in the soup  7





 くちづけひとつを嫌がる郁也に、ますます深くくちづける。
 本気で嫌がっているのはわかっていた。
 いつまでたっても慣れないからこそ愛しさが募るのか、嫌がるさまこそが愛しいのか。しかし、胸の奥にわだかまる虚しさもまた、否むことはできないのだ。
 自由にできるのはからだだけでしかない。
 弱々しく見えて頑ななまでに心を開こうとはしない少年を、その薄い両肩を掴んで振りたてたい。
 私を見ろ―――と、叫びだしたくなる。
 しかし、そんな弱みなど見せるつもりはない。
 思うさま堪能して、郁也を解放した。
 郁也は震えるだけだ。
 そんな郁也に対して残酷な思考が滲み出す。
「そう、だな。おまえが本気で望むというのなら、あんな屋敷ひとつ全焼させてやってもかまいはしなかったのだがな」
 低くつぶやいた瞬間、郁也の背中がかすかに震えた。
「だからと言って、私がおまえを解放するなどと思うな」
「っ! なんで………なんでだよ。なんでオレなんだ。オレなんか、ただのガキじゃないか。オレみたいなガキ、さっさと飽きて捨ててくれよ。捨てるのが嫌なら、いっそのこと殺してくれっ」
 うつむいたままで、郁也が叫んだ。
 しわがれた声は、それだけにより一層の痛々しいものに思えた。
 それでも。
「憎らしい口だ」
 郁也の背中に添うようにして屈みこみ、耳元でささやいた。
 捻っている上体から伝わる高い熱はもとより、小刻みな震えまでもがいとおしい。
 たとえそれが、自分を嫌っているからこその震えだとしても。
 どちらにしても、愛しいのには変わりないのだ。
 だからこそ、
「私がおまえに飽きるだと? そんなこと、夢にも起きるわけがないだろう」
 ことさら甘くささやいてやる。
「私からおまえを奪うものは、たとえおまえ自身であろうと許しはしない」
 毒をひそめて、
「おまえは、一生、私のものだ」
 止めを刺す。
 断末魔のものにも似た郁也の痙攣が、伝わってくる。
「髪の毛一本から足の爪まで、おまえのものであっておまえのものではないのだと、心に刻みつけておけ」
 しゃくりあげるようなすすり泣きが、とても耳に心地良かった。
「誰にも、おまえを奪わせはしない」
 誰にも―――――だ。
「覚えておけ」
 からだの奥深いところからじわじわと熱が溜まっていた。
 この病院が自分が出資するもののひとつとはいえ、まさかここで今、熱を解放する訳にはいかないだろう。
 十代のガキでもあるまいし。
 郁也に対して我慢の利かない自分自身に、苦い笑いがこみあげた。
「はやくからだを治すんだ」
 存分にかわいがってやろう。
 嘯くように付け足した。
 そのときを楽しみに、今はやめておく。
 名残惜しい思いを追いやり、昇紘は郁也からはなれた。


