in the soup  26




 起きたことを理解することができなかった。
 すべては突然だったのだ。
 それに、信じられなかった。
 なにが?
 すべてが。
 目の前で起きたすべてが、だ。
 そうして、今、自分の胸の中にいる男が言った、最後のことばが。
 最期だ。
 まだあたたかい男のからだが、ずっしりとした現実となって腕の中にある。
 そうして、目の前にいるもうひとりの男。
「何故、泣くんです?」
 頬に伸ばされた手が、くちびるをなぞってくる指が、腕の中で死んでいる男との会話の最後を思い出させた。



 やっと。
 郁也はそう思った。
 解放されるんだ。
 流れ落ちた涙が、膝の上の男の頬にはじけて砕けた。
 血の気の失せている男の顔の中、閉じられた瞼がびくりと揺れた。
 瞼が薄く開かれて現れたのは黒い双眸だった。
 郁也の全身が、逆毛立つ。
 自分を支配しつづける男のまなざしには、いつもの有無をいわせぬほどの力はない。
 しかし。  郁也を支配しつづける恐怖とは別の、決して郁也が認めようとはしないものがこめられていた。
 震える手が、凝りつく郁也の頬に、力なく触れてくる。
 戦慄が全身を駆け抜ける。
「泣くな」
と。
「お前が無事で良かった」
と。
 かつて聞いたことのない穏やかな声が、郁也の耳を打った。
 自分を濡らす生あたたかな血が、どこからあふれだしているのか。
 思いいたる。
 決して好いてなどいない。
 憎しみが失せるわけではない。
 それでも。
 そう思うのだ。
 はじめて。
 ここに閉じ込められるようにしているようになって、はじめて。
 死に瀕しての男のことばだったからなのか、すとんと不思議なほどあっけなく郁也の心に落ちたのだ。
 到底許せるものではなかったが。
 それでも、自分を銃弾から救ったという行為は、男の自分に向ける何らかの感情が真実なのだと感じるには、充分なものだった。
 だから。
「愛している」
 そう言って瞼を閉じた男の、どこか満足そうな顔を濡らしたのは、郁也が流した涙だったのだ。
 滂沱とあふれだした。
 それは、郁也が意識することのない、男に対する哀惜の涙だった。
 はじめての。
 そうして、おそらくは最後の。
 膝の上、男のからだから力と熱とが失せてゆく。
 少しずつ、確実に。
 ことんことんと、心臓の動きが小さく間遠になってゆく。
 記憶の中、苛烈で容赦なく体内から自分を苛みつづけた力強い脈動。それとは別物としか思えない、まさに膝の上で消えゆこうとしている鼓動。
「郁也さん」
 どこかで聞いた記憶のある声が、郁也の耳を貫いた。
 頬に伸ばされた手が、くちびるをなぞってくる指が、膝の上の男のものと重なるような気がした。
 エンリケが、自分を見ている。
 食い入るような視線に、歓喜と渇望、嫉妬と狂気とを感じたような気がして、郁也は震えた。
 怖い。
 そうだ。
 エンリケもまた、昇紘と変わらないのだと、思いいたった。
 そうだった。
 今は存在のない、もうひとりの自分が求めた相手だったけれど、変わらないのだ。
 自分にとっては、何一つ、昇紘もエンリケも、変わらない。
 さっきまで自分に銃を向けていたイングロリアが、すぐそこに倒れている。
 カッと見開いた目が、どうして? とばかりにエンリケに向けられていた。
 エンリケは、ためらうこともなく、イングロリアを撃ったのだ。
 自分を殺そうとしていたイングロリアを、エンリケは殺した。
 そして、イングロリアの痙攣が招いた誤射が郁也を貫こうとした時に、昇紘が彼を庇った。
 何故自分がイングロリアに殺されなければならないのか。
 イングロリアをエンリケが殺すのか。
 そうして、昇紘が、どうして、自分を庇ったのか。
 わからなかった。
 何もわからない。
 わかりたくもない。
 けれど、目の前の現実が、死にゆこうとした男のことばが、告げるのだ。
 お前を愛しているのだと。
 すべてはお前を愛したからなのだと。
 くらりと、全身が傾いでゆく。
「何故、泣くんです?」
 声の主に向けようとした視線は、重く垂れてくる瞼に完全に閉ざされた。



