in the soup  12




 朝からの突然の慌しさが何のためなのか、郁也が知ったのは強要された着替えのあと車のリアシートに押し込められてからだった。
 昇紘が何を考えているのかわからない。
 ただ、先日言ったことばを撤回したのだけはわかった。
 昇紘のほかにクリスとエンリケが車には乗っている。
 エンリケに休みはあるのだろうか?
 ふいにそんな疑問が郁也の脳裏を過ぎった。
 秘書だとしても、休日くらいあるだろう。
 なのに、いつも彼はあの家にいる。
 住み込みなのだろうか?
 ぼんやりと助手席に座っているエンリケを見ながら考えていた。
「何を考えている」
 いきなり顎をとられて、郁也は大きく震えた。
 右隣にクリス左隣に昇紘という居心地の悪さを思い出す。
「ど、どこに………」
「気分転換だ。一週間ほどxxで過ごす」
 車で数時間くらいの距離の移動ならお前にもさして負担にはならないだろう。
 場所が聞き取れなかったが、どうせさして重要じゃないと、郁也は聞き返さなかった。どういう気まぐれか屋敷から出してもらえたことを嬉しいと思うよりも、不安に思うほうが強い。それに、向かった先でもどうせ自由はないのだろうと思えば、どうでもよくなる。場所は変われど、することはなんら変わらないのに違いないのだ。
 クリスが来た日の夜以来、昇紘とのそうした接触はなかった。
 いつ来るかと怯える日が一日二日と続き、五日が過ぎた頃、息子がいる時にはそういうことはしないのかもしれない。と、郁也は思い至り、なんだか可笑しくなった。
 そうしてほんの少しだけ肩の力を抜いたタイミングで、車に押し込められたのだ。
 窓の外を眺めたかった。
 屋敷の庭以外を見るのはどれくらいになるだろう。
 もちろん、病院の庭以来だが。
 クリスの向こう側の窓の外、景色が流れて去ってゆく。
 夏なのか。
 あまり意識はしていなかったが、考えれば夏だ。
 この国の夏休みは三ヶ月近くあったはずで。この休みを終えれば学年がひとつ進むはずだった。
 書きかけのレポート、読みかけの資料。そんなものは多分、処分されただろう。
 本当の自分は既に殺されているのだと、思い出す。
 ここにいるのは、ただの抜け殻なのだと。
 すべてを奪われつくした、生ける屍に過ぎないのだ。
 銀の弾丸で打ち抜かれて、どろどろに溶け崩れてしまえればいいのに。
 遮光ガラス一枚隔てた外を透かし見ながら、郁也はぼんやりと己が朽ちてゆくシーンを思い浮かべていた。
 この状況で眠れるはずがない。
 そう思っていた。
 左右を苦手とする人間に挟まれて、どうして眠れるだろう。
 しかし、存外自分は図太い性質なのかもしれないと、郁也は思わずにいられなかった。
 気がつけばそこは広い寝室だったからだ。
 キングサイズの広いベッドの上に、郁也は横たえられていた。
 大きな一枚ガラスの窓から夏の日差しが差し込んでいる。
「開かない……」
 ベランダがないことを鑑みれば、開かない窓は正解だろう。
 地上何十階もの高さを見下ろせば、足元が揺らぐ。
 こんもりと茂った緑が心地よさそうに見えた。
「どこなんだろう」
「あれは国立公園だ」
 同じ名前の橋があったなと、郁也は振り返った。
 そこに、生成りのサマーセーターにスラックス姿の昇紘を見、郁也は知らず目をしばたかせていた。
 そういえばと思い返す。
 昇紘のビジネススタイル以外を見たことはなかったような気がする。
 歳の割りに引き締まっている昇紘のからだのラインが不意に脳裏を過ぎった。
「どうした」
「な、なんでもないっ」
 顔を背けた。
「たまにはクリスの提案に乗ってやるのもいいだろう」
 あれが遊びたいだけかもしれないがな。
 あれの好みにしては健全ではあるが。
 つぶやく声とともに、抱きしめられた。
 からだが強張りつく。
「あいかわらずだな」
「ああ、いい折りだ」
 抱きしめたばかりの郁也を解放し、昇紘が寝室を出てゆく。
 詰めていた息を吐き出して、郁也は手近のソファに頽おれるように腰を下ろした。
