もういやだ――と、郁也が喘ぐ。
全身を赤く染めて、涙をながす。
涙をすすり、肉を噛んだ。
より深く繋がりたいと、昇紘が郁也を抱き上げる。
悲鳴が郁也のくちびるからほとばしった。
膝の上で抱きしめる。
熱い。
愛しい。
すべてを自分のものにしてしまいたい。
自分の望みはそれだけだ。
それが何故わからないのだ。
苛立たしさに動きが激しくなる。
狭い内部が、きつく締めつけてくる。
郁也が首を横に振った。
乱れる髪の毛が、昇紘の頬を打つ。
「郁也…………」
耳元でささやいた。
名前を呼びつづける。
自分のものだ――と。
自分以外を見るな――と。
『親父さんのお人形に会ったよ』
今日の午後、書斎にやってきたクリスは開口一番そう言った。
『思ったほど擦れてないな』
含みを持たせたことばに、怒りが全身を駆け巡った。
全身が熱で熱くなる。
ほんの悪戯気分だったろうことは察しがつくが、
『なにをした』
確認せずにいられなかった。
『ほんのご挨拶だよ』
キスをね。
軽く返され、
『そうか』
と、つぶやいた。
他意なく泳いだ視線が、少し前に書斎に来たエンリケとぶつかった。
『どうした』
鏡のような目で、エンリケが昇紘を見返す。
その奥に動揺を見たような気がした。
『いいえ』
そう言うとエンリケは視線を落とした。
いつもの有能で忠実な秘書がそこにいるばかりだ。
しかし――と、昇紘は顧みる。
エンリケは変わったように思えた。
感じるか感じないか、かすかなものに過ぎなかったが、それでもたしかに、エンリケは変わった。
シニカルなポーカーフェイスがずれるときが、いつも郁也に関わる場面だと、気づいていた。
同情したか。
昇紘のいつも引き結ばれている口角が、かすかに震えた。
この部屋に移ってからというもの、郁也はやわらかな布張りのソファの上に膝を抱え込んで座っていることが多い。
何かをするということはなかったが、逃げようとすることもなくなっていた。
ドアを開けると、すばやく郁也が振り返った。
今日は窓から外を眺めていたらしい。
ベランダに向かうイギリス窓だが、郁也の入院中に窓の外にでられないようにと格子を取り付けさせていた。アールヌーボー的な曲線の格子は、一見装飾的だが、その目的はあくまで郁也を閉じ込めることにあった。
バスを使った後なのだろう。ほんのりと色づいた頬がパジャマの濃紺に映えて見える。
カーテンを握り締める郁也の手が白くなっているのが目に入った。
郁也に近づき、抱きしめた。
「なにをされた」
声が尖っているのが自分でもわかる。
腕の中で、たちまち郁也の全身が強張りついた。
見下ろした視線の先で、怯えて揺れる褐色のまなざしが逸らされ、次いで郁也がうなだれる。
涙で洗われたように濡れる瞳は、昇紘をまっすぐに見たことはない。少なくともあの日以来、まっすぐに自分に向けられたことがなかった。
真剣に未来を見据えていたまなざしは、恐れるものは何もないのだと希望に輝いていた。
しかし、今は逸らさ隠された瞳は涙に潤み、絶望に曇っているのだ。
なにもかもから目を逸らしつづけている。
「クリスはおまえになにをした」
「なにも」
震える声に、
「私を騙せると思っているのなら、間違いだ」
知っているのだと、ほのめかす。
郁也のくちびるが、震えた。
「知っているなら、聞かなくてもいいだろ」
反論は力ない。
「おまえの口から聞きたい」
顎に手を当て、持ち上げた。
惑うまなざしが、赤く染まっている。
「そこまで嫌がるというのなら、キス以外にもなにかをされたのだと想像するが、かまわないのだな」
息を呑む気配の後に、
「オレが悪いんじゃない」
ポツリと小さくつぶやいた。
「そうだな。おまえはなにひとつ悪くはない」
そんなことはわかっている。
しかし、
「それでも、だ」
渦巻く感情はことばにならない。
これが嫉妬だということはわかっている。
無防備な郁也に対する嫉妬と、父親のものに気軽に手を出した息子に対する怒りとが、綯い交ぜになっていた。
「私以外がおまえに触れた。この事実の前にはなにほどでもない」
口調が冷たくなった。
感じたのだろう、郁也が腕の中から逃れようと暴れだす。
「おとなしくしていろ」
獣のように低く唸る郁也をきつく拘束する。
自分以外のものの感触を消すように、きつく舌を絡めて深くくちづけた。
どうしようもない。
自分のものを他人に奪われることこそが、昇紘がなによりも恐れ嫌うものだった。
特に、郁也を誰かが奪う。
郁也が誰かに奪われることを考えるだけで、心が焼けつくほどの怒りを覚えた。
郁也が自分以外に心を向けることがあるかもしれない。そんな可能性を考えるだけで、絶望に心が苛まれるのだ。
忙しない息の下、郁也の全身から力が抜けてゆく。
やわらかなソファの上に押し倒す。
パジャマをたくしあげ、嫌がる郁也の肌に手を滑らせた。
「触られたのか」
ささやかな胸の尖りを指の先でつぶした。
首を横に振る。
「これだけでことばを紡げなくなるくせに」
本当ならば快感に弱いだろう郁也の頑なさに苛立ちがつのる。これもまた自分が郁也に刻み込んだ反応なのだと理解しながらも、微笑み抱き返し甘い吐息をこぼして欲しいと、強く感じずにはいられなかった。
そうすれば、おそらくはこの苛立ちも消えるのではないか――と。
くるくると指先で転がすように撫でさする。
「素直に快感に従えばいい」
褐色の髪がソファの生地に触れてぱさぱさと音をたてた。
「強情な」
いつもは愛しささえ覚える郁也の行動が、気に障ってならなかった。
「それほど」
口を突いて出かけた自虐のことばを、しかし、昇紘は最後までつづけることはなかった。
聞くまでもないことだったからだ。
そう。
郁也がどれほど自分を嫌っているかなど、今更だった。
自覚など腐るほどある。
「くそっ」
吐き捨てた自分の口調の激しさに、郁也が目を見開くのが見えた。
褐色の瞳は怯えている。
快感など感じていないのだ。
「郁也…………」
噛みしめたくちびるから、単語が転がり落ちた。
己のものとは思えないほど弱々しい響きに、昇紘は刹那瞳を見開き、くちびるを噛みしめた。
郁也からからだを離す。
そうして、昇紘は、ただ混乱する郁也を残して部屋を後にしたのである。
つづく
up 16:28:46 2009 10 29
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