 幾日ぶりになるだろう。
 部屋に来た昇紘は、どこか窶れているように見えた。
 なにがあったのか。
 何日もここに来なかったことに関係があるのだろうか。
 伸びてきた手が顎を捉え、くちびるを親指でなぞる。
 郁也の背筋がかすかに震えた。
「来るぞ」
 低くつぶやかれた声に、郁也はゆっくりと一度瞬く。
 郁也の口角が引き攣れるように持ち上がる。
「待つか、それとも、出てゆくか………だ」
 なにを言いたいのか、わからない。
「わかるだろう?」
 沈む船からネズミは逃げる。
 使用人には暇を出した。
 出てゆく気配を感じるだろう?
 澄ませた郁也の耳に、潮騒のようなざわめきが聞こえてくる。
 あの時聞いたのと同じピストルの音に、郁也は震えた。
 出て行っているだけではないだろう。
 何かが起きている。
 かすかな悲鳴が聞こえたような気がした。
 何が起きている?
 不安がこみあげてくる。
 知らず見上げた視線の先に、昇紘のまなざしはなかった。どこを見ているのか、
「もうじきだ」
 若いだけのことはある。
 肩を竦め、つぶやくと、昇紘は郁也の隣に腰を下ろした。
 肩を抱かれ、郁也は、強張りそうになるからだから力を抜いた。
 ここで抗おうものなら、酷く扱われるだろう。
 しかし、それは、杞憂に終わった。
 昇紘は、ただ郁也の肩を抱くだけだったのだ。
 何かを待ち構える風情の昇紘の手が郁也の肩を撫でる。それは、無意識の仕草のようだった。
 あんなに不安であったのに、それが不思議と消えてゆくような気がした。
 それは、身じかに感じるひとの体温のせいなのか、トクトクと聞こえてくる規則正しい心臓の音のせいなのか、郁也にはわからなかった。

 やがて、不思議と穏やかな時間は終わりを告げた。

「思っていたよりも時間がかかったな」
 ドアが開く気配とともに、誰かが部屋に入ってきた。
「それは、私がここに来るまでにですか? それとも、あなたを追いつめるまでに、ですか?」
 その声に、姿に、郁也はただ目を見張った。
 銃を片手に立っているのが、死んだはずのエンリケだったからだ。エンリケの背後には、やはりどこか記憶にあるような男がいた。その男がエンリケを庇うように、エンリケの前に出る。
「さぁ」
 どうでもいいと言うかのように、昇紘が肩を竦める。
「イングロリアだったか。よく私を騙したものだ」
「あのどさくさでしたら、誰でも騙せたでしょう」
「お前の裏切りにあの時気づかなかった私が間抜けだということだな」
 肩を竦める。
「それで、私をどうするつもりだ」
 昇紘はゆっくりとエンリケを凝視した。
 互いに答えはわかっていた。
 ボスの座を狙う者が、当のボスを殺さないはずがない。
 また、狙われる側も、易々と殺されるつもりはない。
 エンリケが本当に望むものが何なのかも。
 昇紘が心底奪われたくないと考えているものが何なのかも。
 だからこそ、互いに譲ることはできないのだ。



 何故あんなガキに。
 なんど苦虫をかみつぶす心地がしただろう。
 冷徹冷酷と恐れられる暗黒街の主ならば、絶世の美女、艶かしい熟女、誰であれよりどりみどりに違いない。
 男の横に控えるのは女。
 男の世界ならではの暗黙の了解を、ボスは涼しい顔で覆した。
 表立ってのスキャンダルにならなかったのは、それだけボスを恐れるものがいるという証拠だった。
 ボスならば、誰もが認める存在だ。
 誰もが思うことがあっても声には出さない。
 しかし。
 これからボスに取って代わろうというものまでもが、よりにも寄って同じ男に惚れているなどとなっては、どうだろう。
 せっかく、勝負に出たのだ。
 キングを捨ててジョーカーを取った。
 しかし。
 あのガキは、絶対であるはずの札の力までも無効にしてしまう。
 今もまだ、この期におよんで、ボスとエンリケとはガキを取り合っている。
 静かなやり取りではあるが、二人の間に高まる緊張感が伝わってくるのだ。
 邪魔だ。
 いなくなれ。
 死ねばいいのだ。
 イライラと、嫌悪ばかりが嵩じてゆく。
 やはり最高の男の隣に立つのは、最高の女でなければ。
 気がつけば、銃口を向けていた。
 いつかのように。
 あの時は失敗したが、今日はなるまい。
 エンリケは一時は自分を憎みはするだろうが、この自分が選び抜いた美女を薦めればいつかは憎しみも解けるだろう。
 なにより、今となっては、自分はエンリケの恩人でもあるのだ。
 しかし。
 女たちの恋を軽んじ利用してきたイングロリアには、男の妄執にも近い想いは最期まで理解できなかったに違いない。