 やらなければならないことがある。
 すでに素材は手に入れてあるのだ。
 後は行動に移すだけだった。
 自分の計画を聞いて、エンリケはいい顔をしない。
「本気なのですか。まだあの少年を手放されないのですか? あんな騒動を起こした張本人ですよ」
と、非難してくる。
「これ以上なく本気だが」
「奥様がどう言われますか」
「おまえがあれの味方だとは知らなかったな」
 ネクタイを結びながら昇紘がそう返す。
「味方というわけではありませんが、一番の問題はあの方だと思いますので」
「そうだな」
 肩を竦める。
「養育費を少し上げてやれば問題はないだろう」
 文句は言わせない。
「そうだ。あれの部屋だが、私の部屋の奥の続き部屋に変えておけ。退院すればそこに移す」
 カフスを執事が持つトレイの上から取り上げながら、昇紘が命じる。
「かしこまりました」
 執事がおだやかに肯った。
 驚いたような顔をしてエンリケが昇紘を見た。
「あそこに移せば、あれは動けなくなるだろう」
 昇紘が喉の奥で抑えたような笑い声をもらした。
 あそこから出るには、昇紘の部屋を通るしかないのだ。おそらく郁也は、いつ戻るか知れない彼の気配に怯えて部屋から動けなくなるのに違いない。
「あれはそういうタイプだ」
「しかし、また火をつけるかもしれないではないですか」
 燃えたのはベッドだけとはいえ、あのベッドはアンティークの高価なものだったのだ。今では同じデザインのものを手に入れることは難しい。
「どうやって。私の部屋にはライターはない。マッチもないだろう」
 あの部屋にも元々ありはしなかった。また医師が落として帰らないとは言えない。それに、
「マッチやライターがなくとも、ランプがあります」
 ただ単に火をつけるというなら、電気を使う手もあるのだ。
「同じことは二度すまいよ」
「逃亡を諦めるとは思いませんが」
「だろうな」
 昇紘の口角が引き攣れるように持ち上がる。
 それに、エンリケの背中が小波立つ。
「それでも」
 エンリケの口から、低い声が出た。
「それでも―――――だ」
 エンリケの言葉の先を切って捨てるかのように、昇紘は言い切った。
「例の計画を実行に移してくれ」
「はい」
 一礼してきびすを返したエンリケの耳に、
「逃げ帰れる場所などありはしないのだと、あれに教え込んでおかなければな」
 薄ら寒くなるような独り言が、届いて消えた。



 眠れない。
 広すぎる病室というのは落ち着けない。どこか異質な感じがするからだろう。
 昨日から点滴の管は外されている。
 鎮静剤や鎮痛剤の効果のせいで朦朧とした感覚は去ってくれた。あれはあれで不快だったが、まだ痛みを感じることがなかっただけマシだったのかもしれない。そういえば、朦朧としていた間に、何かを書かされたような気がしたが、あれは夢だったのだろうか。力づくで手を握られ、強制されたような気がする。夢だとしても酷い悪夢だった。
 郁也はベッドの上に上半身を起こした。
 瞬間、思いもよらない痛みが全身に走る。
 膝に爪を立てて痛みを堪えた。
 脂汗が流れ落ちる。
 ずっと眠ったままで背中が痛かった。ほかと同じく少し捻っているのだろう。
 昨日から脚を吊られなくなったが、ギプスが煩わしいことは変わりない。
 骨折が片足でラッキーだったと言われたが、そうだとは思えなかった。
 外の空気が吸いたい。
 松葉杖か車椅子か。
 どっちも嫌だったが、どちらかに頼らなければまだ動くのは辛い。
 ベッドサイドに立てかけてある松葉杖を郁也は選んだ。
 引き寄せて杖にする。
「っ」
 気を抜いていると、何気ない拍子に全身に痛みがはしる。
「くそっ」
 なんだってこんなに痛いんだ。
 ただ歩くだけなのに挫けてしまいそうだった。
「どちらへ?」
 かかってきた声に、郁也の全身が大きく震える。
「くぅ」
 筋肉の震えが痛みに繋がった。
 涙目で見やった先に、ソファに腰をかけている男の姿があった。
 エンリケ・チャンはずっと部屋にいたのだろう。
 少しも気配を感じなかった。
 どこかあの男を思い出させる鋭い瞳が、彼を見ている。
「お手洗いなら手伝いますよ」
 言いのきざま立ち上がろうとするエンリケに首を横に振った。
「ではどちらへ?」
 再度の問いかけに、
「外の空気を吸いに」
 それだけを言うと腕に力をこめた。
「なら、付き合いましょう」
 ジャケットを取り上げ、エンリケが腰を上げた。
 その目は、郁也が拒むことを拒絶していた。
 自分の周囲にいる誰も彼もが怖くて苦手でたまらなかったが、特にあの男とエンリケは一、二を争う。他に接する機会がある相手が執事や医師や看護師くらいだということもあるだろうか。それでも、ここで逆らえば部屋の外にさえ出してもらえないだろうことは、想像に易かった。
 ひどくゆっくりと、郁也は杖を動かした。


