「大丈夫でしたか?」
月のない空の下、遠い常夜灯の明がかすかに少年を照らし出す。
大丈夫ではないだろう。
乱れた着衣が、物語るのは、少年が受けたであろう暴行の痕跡だ。
「だ、いじょうぶ。最後まではされなかった…………」
震える手が、着衣を整えてゆくのを、エンリケは静かに眺めていた。
先ほどパーティー会場で見た少年とは、まるで違う印象を受ける。
いつもの少年だ。
いったい何が少年に起きたのか。我が目を疑わずにはいられなかった。それほどの変貌を、少年は遂げていたのだ。
ボスの手を抱きかかえるようにしてしなだれかかり、甘過ぎる笑みを口元にたたえ、媚びすら含んだまなざしの色は、ひとの熱を煽る艶すら帯びているかのように見えた。そんな少年を見た瞬間、ぞっと、背中に震えが走った。
それは、決して、心地の良い震えではなく。
まぎれもない、嫌悪だった。
なぜだと、思った。
哀れなまでに頑な少年は、どこに消えたのか。
自分が愛しいと、そう思った少年は、まるで幻ででもあったかのように、影も形もない。いや、形はまぎれもなく彼そのものであるというのに、まとう雰囲気ひとつでこうも変わってしまうものなのか。
その変化が、ボスのゆえなのだとしたら。
身の内深くで沸き上がるのは、誰に対する怒りだったのか。
理不尽な矛先の向かう先は、ボスなのか、それとも、少年なのか。
こみ上げてくるものを抑えて、エンリケは、少年から視線を逸らせた。
しかし、逸らせつづけることさえできなかった。
彼は、まぎれもなく、郁也なのだ。
そう思えば、彼を忌避するのと同じ心が、彼の姿を求めずにはいられなかったからだ。
だからこそ、助けることができたのだ。
庭に出る少年に、不安が芽生えた。
嫌な予感だった。
ただの杞憂に過ぎないと、自分を嗤う。しかし、それは、消えなかった。
そうして。
こうして少年を身近に感じていられるのは、幸運なのか、不運なのか。
まざまざと見せつけられた、ボスの少年に対する執着の凄まじさを思い返す。
思い出すのは、少年の耳にピアスをつけたあの日の出来事だった。
少年から立ちのぼっていた、体臭が甘くよみがえる。
ボスに拘束されていた少年の痛々しいまでの震え。
ただピアスの穴をあけるだけですよと、慰めてやりたかった。
しかし。
ボスの目は、よけいなことは口にするなと言っていた。
震える少年の薄い耳たぶに手を触れた。
そのとき、少年の震えが不思議に治まったのだ。
おそらくはその事実が、ボスの逆鱗に触れたのだろう。
そうして、薄々は彼の気持ちも、ボスは悟っていたのに違いない。
あの手ひどい蹂躙のさなか、どれほど、「やめろ」と叫びだしたかったか。
少年が微塵も快感を感じていないことが、見て取れた。
喘ぎではなく悲鳴が耳を打った。
感極まった顔ではなく、痛みに歪んだ顔が、その苦痛を伝えてくる。
痛みを堪えようとソファの皮をかきむしる手の動き。
引き連れるような足の震え。
苦痛にのけぞる喉。
食いしばって血をにじませたくちびる。
悲鳴を放つために開かれたくちびる。
眉がきつく寄せられ、つむった瞳からは涙が迫りあがりこぼれ落ちていた。
どれひとつとっても、少年にとってセックスがただの虐待に過ぎないのだという現実が、苦く理解できた。
そうして。
同時に。
少年のそんな姿に、確かに魅せられている自分がいることをも、痛いくらいに感じていたのだ。
まぎれもなく。
普通の勤め人とは違い裏社会に属する身には、ボスに逆らうイコール生命を賭けなければならないという現実がある。
生命を賭けろというのなら、賭けてやろう。
恋した者に命を賭けるなど、ロマンティック過ぎて笑えてくるが、それもまた、ひとつの生き方だろう。
しかし、自分が恐れるのは、命を賭けることではない。
何よりも恐ろしいのは。
他ならぬ自分自身だ。
そう。
この身には、裏の社会に属して来た者の血が脈々と受け継がれている。
ボスの手から少年を逃がせば、間違いなく、次は自分がボスと同じことを少年に強いてしまうだろう。
救うつもりで、鎖してしまう。そうして、少年の血と肉と涙とを堪能する自分を容易く想像できた。
自分もまた、ボスと同じ穴の狢でしかないのだと。
少年を救ってやることすらできない自分自身を痛いほどに、感じたのだ。
ボスは絶対である。
そうだ。
絶対なのだ。
この身に流れる血を考えれば、少年に対するこの執着は、彼の絶対の遺伝の賜物となるだろう。
趣味嗜好は、親に似るというではないか。
『お父さまが誰か、けして誰にも言ってはいけませんよ』
そう微笑んだのは、最期のことばを告げるはかないひと。
褐色の髪をした、エンリケの母親だった。
全身に惨い傷を負いながら、それでも生き延びたその力強い生命力は、エンリケが五歳のときについに、失われた。
ぼろくずのように森の奥に捨てられた血まみれの母を救ったのは、森の管理をする男だった。
おそらくは母を害した者たちは、森の獣にでも始末をさせるつもりだったのだろう。
東洋の血を引くのだという男が母を助けなければ、自分は産まれることはなかったろう。
記憶を失っていた母は、死の間際にすべてを思い出し、そっと父親のことを教えてくれた。そうして、息を引き取ったのだ。
自分はそのまま、森番の男の息子として育った。
