in the soup  16




「大丈夫でしたか?」
 月のない空の下、遠い常夜灯の明がかすかに少年を照らし出す。
 大丈夫ではないだろう。
 乱れた着衣が、物語るのは、少年が受けたであろう暴行の痕跡だ。
「だ、いじょうぶ。最後まではされなかった…………」
 震える手が、着衣を整えてゆくのを、エンリケは静かに眺めていた。
 先ほどパーティー会場で見た少年とは、まるで違う印象を受ける。
 いつもの少年だ。
 いったい何が少年に起きたのか。我が目を疑わずにはいられなかった。それほどの変貌を、少年は遂げていたのだ。
 ボスの手を抱きかかえるようにしてしなだれかかり、甘過ぎる笑みを口元にたたえ、媚びすら含んだまなざしの色は、ひとの熱を煽る艶すら帯びているかのように見えた。そんな少年を見た瞬間、ぞっと、背中に震えが走った。
 それは、決して、心地の良い震えではなく。
 まぎれもない、嫌悪だった。
 なぜだと、思った。
 哀れなまでに頑な少年は、どこに消えたのか。
 自分が愛しいと、そう思った少年は、まるで幻ででもあったかのように、影も形もない。いや、形はまぎれもなく彼そのものであるというのに、まとう雰囲気ひとつでこうも変わってしまうものなのか。
 その変化が、ボスのゆえなのだとしたら。
 身の内深くで沸き上がるのは、誰に対する怒りだったのか。
 理不尽な矛先の向かう先は、ボスなのか、それとも、少年なのか。
 こみ上げてくるものを抑えて、エンリケは、少年から視線を逸らせた。
 しかし、逸らせつづけることさえできなかった。
 彼は、まぎれもなく、郁也なのだ。
 そう思えば、彼を忌避するのと同じ心が、彼の姿を求めずにはいられなかったからだ。
 だからこそ、助けることができたのだ。
 庭に出る少年に、不安が芽生えた。
 嫌な予感だった。
 ただの杞憂に過ぎないと、自分を嗤う。しかし、それは、消えなかった。
 そうして。
 こうして少年を身近に感じていられるのは、幸運なのか、不運なのか。
 まざまざと見せつけられた、ボスの少年に対する執着の凄まじさを思い返す。
 思い出すのは、少年の耳にピアスをつけたあの日の出来事だった。
 少年から立ちのぼっていた、体臭が甘くよみがえる。
 ボスに拘束されていた少年の痛々しいまでの震え。
 ただピアスの穴をあけるだけですよと、慰めてやりたかった。
 しかし。
 ボスの目は、よけいなことは口にするなと言っていた。
 震える少年の薄い耳たぶに手を触れた。
 そのとき、少年の震えが不思議に治まったのだ。
 おそらくはその事実が、ボスの逆鱗に触れたのだろう。
 そうして、薄々は彼の気持ちも、ボスは悟っていたのに違いない。
 あの手ひどい蹂躙のさなか、どれほど、「やめろ」と叫びだしたかったか。
 少年が微塵も快感を感じていないことが、見て取れた。
 喘ぎではなく悲鳴が耳を打った。
 感極まった顔ではなく、痛みに歪んだ顔が、その苦痛を伝えてくる。
 痛みを堪えようとソファの皮をかきむしる手の動き。
 引き連れるような足の震え。
 苦痛にのけぞる喉。
 食いしばって血をにじませたくちびる。
 悲鳴を放つために開かれたくちびる。
 眉がきつく寄せられ、つむった瞳からは涙が迫りあがりこぼれ落ちていた。
 どれひとつとっても、少年にとってセックスがただの虐待に過ぎないのだという現実が、苦く理解できた。
 そうして。
 同時に。
 少年のそんな姿に、確かに魅せられている自分がいることをも、痛いくらいに感じていたのだ。
 まぎれもなく。
 普通の勤め人とは違い裏社会に属する身には、ボスに逆らうイコール生命を賭けなければならないという現実がある。
 生命を賭けろというのなら、賭けてやろう。
 恋した者に命を賭けるなど、ロマンティック過ぎて笑えてくるが、それもまた、ひとつの生き方だろう。
 しかし、自分が恐れるのは、命を賭けることではない。
 何よりも恐ろしいのは。
 他ならぬ自分自身だ。
 そう。
 この身には、裏の社会に属して来た者の血が脈々と受け継がれている。
 ボスの手から少年を逃がせば、間違いなく、次は自分がボスと同じことを少年に強いてしまうだろう。
 救うつもりで、鎖してしまう。そうして、少年の血と肉と涙とを堪能する自分を容易く想像できた。
 自分もまた、ボスと同じ穴の狢でしかないのだと。
 少年を救ってやることすらできない自分自身を痛いほどに、感じたのだ。
 ボスは絶対である。
 そうだ。
 絶対なのだ。
 この身に流れる血を考えれば、少年に対するこの執着は、彼の絶対の遺伝の賜物となるだろう。
 趣味嗜好は、親に似るというではないか。
『お父さまが誰か、けして誰にも言ってはいけませんよ』
 そう微笑んだのは、最期のことばを告げるはかないひと。
 褐色の髪をした、エンリケの母親だった。
 全身に惨い傷を負いながら、それでも生き延びたその力強い生命力は、エンリケが五歳のときについに、失われた。
 ぼろくずのように森の奥に捨てられた血まみれの母を救ったのは、森の管理をする男だった。
 おそらくは母を害した者たちは、森の獣にでも始末をさせるつもりだったのだろう。
 東洋の血を引くのだという男が母を助けなければ、自分は産まれることはなかったろう。
 記憶を失っていた母は、死の間際にすべてを思い出し、そっと父親のことを教えてくれた。そうして、息を引き取ったのだ。
 自分はそのまま、森番の男の息子として育った。
 しかし、実の父親に対する興味は失せなかった。
 マフィアのボスであると言う、実の父親。
 どんな男なのか。
 知りたかった。
 だから。
 育ての父の死を契機に、新大陸にわたった。
 そうして、マフィアの入団試験を受けて今に至るのだ。



