in the soup  13




「おや」
 知り合ったばかりの女性に軽く手を振って別れたクリスは、ホールのソファに腰をかけているエンリケに気づいた。
「禁煙ですよ」
と、タバコを取り上げる。
「クリスさん」
「おまえさんがタバコとアルコールとは珍しいと思ったが、火もついてないタバコとはね」
 全部貰っていいよな?
 テーブルの上、琥珀の液体の残るグラスの横、パッケージとライターをスラックスのポケットにねじ込む。
 エンリケの目の前にどさりと腰を下ろして、奪った煙草をそのままくわえた。
 クリスが指を鳴らすと制服姿のボーイがやってくる。
「お客様お煙草はお控えください」
「火はつけないつけない」
 にやけてコーヒーを注文する。
 ひらひらと手を振って、ボーイを見送る。
「なにがあった?」
 エンリケの黒い瞳を、よく似た黒い瞳が覗き込んだ。
「べつになにも」
「ってツラじゃないだろ」
 いつもすかしてるお前とは思えないよな。
「原因は、弟クン……か」
 運ばれて来たコーヒーを一口飲んで、クリスが一人語散た。
 ぼんやりと何かを堪えているかのように見える虚ろな一対のまなざしが、宙をさまよう。
「惚れた…………か?」
 かすかなまなざしの揺らぎに、クリスは答えを知る。
「堅物ってぇ噂のあんたがねぇ。まぁ、親父殿も堅物だしな。弟クンは、そういうのに惚れられるタイプなのかねぇ」
 溜め息が漏れる。
「切ないね」
 確かにタバコとアルコールでもなけりゃあ、やりきれないか。
「クリスさん」
「どうした。突然あらたまって」
「お願いがあります」
「はは。怖いね」
 頭を下げるエンリケに、クリスがおどける。
「私はもう、おそらく彼には近づけないでしょうから」
 けれど。
 あなたなら、ボスもそう嫌いはしないでしょう。

「とは言われてもねぇ………」
 火のついていないタバコがクリスのくちびるの間で上下に揺れる。
 父親たちが泊まっている部屋のドアの前で、クリスは肩を竦めた。
 ホールには専用のコンシェルジュがデスクについて、用事を申し付けられるのを待っている。
 その視線を感じながら、クリスはドアを開けた。
 玄関を模したような小さな部屋が現れ、その奥に、広いリビングが広がる。豪華な飾り付けのゆったりとした空間のどのドアを開ければ、郁也がいる寝室があるのかあらかじめ教えられていた。



