ユディト



 振りかぶった手が撓る。
 しかし、郁也は重みを感じはしなかった。
 堅い物に石が当たる感触に、彼の心の中で何かが砕け散る。
 喉よ裂けろとばかりに、魂切る叫びをあげていた。
 叫び声は、心の底から愛しい少女、半身の名だった。

 風が、やまる。
 無数の目が、石舞台の上に現れた郁也を見上げていた。
 細い糸のような月が、石舞台を心細く照らし出す。
 黒いシルエットの両手から音をたてて転がり落ちた石が、他愛無く割れた。
 赤い液体が、糸を引くように石の表面を濡らす。
 黒い大理石の表面に、液体が粘性の高い模様を描いた。

「賓客(まれびと)よ」
 草深い大地に、その場に居合わせた人々が額付く。

 見知らぬ大地は血にまみれ、黒い戦煙が立ちのぼる。
 血塗れた手を濯がれて、供された茶は熱も香も散じはてる。
 天幕の中には、薄汚れたものの高貴な装いをまとった男がひとり、背後にふたたりの護衛を従えて敷物に腰を下ろす。
 白く長い髭と髪を持ち額に金の輪を嵌めた老人が、郁也に頭を下げた。
「賓客よ。その血塗れた手を我らに与え、我らを滅ぼさんとするツェルスタスの王を殺してくだされ」
 血の気の感じられない郁也の頬から、なお一層のこと血の色が失せた。
 血に濡れた手。
 言われて、思い出す。
 そう。
 この手は、血に濡れた。
 石を振り下ろした。
 石の下には、脱色した枯れ草色の髪の毛があった。
 そうして、彼が心から愛した最愛の妹が、涙を流していた。
 それは、決して歓喜の涙などではなく、己が身に降り掛かった暴虐に苦悶する涙だった。
 タスケテ。
 我に返った時、郁也は、既に殺意に囚われていたのだろうか。
 誰よりも愛した双子の妹が、泣き叫ぶ。
 助けに行きたいのに、妹を押し倒す男の仲間が彼の動きを封じている。
 どうして。
 どうして。
 どうしてだっ。
 もがけばもがくほど、男の力はきつくなる。
 どうしてだ?
 耳元で嗤いを含んだ声が、郁也を地獄へと蹴落とした。
 おまえがオレのものにならないからだろう。
 アレは、おまえの身代わりだ。
 男に目を付けられたのは、ただの偶然だった。
 郁也は、自分のことをあくまでも平凡だと信じている。
 それなのに、なぜ、この町を恐怖で支配している男に目を付けられる羽目になったのか。それが、わからない。
 ただ、アレにオレの興味はないからな。だから、オレの部下に与える。いつでも、な。オレの気が向けば。アレはこれから、そういうものに成り下がるんだ。
 そうされたくなければ、わかっているだろう?
 おまえがオレのものになれば済むことだ。
 そう言って、耳朶を噛むようにしゃぶられた。
 イヤだっ!
 背中を駆け抜けた怖気が、爆発的な力を郁也に与えたのか。
 それとも。
 男が戯れに力を弛めたのか。
 その両方だったのか。
 郁也は男を突き飛ばし、男の拘束から逃れていた。
 しかし、どうして逃げ切ることができるだろう。
 少し離れた場所で、愛する妹が犯されている。
 妹を助けるためには、けれど、自分が同性に抱かれなければならない。
 それも、この町の支配者、恐怖で支配する、支配者にである。
 二十一世紀に、時代錯誤なことである。
 それでも、これは、現実なのだ。
 郁也の父親が勤めている会社はつい先だって男の手に落ちたばかりだ。その原因が、自分にあることは、今更考えるまででもないのだろう。未だに信じることはできないが、それでも、男はそこまでしてなぜなのか自分を手に入れたがっている。それだけは、目を背けることすらできない現実なのだ。
 突きつけられる現実は、ただ、彼を混乱と恐怖とに落し込むばかりで、どうすればいいのか判らなくなる。
 妹の悲鳴が耳に突き刺さる。
 タスケテと。
 どうする?
 嘲るかのような男の声に含まれているイヤなものを感じて、郁也はただ首を振ったのだ。
 ぞろりと男が舌なめずりをする。
 まるで自らその顎(あぎと)へと己が身を捧げようとする獲物を見る古い神の化身とでも言うかのように、情け容赦のない餓えをその目にたたえて男が郁也を見た。
 その暗いまなざしに歪んだ喜悦をたたえて、男が手を差し伸べる。
 手に入れる。
 長い飢渇が癒される。
 その期待に、冷え凍えた胸が高鳴った。
 次こそは逃がさない。
 なにをしても。
 歯向かうことができないように、牙を抜いてやろう。
 逃げることができないように、その翼を引き千切ろう。
 この存在はオレのものだと、あの刹那の邂逅に直感したのだ。
 しかし。
 郁也は、呪縛を打ち破った。
 男の手を取る寸前に、足下の石を持ち上げると、彼の妹を嬲りつづける男のほうへと向かったのだ。
 手に入る寸前の油断が招いた、思わぬ反撃ではあった。
 振りかぶられた石が、男の部下を打ち据える。
 鈍い音がたち、血の花が散った。
 そうして、男の目の前で、郁也は姿を消した。
 まるで空間が裂けたかのように。
 最初からそこにはいなかったかのように。
 騒然となる男たちの目の前で。
 男の喉が震えた。
 圧し殺した笑い声が、しばらくの間、細い月の下に響いた。


