in the soup  25




 今更だ。
 そう。
 青ざめて意識を手放した郁也を眺めながら、昇紘は思った。
 自分から郁也を奪おうとするものには、容赦するつもりなどありはしない。
 誰を殺すのも躊躇しない。
 ましてや、人の命を奪う命令を下すことなど容易い。
 自分でも知らない間に、今頃は重度の薬物中毒になっているだろうクレアを思えば、昏い嘲笑がこみあげてくる。
 ―――その身で償うがいい。
 自分の愛するものを、ふたりも害した女だ。
 昇紘は命じた。
 その身に罰をと。
 密かにクレアの使用人を買収し、使うようにと薬を渡してある。
 クレアはいつもと変わらぬ毎日を過ごしているつもりで、少しずつ中毒性の強い麻薬を盛られているのだ。
 それは、味の濃い飲み物や食べ物にしのばされて、クレアの口から直接からだに吸収されている。
 おかしいと気づいたときには、立派な中毒患者の出来上がりだ。
 直に殺してやる気などない。
 苦しめばいいのだ。
 苦しみもがいて、死ねばいい。
 クレアに思うことは、それだけだ。
 クレアのことはもういい。
 後はあれが死のうと生き延びようと、どうでもいい。
 自分から郁也を奪おうとするものが、ふたり、いなくなったのだ。
「お前は、私だけのものだ」
 誰にもやらない。
 刻みつけるかのように、昇紘は郁也の耳元でささやいた。

 

 やはりな。
 声もなく独り後散る。
 それは、クレアの問わず語りの罪の告白だった。
 しかし。
 昇紘の心が、揺らぐことはなかった。
 数十名の部下が気配を殺しているとはいえ、その場に居合わせているというのに、誰ひとり気づくものはいない。
 それだけ、リビングでは修羅場が展開されている証であるのだろう。
 クリスとクレア、クレアに拘束された郁也と対峙するエンリケ。少し離れたところにいるイングロリア。彼からの情報が、昇紘をこの場に招いたのだ。
 懐に入れた昇紘の手には、ピストルが握られていた。
 クレアは本気で撃つ。
 それは、確信だった。
 あれは生まれて初めて、自分の手を汚すだろう。
 静かに狙いを定め、昇紘はタイミングを計った。
 すべては一瞬の出来事だった。
 昇紘がトリガーを引く。
 いつの間にかイングロリアが手にしていた銃が、火を噴いた。
 クレアの手にしたピストルが手から落ち、その途中で弾を誤射する。
 誤射された弾丸が、壁の鏡を打ち砕いた。
 クレアがその場にうずくまる。
 郁也もエンリケも、倒れる。
 昇紘は背後の男たちにクレアとクリスをつれて帰るように命じた。
 倒れた郁也を抱き上げた昇紘の視線がエンリケに向けられた。
 その目は、鋭く、しかし、そのまなざしの奥には、本人も気づかないほどかすかな痛みが込められているかのようにも見えた。
 イングロリアがふらりと動く。
「エンリケは」
 昇紘のことばに、イングロリアが探る仕草を見せた。
「こと切れております」
「そうか……」
 何事か考えるように空を見上げた昇紘に、
「後は、私が始末しておきます」
と、イングロリアが言う。
「わかった。すべてが終われば、屋敷に来い」
 そう言う昇紘の瞳からは、先ほど垣間見られた痛みは、幻ででもあったかのようにぬぐい去られていた。



