in the soup  15




 誰か、助けて。
 ベッドの中で、郁也は輾転反側を繰り返す。
 からだは泥のように辛い。
 何も考えずに眠ってしまいたい。
 けれど、意識の半分は、起きている。安息とはほど遠い思考を友にして、郁也を苦しめるのだ。
 どれだけ願いつづけているのか、郁也にももうわからなくなっていた。
 そうして、この願いが叶わないだろうことだけが、なぜかわかるのだ。
 それが、悲しくてたまらない。
 悔しいと思っても、どんなに悔しいと思っても、帰ってくるのは、自分の小ささや力なさばかりで情けなくなる。男と自分のあまりの力の差に、辛くてたまらなくなる。
 逃げても連れ戻されて、あげく、殺された。少なくとも、存在を消された。
 そうして、繋がれた。
 耳のピアスも首輪もさして変わらない。
 繋がれている証拠でしかない。
 繋がれて抱かれて、それで一生が終わってしまうのだろうか。
 助けて。
 昨日の悪夢が郁也を苦しめる。
 他人が見ている前で抱かれて、そうして、いやらしい道具を入れられたと思った。実際は道具などではなかったが、見もしなかったものの正体を知ったのは……そういえば、いつだったのだろう。ふと、郁也の心に疑問がわき起こった。見た記憶もないのに、かなり大きなエメラルドで、丸っこい多面体になるように細かなカッとがされていたのを、なぜだろう、郁也は知っていた。無機物がからだの中にある痛みと気持ちの悪さに、どれだけ苦しめられただろう。
 出してほしいと、まるで他人に操られるかのように、あいつに縋り付いた。
 そこまでは覚えている。
 しかし、以降は覚えていない。
 けれど、おそらく、あの後、意識のないまま、抱かれたのに違いない。
 からだの違和感が、苦しさが、その事実をつきつける。
 少しも願ってなどいないのに。
 それは、自分の望みじゃないのに。
 このままじゃ狂ってしまう。
 狂ったら、どうなるんだろう。
 狂っても、変わらないのだろうか
 それとも、狂えば解放されるのか。
 助けて。
 流れる涙を拭いた時だった。
 …… ボクが替わってあげる。
 そんな台詞が聞こえて来た。
 不思議だとも、おかしいとも思わなかった。
 替わったって意味がない。
 …… なにが? ボクがあいつの相手をしてやるんだ。君は眠っていればいいんだよ。
 でも、何をされているのか、知らないではいられない。
 あんなことをされて喜んでる自分なんか、知りたくもない。
 …… 気持ちいいだろう。
 オレにとっては、ただ辛いだけなんだ。
 …… どこが辛いって言うんだい。
 触られると鳥肌が立つ。キスされると、息が詰まる。ひとつになる時は、ただ痛いだけだ。これのどこが気持ちがいいんだ。オレはセックスなんか大嫌いだ。
 …… 触られるとうっとりするよ。キスされると、からだの芯が熱を持って、もっとしてほしいって思ってしまう。ひとつになる時は、頭の中が真っ白になってトリップできる。ボクはセックスが大好きさ。
 そんなの嘘だ。
 …… 本当さ。
 お前はなんなんだ。いきなりオレの中に入って来て。
 …… 今更だね。君が、からだの中に入っていたのがエメラルドだって知っているのは、ボクのおかげさ。
 誰だよ。
 …… そんな、泣きそうに聞かないでよ。
 だったら、言えよ。
 …… ボクは君さ。  嘘だ。
 …… 本当さ。
 オレは、あいつやお前みたいにセックスマニアじゃない。
 …… そんなの、気の持ちようさ。気持ちいいって思えば、好きになるさ。
 やめろっ。絶対にそんなことにはならないっ。
 …… なら、ずっと辛いままだよ。
 いい! あんなヤツに抱かれて気持ちよくなんかなれるもんか。それくらいなら死んだほうがマシだっ!
 …… 死ぬのは止めてよね。君が死ぬってことは、ボクも死ぬってことだから。
 オレの勝手だろ。
 …… 死ぬって言ったって、どうせ死ねやしないくせに。
 出てけよ。オレの中から出てけっ!
 …… イヤだね。半分はボクだからね。
 違う。
 …… 違わない。
 違うっ!
 …… 違わないよ。君がボクを作ったんだから。逃げつづけた君から、ボクは産まれたんだから。だから、責任として、半分は、ボクによこしてくれなきゃ。
 消えちまえ!