 そうとも。
 今の自分は、すべて、自分自身で選んだ結果だ。
 だから、結末がどうであろうと、悔やみはしない。
 覚悟を決めるように、エンリケは、瞼を瞑った。



 指が震える。
 シャツのボタンを留めるだけなのに。
 どうしようもないくらい、辛い。
 どうして、何度も男に襲われるのだろう。
 あの男は、自分のことを、男娼と蔑んだ。
 からだを触りながら、愛人とあざけった。
 ボタンが嵌らない。
 震えが、止まらない。
 どうして、ここは、こんなに寒いのだろう。
 こんなに、寂しいのだろう。
 ひとりぼっちだ。
 どうしようもないくらいに、それを感じる。
 たったひとりなのだと。
 郁也が震えた時だった。
「少し冷えてきましたね」
 エンリケが、着ていた背広を彼に羽織らせた。
 かすかなタバコの匂いが、鼻先をかすめる。
「部屋に戻りますか」
 質問のようで質問でないことばに、郁也は首を横に振った。
 どこにも居場所などないのだと、心が休まる場所などないのだと、今更ながらに、強く感じていた。
「夏とはいえ、少し冷えますからね。会場のほうに戻りますか?」
 今度のちゃんとした質問口調に、
「いやだ」
 郁也は力なく応じた。
「困りましたね」
 まだ、パーティーは終わりそうではないですが。
「では、少し、私につきあってください」
 夜露に当たると風邪を引くかもしれません。
 そう言って、エンリケは郁也の手を握る。
 見上げると、
「また迷子にでもなられると困りますからね」
 静かな声が降って来た。
 やさしいトーンの声に、泣きたくなった。
 ひんやりと乾いた掌は、少し固い。
 意外だった。
 重い物や荒事とは無縁に見えるエンリケの掌は、何となく温かくてやわらかいような気がしていた。
 エンリケに案内されたのは、パーティー会場に隣接する、小さなアクアリウムだった。
 青白い蛍光灯の下で、アクリルの水槽の中、色鮮やかな熱帯魚が眠ることも知らないように泳いでいる。
「こちらも会場のはずなんですけどね」
 夏だからという主催者の心配りでしょう。
 エンリケはそう言うものの、ひとの気配は他にないようだった。
 椅子のひとつもない空間に、なぜか、一段高くなった場所がある。
「座りましょう」
 うながされて、郁也は腰を下ろした。
 こぽこぽと泡の音だけが響く空間で、
「不思議と落ち着いてくるでしょう」
 オフの日はよくひとりでアクアリウムに出かけるのですよ。
 静かに、エンリケが喋る。
 その落ち着いたトーンに、郁也のささくれた心が、しんと静まっていった。
 ちらちらと光をはじく様々な魚たち。
「郁也さん?」
 いつしか、郁也は、エンリケの肩を枕に、瞼を閉じていた。
「眠ったのですか」
 心地好い声だ……と、郁也は思った。
 静かで穏やかなこの時間がいつまでもつづけばいいのに。
 心の底から、郁也はそう願った。

 髪の毛を誰かが触っている気配で目が覚めた。
 ぼんやりと、目だけを動かす。
 ああそうか。
 ここはアクアリウムで、隣にいるのは、エンリケなのだ。
 エンリケは気づいていない。
 眠ってしまったのか。
 耳に当たる肩から、小さくエンリケの鼓動が聞こえる。
 規則正しい。
 それは、まるで、エンリケ自身のようだ。
 マフィアとは思えないほど、規則正しい。
 郁也はそう思った。
 タバコの匂いが深くなったような気がしたと同時に、頭に何かが触れた。
 なんだろう?
 もういちど。
 誰かに頭を撫でられているかのような感触だった。
 ああ。
 エンリケか。
 けど、どうやって?
 エンリケの両手は自分に触れてはいない。
 ぼやけた視界の中、アクアリウムの魚たちがゆらゆらと揺らめく。
 酸素の泡が、かすかな音を立てて水中を上ってゆく。
 分厚いアクリル水槽に、自分の頭にくちびるを寄せているエンリケの姿が映って見える。
 何度も、何度も、エンリケは繰り返す。
 しかし、なぜだろう。
 嫌悪感もなにも、微塵も感じない。
 まだどこか夢うつつのまま、郁也は瞼を閉じ、エンリケのくちびるを受け入れる。
 だから、何が起きたのか、わからなかった。
 喉が詰まる。
 苦しい。
 振り向くまでもなく、涙でぼやけた視界の先に、昇紘の姿を見いだした。
 昇紘が、シャツの襟首を、まるで猫の仔でもつまむかのようにしてつまみ上げているのだ。
 息ができない。
 喉元を、両手で掻きむしるようにするが、ただ痛みと苦しみだけが返ってくるばかりだった。
 誰か。
 惑う視線のその先に、幾分か引き攣れたエンリケの顔がある。
 立ち上がろうとして、立ち上がることすらできないでいる。なぜなら、昇紘の連れている部下がひとりずつ、エンリケの肩を両側から押さえつけ、腕を背後で捕らえているからだ。
 エンリケっ!
 叫ぼうとして、喉がより一層詰まった。
 口元を、大きな掌が、覆う。
 薄暗くなってゆく視界の中、自分を見つめる黒いまなざしが、昇紘のものと重なって見えた。
 そうして、郁也の意識は、途切れたのだ。



つづく




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