in the soup  24




 もういいから。
 ボクにまかせて。
 笑いを滲ませながら、それでいて真剣な声で言った。
 自分の知らないところで、自分の身に知らないことが起きているなどと、不安でならなかった。
 恐ろしくてならなかった。
 しかし。
 慢性的に心もからだも不安と恐怖とに苛まれつづけていた郁也には、その声に逆らいきることができなかった。
 何も聞こえない。
 何も感じない。
 何も考えなくていい。
 何も怯えなくていい。
 怖がらなくていい。
 それでも、薄ら暗くほんのりと温かい場所で、それでも、心は緊張を解くことができないままでいた。
 小さくからだを縮こめる。
 眉間に皺が寄る。
 消えてしまいたい。
 このままで。
 もういい。
 これで。
 いつしか、郁也はボクと自分を呼ぶ声の主に感謝をしていた。
 彼を嫌って悪かった、彼のことを信じられなくて悪かったと、自分の頑さを反省していた。
 そうした時間がどれくらい流れていったのだろう。
 ―――えっ?
 いきなり胸に痛みを感じた。
 それは、灼けつくような灼熱のなにかに貫かれるような、それなのに、なぜか、鈍い痛みだった。
 それとともに、深い喪失を覚えた。
 なにが起きたのかわからないまま、涙があふれだす。
 とても辛い。
 そう思った時だった。
「ひっ!」
 激しく脈動していた心臓が止まったような錯覚にとらわれる。
 目の前には、黒々としたふたつの目が迫っていた。
 頬に激しい痛みを感じた。
「誰のための涙だ」
 感情を押し殺したためにかえって怒りを感じさせる低い声に、郁也の全身がこわばりついた。
「どう……し…て」
 目の前にいるのが、昇紘なのか。
 逃げていたのではなかったか。
 エンリケと一緒に。
 そう思った刹那、乗り上げてきた男の重さと熱とをからだで感じていた。
 全身がすくみ上がる。
 涙も止まっていた。
「エンリケか」
 断定の口調に、首を横に振る。
「な、なにを言って」
 怖い。
 痛い。
「抱かれたのか」
 からだをまさぐってくる手が、尻の狭間を探るように動く。
 くちびるを噛み締めた。
 逆らうだけ無駄だと言うことは、身に染みている。
 それでも、男の肩に手をかけ、押しやろうとせずにはいられなかった。
 あからさまに欲を煽ろうとする手に、苦痛を感じる。
 嫌だとの拒絶以上に、郁也を捕らえているのは、疑問だった。
 ここが、逃げる前に自分がいた部屋だと言うことは、わかっていた。
 しかし、どうして今またここにいるのかということが、わからないのだ。
「良かったのか。感じてみせたのか」
 混乱しながらも、郁也はかろうじて首を左右に振る。
 顎を掴んでくる手に、相手の顔を見ないようにすることは目を閉じることだけだった。
 閉じた瞼のあわいから、涙がながれだす。
 一度として、感じたことなどありはしない。
 それなのに、男は怒りにまかせて、郁也の手首をひとまとめにして握る。
 抵抗を封じられて、郁也の喉から短い悲鳴が迫りあがった。
 震えが激しくなってゆく。
「私にも感じてみせろ」
 耳元でささやかれ、
「感じたくなんか、ないっ!」
 やっとのことで返した。
「可愛気のない」
 舌打ちとともに、鋭い声が郁也の耳を射抜く。
「これでも感じないか」
 噛みつくようなくちづけが降ってきたと思えば、手首を掴んでいた手が離れ、再びからだをまさぐりはじめた。
 男のくちびるが首へと移動し、手が胸元をさまよいはじめる。
「これでもか」
 狂気をはらんだようなことばに、
「感じたことなんか、ないっ」
 力任せに男の肩に爪を立てた。
 精一杯の抵抗がこれとは、情けない。
 自然、止まっていた涙がせりあがってくる。
 全身は小刻みに震えつづける。
 血が下がってゆく。
 血が下がってゆくにつれて、瞑っている目の前が、揺らいだ。
 闇の中に歪な輪が現れては消えていった。