 神に仕える古いアルツの民は滅びるだろう。
 侵略の足音はすぐそこまで来ていた。
 平和を享受し、戦の方法など忘れ果てて等しい。
 兵など疾うに、神殿の飾りと成り果てた。
 尊い唯一神に仕える自国の人間を、他国の人間の血で汚したくはなかった。
 望みはもはや異世界からの賓客にしかなかった。
 誰もが本気にすることのなかった、古い伝説である異世界からの賓客は、血に濡れた手をもって尊いアルツの民を救うのだ。
 細い月の夜、老王は決意した。

 せぬよりましであろ。

 そうして現れたのは、生気にとぼしい若者だった。
 伝説通りその両手を血で濡らして、儀式の行われた石舞台の上に現れた。



 あの男は、死んだのだろうか。
 郁也は震えた。
 それは、興奮の名残か、罪悪感からか。
 死んで当然だ。
 口角が持ち上がってゆく。
   救えなかった妹。
 妹は、枯れ草色の髪をした男の下で、ただ滂沱と涙を流していた。
 色濃い絶望に彩られたその瞳は、なにも見てはいなかった。
 不甲斐ない兄を………。
 許せと言いたいのか、憎めと言いたいのか、判らなかった。
 郁也が、見知らぬ世界に混乱しないはずはない。
 あの修羅場から突然違う世界に引きずり込まれたのだ。
 あの男。
 自分に執着していたあの男が、突然消えた自分に、妹を解放するだろうか。
 解放してくれるだろうか。
 そうであればいい。
 しかし、それは浅はかな願望でしかない。
 あの男は、ただ自分を手に入れるためだけに、妹を貶めさせたのだ。
 あの日、あの男と出会わなければ。
 あんなにも、あの男を拒絶しなければ。
 妹は、あんな目に遭うことはなかっただろう。
 抱いてはならない想いだった。
 妹に対する、まぎれもない肉欲絡みの愛着だった。
 それをどうしてか知られて、意地になった。
 それの何処が悪い。
 妹をただ愛してしまっただけだ。
 他の誰も好きにはならない。
 妹を一生抱くことはないだろうけど。
 それでも、他の誰かを好きになることなどないのだと。
 諦めたと思った。
 頑なまでの自分の想いが、あの男の自分に対する想いよりすら醜いものだと知って。
 なのに。
 待ち伏せされて、連れてゆかれたのは、男の別邸だった。
 その中庭で、先に攫われていた妹が受けていた暴力。
 助けを求める妹の声。
 男の想いは、自分の想像をすら凌駕するものだったのだ。
 だから、多分、妹が解放されることは、ないのだろう。
 自分が、あの男の所に行かない限り。
 なぜ行けないかなど、関係ないのに違いない。
 自分がいなくなったことだけが、あの男にとっては問題なのだろうから。
 郁也の全身がさきほどよりもより大きく震えた。
「帰してくれ。元の世界に」
 鋭い声で、拒絶する。
 この手が他人の血に濡れていても。
 あれは、あくまでも、自分の意志だった。
 自分自身の憎しみだったのだ。
 そこに、他人の憎しみを肩代わりするような余裕などありはしない。
 なのに。
 それなのに。
 老王は言う。
「我らが願いを叶えれば、自ずと道は開けよう」
 殺せと言うのだ。
 自分の手を汚すことなく、他人にその肩代わりをさせようと。
 自分が帰るためにはそれしか方法がないのだと、さも当然のように。
「返事は如何(いかん)?」
 老王の灰色の瞳が、郁也の褐色の瞳を覗き込んだ。



