in the soup  6







 ぼんやりと天井を見上げた。
「?」
 白く無機質な天井に、違和感を覚えた。
 身じろごうとして、郁也は呻く。
 全身がばらばらになるような痛みが、頭まで突き抜けたのだ。
「なんだ、これ」
 おそろしくしわがれた声だった。
 そっと首だけを動かし、視線をめぐらせる。
 腕から伸びたチューブが、ビニールの袋に繋がっている。そのほかにもよくわからないケーブルが自分の体からなにかの機械に繋がっていた。
「びょういん?」
 消毒薬のに匂いが一気に意識に流れ込んでくる。
 黒い画面の中、点滅を繰り返す光が忙しなく横一線に流れてゆく。
「なんで?」
「なにがあったんだ?」
 靄るような頭の中、迫ってくる車の影に、
「うわっ」
 悲鳴を上げていた。
 途端、鼓動が激しく乱打しはじめ、全身を冷や汗がしとどに濡らした。
 ああそうだった。
 ドライバーには悪いことをしてしまった。
 伸ばされた腕から逃げようとして車に轢かれたのだと思い至る。
 火をつけた部屋から追い出されて、誰もいないようなあの家を抜け出した。
 裏口からなら敷地を抜け出すのにそれほどの距離はなかったのだ。
 しかし。
 抜け出して、そうして、途方にくれた。
 パジャマに裸足。髪はばさばさのままだ。
 こんな格好でどこに行けばいいのだろう。
 アパートがどうなってるか、わからない。それに、そこは既に知られている。そんなところに逃げてもどうせ、以前と同じことになるに違いない。行き着ける自信もなかった。
 パスポートも取り上げられている。
 コインの一枚も持ってはいない。
 まごついている暇などないというのに、考えながら歩けばいいものを、自分の格好が気になってしまった。
 馬鹿だと思う。
 多分、頭がおかしかったんだ。
 今も。
 ずっと。
 一台の黒い車が、速度を落とした。
 その窓から彼を見ている黒い瞳に気づいて、郁也は全身の血液が足元へと下がってゆくのを感じていた。
 全身が震えた。
 あの男。
 あの男だ。
 もう戻ってきたのか。
 逃げないと。
 視線が外せない。
 あの男の目が、間違いなく自分を見ているというのに、外すことができない。
 せっかくここまで逃げてこられたというのに。
 郁也のくちもとが、イヤな痙攣をきざんだ。
 悲鳴をあげそうになる。
 少し進んで黒い車が止まった。
 後部座席のドアが開いた。
 綺麗に磨かれた革靴が道につく。
 その時になってやっと、郁也は動きを取り戻したのだ。
 男と反対の方向へと走り出す。
 思うとおりに足が動かない。
 自分のからだなのに自由にならない。その苛立たしさに涙がこみあげた。
 悔しかったのだ。
 相手は自分のすべてを絡め取ってそうして自由にするというのに、自分はその男から逃げることすら自由にできない。
 自分の意思さえも奪われたかのようで、屈辱でたまらなかった。
「郁也っ」
 鋭い叫びが郁也の耳を打つ。
 手が伸びてきた。
 避けたいと、その手に捕まりたくないと、ただそれだけの思いで郁也は車道に飛び出したのだ。
「危ないっ」
 男の声にかぶさって、鋭いブレーキの音が響いたと思った。
 そうして、全身に痛みを感じた。
 刹那にこみあげてきた感情は、ここ暫く感じたことすらなかった満足だった。
 逃げることができる。
 ああ、これで、あいつから逃げることができるんだ。
 郁也のくちびるが、満足そうな笑みをかたちづくった。