しかし、実の父親に対する興味は失せなかった。
マフィアのボスであると言う、実の父親。
どんな男なのか。
知りたかった。
だから。
育ての父の死を契機に、新大陸にわたった。
そうして、マフィアの入団試験を受けて今に至るのだ。
そうとも。
今の自分は、すべて、自分自身で選んだ結果だ。
だから、結末がどうであろうと、悔やみはしない。
覚悟を決めるように、エンリケは、瞼を瞑った。
指が震える。
シャツのボタンを留めるだけなのに。
どうしようもないくらい、辛い。
どうして、何度も男に襲われるのだろう。
あの男は、自分のことを、男娼と蔑んだ。
からだを触りながら、愛人とあざけった。
ボタンが嵌らない。
震えが、止まらない。
どうして、ここは、こんなに寒いのだろう。
こんなに、寂しいのだろう。
ひとりぼっちだ。
どうしようもないくらいに、それを感じる。
たったひとりなのだと。
郁也が震えた時だった。
「少し冷えてきましたね」
エンリケが、着ていた背広を彼に羽織らせた。
かすかなタバコの匂いが、鼻先をかすめる。
「部屋に戻りますか」
質問のようで質問でないことばに、郁也は首を横に振った。
どこにも居場所などないのだと、心が休まる場所などないのだと、今更ながらに、強く感じていた。
「夏とはいえ、少し冷えますからね。会場のほうに戻りますか?」
今度のちゃんとした質問口調に、
「いやだ」
郁也は力なく応じた。
「困りましたね」
まだ、パーティーは終わりそうではないですが。
「では、少し、私につきあってください」
夜露に当たると風邪を引くかもしれません。
そう言って、エンリケは郁也の手を握る。
見上げると、
「また迷子にでもなられると困りますからね」
静かな声が降って来た。
やさしいトーンの声に、泣きたくなった。
ひんやりと乾いた掌は、少し固い。
意外だった。
重い物や荒事とは無縁に見えるエンリケの掌は、何となく温かくてやわらかいような気がしていた。
エンリケに案内されたのは、パーティー会場に隣接する、小さなアクアリウムだった。
青白い蛍光灯の下で、アクリルの水槽の中、色鮮やかな熱帯魚が眠ることも知らないように泳いでいる。
「こちらも会場のはずなんですけどね」
夏だからという主催者の心配りでしょう。
エンリケはそう言うものの、ひとの気配は他にないようだった。
椅子のひとつもない空間に、なぜか、一段高くなった場所がある。
「座りましょう」
うながされて、郁也は腰を下ろした。
こぽこぽと泡の音だけが響く空間で、
「不思議と落ち着いてくるでしょう」
オフの日はよくひとりでアクアリウムに出かけるのですよ。
静かに、エンリケが喋る。
その落ち着いたトーンに、郁也のささくれた心が、しんと静まっていった。
ちらちらと光をはじく様々な魚たち。
「郁也さん?」
いつしか、郁也は、エンリケの肩を枕に、瞼を閉じていた。
「眠ったのですか」
心地好い声だ……と、郁也は思った。
静かで穏やかなこの時間がいつまでもつづけばいいのに。
心の底から、郁也はそう願った。
髪の毛を誰かが触っている気配で目が覚めた。
ぼんやりと、目だけを動かす。
ああそうか。
ここはアクアリウムで、隣にいるのは、エンリケなのだ。
エンリケは気づいていない。
眠ってしまったのか。
耳に当たる肩から、小さくエンリケの鼓動が聞こえる。
規則正しい。
それは、まるで、エンリケ自身のようだ。
マフィアとは思えないほど、規則正しい。
郁也はそう思った。
タバコの匂いが深くなったような気がしたと同時に、頭に何かが触れた。
なんだろう?
もういちど。
誰かに頭を撫でられているかのような感触だった。
ああ。
エンリケか。
けど、どうやって?
エンリケの両手は自分に触れてはいない。
ぼやけた視界の中、アクアリウムの魚たちがゆらゆらと揺らめく。
酸素の泡が、かすかな音を立てて水中を上ってゆく。
分厚いアクリル水槽に、自分の頭にくちびるを寄せているエンリケの姿が映って見える。
何度も、何度も、エンリケは繰り返す。
しかし、なぜだろう。
嫌悪感もなにも、微塵も感じない。
まだどこか夢うつつのまま、郁也は瞼を閉じ、エンリケのくちびるを受け入れる。
だから、何が起きたのか、わからなかった。
喉が詰まる。
苦しい。
振り向くまでもなく、涙でぼやけた視界の先に、昇紘の姿を見いだした。
昇紘が、シャツの襟首を、まるで猫の仔でもつまむかのようにしてつまみ上げているのだ。
息ができない。
喉元を、両手で掻きむしるようにするが、ただ痛みと苦しみだけが返ってくるばかりだった。
誰か。
惑う視線のその先に、幾分か引き攣れたエンリケの顔がある。
立ち上がろうとして、立ち上がることすらできないでいる。なぜなら、昇紘の連れている部下がひとりずつ、エンリケの肩を両側から押さえつけ、腕を背後で捕らえているからだ。
エンリケっ!
叫ぼうとして、喉がより一層詰まった。
口元を、大きな掌が、覆う。
薄暗くなってゆく視界の中、自分を見つめる黒いまなざしが、昇紘のものと重なって見えた。
そうして、郁也の意識は、途切れたのだ。
つづく
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