in the soup  9




「郁也さん」
 エンリケの呼びかけに、反応はなかった。
 先日仕事の合間をぬうようにして時間を作った昇紘が来てから五日が過ぎている。以来、少年は魂が抜けたようになってしまっていた。
 あれほど外の空気を吸いたがっていた少年は、今ではただベッドの上に横になったまま動こうともしない。なのに、痛々しいほどに痩せた両の手首はベッドの両サイドにおのおのが縛り付けられている。その上、口枷を噛ませられてまでいるのだ。
 ただでさえ細っていた食欲は少年からはますます失せ、今朝からは点滴で栄養を直に摂らされていた。その点滴の針が血管に刺されたとき、それまで何も聞いていないように見えていた少年は、腕のチューブを乱暴に引き抜いたのだ。
 慌てた看護師が新たなチューブを用意し少年の腕に突き立てようとするが、弱ったようすからは思いもかけない激しさで暴れつづけた。野生の獣のような唸りを上げながら、全身で栄養剤を拒絶する。その両の瞳からはとめどない涙があふれ出し、頬を濡らしていた。
 しかし、所詮、弱りきった少年が体力勝負の看護師に叶うはずもない。舌打ち一つするなり看護師はポケットから取り出した包帯で片方ずつの手首を縛め、チューブを抜くことができないようにしたのだった。
 針が腕に刺さる際に少年の目にたたえられた光が絶望だということを、エンリケは見取っていた。
 その瞬間、少年の望みをエンリケは間違いなく理解した。
 舌を噛もうとした少年に、口枷を噛ませ、看護師は、栄養剤のほかに鎮静剤も処方して出て行った。
 青ざめた顔の中、褐色の瞳がただ天井を見上げるばかりだ。
 あの日、タイミング悪く少年が昇紘の計画の総てを知ったということを、エンリケは聞かされていた。
 まさか父親を偶然見かけるなど、昇紘の計画には含まれてなどいなかったろう。
 悪魔―――と、少年が吐き出すようにして言った最後の言葉をエンリケは脳裏から追い出すことができずにいる。
 そろそろ戻らなければと昇紘を促すために病室に戻ったエンリケは、まるで狂ったかのように少年を犯す昇紘を見てその場に凍りついた。
 クツクツと押し殺した笑い声が、少年の悲鳴とともに、エンリケの耳に残っている。
 なにもあのタイミングで。
 ボスがこの少年に執着していることなどは、重々承知している。
 この少年を取り込むために何を画策し、実行に移したか。
 実際に動いたのは、自分と直属の数名だったから、知らないはずもない。
 自分達は、ボスの命令とはいえ、浅野郁也という存在を抹殺したのだ。
 その上で少年の身分証を偽造し、ボスは彼を養子としたのだった。
 それを、ボスはあの最中に少年に教えたという。
 それがどれほどの衝撃を彼に与えたか。
 今の彼のありさまを見れば、想像するまでもない。
「かわいそうに………」
 少年のばさばさに乱れた前髪を手櫛で掻きあげてやりながら、エンリケはつぶやいた。
 思いもよらない自分の言葉に、目を見開く。
 目を眇め、肩を竦めた。
 少年のかさかさに乾いたくちびるから、呼気が忙しなく繰り返されている。
 喉に絡んだその音がなければ、胸が上下していなければ、少年が死んだと思ったかもしれない。
 事実、少年にはなにひとつとしてこんな仕打ちを受けるいわれなどありはしないのだ。
 少年から総てを奪い取り、望んでもいないものを与える。
 いや、違う。
 与えているのではない。
 押し付けたのだ。
 ボスの養子になることなど、少年は望みすらしなかった。
 少年の望みはただ、ボスから逃れることだけなのだ。
 いまやその望みすら絶たれて、総てを拒否することを選んだのだろう。
 生きることすら拒否して、望むことは無に帰すことか。
 衰弱の果ての死を望んだのに違いない。
 しかし、それさえも少年には許されない。
 エンリケは念のためにと、少年の周りから自身を傷つけるに足るようなものをすべて排除させたのだった。