 郁也の両目から、痛みのためではない涙がながれた。
 結局、自分はまたあの男から逃げそびれたのだ。
 逃げられない。
 囲いこまれて身じろぐことすらできないのか。
 少しの自由もなく。
 ただ、あの男が自分を抱きに来るのを待つだけの日々に、戻らなければならないのだ。
 嫌だ。
 嫌でたまらない。
 あの男の舌が指が手がからだが、自分のからだを好きに操るのだ。
 操られた自分は、まるであいつの人形のようで。
 ひととしての尊厳も、独立した個人としての意思すらもないものとして扱われる。
 悔しい。
 あの男が怖くてならない。
 不甲斐ない自分に嫌気がさす。
 情けない。
 辛い。
 ―――死にたい。
 死にたかった。
 どうして助かったんだろう。
 パジャマの袖で涙を拭い去る。
 ドアが静かに開いて、看護師が入ってきたのはそのときだった。
 すぐに医師が呼ばれた。
「脚の骨折で済んだのが不幸中の幸いだよ」
「二日ばかり意識が戻らなかったが、脳波にも異常はなかった」
「骨以外にも全身を軽く捻挫している。しばらくは全身の関節が炎症で痛むだろうから、痛み止めと炎症止めを処方しておこう。このチューブは抜かないように」
 コードは外されたものの、逆にチューブの数が増える。チューブの先の細い針が腕に突き刺さった。
 診察をされる苦痛な時間がどれくらいつづいたのだろう。
 やっと彼らが部屋から出て行ったことで、郁也の全身から力が抜けた。
 全身の疼く痛みが灼熱を発する。
 目覚めたことが最悪だったとしか考えられない。
 からだの向きを入れ替えて、郁也は自分に絡んでいる幾つものチューブを見るともなく眺めていた。
 いつの間にか眠ったのだろう。
 蜘蛛のようだった。
 むき出しのからだの上を、大きな手が撫でるようにして這う。
 手が這った後から、見た目細い糸が意外な強靭さで、全身を縛めてゆく。
 手首を縛め、からだを開かせるようにして固定してゆくのだ。
 手と糸がたゆむことなく這いつづける。
 やがて全身が糸で真っ白になった。
 食べられてしまうのだ。
 そう恐怖で震えた瞬間、郁也は眠りから覚めた。
 絡みつく糸の不快さで目覚め、夢のつづきのようなチューブに郁也は眉をひそめた。
 咄嗟に引き抜こうとして、
「やめないか」
 止められる。
 その声に、郁也の全身が動きを止めた。
 動きとは逆に、たちまち血圧が上がる。
 いつの間に。
 顔を上げる勇気はなかった。
 声の主が誰かなど、確かめるまでもない。
 もしかして―――――
 全身が熱くなる。
 先ほどの夢は、まさか。
 飛び起きて、全身に走った痛みに郁也は呻いた。
 パジャマの前は開いていない。
 ホッと息をつきかけて、黒い瞳に気づいた。
 昇紘はベッドサイドの椅子に悠然と腰を下ろしている。
 それを見て、不意にここが個室だということに思い至った。
 他には誰もいない。
 昇紘と二人だけという状況が、郁也を怯えさせる。
 昇紘が膝の上の手を組み替えただけで、郁也の全身が大きく震える。
 自分がなにをしたのかが、雪崩のように襲い掛かってきた。
 部屋に火をつけた。そういえば、あれは、どうなったのだろう。
「まったく」
 昇紘が脚を組み替える。
「おまえがあんなことをしでかすとは、思いもしなかった」
 大胆なところもあるのか。
「ひっ」
 伸びてきた手が郁也の顎を捕らえた。
 顔を覗き込んでくる。
「部屋から出ることができて満足か」
 ん?
「それとも、燃えたのがベッドだけでは、満足できないか」
 強張った郁也のくちびるを味わうかのように、昇紘がくちづけてくる。
 不意を襲われて郁也がもがく。
 ぬめった舌が口腔を蹂躙する感触に、全身が鳥肌立った。
 これを気持ちいいだなんて、到底思えない。
 こんなことが好きなヤツは、みんなどこかがおかしいんだ。
 そうに違いない。
 おかしいのは、みんななんだ。
 コイツなんだ。
 コイツが一番おかしいんだ。
 だって、そうだろう?
 どう考えたって、オレは被害者でしかないんだから。
 オレは別に、こいつに何かをしたってわけじゃない。
 何もしていないじゃないか。
 なのに。






つづく




up 14:47:45 2009 10 09
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