「大丈夫……じゃないよなぁ」
 嘯くような声に聞き覚えがある。
 そう思ったものの、郁也は、動かない。
 今の自分の格好は、見られたものではないだろう意識はある。しかし、少しでも動こうものなら、おそらくは、今も自分を苛み続けている忌まわしい器具の存在を他人に知られてしまうだろう。
 なぜこんなものを。
 それ以前に、どうして、あんなことを。
 あの男の機嫌を量るのが難しいことは骨身に沁みてはいるものの、まさか、人前でされるだなど、考えたこともなかった。
 エンリケの目がそらされることもなく、自分に向けられていた。
 ひとに見せる行為じゃない。見られて嬉しいはずもない。なのに、あの男は、自分が泣き叫びながら無理矢理イかされ、あの男を受け入れる所を、さいごまで、エンリケに見させたのだ。
 何が原因だったのだろう。
 わからない。
 わかるはずがないのだ。
 あの男が考えることなど。
 ピアスをつけさえすれば外に出してもらえると、あんなに我慢したというのに。
 耳の痛みも、まだ苛まれている箇所の痛みも、じくじくと疼く。
「おい。郁也……だったよな? このままじゃ風邪を引くぞ」
 この声の主が誰だったか。
 ああ。
 クリスとかいったはずだ。
 義理の兄という続柄になる相手を思い出す。
 出会い頭の最低な挨拶にからだがこわばり、痛みが走った。そのはずみに無機物に苛まれている箇所が、脈動を激しく刻む。
「起きれるか?」
 目が覚めているのは、知られているらしい。
 それでも、従う気にはなれなかった。
 どうしてなれるだろう。
 クリスは、あの男の息子だというのに。
 そうだろう?
 あんな男のこどもなのだ。
 それに、クリス自身、オレにあんなことをしでかしたのだ。
 あのおかげで、オレはあの後また、酷い目にあった。
 何くれとなくいちゃもんをつけてオレをいじめることがあの男のストレス解消なのじゃないかと思えば、クリスとは関わらないほうがいいに決まっている。
 放っておいてほしかった。
 動くことを考えるだけで、ぞっとする。
「放っておいてくれ」
 やっとの思いで言ったのに、
「クーラーも効いている。サマーセーターを羽織ってるだけでは風邪を引くぞ」
 そう言って、クリスが肩に手をかけ引っ張った。
「ひっ」
 体内の異物が角度を変える。
 痛い。
 痛くてたまらない。
 出したい。
 出してしまいたい。
 けど、出したりしたら、怒られる。
 怒られるのだ。
 気絶寸前の朦朧となった意識の中で、
『私が戻るまで出すんじゃない』
 出したりしたら、酷いぞ。
 そんな風に言われたような気がする。
 泥の中に埋まったような、怠くてたまらない全身を、クリスに引き起こされて、郁也は、脂汗を流した。
「そら。バスを使うといい。換えの服がないなら、コンシェルジュに買って来てもらおう」
 Tシャツとジーンズでいいだろう。
 親父さんの趣味はフォーマルすぎるからなぁ。
「くぅっ」
 抱え上げられて、異物が動く。
 出したい。
 痛い。
 出してしまいたい。
 けど、昇紘も怖い。
 どうすればいいのか、わからなくなっていた。
「じっくりあたたまるんだぞ。夏の風邪は長引くし辛いからな」
 大理石のバスタブにからだが沈んでゆく。
 クリスがバスルームを出てゆくのを見るともなく見やりながら、郁也は、からだのこわばりがほぐれてゆくのを感じていた。
 しかし。
 からだの奥から器具がおりてくるような気配に、鳥肌が立つ。
 駄目だ。
 泣きたい気分で、郁也が力をいれる。
 刹那に走った痛みに、バスタブの中で足が引き連れるように震え、滑った。
 悲鳴を上げる間もなく、気がつけば湯の中でから天井が揺れるのを見上げていた。
 遅まきに伸ばした手が、浴槽の縁にとどかない。
 焦りが激しくなり、息が苦しくなる。
 足が滑る。
 どこが浴槽の縁なのか。
 ただ闇雲に暴れて、自分がパニックを起こしていることにすら、郁也は気づいていていなかった。
「何をやっている。バスタブで溺れ死ぬ気か」
 固くこわばりついた声は、一番聞きたくない声だった。
   一番いてほしくない存在だった。
 なのに。
 郁也は、自分の次の行動を、信じられない思いで反芻した。
 なんで。
 いったい、どうして。
 空気を吸った反動で、肺が悲鳴を上げた。
 苦しさにからだを縮こまらせたその背中に、昇紘の掌が触れた。
 いつもなら、からだをこわばらせて、やり過ごすというのに。
 何が起きたのか、郁也には、わからなかった。
 信じられなかった。
 郁也は、昇紘の飽いているほうの腕に、しがみついたのだ。
「ごめんなさい」
「もう、出して」
「お願い」
「苦しい」
と、何度も繰り返しながら、泣きながら、しがみつき、そうして、抱きついた。
 誰に?
 最も嫌う相手に……だ。
 なぜ?
 どうして?
 これは、オレの、自分の意志じゃない。
 なにか、別の何かに操られているんだ。
 そう思うと、体温が下がった。
 足下が低反発マットのように不確かになる。
 ぐにゃりと、こどものいたずら書きのように、周囲の景色がすべて輪郭を崩れさせてゆく。
 嫌だ。
 嫌でたまらないのに。
 どうして、オレは、こんな行動をとっているんだ。
 目の前が薄青い紗の帳に覆われたと思った時、
 バカだよね。
 まったく。
 しばらく、眠ってなよ。
 そんな声を、聞いたと思った。