「退院が延びたか」
 エンリケの報告を聞きいて、書類をめくっていた昇紘の手がふと止まった。
「はい」
 肯う声に、
「しかたあるまい」
 肩を竦める。
 あの日の行動がどういう結果を引き起こすかなど、わかりきっていることだったのだ。
 しかし、衝動を抑えることはできなかった。
 自分自身を殺せと言う郁也が憎かったのだ。
 父親を守るために死を選ぶ郁也が。
 まさかあのタイミングで郁也の父親が病院に来ているとは思わなかった。
 郁也の背中が彼の感情のすべてを物語っていた。
 帰りたいのだと。
 今にも自分から離れてゆこうとする郁也を、引き止めずにいることができるはずもない。だから、無理に抱え上げたのだ。
 決して好きにならないと頑なに言い募る郁也に、さまざまな感情が渦巻いた。
 真実、郁也の父親を殺してしまいたかった。
 そうすれば、この頑なな少年はどうするだろう。
 今以上に自分を憎むだろうこと、想像に難くはない。
 どうすれば、この腕の中に完全に取り込むことができるのだろう。
 脅しに屈した少年のまだ細い首が、青白く強張っている。
 その褐色の瞳が自分以外を見ているという事実に、ふつりと怒りが湧き上がる。
『別れは済んだか』
 自分を見ろとは、言えなかった。
 郁也の体臭が鼻腔を満たしたと感じた刹那、肩に痛みが走る。
 噛みやぶろうとするかのように、引き千切ろうとするかのように、肩に郁也の歯と爪とが食い込んでくる。
 その痛みを心地好いと感じた。
 この痛みは、郁也が自分に与えるものだったからだ。
 この瞬間、郁也の意識は自分に向いている。
 それを思えばこそ、笑いがこぼれるのを止めることはできなかった。


 回想から覚めて、昇紘は肩を撫でた。
 ジャケットの上から歯や爪を立てられたていどでは、皮膚一枚破れることはなかったが、それでも郁也が自分に向けた怒りがそこにまだ残っているように思えたのだ。
 あの刹那の疼くような痛みを思い返す。
 布地に染みこんだ郁也の涙の感触をも。
 しかし同時に、郁也の父親に対する嫉妬までもがよみがえっていた。
 肉親への強い愛情なのだと判っていても、郁也に慕われている相手だと思えば、殺意を抑えるだけで精一杯だった。
 あの時点で郁也が自分の養子になっていなければ、おそらくは手を下していたに違いない。
 そうして、抑えた激情は、その犠牲者として郁也を選んだ。
 だから、自ら彼に教えたのだ。
 浅野郁也という留学生は死んだのだと。
 怯えた褐色の瞳が、心地好かった。
 久しぶりに触れた郁也のくちびるや肌の感触は、もはや昇紘の中に目覚めていた劣情を煽るだけのものにすぎない。
 思いのままにふるまった。
 触れれば反応を返す郁也に、笑いがこみあげた。
 どれほど嫌がろうと、たとえ郁也自身がそれを快感とは感じていなかろうと、からだは触れられれば熱く硬く脈打つ。
 それでも頑なに認めようとはしない郁也の口から放たれる拒絶の言葉に、思わず手に力が入った。
 だから、郁也が遂精に達した時、言わずにはいられなかったのだ。
 ここにいるおまえは、あの男の息子ではなく私のものなのだと。
 私の籍に入ったからには、もう逃げることはできないのだと。
 褐色の瞳に絶望をにじませて、叩きつけるような鋭さを含んだ声が昇紘の耳にいつまでもこだます。
 悪魔――――自分だけを見て郁也が言った言葉であれば、たとえ詰られようと、気にはならない。
「無様だな……………」
 エンリケがいることも忘れてつぶやいた。
 滑稽なほど無様だ。
 醜悪なほどだと自覚はあった。
 自分がこれほどまでに愛しているというのに、少しも気づくことなく逃げようとする郁也が憎かった。
 どうすれば彼が自分を見てくれるのか。
 ただそれだけを考えている自分に、嗤いがこみあげてくる。それを噛み殺し、
「どうしてくれようか」
「ミスター」
 エンリケの声に我に返り、昇紘は立ちつくす秘書を見上げた。
 鋭角的な整ったポーカーフェイスが、白皙を通り越して青ざめている。
 この部下が取り乱すさまは珍しい。
 取り繕うことすら忘れている。
「私は悪魔なのだそうだよ」
 自分を見下ろしている凝りついた黒いまなざしを鏡のようだと見上げながら、昇紘は言葉をつづけた。
「悪魔ならば悪魔らしい行いをしなければならないな」
 悪魔の愛し方で、一生繋ぎとめてやろう。
 そう言うと、昇紘は喉の奥でせき止めた笑いを解放したのだ。