 ああ…………。

 思い出した。

 なにがあったのかを、郁也はやっと、思い出していた。

 あの日。
 クリスがパスポートとチケットを持ってきてくれた翌朝。
 突然乱入してきたのは、クリスの母とどこかで見たような男だった。
 洗面所を使った後、リビングで起きた出来事をぼんやりと見ていた。
 その場では、その時、郁也はただの傍観者だった。
 「母さん」と叫びながら、クリスが女を押しとどめようとしていた。それで、その女性がクリスの母親だと知ったのだ。
 クリスの母は、エンリケに掴み掛かろうとしていた。
 残る男はと言えば、彼自身もどこか身の置き所がないようなさまでリビングの暖炉に腕をかけて立っている。
 郁也の耳には、女がまくしたてる早口のことばが意味をなすことなく聞こえていた。
 だから、女がどうしてエンリケにあんなさまで詰め寄るのかわからなかった。
 いったいなにが起きているのか。
 ふっと、女の視線がエンリケから逸れて郁也にとまった。
 偶然だったろうその瞬間、いぶかしむ女の視線に憎しみの光が宿るのを郁也は他人事のように見返していた。
「どうしてっ!」
 髪をかきむしらんばかりのようすで綺麗にセットされた髪に手を突っ込み、地団駄を踏む。
 それはどこかこどもじみたさまだった。
 物事が思い通りにならないことに対してのいらだちを、足を踏み鳴らすことでどうにかしようとする。
 クリスの母親という年頃の女性がするには不似合いな動作だった。
「ああもうっ! 誰も彼もが、みんなしてわたくしを馬鹿にしてっ」
 標的を郁也に替えたらしい女から、エンリケは郁也を背中に庇った。
「息子までっ!」
「マダム。お引き取りください。もう、私たちはあなたを患わせることはありませんから」
 どこか固い声音が、広い背中から郁也に伝わった。
「いいえっ! いいえ、いいえ、いいえっ! お前たちは、存在するだけでわたくしを患わせる存在なのよっ」
「生きていることが許せないの」
 ガシャンと、リビングのドアについているステンドグラスが震えた。
「マダム。落ち着いてください」
「マダムっ!」
 エンリケの伸ばした手を、思いも寄らない素早さで避けて、郁也をリビングに引きずり込んだ。
 郁也に避けることはできなかった。
 クレアの青い瞳が憎々しげに郁也を見下ろす。
 女の細い腕に掴まれているだけだというのに、郁也は逃げることはできなかった。
 それだけ体力が落ちているということなのだろうが、クレアの憎しみを身近に感じている事実の前に、そちらの実感はなかった。
「母さん。止めてください。ふたりはもう、ここから出てゆくんですから」
「それが何になるのっ!」
 クレアの表情は、鬼女のごとくひきつっている。
 クレアの指が、郁也の腕に痛いくらいに食い込んだ。
「マリアの息子に、昇紘の愛人が生きていると思うだけで、虫酸が走るの」
「お願いだから。ねぇ。あなたの母親のように死んでちょうだい。殺されて」
「母さんっ」
「マダム、あなたは」
 クレアに郁也を捕らえられているために、エンリケは迂闊に動くことができなかった。
 クレアの中で、何かが切れたのだろう。
 いっそ穏やかなやわらかな声で、クレアは二人の死を願うのだ。
「私は、手を下さないわ。銃なんて野蛮なもの、できるだけ触りたくもないですからね。でも、オリバー、あなたは平気でしょう? わたくしの代わりにこの二人を殺してちょうだいな」
 ゆらりとイングロリアが暖炉から身を離した。
 クレア以外の視線が、それまで忘れられていた男に向かった。
「マダムの頼みでも、それは」
「裏切り者でしょう。この二人は。裏切り者には死を与えるのがファミリーの掟と聞いていますよ。ためらうことなどないでしょう」
「裏切り者はまず、ボスのところにつれてゆくのが掟でしょう。特に、今回はボスのプライベート絡みですから、私の一存では殺せません」
 淡々と説明するイングロリアに、
「わたくしのお願いが聞けないなんて」
「いいわ。わたくしがこの手で、殺してあげる。感謝なさい」
 テーブルの上に放置されていた小振りな鞄の中から、野蛮な武器を、慣れたようすでクレアが取り出す。
 小さな女持ちの拳銃の安全装置が剣呑な音をたてた。
「本当は、苦しんで死んでほしいところなんですけどね」
 マリアのように。
 そのことばに、エンリケの中の疑惑が確信へと変わる。
「マダムあなたが」
「母さん」
「動かないでっ」
 郁也のこめかみに銃口をあてる。
「ええ! わたくしからあのひとを奪うなら、誰だって、何だって、殺してもらう」
 わたくしが直接手を下すのはあなただけなのだから、感謝なさい。
 固い武器が、皮膚にきつく押しあてられる感触に、郁也は震える。
 震えるしかない。
 女から逃げられないくらい弱り切っている自分を、初めて意識させられていた。
 震える郁也の視線は、リビングの壁にかかっている装飾的な一枚の鏡に向けられていた。
 それほど広くはないリビングにいる全員が映し出されている鏡に、青ざめている自分の姿がある。
 それは、アドニスと呼ばれている自分ではなく、いつもおどおどと逃げ腰の郁也でしかないように見えた。
 それが、アドニスを苛立たせる。
 今は自分がこのからだの持ち主なのだ。
 なのに。
 この震えは自分の本意ではない。
 この力の弱さは、認められない。
 郁也が尻込みしてできなかったことを、すべてクリアしてきたのは、自分なのだ。
 なのに、なぜ、この期になって、自分はこんなに弱気になっているのか。
 こんなにも疲れているのか。
 皮肉屋で明るく物怖じしないのが、アドニスと呼ばれる自分ではないのか。
 痛みを感じないのが、自分ではないのか。
   おかしい。
 これでは、ガニュメデスと呼ばれた“オレ”のようじゃないか。
 そう思ったとき、アドニスは、郁也の存在を感じたような気がした。
 主導権を奪われる。
 守ってやらなければならないくらい、嘲り笑ってしまうほどに弱い、本来のこのからだの持ち主に。
 それはダメだ。
 少なくとも、今は。
 今はまだ、眠っていてよね。
 邪魔なんだよ。
 “オレ”じゃ、ダメだよ。
 “オレ”だと、やすやすとこの女の銃弾を受けてしまうだろう。
 それではダメなのだ。
 このからだが生命活動を閉じてしまっては、自分も死んでしまうのだから。
 だから、眠っていてよ。
 “ボク”の本当の存在理由が、“オレ”を守ることだなんて、気恥ずかしくて言えないけど。
 けど。
 決して、“ボク”は、“オレ”を嫌ってはいないんだ。
 だって。
 本当は同じ人間なんだから。
 だけど。
 今、もし下手を打ってしまったら、どちらかの人格は消えてしまう。
 それは、なぜか確信として郁也には感じられていた。
 だから、“ボク”は、こんなに焦っている。
 たとえ強く表に出られなくても、それでも存在が消えていなければどうとでもなるのに。
 タイミングひとつ間違うと、どちらかが消えてしまう可能性が高い。
 だから!
 お願いだから、“オレ”は、まだ眠っていてよ。
 必死になって、押しやろうとする。
 葛藤が続いたのは、おそらく瞬きひとつにも見たない時間だったろう。
 それでも、自分以外が行動を起こすのには充分な時間でもあったらしい。