 …… ボクが消えたら、困るのは君だよ。セックス恐怖症の、郁也くん。
 嘲るような捨て台詞とともに、郁也の半分だという声は消えた。
 郁也は独りきり、たよりない眠りのただ中に取り残された。


 え? え? なに? オレはなにをやってるんだ?
 ゼラチン質の膜を数枚へだてたような、うすぼんやりとした状況が見えた。
 大勢の着飾った人間が、キラキラとした広い部屋の仲でさんざめいている。背中を大き刳ったドレスを着て、髪の毛を結い上げたりショートカットにキラキラとしたラメをるりかけたりした女性たち。男たちは、タキシード姿だ。天井には、シャンデリアが何機もぶら下がり、それでも足りないとばかりに壁にも小さな燭台のようなシャンデリアがある。立食形式なのか、花で飾られたテーブルの上にはたくさんの料理が湯気をたて、飲み物を運ぶウェイターやウェイトレスの姿もある。
 そんな中に、昇紘の腕を抱えるようにしてべったりと寄り添っている自分がいる。
 ぞっとするのに、離れたいと思ったのに、からだは言うことを利かない。
 いやだ。
 いやなんだ。
 なのに、思い通りにならない。
 涙すら出ない。
 声も。
 悔しいと思っていると、
「このひとたちと話がある。お前は離れていろ」
 そんな昇紘の声が聞こえた。
「はぁい」
 自分が言ったとは思えない暗い甘ったるい声に、ぞっと怖気が走った。
 誰だいったい。
 …… もう忘れたの? ひどいな。ボクだよ。
 あざけるような声が聞こえて来た。
 夢だと思い込もうとしたもう一人の存在が、現実だったのだと思い知らされる。
 そうして、自分の時間の何時間かがもう一人に奪われたということを知ったのだった。
 意識が無い間に自分が何をしたのか。
 嫌悪の戦慄が郁也を捕らえた。とはいえ、自分のからだだというのに、彼のからだは毫すらも動きはしないのだ。
 それどころか、勝手に動きだした。
 主導権をすっかり奪われている。焦れば焦るほど、もう一人の忍び笑いが突き刺さってくる。
 …… おとなしくしといでよ。
 …… そのほうが君にとっても楽なはずだよ。
 イヤだ。
 イヤだ。
 イヤなんだ。
 セックスは嫌いだ。
 吐きそうになるし、苦しくてたまらない。
 あいつにしなだれかかるなんて、もっとイヤだ。
 あいつを好きだと勘違いされるのを考えるだけで、ぞっと震えが来る。
 嫌でたまらないセックスを嬉々として受け入れていると思われるのなんか、もっとずっとイヤだ。
 けど、後になってそれを知らされるのも、苦痛でたまらない。
 返せよ。オレのからだだ。
 …… ダメだよ。静かにしといで。
 心の中での小競り合いは、しかし、郁也に不利だった。
 奥へ奥へと押し込められる。
 動けない。
 郁也にできるのは、もう一人の自分がすることを見ることだけだ。
 どうせなら、見せないでほしいと郁也は願う。しかし、
 …… ボクがすることを見とくといい。そのほうが楽だってわかるかもしれないしね。
 目指しているのは、あれは、クリスだ。
 クリスが笑って手を振っている。
「なに?」
 見上げている。
「変われば変わるもんだと思ってな。まるで、別人だぜ」
「別人だもん」
「おいおい、悪い冗談だ。あのおやじさんが、郁也以外を側に置くかよ」
 通りすがりのウェイターのトレイから取り上げたグラスを手渡される。
 金色の液体がグラスの中で揺らいでいる。
 ツンとオレンジと薬草とアルコールの匂いが鼻孔を射た。
「アドニスだ。飲んでみろよ。お前さんはどっちかっつうとアドニスよりも、ガニュメデスだとは思うけどな」
 あいにく、ガニュメデスってカクテルは知らない。
 ギリシア神話の美少年ふたりの名前を言って、クリスが片目をつぶった。
 ひとりはビーナスに愛された少年で、もうひとりは神々の酌をするために攫われ不老不死にされた少年だった。
 クリスの遠慮のないことばに、郁也はくすくすと笑っている。
「どっちにしても美少年だから、お礼を言うべきかな」
 そう言ってカクテルを一口飲んだ。
「……からっ」
「そうか? そんなに辛くはないと思うぞ。ちょうど甘辛度からいうと真ん中あたりのカクテルだ」
「ダメ。熱い」
 のど元をくつろげながら、
「外の空気吸ってくる。いいよね」
「大丈夫だろ」
 どうせここにいる奴らは、みんな親父の息がかかってたりするしな。
「ん。じゃね」
 ひらひらと手を振って、イギリス窓から庭に出る。
 夏の夜の馥郁とした、それでいて乾燥した空気が郁也を出迎えた。
 そこは、庭園だった。
 木の枝に絡められたイルミネーションが、空間を別世界に染め上げる。
 夜の闇に薫る花々の誘い。
 どこからともなく聞こえてくる水の音。
 その中に琥珀の光を瞬かせて、パーティ会場の影が浮かび上がる。
「所謂上流社会ってやつかぁ」
 マフィアって贅沢だよね。
 犯罪者なのにさ。
 軽く笑いながら、郁也は庭を散策する。
 空を見上げて、星の少なさに、溜め息をついた。
 このまま進めば、会場から出られるだろう。
 もうひとりの自分は、あまりにも嫌がるから、油断させられないのだ。
 逃げようと考えるなら、相手を油断させるのが一番だというのに。
 …… 違うかい?