 二十畳ほどはあるだろう寝室には、ベッドとソファセット以外は手の込んだ細工が施された箪笥が数棹据え置かれている。余裕のあるスペースに扉は三つ。ひとつはついさっき昇紘が出て行ったドアである。残りの二つはどこに通じているのか。なんとなく予測できるような気がして、ふらりと郁也は立ち上がった。
「やっぱり」
 黒大理石と金とがふんだんに使われたバスルームは、それだけでも十畳はありそうに見えた。
 白い大理石の浴槽の広さも、半端ない。
 近寄れば、既に浴槽には湯が張られ、はなびらが浮かんでいる。中を確認するまでもなくジャグジーに違いない。
 浴槽の向こうは全面のガラス窓だ。
「なんだってこんな……」
 まるでずいぶんと昔のトレンディドラマのハネムーンカップルが泊まるような、デラックススウィートじゃないか。
 それも超がつくくらいの。
「気色悪い」
 ぞっと鳥肌が立った。
 あの男が何を考えているのかは知らないが、ろくでもないことに違いない。
 そうして、そのろくでもないことは、たいてい、自分に降りかかることになる。
 バスルームを後にした郁也が元のソファに腰を下ろしたとき、昇紘が戻ってきた。
 手には何か小さな箱を持っている。
 なぜだか郁也の背中に鳥肌が立った。
 ソファの背にからだを押し付けるようにして、すぐ目の前に立つ昇紘を見上げる。
 昇紘が開いた紫紺のベルベットでコーティングされたその箱の中には、緑の石のピアスが一対鎮座している。
 エメラルドなのか、深い緑の石が陽射しを弾いてきらめく。
 まさか――と、思った。
 次いで、それが確信に変わる。
 ざっと音たてて、血液が下がるのが感じられた。
「い、嫌だ」
 首を左右に振る。
「薄い耳たぶだ。すぐに済む」
 耳朶を掴んで、昇紘がなんでもないことだと断じる。
「い、いたいのはっ嫌だっ」
 耳朶に穴をあけるだなど、信じたくなかった。
 メジャーなオシャレのひとつだということは知っている。それこそ、耳朶どころじゃなく色んなところに色んなピアスをつけている輩がいることも知っている。
 それでも!
 自分は決してピアスをつけないだろうと、郁也は確信していたのだ。
 別段先端恐怖症というわけではない。それでも、自分のからだに穴を開けるなど、怖気が走る。
 子供じみた恐怖に、からだが震えるのを抑えることができなかった。
 涙がこみあげるのを堪えることができなかった。
「子供でも平気であけているだろう」
 そんなことを言われても、嫌なものは嫌なのだ。
 口には出せないが、なにが嫌と言って、この男にされると考えただけで、心臓が捻り潰されるかのように痛むのだ。
「これを我慢してつけるか、首輪をつけるか――だ。選べ」
「くびわ…………」
 思いもよらない単語を、郁也は反芻していた。
「首輪がいいのか」
 昇紘の声に、我に返る。
「ち、ちがう」
 息を吐いて、昇紘が声の調子を落とした。
「ここに滞在する間、どちらかをつけると言うのなら、外に出してやろうと言うのだ」
「ほ、ほんとにっ」
 脊髄反射のようなすばやい反応に、昇紘の頬が引き連れるような笑みを描く。
「せっかくの保養地だ。そのかわり、決して逃げようとはするな」
 きついまなざしに、郁也が瞬時にして青ざめる。しかし、そのまなざしは、これまで昇紘が見たことがないほどきらめいていた。
 何度もうなづきを繰り返す郁也に、
「それで、どっちを選ぶ」
 昇紘が畳み掛ける。
「ピ、アス」
「いいだろう」
 こっちだ。
 ソファの上、昇紘が腰を下ろす隣に郁也の手を引いた。
「そんなに震えて私の熱を煽るな。今日はお前を抱くつもりはないのだからな」
「ほ、ほんとに?」
「ついたばかりだ。疲れているだろう」
 耳朶を手に器具をあてがおうとする昇紘の、思いもよらない労りのこもったような声が、近い。
「抵抗するな。ピアスをつけるだけだろう」
 反射的に顔をよじろうとする郁也に、昇紘が小さく舌うちをする。
 それだけで、郁也が大きく震えた。
「待っていろ」
 立ち上がった昇紘が部屋を出て行く。
 それをぼんやりと見送りながら、郁也は深い息を吐き出していた。
 小刻みな震えは止まらない。
 血が下がってしまったような錯覚もある。
 外に出してもらえると言うのなら、我慢できる。