 すべては、一瞬に、そうして、同時に起きた。


 銃声は三発分だった。


 クレアの手から銃が落ちる。
 その反動で、女持ちの拳銃が、弾丸を発射した。
 発射された銃弾が、郁也の映る鏡を打ち砕く。
 郁也に駆け寄ろうとしたエンリケが、目を見開き郁也を見た。
 誰だよ。
 最悪のタイミングだよ……。
 砕けて散らばりゆく破片に映った無数の鏡像。
 それは、影である自分の死を象徴する悪趣味な残像だ。
 “ボク”が消えたら、“オレ”は、もう、自力じゃ立てなくなるっていうのに。
 ああ、エンリケ。
 あんたも一緒に逝くのなら、それは、“ボク”への誰か悪趣味なやつからの手向けだろうか。
 エンリケもまた、信じられないと、倒れてゆこうとしている。
 ああ。
 銃弾は三つだったんだ。
 いったい。
 死に直面して研ぎすまされた意識が、新たな登場人物たちを捉えていた。
 そうか。
 そういうこと。
 王さまの登場ってことか。
 キングはジャックよりも強いわけか。
 昇紘が、拳銃を手にリビングの入り口に立っている。
 その背後には、彼に従うようにして何人もの男たちが。
 エンリケが“ボク”を苦手だとしても、“ボク”はあんたのことが好きだったからね。
 そう。
 多分、誰も気づかなかっただろうけど。
 あんたも知らなかっただろうけど。
 それでも。
 あんたになら、操をたててもかまわないってくらいには、好きだったよ。
 エンリケ。
 もう、たてることはできなそうだけどね。
 それでも、本当に、好きだったんだよ。


 それが、アドニスの最期のことばだった。
 秘められていた真実だった。


「いやだぁ」
 郁也は叫んだ。
 すべてを拒絶するかのように、叫んだ。
 おそらくは、これまでで初めて大きな叫びだったろう。
 息は荒く、苦しい。
 なのに、涙は少しも出なかった。
 自分ではない自分が消滅し、エンリケは死んだのか。
 息をするのがとても苦しい。
 ベッドの上でうずくまり、郁也は、息を吐こうとした。
「なにをしている」
 降ってきた声と背中をさする掌の感触に、郁也は大きく震えた。
 抱き起こされて、顔を覗き込まれた。
 真っ青な郁也の顔が、昇紘に向けられる。
 光を失った褐色の瞳が、昇紘を虚ろに映した。

「ひとごろし」

 そうして、郁也のくちびるはたった一言を紡ぎ、閉ざされた。

 男を糾弾して意識を失った郁也を、それでも昇紘は抱きしめた。
 苦く引き結ばれた口角が、ゆっくりと持ち上げられてゆき、ぞっとするような笑みを形作る。
「今更だ。郁也」
 昇紘の言葉を聞くものは、意識を失った郁也だけだった。

つづく




up 20:15 2010/06/21
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