in the soup  20




 ホテルのマダム・籍の部屋でウィスキーを舐めながら、イングロリアは少し前に見たことを思い返していた。
 マダムの権力を息子にとの気持ちはよくわかる。女であればこそ、息子に与えたいのだろう。
 しかし、男である自分は違う。
 それでも、一足飛びに、権力を手にすることなどできはしない。
 それは判っている。
 一足飛びに力を得たものは、軽く見られるに決まっている。
 侮られて、謀られるだろう。
 しかし、同じ一足飛びに力を得たとしても、裏打ちされるものがあれば違ってくる。
 エンリケが真実ボスの息子であるとすれば、その実力を疑うものはいないだろう。
 侮られることなどないに違いない。
 ねたましいのか、うらやましいのか。
 ムカムカと胸の内に渦巻くのは、吐き気にも似た強烈な感情だった。
 ゆえに、マダムに耳打ちしたのだ。
 イングロリアは、にやりと笑った。
 隣の部屋から相変わらずマダム・籍の叫ぶ声が聞こえてくる。
 罵る相手は、あの少年からあの男の母親へと対象を変えていた。
 面白いことになった。
 イングロリアがネクタイをゆるめながらほくそ笑んだ。
 あの男。ボスの後ろに控えるすらりとした男が、ボスの血を分けた息子かもしれないというのだ。
 ボスの後をつけて正解だった。
 そう思った。
 自分は、むろん、この先も一支部長のままで終わるつもりなどない。
 組織のボスとなるのは不可能だとしても、男であるからにはより強固な権力をこの手に掴み取りたい。
 より一層の力をこのオリバー・イングロリアの手に。
 願わない男などいないに違いない。
 そう思うのだが、マダムの息子にしても、ボスの秘書にしても、どこか自分とは違う。それは、最初から持つ者と、自分のように最初は何も持っていない者の違いなのだろうか。
 いや、違う。
 イングロリアは首を横に振った。
 いるとすれば、それは、男ではないのだ。
 そう。ふたりとも、男としてはどこか欠けているに違いない。
 後は慎重に動かなければ。
 どちらに転んでも利となるように。
 上手く事を運ばなければ。
 イングロリアは静かに謀りごとをはじめた。
 隣の部屋からはクレアの罵詈雑言がまだ聞こえていた。



「郁也さん、大丈夫ですか」
「悪いね。ちょっと怠いからって」
 背負った郁也は、年齢から鑑みれば、哀れなほどに軽かった。
 高い体温が、背中に伝わってくる。
 こんなに高い熱で無理をしたのかと思えば、どれほど感謝してもし足りない。
 親子の情で自分の郁也に対する横恋慕を許すような甘い男ではないと、エンリケには判っていたからだ。
 自分を逃がしたことを知れば、郁也は重い罰を受けるだろう。最悪、殺されるかもしれない。それを思えば、何度踵を返したい心地にとらわれただろう。
 自分が殺されるのならば、我慢できる。しかし、郁也がと思えば、我慢もできないのだ。
 だからこそ踵を返そうとしたエンリケに、しかし郁也は、
『ここまでしたら一緒だよ』
と言うのだ。
『私も地下に戻れば』
『バカ。ボクの苦労を無にする気? 第一あんたが死んだりしたら、オレが悲しむだろ』
 そう言われては、肝が据わらないはずもない。
 そうして、ふたりは屋敷の通用門を抜け出したのだ。
「思っていたより早かったな」
「クリスさん」
 屋敷からワンブロック離れた時、突然かかってきた声に振り返ったエンリケは、ライトを消して車を止めているクリスの姿を見つけた。
 背後の郁也をしっかりと支え、クリスを見やった。
「睨むなよ。オレが郁也に鍵を渡したんだから」
「そうでしたか」
 クリスのことばに、やっと腑に落ちる。いくらいつもの郁也とは違っていても、どうやって鍵を手に入れたのか疑問だったからだ。
「ほら、逃亡幇助してやるから車に乗ってくれ。やっぱり、郁也は限界みたいだな。心配だったんだ」
「助かります。けど、大丈夫ですか」
「どうにかなるだろ。それよりも、さっさと郁也を乗せろって」
 へろへろの郁也に無茶だったと反省して、取って返して待ってたんだよ。
 限界だったのか、郁也はリアシートに乗せられた途端、意識を失った。
「行くあては?」
「まさに着の身着のままですから、必要な物を取りに行きたいですね」
 どうせ、私の家は押さえられるでしょうし、文無しは困ります。
「悲壮感がないんだけど」
「そうでしょうか」
「なんか、イメージが狂うんだよな。あのクールなエンリケはどこに行ったんだ?」
「これが素でしょうかね」
 肩を竦めたエンリケに、
「すっかり騙されてたよ」
 クリスもまた肩を竦めて返したのだった。
「なら、とりあえず、あんたの家に行くかな」
「お手数をおかけします」
 頭を下げたエンリケに、
「片親だけとは言っても兄弟だからな」
「それは、忘れてほしいのですが」
「事実だろ」
「それ、どこで知りました?」
 膝の上に乗せた郁也の頭を撫でながら、エンリケが訊ねる。
「前に、オレの悪友がオレとあんたがなんか似てるって言うから、探ってみたんだ」
「どこにも、あなたと私を繋げるものなんかなかったと思いますが」
「そうなんだけどさ。親父さんと同じことをしてみたんだよね。承諾も取らないで、悪かった」
「DNAですか」
「そ」
「私とあなたが似ている―――ですか」
「らしいんだよね。だから、親父さんが気づかないのが不思議なんだけど」
「死の間際ということもあって母は私に詳細を語りませんでしたが、おそらく、父は私のことは産まれていないと信じていたでしょう」
「そういうもんかね」
「そういうものでしょう。男親は自分の子供に父性を感じるのは産まれた子を見てやっととよく言うではありませんか」
 そんなことを喋るともなく喋っている間に、車はエンリケのアパートの前についた。
「なるべく急いだほうがいいだろう」
「わかりました」
 エンリケはそう言うと、車から出て行った。



つづく




up 19:46 10/03/28
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