 ツェルスタスの覇王の名を知らないものはいないだろう。
 その姿を知らぬまでも、名を知らぬものはおらぬ。
 ツェルスタス・昇紘。
 それこそが、ツェルスタスの覇王の名である。
「神の愛し子(めぐしご)アルツか」
「そのような国も民もいらぬ」
 このことばが、アルツへの侵攻を決定づけたのだ。

 アルツとツェルスタスの国境線となったその土地にツェルスタスの軍が陣取ったのは、郁也が呼ばれるその二日前のことである。
 軍事力の差は圧倒的だった。
 アルツの兵は、ツェルスタスの半分にも満たない。そのツェルスタスの兵すら、全兵ではないのだ。

「頼るは神の恩寵とか」
 ひときわ巨大な天幕に集ったツェルスタスの将のひとりがつぶやいた。
 小波立つような笑い声が忍びやかに満ちる。
「そのようなものが真実存在すると信じているのか」
 王弟、ツェルスタス・ホルムスワルドを王都に残し、王自らが陣を張った。
「神などおらぬ」
 そうとも。存在するというならば、疾うに罰されているだろう。
 神の雷に討ち滅ぼされているに違いないのだ。
 この手がどれほどの血にまみれているのか、他ならぬ自分が一番よく知っている。
 それでも。
 一度手を染めた覇道を途中で放り出すことなど、できはしない。
 覇王には覇王なりの悩みもあれば、苦しみもある。
 それは、彼もまたひとである証拠であったろう。
「なればこそ」
 すべては我が名の元に。
 地図を広げ、昇紘は兵の最終配備を確認しはじめた。



「こちらで」
 決して安穏とは癒えない雰囲気の戦場の川岸に郁也を導いたのは、アルツ王の側近だった。
 開戦以前から勝敗など決しているというのに、ツェルスタスに容赦と言うことばはないかのようだった。
 少ない兵や民兵の決死の抵抗も虚しく、幾つの町が落ちたのか。
 ようやく現れた賓客が己の立場を理解するまで、側近らは心臓を炙られるかの心地で過ごしていたのだ。
 やさしくすることなどできそうもなかった。
「ここから見えるあの天幕が、ツェルスタス王のものだ」
 篝火に照らし出されている天幕はひときわ巨大で、ちらちらと光を反射するのは、王の紋章をかがる金糸なのだろうか。
 広い川幅を隔てても、相手側のざわめきは充分に聞こえてきた。
「わかっておられような」
 付け髪にしのばせたささやかな短剣だけが、郁也に与えられた武器だった。
「好機を違わず王を殺してくだされ。さもなくば、賓客どのにあられては、元の世界に戻ることあたわずと心得られよ」
 自分の頭の中に流れる血の音が、耳を聾するほどにうるさい。そのため、ともすれば男のことばを聞き逃してしまいそうになる。
「それでは。頼み申します」
 そう言うと、男は、郁也を斬りつけた。
 何が起きたのか。
 理解する間もなく、ただ痛みが全身を駆け抜ける。
 ひらひらとした、まるで古代ローマや古代ギリシャのような薄い一枚布の服が切り裂かれ、血に染まる。
 そうして、郁也は、男に川に突き落とされたのだ。



 溺れる。
 そう思った。
 苦しい。
 息ができない。
 こんな所で死ぬのか。
 死んだりしたら。
 死んでしまったら。
 小夜っ!
 苦悶に歪む妹の顔が、郁也の脳裏をよぎった。



 血が滾る。
 剣や槍、弓、果ては軍馬の蹄に、数多果てたひとの命。
 それが、男の本能を逸らせる。
 夜が来ても、昂りはおさまらない。
 そうでなければならないだろう。
 しかし、何も感じない。
 こころは小波たつこともなかった。
 天幕を出るさい、ついて来ようとする護衛兵を押しとどめ、ひとり陣をそぞろ歩く。
 篝火に照らされて、非番の兵たちが杯を傾け笑いさんざめく。
 男を見て頭を下げるのは、男を直に見知る高位の者たちばかりである。以外は、男の顔を遠目でしか知らない。
 蹂躙される捕虜の悲鳴に、自軍の兵の下卑た笑いが混じって聞こえる。
 地上の酸鼻に比べて、なんと夜空の清浄なことだろう。
 もし仮に神がいるのなら、神は人の世など顧みることはないだろう。
 我は知らぬとばかりに、遥かなる高みから見下ろすか、顔を背けるか。
 ただの傍観者に違いない。
 昇紘は、鼻で笑った。
 自分らしくない。
 大地を踏みしだき、草を踏みにじる。
 そうして川縁にたどり着いた昇紘は水面を見下ろし、おもむろに手を川に入れた。
 彼が元の体勢に戻った時、彼の腕には、気を失った郁也の姿があった。