 自分以外に触られることを厭わない。
 それどころか、あれは、エンリケに触れられた瞬間、あれほどの震えを止めたのだ。
 無意識であったろうから、なおさら許せなかった。
 許す気にすらなれなかった。
 鷹揚な気分はすっかり消えていた。
 惹かれているのか。
 郁也は、エンリケに惹かれているのにちがいない。
 許せるわけがない。
 このごろのエンリケの郁也に対する態度を見ていて、ふっと嫌な気分になる。その理由がわかったような気がした。
 惹かれ合ってるのか?
 ふっと、疑惑がわき上がって来た。
 芽生えた疑惑は、たちまちのうちに昇紘の心に確信となって根づいた。
 そんなことがあっていいわけがない。
 血の気の失せた白い耳から、一筋血が流れている。
 日差しをはじいて光るエメラルドのピアスが、昇紘の目を射る。
 ひとまわり細くなったように見える、象牙の首筋に血が細く赤い線を描く。
 吐き気がこみ上げて来た。
 嫉妬だと、わかった。
 そう。
 この吐き気は、嫉妬のゆえなのだ。
 無様な。
 気づけば、立ち上がろうとする郁也を、抱きすくめていた。
 郁也の短い悲鳴に、吐き気が苛立たしさへと変貌する。
 発狂しそうだった。
 お前は、私のものだ。
 それがわからない少年に、怒りさえもがこみあげる。
 いっそ、食らってしまおうか。
 幾度そう思ったことだろう。
 この身に取り込むことが叶うなら、安心できるだろうか。
 衝動を堪えることはできなかった。
 ピアスに歯が触れて、かちりと固い音がした。
 熱が口の中に広がった。
「なんでっ」
 怯えるさまさえもが、心を捕らえて離そうとはしない。
 こんなにも自分を魅了する存在が、とるに足りない少年であることが、笑いを誘う。
 憎いのか、愛しいのか。判然としなくなる。
 苛立たしい。
「今日はしないって言ったっ」
 涙にかすれた声が、愛しい。
「お前が私の熱を煽るからだ」
「煽ってなんか、ないっ」
「うそつきっ」
 たたみかけるように叫んだ郁也に、思わず手が出ていた。
「私は裏切りを許さない。そうだな、エンリケ?」
 ことさらゆっくりと尋ねてみせる。
「はい。ボス」
「私を裏切ったものがどうなってきたか、お前は知っているな」
「はい」
 固い声だ。
 その裏側に、どれだけの感情を隠しているのか。
 その中には、郁也に対する情愛もあるはずなのだ。
 それを思えば、思い知らせずにはいられなかった。
 これは、この私のものなのだと。
「エンリケ、そこに立っていろ」
   エンリケの顔がこわばりつくかすかな変化を、昇紘は確かに見たと思った。
 意味を汲むまでにしばらくかかったのだろう、郁也が逃げようと藻掻きだした。
 愚かな。
 今更どうやって私の腕の中から逃げられるというのか。
「い、いやだっ」
 見せつけるように、思い知らせるように、涙で汚れた郁也の顔を、耳朶を、舐め、ねぶる。
 馴染んだ郁也の肌をこれ見よがしに、堪能する。
 首を振り、涙を流し、からだを固く竦めて、郁也は、抵抗する。
 そのさまがどれほど自分を煽るのか、この愚かなまでに頑な少年は、知らないだろう。
 滾る熱を、押し当てる。
 嫌だと繰り返す少年の声が、かすれ、嘔吐くように小さくなってゆく。
 その息が詰まった。
 掌におさまる熱が愛しい。
 握りしめ、撫でさする。
 全身を固くして、涙を散らせた。
 自分を受け入れさせる箇所をほぐそうと指を近づけると、拒絶するために力を込めた。
 ふん。
 ここしばらくというもの抱くことはなかったせいで、おそらくいつも以上に固く窄まっているだろう箇所は、そんなに力を込めると痛みだけを感じるだろう。
「罰だ」
 どうせ、苦痛しか感じていないだろう郁也に、この上痛みを与えたとしても、さほど違いはあるまい。
 だから、ほぐすのは、自分が痛みを感じるのを避けるためだ。
 郁也の背中が、奇麗に撓る。
 涙が、悲鳴が、散り、響く。
 この熱を、震えを、この締めつけを、感じることができるのは自分だけなのだと。
 見せつけ、思い知らせた。
「出て行け」
 掠れそうになる声を取り繕い、短く命令する。
 静かにエンリケが出てゆくのを目の隅で見送り、ポケットに手を滑らせた。
 出て来たのは、彼が言う所の“首輪”だった。プラチナの太めの鎖に通っているトップがきらめく。鎖が毛足の長いカーペットの間に音もなく落ちる。手に残った多面体の石を昇紘は、口に頬張った。
 後始末の後の生々しく色づいた箇所に、それを近づけた。
 冷ややかな感触に異常を感じたのだろう、弱々しい抵抗が、郁也の限界が近いことを教えていた。
「私が戻るまで出すんじゃない。出したりしたら、酷いぞ」
 ことさらに低くつぶやいて、指に力を込めた。
 緑色の透明な石が飲み込まれてゆく。それをひときわ奥へと押し込むと同時に、郁也が意識を手放したのがわかった。
 身につけたままだったセーターを脱ぎ郁也にかぶせた。
 そうして、昇紘は、主寝室を後にしたのだ。



つづく




up 20:18:58 2009 12 23
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