 …… 昇紘は、ボクには興味ないんだよ。それは、抱かれてるとわかる。彼が執着してるのは、あくまで“オレ”のほうなんだからさ。ボクでいる限りは、監視の目だってきつくないよ。
 逃げる気なのか?
 …… まさか! そんな期待しちゃダメさ。こんなすぐじゃ、無理無理。もっとあの男を油断させて、できればボクなんか見たくないってくらいになってくれれば、逃げられるかもしれないけどね。でも、そうなれば逃げる必要も無く、追い出されるかもしれないな。けど、多分、夢だよね。クリスも言ってたじゃない。ボクというか、“オレ”はガニュメデスだって。あれは、不老不死にされてまで神々の宴席に縛り付けられた不幸な少年のことだよ。
 背後から何気ない風情でついて来ている男をちらりと確認する。
 …… まるっきり、“オレ”のことだよね。攫われて抱かれて縛り付けられてさ。逃げることもできやしない。たまの息抜きにまであんなやつがついてくるんじゃ。 「ほんと、イヤになるよね」
 言い捨てるや、郁也はダッシュする。
 突然の郁也の行動に、男は一瞬呆気にとられたが、すぐに我に返って、追いかける。
 昇紘の命令だろうと郁也は思った。
 逃がすつもりは少しも無いのだろう。
 こんな状況で逃げるなんて無理だ。
 元々逃げるなど無謀だとわかり切っていた郁也は、逃げるつもりなどありはしなかった。
 ただ、からかいたかったのだ。
 しかし。
「運動不足だね」
 どれくらい走っただろう。
 息が切れて足が重い。足の裏などジンジンと痛む。
 暗がりに暗がりを選んだせいか、男をまくことはできたようだ。
 ホッと気を抜いた時だった。
「おや。ミスター・籍の」
 背後から聞こえた声に振り向いた郁也は、そこに一人の男を見いだした。
 誰だったろう。
 首を傾げた郁也に、
「そんなに俺の印象は薄いかな」
と、肩を竦める。
 そのおどけたような態度とは別に、郁也を見下ろす両眼は、遠いイルミネーションを宿してなのか、不気味な陰影を見せているように見えた。
 ハンサムで甘いマスクの男が、髭のある口元に皮肉げな笑いを刻む。
「触るなっ」
 顎に伸ばされた手をはねつける。
「気が強いですね」
 楽しそうに笑いながら、叩き付けられた手の甲をさする。
「それは、ミスター・籍の躾か」
 ミスターはおまえには甘いようだしな。
 鼻で笑う。
「なんだよ。悪かったな」
 じろじろと見下ろしてくる男の視線に、いらだちが募る。
「君ていどの男娼なら、たくさんいると思うんだがな」
「オレは、男娼じゃない!」
 この男の相手をいつまでもしていてもしかたがないと、郁也は怒りのままにきびすを返した。
 男のことばに感情が高ぶり、いつの間にかからだの主導権を取り戻したことに気づかなかった。
「なら愛人か。ま、そんなことはどうでもいいことだが」
「違うっ」
 男のことばに足が止まった隙をつかれて、郁也は男に手首をつかまれた。
「イヤだっ。はなせよ。はなせっ」
 抗うも、いいようにいなされて、いつの間にか男の腕の中に抱きすくめられていた。
 郁也の鼻孔を、アルコールとタバコ、それにムスクの甘ったるい匂いが満たす。
「こんなところにキスマークをつけてるくらいだから、男にされることが好きなんだろう」
 耳の付け根をつつかれた。
 途端背中に走ったのは、羞恥と怖じ気と怒りだった。
 反射的に、向こう脛を蹴りつけていた。
「っ! ガキがっ!」
 その痛みにさすがに余裕を無くしたのだろう男は、郁也の頬を強かに張った。
 あまりの痛みに、目の前が真っ白になった。