 血の気のない象牙色の肌は、熱を奪われ、川の水に洗われた傷口からのぞく肉の色が昇紘の劣情を目覚めさせた。



「昇紘」
 男が名乗った時、郁也は飛び起きた。
 なりふり構ってなどいられなかった。
 肩から斜め下に裂かれた上半身の傷口が痛みを訴える。しかし、郁也の頭にあるのは、ただ小夜のこと。そうして帰らなければという、それだけだった。
 帰らなければ。
 そのためには。
 なにをしなければならないのか。
 しなければならないこと。
 やらなければ。
 やらなければ。
 殺らなければならないのだ。
 殺る。
 この手で。
 濡れてきしる付け髪を毟り取る。
 出てきたナイフを振りかぶった。
 それまで、ほんの数瞬だった。
 背中に衝撃が走った。
 視野がぶれる。
 息が詰まった。
「暗殺者か。それとも、復讐か」
 短刀を取り落とした郁也の掌を矯めつ眇めつしながらの、楽しそうな声だった。



 苦しげな声が天幕の中にこもる。
 昇紘の手が、まだ細い郁也の首を絞める。
「言え」
 残酷な声が、あえて問う。
 簡易なものにしては充分贅沢な褥の上で、郁也の手は自身首に絡む男の腕を剥がそうともがく。
 揺れる灯火が男の顔に深い陰影を描き、ただそのまなざしと楽しげに口角の持ち上がったくちびるが際立つ。
 竦み上がることも許されず、逃げることもできなかった。
 殺さなければならないのだ。
 殺さなければ。
 それなのに。
 着衣を剥がされ、残る凶器の有無を確かめられた。
 傷口に爪を立てられた。
 その残酷な行為に、郁也は、気も狂わんほどに抵抗をした。
 首を振り、足をばたつかせ、男の手首に爪を立てる。
 抵抗しなければ、苦しまずに済むのだがな。
「無垢か」
 ならばどう抱こうと同じか。
 嘯くように嘲笑いながら、郁也の肌と血を味わう。
 噛みつくように口を吸われ、郁也の抵抗が一層激しいものとなった。
 見開かれた目から、滂沱と涙がながれ落ちる。
 小夜。
 小夜。
 あの時の小夜とシンクロする。
 あの時の小夜と同じだと。
 小夜を助けられなかった罪なのだと。
 苦しい。
 痛い。
 痛い。
 痛い。
 持ち上げられ開かれた足の付け根が、蹂躙される。
 杭を打ち込まれた痛みに苛まれ、悲鳴すら喉の奥に凝りつく。
 誰ひとり助けてくれる者はいないのだと、判っていながら求めずにいられない。
 その虚しさが、心をより絶望へと追いやるのだ。
「言え。誰が私を殺せとお前に命じたのだ。復讐ではないだろう」
 やわらかな掌に、武器は似合わない。
 不釣り合いだ。
 それでも、その瞳に、自分に対する憎悪はなかった。
 今は違うだろうが。
 昇紘が郁也の無垢なからだを堪能する。
 思うさま。
 苦痛の涙を味わいながら、昇紘が郁也の耳元でささやく。
「失敗した暗殺者の処遇を知っているか」
 指を切り落とされ足の腱を断たれ、目を刳り貫かれ、鼻を削がれる。
 人前に引き出されて、杭に張り付けられ、腹を裂かれる。
 そのまま内臓を引きずり出されて、放置される。
 それでも、ひとは一日ていどは生きるだろう。屈強な者ならもう少し。
 日中は猛禽が、夜間は猛獣どもが、内臓を食い荒らすだろう。
 一晩中、一日中、死ぬまで被処刑人のうめきが聞こえるだろう。
 その苦痛の後に、ようやく死が訪れる。
「おまえは堪えられるのか」
 郁也が首を横に振る。
「アルツ王か」
 やはりな。
 刹那の引き攣れに、昇紘が笑う。
「おまえの任務は失敗したのだ」
 帰れない。
 小夜を助けられない。
「小夜っ」
 郁也の目からはとめどなく涙がながれつづける。
「恋人の名か?」
 違う。
 恋人なんかにはなり得ない。
 絶対に。
 絶対に無理なのだ。
 この想いが罪だと言うことは、誰よりも知っている。
 すべてはこの想いのせいなのだ。
 小夜を愛さなければ、きっと小夜はあんな目には遭わなかった。
 遭わなければ、自分がここに来ることもなかっただろう。
 小夜。
 愛している。
「諦めるがいい」
 判っている。
 判っているんだ。
「おまえのすべては私のものになる」
 私の人形になる。
 生きた人形だ。
 それ以外におまえの生き延びる術はない。
「判っているな」
 判っている。
 けれど、判りたくなどない。
「死にたくなければ従うがいい」
 おまえは、私の人形だ。
 郁也はただ呆然と空(くう)を見上げた。
 天井から釣り下がるランプがゆらゆらと揺れて、男とそれに組敷かれている郁也の影を天幕の壁面に刻みつけた。



