in the soup  18




 気が狂うと思う。
 狂えばいいのにと、願う。
 全身が焼けただれるように痛い。
 喉は、声を出すことすら出来ず、腫れた瞼は、開くことさえ出来ない。
 息をしているのが、不思議なくらいだ。
 責め殺される。
 そう思った。
 恐怖に、全身がすくみ上がった。
 訳が分からないまま、手首をロープで縛られて、状況を理解しようとする間もなく、鞭がからだを引き裂いた。
 痛みから逃れようと思っても、手首の縄がそれを阻む。
 あげくの果てに、酷く抱かれた。
 あれは、酷い行為だった。
 つけた覚えがないというキスマークを、『誰につけられた』、『エンリケか』と、詰られ、慣らされることもなく貫かれた。
 あまりの苦痛に泣きわめいた郁也を、昇紘は、
『いつまで経っても慣れることのないお前が悪い』
と、そう笑った。
 慣れないから悪いと。
 慣れない自分が悪いというのか。
 あんなことに、慣れろと、昇紘は言うのだ。
 そうして、何よりも郁也に辛く思えたのは、エンリケもまた自分のことを抱きたいとそう考えているのだと言われたことだった。
 『馬鹿が』と、嘲られたことだった。
 そんなことあるはずがない。
 そうだ。
 エンリケは確かにいつからかやさしくなった。けれど、それが、昇紘と同じようなことを考えているからだと、そんな馬鹿なことがあるはずがない。
 エンリケが、自分のことを抱きたいと思っているなどあるはずがない。
 そんなことあっていいはずがない。
 そうだろう。
 自分はどこにでもいるただのガキなのだ。
 そんなものを抱きたがる男など、そんなにいるはずがない。
 いていいはずがない。
 なのにあの男は自分を抱くのだ。
 なのに、あの男は自分のことをエンリケも抱きたいと思っていると言うのだ。
 伸ばされる昇紘の腕が、エンリケに変わる。
 寄せられる昇紘の顔が、エンリケに変わる。
 熱が見せる悪夢に、郁也は苦しみつづけた。