 そう思ったのに。
 昇紘が傍にいるというだけで、その手がからだに触れているというだけで、全身で拒絶してしまうのだ。
 怖くてたまらないのだ。
 今はまだ比較的穏やかだが、昇紘の地雷を、いつ踏んでしまうかわからない。そんな不安がある。
 あの男の逆鱗に触れようものなら、何をされるかわからない。
 外出できるというのも、駄目になるかもしれないのだ。
 外に出たい。
 もう逃げようとは思わない。
 逃げれば、父の身に何が起きるかわからない。この国と故郷の間にどれだけの距離があっても、あの男には問題にはならないに違いない。やると言ったら、やってのけるだろう。
 もう、自分のことは諦めた。
 残されているのは、ただ、絶望だけだ。
 それと、恐怖と。
 なさけない。
 男なのに。
 英語だけじゃなくしっかり語学を身につけて、将来は通訳になるのが夢だった。
 パソコンが壊れたりしなければ、条件がいいからと面接を受けなければ、こんな目に合うことはなかっただろう。
 セックスなんか痛いだけだ。
 セックスが気持ちいいなんて、嘘だ。
 からだは機械的に反応を返すけど、それが気持ちいいと思ったことなんかない。
 ただ、苦しいだけだった。
 痛いだけだ。
 気持ちが悪いだけなんだ。
 セックスなんかしたくない。
 なのに、あの男が自分に求めているのは、それで。
 自分の存在意義というのが、それだけでしかないことが、尚一層のこと郁也を絶望へと突き落とすのだ。。
「ばかみたいだ………」
 つぶやいて、郁也は肘掛に顔を伏せた。
 酷く長い時間待たされたように感じたが、実はそんなに経ってはいなかったのだろう。
 昇紘は、エンリケを連れていた。
 既に説明は終えているのだろう。
「え?」
 昇紘はソファに腰を下ろし、郁也を抱き寄せた。
「やだっ」
 思わず口を突いて出た拒絶のことばに、昇紘が郁也を膝の間に抱きかかえきつく拘束する。
「やれ」
 震える郁也の薄い耳朶をエンリケの冷たい指先が摘んだ。
 刹那、郁也のくちびるから、自身意識してはいないだろう深い吐息がこぼれた。
 そうして、震えが止む。
 ガシャン――
 大きな音がして、耳朶に熱い痛みが走った。
 そうして、もう一度同じことが繰り返される。
 終わった。
 郁也が肩で息をついた。
 ジンジンとした痛みと熱を耳に感じる。
 立ち上がろうとしたときだった。
「えっ?」
 手首をきつく鷲掴まれた。
「ひっ」
 郁也の喉が鳴る。
 疼く耳朶を昇紘のくちびるが、挟み込んだのだ。
「なんでっ」
 エンリケがまだそこにいる。
「なにがだ」
 昇紘の平坦な声に、郁也は気づかない。
「今日はしないって言った」
 涙がこみあげてくる。
「お前が私の熱を煽るからだ」
 顔を覗き込まれて、その黒い瞳の奥に、欲望と何故なのかわからない苛立ちのようなものを見出したような気がして、郁也の背中が逆毛立った。
「煽ってなんか、ないっ」
 涙がこみあげてきた。
「うそつきっ」
 勢いに任せて叫んだ刹那、頬が鳴った。
「私は裏切りは許さない」
 そうだな、エンリケ。
「はい。ボス」
「私を裏切ったものがどうなってきたか、お前は知っているな」
「はい」
 郁也は、呆然と二人のやり取りを見ていた。
 熱を持った頬に、涙が冷たい軌跡を描く。
「エンリケ、そこに立っていろ」
 昇紘の言葉の意味を郁也が把握するまでに、暫くかかった。
 理解した途端、逃げようと、もがく。
 昇紘から遠ざかろうと、からだをよじらせた。
 しかし、郁也は昇紘にすっぽりと抱えられているのだ。
 逃げられるような隙などもとよりありはしない。
「い、いやだっ」
 昇紘のくちびるや歯や舌が、耳朶を舐め舐る。
 昇紘の掌が、胸元を這う。
 昇紘の手が、郁也の顎を支えている。
 郁也の腰に当るのは、間違いなく、昇紘の欲望の滾りだった。
 拒絶を繰り返す郁也に、昇紘は無言のまま、エンリケの目の前で蹂躙しつくしたのである。



つづく




up 20:45:06 2009 11 20
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