 銃声はふたつ。
 ひとつはイングロリアを撃ち抜いた。
 イングロリアは自分の突然の死をどう受け止めたのか。
 ただ、ぎょろりと剥いた二つのまなこが、エンリケを恨めしそうに凝視していた。
 残るひとつが撃ち抜いたのは、郁也ではなく、昇紘だった。
 郁也にもたれかかるようにして血を流す昇紘を、エンリケは感情のこもらない瞳で見つめた。
 あれでは助からない。
 実の父親に対して、おかしいほど何の感慨も湧いては来なかった。
 それとは別に、これでやっと……と、こみあげてくる歓喜があった。
 この腕に抱きたいと、渇望があった。
 一刻も早く。
 しかし。
 どれほど願おうと、今のふたりの間に分けて入ることはできなかった。
 どれほどの間、ただふたりを見ていただろう。
 胸は焼けつくような痛みに苛まれていた。
 それがまぎれもない嫉妬だとの自覚が、痛いほどにあった。
 それでも、胃の底を熱で炙られるような不快な心地をどれほど堪えただろう。やがて昇紘が最期を迎えたのを見て取ったエンリケは、
「郁也さん」
と、静かに声をかけた。
 郁也からは血の気が失せ、代わりのように、昇紘の血に濡れていた。
 その赤が、エンリケの全身を熱くした。
「何故、泣くんです」
 郁也に近づく。
「あなたを閉じ込めた男がいなくなったのですよ」
 気を失った郁也を抱き上げながらささやいたエンリケの声は、郁也には届かなかった。



「郁也さん」
 静かに呼びかける。
 それでも、郁也はエンリケの声に気づいていないかのようだった。
 かすかな霧が、山の中の別荘を取り巻いている。
 遠く、鳥の鳴き交わす声が聞こえていた。
 ベランダに佇む郁也を、エンリケが背後から抱きすくめる。
 かすかな震えに、
「郁也さん?」
 顔を覗き込んで、眉根を寄せた。
 エンリケがかすかな溜め息を吐く。
「いつまでも強情を張るなら、このままここで抱いてしまいますよ」
 ささやきかける。
 しかし、反応が返ることを、エンリケは期待はしない。
 決して、あの日に、昇紘が郁也の心を奪って逝ったのではない。
 郁也はただ、拗ねているのだ。
 いつまでも助けに行けなかった自分に対して、拗ねて怒っているだけなのだ。
 だから、こうしてくちびるを重ねるだけで、からだは熱をはらむ。
 からだを撫でさすれば、あえかに涙をにじませる目元が朱に染まり、高ぶりがいじらしく震えはじめる。
 そんな郁也がどうしようもなく愛しい。
 昇紘から奪ったものの中で、誰にも奪われたくないものは、郁也だけだ。
「愛しています」
 どうしようもないほどに。
 深さを増したミルク色の霧に、かすかな金のきざはしがおりてくる。
 オパールの中に二人きりで閉じ込められたような錯覚に、エンリケは震えた。
 それは、決して恐怖からではなく、この上ない歓喜のせいだった。
 二人きり。
 誰もいないオパールのような空間で、ただ郁也を抱きしめてまどろむのだ。
 それはどんな妄想よりも、エンリケの心を満たすものと思えた。
「少し寒くなってきましたね。部屋に戻りましょう」
 郁也の膝を掬うようにして抱き上げる。
 そのまま室内に戻ったエンリケは、郁也をベッドに横たえた。
 閉め忘れたベランダの窓から、音もなく霧が入り込んでくる。
 まるでエンリケの望む白い世界めいた寝室に、やがて、あえかな吐息がこぼれ出す。
 いつまでも自分を見ることのない少年に、それでも彼の名をささやきながら、エンリケが情熱的な愛撫を繰り返す。
 エンリケのどこか狂った心が夢を紡ぐ。
 いつかは郁也が自分を見るだろうと。
 昇紘が狂わせた少年の心を、再び自分が狂わせる日が来ることを夢見るかのように。

 新たに誕生した暗黒街の帝王が、心を閉ざした少年を生涯傍らに置きつづけたことは、その側近たちだけが知ることだった。
 その生涯の最期、彼の傍らにあったのは、遂に心を解放することのなかったかつての少年の剥製だったこともまた、知るのは側近たちだけだった。

 やがて霧が晴れた空から琥珀の日差しが降り注ぐようになっても、エンリケは郁也を離そうとはしなかった。




終わり




end 2010/09/12 17:26
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