 星がひとつ夜空を引き裂く。
 時を同じくして、アルグリードの天幕で低いうめき声が上がった。

 歩哨が警戒する天幕の中、幾つもあるランプの火が途絶えた。
 外からの篝火だけがかすかに天幕の中を照らし出す。
 郁也は何度も挫けそうになりながら褥の上に上半身を起こした。
 気を抜けば、痛みに気が遠くなる。
 引き裂かれるような痛みだった。
 いや、引き裂かれた痛みだ。
 泣きすぎて腫れた瞼が熱く、視界が狭まる。
 目がくらむ。
 闇に沈む天幕の内部を照らすのは、外の篝火だけだった。
 隣に眠る男を、郁也は見下ろした。
 もはや、何の感情も浮かばないまなざしは、見る者がいればそれを震えさせることだろう。
 もうなにも。
 考えたくなかった。
 なにひとつ。
 喉が渇いた。
 求めるものはすぐそこに。
 郁也は立ち上がると、水差しを手に取った。
 それが目に入ったのは、だから、偶然だった。
 いや。
 ここが戦場であることを考えれば、必然というべきか。
 小さめの木造の椅子に、それは立てかけられていた。
 一振りの長刀は、しかし、郁也の手に余る重さをしている。
 その横に、まるで時代劇の脇差しのような細身の剣が立てかけてある。
 そろりと郁也はそれを取り上げた。
 ずっしりとくる重みに、腕が撓るような錯覚があった。
 どこか既視感のある重みに、郁也の視界がぶれる。
 郁也はそれを振りかぶった。

 時を同じくして、鋭い色をした銀の星が夜空を引き裂いた。



「捕まえた」
 いつか耳元にどこかで聞いたような声がする。
「その女に用はない、戻してやるといい」
 丁重にな。
 今更のことばを付け足して、男は消えたときと同じく突然姿を現した少年を抱き上げた。
「この傷を覚えている」
 肩から脇腹にかけて袈裟懸けのような傷を指先でなぞる。
 うっすらと瞼を開けた郁也は、そこに狂気を宿した男の瞳を見出して、身じろいだ。
「昇紘に抱かれてきたのだな」
 アルツの賓客。
 いや。
 アルツの凶星(まがぼし)か。
 あのあとアルツは滅びた。
 オレが滅ぼした。
 おまえは失敗したのだよ。
 オレを殺すことにな。
 目を見開いて、怯えたように自分を見上げて来る褐色の瞳に、男は満足げな笑みをたたえた。
「オレの前世は、ツェルスタスの覇王昇紘」
 おまえは、オレの生きた人形だ。
 そうだろう?
 もう逃がさない。
 覚悟しておけ。
 そう言うや、男は噛みつくようなくちづけを落とした。

 かすかに冷たい風が吹き、秋が深まることを誰にともなく告げている。
 ひとりの少年がとある男の狂気に捕まった。
 その少年の行く末に何があるのか、空にかかる未だ細いままの月だとて知りはしない。
 ただ無情に、精根尽きた少年を見下ろすのみである。


おわり

2011/10/10 09/30   
2011/10/11 10:48ー17:14




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