 キラキラと砕けた鏡が光を反射した。
 それに映ったたくさんの自分。
 自分であって自分ではない、たくさんの顔。
 砕けた鏡にその命があったかのように、力が失せてゆく。
 アドニスと呼ばれた自分を失ってはいけない。
 そう思ったけれど、自分になにができるだろう。
 アドニスの心がエンリケに向かっていたことすら、自分は知らなかった。
 アドニスの最期の切ない想いに、心が砕けた。
 エンリケと一緒に逝けるのならと、その想いに、郁也は、泣いた。
 うらやましいと思ったのか。
 酷いと思ったのか。
 自分でもわからなかった。
 ただ。
 もう、ふたりはいないのだと、そう思えば、心の中がすかすかになったような気分だった。
 ふたりは、死んだ。
 殺されたのだ。
 なにか大切なものが奪われてしまったのだ。
 ここにあるのはただの肉のかたまりでしかない。そんな心もとなさだけが残っている。
 ただ泣くしかなかった。
 もう、いい。
 そうすべてを諦めても、怖いものは怖く、痛いものは痛いのだった。
 自分を“ボク”と呼ぶ存在は消え、エンリケは死んだと聞いた。
 とても、哀しかった。
 郁也は、気持ちが悪くなるほど泣いた。
 しかし。
 それが気に入らないと、昇紘が責める。
 自分以外を見るなと、苛む。
 泣くなと、責めるのだ。
 ことばで責めるだけではない。
 ことばだけなら、いくら郁也でも堪えただろう。
 頬を張られ、押し倒され、乗り上げられる。
 そうして、そのまま、いつも犯されるのだ。
 それが辛かった。
 以前のように鞭や縄などは使われなかったが、昇紘はなんとか自分を善がらせようと執拗に嬲ってくるのだ。
 少しも慣れようとしない自分が悪いとどれだけ詰られただろう。
 けれど、なにをどうされても、郁也の反応は同じだった。
 ただ怯え竦み上がり、苦痛に呻く。
 痛みしか感じていないのだ。
 たとえ、からだが反応を見せたとしても、それは反射であって、快感からではないのと、見る者にわかるようなものだった。
 苦痛でしかないのだと。
 今もまた、昇紘は郁也を抱いていた。
 失わないように、奪われないように、足首に巻き付けた鎖が音をたてる。
 以前からもそうではあったが、最早、昇紘の郁也に対する執着は度を超しすぎていた。
 それは、周囲の者が口をつぐんでしまうほどにである。
 以前から、郁也に声をかけるのは、エンリケとクリスとを除けば、執事くらいなものではあったが、執事も事務的に声をかけるだけになっていた。
 下手に声をかけようものなら、郁也が辛い目に遭う。
 それだけではないのだ。
 声をかけた者にも、昇紘の冷たい声が飛ぶ。
 首が飛びかねない。いや、それだけならまだしも、命に危険が及ぶような危惧を、郁也絡みで声をかけられた者たちは覚えたのだった。
 痛みのあまり、郁也が呻く。
 それを嬌声に変えたいと、昇紘が手管を駆使する。
 その度に、郁也は涙を流して歯を食いしばる。
 助けてとでも声を漏らそうものなら、頬を張られる。
 それがわかっているだけに、郁也は、意識を失うことすらできないのだ。
 悪循環だった。
 気が狂いそうになりながら、郁也はシーツを握りしめた。
 足首の鎖が鳴る。
 早く終わってほしい。
 そればかりが頭の中にあった。
 もういやだ。
 そう思ったとき、頬に熱い痛みが爆ぜた。
「私を見ろ!」
 眉間に深い皺を刻み、黒々とした沼のような瞳で、昇紘が郁也の目を覗き込んでくる。
 その暗い熱情の滾りに、郁也の背中が大きく震えた。
 それは、恐怖以外などではあり得ない。
 郁也はそう思った。
 アドニスの最期の記憶。
 そのシーンに残る昇紘の手には、ピストルが握られていた。
 人殺しなのだ。
 この男は。
 恐れ以外の感情が湧くはずがない。
 郁也は頑にそう思うのだった。



 あれから、一年の時が流れようとしていた。



 郁也の境遇に変化はなかった。
 郁也はすべてを諦め、ただ昇紘を受け入れるようにはなっていた。
 相変わらずそれには苦痛しか感じなかったが、おとなしくしていれば昇紘が穏やかだと学んだのだ。
 バスローブ姿で、郁也はベッドに腰をかける。
 最近になって、昇紘が部屋に来る回数が減っていた。
 一月くらいになるだろうか。
 郁也は首を傾げた。
 指を折ってみる。
 忙しいのか。
 それは郁也にとって喜ぶべきことだったはずである。
 なのに、ふっと寂しさを感じている自分を郁也は意識した。
「ばかな」
 首を振る。
 しかし、それももっともなことかもしれない。と、郁也は思い返した。
 一年近く、昇紘以外と顔を合わせたことはない。
 喋ることもない。
 寂しいのは、しかたがない。
 きっと。
 顔を合わせるたったひとりの人間に来てほしいと思うのは、当たり前のことだろう。
「なにをやってるんだか」
 郁也は肩を竦めて、独り語ちた。

つづく




up 20:15 2010/07/11
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