 ガンと、後頭部が何かにぶつかり、背中がやはり何かにぶつかった。
 息が詰まる。
 痛い。
 気が遠くなる。
 男は地面に倒れた郁也を見下ろす。
 かすかな明かりの下でも、乱れたシャツの隙間から、郁也の耳の付け根から顎や鎖骨へのラインがみごとなことが見て取れた。
 男の喉が、知らずに鳴った。
 少年の薄い皮膚に陵辱の跡を刻みつけたいという、ミスターの心がわかるような気がした。
 くちびるが乾く。
 喉も乾く。
 くちびるを舐め湿し、男は郁也を茂みに引きずり込む。
 そうして、ボタンを外していった。
 はだけたシャツの下から現れた郁也の肌に、男の喉から含み笑いがこみ上げた。
 絶対零度の冷徹さを恐れられるミスターがこの少年にどれだけ溺れているのか、その証がそこにはまざまざと刻まれていたからだ。
 白人とは違う、黄色人種特有のなめらかな肌の上に、朱の跡がミスターの執着の証であるかのように、おびただしい数散っていた。
 男は郁也の首筋に自分のくちびるを落とした。
 弾力のある肌に噛みつき、きつく吸い上げた。
 郁也が失いかけた意識の下で、呻く。
 その声が嬌声に変わったのを聞きたかった。
 肌に直接空気を感じたせいか、首筋を吸い上げられたせいか、ぴんと存在を主張する胸の飾りに男の視線が移る。
 男の手と頭が、郁也の胸元へと近づいていった。
「ひっ」
 掠れたような小さな悲鳴が耳を打つ。
 ぴちゃりと濡れた音が、忍びやかに響いた。


 郁也は途切れそうになる意識を必死に繋ぎ止めようとしていた。
 逃げなければ。
 男が何をしたいのかが、痛いくらいにわかったからだ。
 だめだ。
 なんども首を振る。
 必死に抗おうとするものの、全身に力が入らない。
 そんな時だった。
 胸元に濡れた感触と乾いた感触とを感じたのは。
 喉が震えて、悲鳴が押し出された。
 助けて。
 声にならない悲鳴が、喉を震わせる。
 込み上げる涙に、視界が曇る。
 助けて。
 誰でもいい。
 助けてくれるのなら、誰だってかまわない。
 助けてくれたら、逆らわないから。
 逃げない。
 もう、逃げないようにするから。
 そこまで考えて、我に返る。
 ぞっと、男に与えられるものから生じたのではない悪寒に、郁也の全身が大きく震えた。
 まさかと、思った。
 自分が誰に助けを求めているのか。
 なぜ。
 どうして。
 しかし、痛いくらいの疑問とともに、自分を助けることがあの男の責任であり義務なのだと、自分がいつしか思っていたことに気づかされる。
 一度として、あの男に救われたことも、ましてや助けられたことさえもありはしなかったが。
 自分を縛りつづけるあの男の義務なのだと。
 責任なのだと。
 自分はあの男に従属することを、いつしか肯定してしまっていたのだろうか。
 そんな。
 愕然と郁也の思考が、止まる。
 同時に、動きまでもが、止まった。
 それを、男は、諦めと取ったのか、黙認と取ったのか。
 郁也は、ウエストに男の手がかかったのを感じた。
「イヤだっ!」
 やっとのことで、悲鳴が喉を裂いた。
 と、男以外のひとの気配が近づいてくるのを、過敏になった郁也の全身が、感じ取る。
 やはり気配に気づいたらしい男が身繕いをして去って行く。
 その数瞬後に、茂みをかき分ける音とともに、
「誰かいるのか?」
と、聞き慣れた声が郁也の耳に届いたのだった。



つづく




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