 ひとの気配のない静かな部屋で,郁也は目覚めた。
 室内は薄暗い。
 明け方か、夜なのか。
 照明をつけようとは思わなかったが、上半身を起こす。
 背中が痛い。くらくらと視界が回る。
 いったい何日眠ったのだろう。
 上掛けの上にあったガウンを取り上げ,袖を通す。
 それだけの動きに、ふたたびめまいが呼び覚まされた。
 治療はされているらしく、包帯が巻かれている。それでもまだ塞がっていない背中の傷は、痛む。
 背中がどんなになっているのか、怖くて確認する勇気も出なかった。
 前の時よりも、一層酷い痛みに思えた。
 錯覚なのか、現実なのか、それはわからなかったが。
 熱を持って痛いのだけは、真実だ。
 郁也は深い溜め息をついた。
 幸せが逃げて行くのかと思ったが、今の自分のどこに幸せがあるのだろうと、そう思えば、何度溜め息をついても同じじゃないかと口角が持ち上がった。
 その時だった。
 ノックの音がして、返事を待たずドアが開かれた。
 照明が室内を照らした。
 目がくらむ。
 ベッドの上で全身をこわばりつかせた郁也の前に、クリスが立っていた。
 差し出されたコップを受け取る。
「好きなんだろ、オレンジジュース」
「ありがと」
「冷えてはないぞ。今のお前には冷えたのはきつそうだからな」
「いい」
 ゆっくり飲めと言われて、郁也はそっと一口ぶんを口に含んだ。
 とても久しぶりに感じる気がする甘い味に、なんだか、心が落ち着いて行くような感覚があった。
 ほっと、さきほどとは違う溜め息が、小さく口からこぼれ落ちる。
 視線をあげると、クリスが郁也を見下ろしているまなざしがあった。
「なに」
「あのな」
 気遣わしげな、何かを堪えるような、読み取りがたい感情の込められた瞳だった。
「ジュース、もういいのか?」
「え? ええとごちそうさま」
 コップをクリスの差し出す手に渡した。
 残っている液体を、クリスが煽るように飲み干す。
 それを呆気にとられて見ていると、
「あのな」
 もういちど、クリスが口を開いた。
「うん」
 なんだろう?
 ぼんやりとクリスがことばをつなげるのを待っていると、
「オレは、今日家に帰るんだ。そろそろ新学年の準備をしないといけないしな。なにより、オヤジさんに言われた。お前もわかるよな。オヤジさんの言うことは、絶対だ。逆らえない」
 そう切り出した。
 そうか。クリスは大学生とか聞いた記憶があったな。
 本当なら今頃自分も、色々と準備をするんだろうなぁ。
 遠くなってしまったごく普通の生活に思いを馳せる。
 悔しいとも、寂しいとも、不思議と思わない。
 もう、自分とは関係のない、別世界のことなのだ。そんな諦めが、郁也を取り込んで行く。
「それで?」
 先を促した郁也の耳に、
「もう俺は、君たちのことに口出しもなにも出来なくなる。オヤジさんは、俺も、君には近づけなくするだろうから。ここに来ることもなくなるだろう。だから、最後に、こんなに窶れている君に頼み事をしてしまう俺を嗤ってくれていい。頼む。エンリケを逃がしてやってくれないか」
 クリスの懇願する声が、聞こえてきた。
「逃がす?」
 記憶を辿ろうとする郁也に、
「エンリケは、オヤジさんに捕まっている。この屋敷の地下だ」
「なんで、エンリケが……」
 思い返したくもない記憶が巻き戻されて行く。
 男たちに押さえられているのは、エンリケだった。
 そうだ、暗くなってゆく視界の中に、郁也は見たのだった。
「でも、エンリケは」
「そうだ。エンリケはオヤジさんの信頼も厚い。けど、な。お前に手を出した。それは、信頼が失墜するほどのことなんだ」
 郁也は首を横に振った。
「違う! 手なんか出してない。出されてなんかないんだ。エンリケがオレを抱きたいなんて思ってるはずがないじゃないかっ」
 息が苦しくなり、郁也は項垂れ肩で息をする。
「なんで? なんで、あいつもお前も、オレが男に抱かれるのが当然みたいに考えるんだよ…………おかしいよ、変だ。そんなことがあちこちに転がってるはずがないだろ? どいつもこいつも狂ってるよっ」
 言わずにいられなかった。
 ずっと、そう思ってたのだ。
 けど、誰にも当たれなかった。そんな相手などいなかったからだ。
 上掛けをきつく握りしめる。
「そうだろう? 見ろよ、落ち着いて見てくれよ。オレなんか、どこにでもいるガキだ。日本に帰れば、掃いて捨てるくらいその辺に転がってる、並だよ。平均点だ。なのに、どうしてなんだよ。帰してくれよ、帰りたいんだ。元の場所に、元のオレに、戻してくれよ」
 上掛けに、こぼれ落ちる涙が染みてゆく。
「無理だよ」
 いっそ静かなクリスのことばが、郁也をより一層の絶望へと追いつめる。
「オヤジさんに目を付けられて、こうして囲われてるお前を、誰も助けられやしない。オヤジさんは、お前が思ってるよりも、はるかに権力者だ。裏社会を牛耳る力は、他の追随を許さない。そんなオヤジさんをお前が魅せたんだ。オヤジさんは死ぬまでお前を離さないだろう。もう、無理だよ。逃げることなんか出来ない。逃がしてやることだって、出来やしない。お前を逃がすことは、自分の命を賭けることだ。惨いようだけど、そんなこと、よほどの馬鹿か狂人以外、誰にも出来ないにきまってる。だから、お前に残されてるのは、多分、今の態度を最後まで貫くか、もしくは、オヤジさんを愛してみることだけだろう」
「嫌だ………」
 力なく首を振る。
「嫌だ。嫌だ。嫌だ………」
 頑是無いこどものように首を降り続けていた郁也の動きが、不意に止まった。
 まるでゼンマイが切れたおもちゃのようなそれに、
「郁也………?」
 クリスの手が、静かに郁也の肩にのせられた。
「それで? なんでエンリケは殺されずに捕まってるだけなの?」
 がらりと変わった口調に、クリスの目が大きくなる。
「アドニス?」
「それが君のボクに対する評価なんだね」
 くすくすと笑いながら、顔を上げた郁也が髪の毛をかきあげた。
「やっと出られたよ。あのときは、ショックを受けた“オレ”の感情に弾かれてしまったんだ。油断したとは言っても、ちょっとだらしなかったよね、ボクも」
 肩を竦める。
「痛くはないのか?」
「ああ? 背中……ね。ボクは痛みは感じないんだ。だから、今だって平気で動ける」
 さっさと変わってくれてれば、痛みも感じずに済むんだけど。結構“オレ”ってば、強情だからさ。
「エンリケが殺されずに済んでるのは、DNA鑑定待ちだからだ」
「なんでいきなりDNA鑑定なんだ?」
「彼が、オヤジさんの息子だからさ」
「へぇ……そうなんだ。でも、息子って言うのが確実だったら、殺される心配はないんじゃない」
「そうだろうけど、オヤジさんの心がどうかなんてわからない。特に、君に手を出したんだから」
 瞠目した郁也が、クスクスと笑う。
「へぇ。エンリケが、“オレ”に手を出したんだ。で、“オレ”は、それを嫌がらなかった……とか?」
「そうだ」
「そりゃあ、最悪の展開だね。所謂骨肉の争いってヤツだよね」
 ハハッと笑う。
「笑いごとじゃない。君のことでもあるだろ」
「そうだけどね。でも、“ボク”のことじゃないからね。実感はないよ」
「そんなもんかな」
「そんなもんだよ」
「ま、それはともかくだ。エンリケを逃がしてほしいんだ」
「ボクに?」
「ボクなんかより、君のほうが簡単に逃がすんじゃない」
「時間が足りないんだ。多分、鑑定結果は、明日には届けられるだろう。けど、俺はもう帰らなきゃならない。オヤジさんの決定だ。もうここにいられるのも五分かそこらなんだ。車の準備待ちの時間にここに来たから。どう考えてもエンリケが監禁されている場所から逃がすことは俺には出来ないから」
「それって。君に無理だったことなら、ボクになんかもっと無理そうだって思わないかい?」
「ガニュメデスじゃなく、アドニスなら大丈夫さ」
「まぁ、ボクなら、あのひとの目もゆるくなるか」
 あっけらかんと言い放つ少年に、
「だから、申し訳ないけど、今夜中に逃がしてやってくれないか」
「無茶言うね」
「一応、目星はつけておいたから。これが鍵のスペアだし。ああ、念のため、今日はオヤジさんは出かけて帰らない。だから本当に、今日はチャンスなんだ。悪いね」
 そう言い残すと、クリスは部屋から出て行った。
「しかたないね」
 肩を竦めて、郁也はベッドから起き出した。
 クリスが言うには、地下の一番奥が怪しいということだった。
「どうやって逃がせばいいんだか」
 というか、あれって、エンリケと一緒に逃げればいいとかって言ってるっぽいよね。
 ふん。
 できるかな?
 ボクは別にいいんだけどね。
 “郁也”は肩を竦めた。



つづく




up 10:06 2010/02/25
HOME  MENU
広告 [PR] 再就職支援 スキルアップ アルバイト 無料レンタルサーバー