 透明な袋から液体が少しずつ滴り落ちている。
 それが細いチューブを通り、やがて自分のからだへと染みとおってゆく。
 自分は死んだのに、なぜこんなところにいるんだろう。
 死んだ人間に栄養剤など必要ないのに。
 引き抜こうとして、手首が締まった。
 両方の手首に巻かれた包帯に、そうだったと思い至る。
 一度引き抜いたのだった。
 それ以来、手首は常に縛られているのだ。
 喉が渇いた。
 口枷さえ噛まされて、唯一ひととコミュニケーションをとる手段として、伸ばされている手の近くにコールボタンが置かれている。
 それを押そうとして、自嘲がこみあげてきた。
 死んだ人間なのに、喉が渇くのだ。
 死んだのに。
 死んでいるのに。
 どうせなら本当に死んでいればよかったのに。
 熱い塊が目元に溜まる。じわりと涙があふれ出した。
 自分は泣くことしかできないのかと思えば、情けなくてたまらなくなる。
 どうしてこんな目に。
 何度考えただろう。
 数え切れないほど考えて、いくら考えても答えの出ない悔しさに、すべてが虚しいものに思えてならなかった。
 喉が震えた。
 しゃくりあげる。
 涙を拭きたくてもそれすらできないのだ。
 郁也はきつく目を瞑った。
 コールボタンを押すつもりはなくなっていた。
 しかし。
 ふと、目の前が暗くなったような気がした。
「郁也さん、大丈夫ですか」
 目を開けるとそこに、エンリケの白い顔があった。
 目元を拭われて、顔が赤くなる。
「喉が渇きましたか?」
 慌てて首を縦に振る。
 口枷を外して、エンリケが少し迷うそぶりを見せた。
「水でいいのですか」
「水がいい」
 かすれた声は自分のものとは思えない。
 吸い飲みの飲み口をくちもとにあてがわれて、口を開けた。
 差し込まれた飲み口に吸い付く。
 水が喉を潤してゆくのを心地好く感じた。
 吸い飲みの半分くらいを夢中で飲んだ。
 朦朧と靄がかった頭がクリアになるような気がした。
「もう?」
「いらない」
 目を閉じて、口元に触れた口枷の感触にからだが震えた。
「いやだ」
 首を横に振る。
「自傷をしないと約束すれば、いつでもこれらは外してさしあげるのですけどね」
 それは返事を期待しない独り言のようだった。
「ほんとに?」
 郁也が反応するとは思ってもいなかったのだろう。
 かすかに目元を弛めてエンリケが郁也を見下ろした。
 黒い目に、郁也の背中が逆毛立つ。
「自傷をしない、点滴の管を外さない。このふたつを守ってくれるのでしたら、外してさしあげますよ」
 これくらいでしたら私の裁量でどうとでもなります。
「しない。約束する」
「本当にできますか」
 口も手も縛られているのは、本当に自分が死人になってしまったかのようで、辛くてならない。
 棺の底に横たわる死人のようだ。
 そのさまを思えば苦しくて辛くて、本当に死んでしまいたくてたまらなくなるのだ。
 何度も何度も死を弄び望んでいながら、自分がそこに行き着けないでいることを悔しいくらいに感じる。
 なのに、本当は、望むのと同じくらいの強さで、生きていることにも執着しているのだ。
 知っていた。
 死にたくない。
 死にたい。
 心が死を望んでも、からだはそれを良しとはしない。
 心とからだの間で、振り子のように、思考は揺れ続ける。
 けれど。
 揺れ続けるだけで、決して死が訪れることはない。
 思っても、願っても、死ねない。
 チューブからは自分を生に繋ぎとめる薬液が送り込まれてくる。
 どんなに願っても、これが毒に変わることはない。
 ならば、生きるしかないのだ――と。
 こんなにも狂いきった毎日を過ごしていくよりないのだろう―――と。
 郁也は思った。
 そうして、
「約束できるから、だから、はずしてほしい」
と、エンリケに告げたのだった。


 郁也が退院できたのはこのことがあってからほぼ一ヵ月後のことだった。



つづく




up 18:06:51 2009 10 22
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