファにぶつかり、大きくよろめく。
それだけで床に腰が落ちる。
郁也はただ目の前の踊る炎を見上げていた。
どれくらいそうしていただろう。
気がつけば炎は赤黒く変色し、貪欲に糧を求めて触手をめぐらしていた。
いがらい匂いが立ち込める。
あふれ出す涙は、煙のためなのか、感情の昂ぶりのためなのか。
郁也の耳には、外の騒ぎもドアをノックする音も、聞こえてはいなかった。
なにひとつ。
ただ魂が抜けたように、炎をその目に映しつづけているばかりだ。
「何をしているんです」
突然肩を掴まれて、立ち上がらされた。
それまでのさして長くはない間、郁也はただ心を失っていたのだろう。
背中がワードローブに当った。
次々に火を消すために使用人が駆け込んでくる。彼らに追い立てられて、気がつけば郁也はぽつんと廊下に佇んでいた。
誰の姿もない。
見えない何かに背中を押されるように、郁也は一歩を踏み出した。
つづく
up 18:18:07 2009 10 02
HOME
MENU