「どこまで行くつもりです。屋上には温室があったはずですよ」
 この上です。
 エンリケが天井を指差した。
 首を左右に振る。
「口が利けないわけじゃないでしょう」
 溜息混じりに言われて、
「外の空気が吸いたいんだ」
 声に力はない。それでも、珍しいほど自分の意思を主張した。
 原動力は苛立ち、自棄、そうして怒りだった。
 怖いのはいつもだ。
 怖いのは、誰でもだ。
 今更だった。
 やがて静かにエレベーターのドアが開いた。
 誰もいない箱の中に郁也が乗り込む。エンリケがつづき、一階のボタンを押した。
 たくさんのひとで一階はあふれかえらんばかりだった。
 消毒薬の臭いが満ちている。
 郁也の眉がかすかに顰められた。
「裏庭が静かですよ」
 背中に軽く手を当てられ、ゾッと鳥肌が立つ。
 寒気がする。
 また熱が上がったのかもしれない。
 それでも、外にでたかった。
 少しでいいから、外の空気を吸いたい。
 急に動けばまた全身を痛みが襲うだろう。
 促されるままに、郁也はゆっくりと足を動かした。
 どれくらい歩いたのか、
「そっちは霊安室ですよ」
 なにやらざわつく気配にふと足を止めた郁也に、エンリケが説明した。
 視線の先には、背中に数個のアルファベットを貼り付けた同色のジャケットを着た男達が立っていた。
「警官ですね。事故でもあったのでしょう」
 エンリケがなんでもないことのように言い放つ。そうして、再び郁也を促した。
 芝生と花、それに気持ちのよさそうな木陰。
 リスや犬がいないのが不思議な景色だ。郁也は思った。
 さして遠くない木陰のベンチに腰掛けた郁也の背後に立って、
「あなたはああならなくて良かったですよ。こうして生きている」
 エンリケがつぶやいた。
「だから?」
 それが良いなどとは思えない。
 死ぬことは怖い。けれど、助かったのは、誰かの悪意としか思えなかった。
 これから先もあの男からは逃げられないのだろう。
 それ以外に正解はないのだと、何度も繰り返し考えた。
 しかし、逃げたいのだ。
 解放されたい。
 しつこくても、それしか考えることがないのかと言われても、考えることはといえばそれだけなのだ。
「生きてればいいことがある――とでも?」
「………どんな不満があるのです」
 背後から降ってきた言葉に、郁也の全身が熱くなった。
「男なのに男に抱かれて、それで満足できるって? オレはゲイでもバイでもないんだ」
 ずっと誰かに突きつけたかった。
 あの男には、言えない。あの男に見られているだけで自然にからだが震えてくる。怖くて舌が動かなくなる。頭の中が真っ白になってしまう。
 このままあの男に頭から食われてゆくのだと、草食動物の恐怖を味わう羽目になるのだ。
 毎日。
 毎日。
 日によっては一日に何度も。
 殺されつづけるような苦痛を味わわされる。
 これが絶望ではないなどと、誰にも言わさない。
 だから、火をつけたことなど謝らない。そうしなければ逃げることができなかったのだから、あれは―――あれは、緊急避難なのだ。
 そこまでやって逃げ切れなかった自分が情けない。
「逃げるなど考えないほうがいいですよ。二度と行動には移さないほうがいい。逃げきることなどあなたにはできません。これは、忠告ですよ。おとなしく従ってください」
 静かな、脅しつけるような雰囲気など微塵も感じられない声だった。
 しかし、郁也は首を横に振らずにはいられなかったのだ。



つづく




up 15:32:49 2009 10 13
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