夏 翳  3







9



 目が覚めたのは、効きすぎたクーラーのせいだったのかもしれない。
 かすむ目を擦りながら、浅野は、ぼんやりと、からだを返した。
 昇紘がここしばらく来ないせいもあって、からだのダルさは、かなり楽になっていた。
 手を伸ばして、枕を掻き抱くように、抱きしめる。
 淋しいと、そう思っている自分が、信じられなかった。
 最初、昇紘は、自分を、レイプしたのだ。
 それは……自分は、どうやら男とのセックスがはじめてではなかったらしいが。それでも、あれがレイプであることには、間違いない。そんな相手が、ここにいないことに、淋しさを感じる自分を、どう思えばいいのだろう。時々、浅野は、混乱する。

 気がつけば、自分は、この部屋にいた。
 それまで自分は、眠っていたのか、起きていたのか。気がつくと、ソファに腰かけていたのだ。ぐるりを見渡しているとき目についた、大きな窓。その一枚ガラス越しの陽射しを、目を眇めて見やって、浅野は、悲鳴をあげていた。
 何が怖かったのか。
 窓の外一面に広がる花畑が、真っ赤に染まって、怖くてならなかったのだ。
 ソファからずり落ち、床にからだを縮こめて、震えていた。
 ドアが開いて、慌しく数人のひとが入ってきたことにも、気づかなかった。
 声をかけられ、脈をとられ、瞬間恐怖を忘れるほどの慌しさで、ベッドに寝かされた。
 差し出されたコップを受け取りそこねること数度。やっとのことで受け取れたコップ一杯分の水を、一息に飲み干し、ようやく人心地がついた気がした。しかし、それは、自分を囲んでいる者たちの存在に、たちまち掻き消されてしまった。
 ベッドの周囲には、見知らぬ四人の人物がいた。白衣を着た男女と、浅野にコップを運んできた男がひとり。そうして、浅野をベッドに運んだ、男。彼が、この場の中心人物だということは、浅野にもわかった。なぜなら、彼だけが、ひとり、椅子に悠然と腰を下ろしているからだ。彼の座る椅子の背後に、浅野にコップを手渡した男が、控えている。
「な、に……」
 水を飲んだというのに、喉は、既に、からからに渇いていた。
 喉が引き連れるような気がした浅野に、件の男が、再びコップに水を満たして、差し出した。条件反射でそれを受け取ろうとした手から、コップが、滑り落ちそうになる。
「? オレの手……」
 自分の手なのに、なぜか、右手の反応が鈍い。手を伸ばしたり、上げたり、妙に、重く、思い通りにならないもどかしさがあった。
 なぜだろう。
 変だ。
 コップを、サイドボードに置こうと、伸ばした。それだけのことなのに、なぜ、こんなにも、コップを重く感じるのだ。こんなにも、手が、震えるのだろう。
「どうしました」
 穏やかな声は、医師のものだった。
「右手……が、おかしいんだ」
 縋る気分で差し出した右手を、医師が、触診する。
「大丈夫ですよ。骨折なさった後、三月近く使っていないため、筋肉が落ちているというだけのことです。意識が戻られたのですから、少しずつ動かされるといいでしょう。すぐに元通りに違和感なくなります」
「……骨折?」
「覚えておられないのですか? 三月ほど前、あなたは、このあたりを骨折なさったのですよ」
 腕の付け根を触られて、浅野は、ますます、呆然と、なる。
 医師のことばを反芻し、引っかかる単語はまだあったのだと、
「三ヶ月、使ってないって? 意識が戻ったって………オレのことか?」
 医師の白衣の袖を握りしめる。
 厭な汗が、小刻みに震える全身に、じわりと流れ落ちる。
(しょう)。アンプルとシリンジを」

 浅野は、ぼんやりと、ただ、注射器の中の透明な液体が、腕の中に押し込まれてゆくのを、眺めていた。
 全身にのしかかってくるのは、疲労なのか。体中の力が、抜けてゆく。
 枕に上半身をあずけているだけというのが、これ以上ないくらい、辛かった。
 眠りたい。
「こどものように暴れるからだ」
 ともすれば落ちそうになる瞼を浅野は、必死になって、開いた。目の前に、声の主の、黒々とした双眸が迫っている。
 注射が、怖かったわけではない。
 ただ。
 そう。
 突然、気づいたのだ。
 自分が、この部屋にいる誰一人として、知っていないことに。
 自分が、どうして、こんな部屋にいるのか、その理由を思い出せないことに。
 そうして、記憶が、なにひとつとして、思い出せないことに――――――だ。
 恐怖というよりも、不安だったのかもしれない。
 浅野を恐慌に導いたのは、注射されると、また、なにもかもを、忘れるのではないかという、不安だったのかもしれない。
「な……んで」
 男だけを残して、他の三人が部屋を出てゆく。
 眠ってしまいたいのに、残ったひとりのせいで、妙に、目が冴えていた。
「やっと、目覚めたおまえの傍に私がいて、なにか、おかしいかね」
「………あんた、オレの、なに?」
 その台詞のなにが、可笑しかったのか、男は、口を歪めて、短く笑った。
「なんだよ」
「知りたいか」
「知りたい」
 なんでもいい。
 自分が何なのかを、知る手がかりになるのなら。
 なんだって、構わなかった。
「?」
 顎を持ち上げられて、浅野は、ただ、近づいてこようとしている相手の顔を凝視していた。
  「私たちは、こういう、関係だ」
 押し当てられたくちびるに、浅野の意識は、瞬間焼き切れた。
 そうして、そのまま、気がつけば、浅野は、男の下で、混乱したまま、翻弄されていたのだ。
 まだ、名前すら知らない相手に、力づくで抱かれながら、浅野は、自分が行為に慣れていることを、うっすらと、感じていた。嫌悪もある、恐怖すらも、確かにあるというのに、与えられる快感に、からだは素直に従うのだ。
 無理矢理にからだを開かされながら、浅野は、朦朧とした頭の片隅で、かすかに、違和感を感じていた。何かが違う。それがなになのか、相手の動きに、明確なことばになることはなかった。そう、相手の行為には、まるで、浅野を罰しているかのような、有無を言わせない強引さがあった。それと同時に、自分を逐一観察しているような、そんな鋼色のまなざしが、気絶する間際まで、浅野を悩ませたのだった。


「昇紘………」
 転がり出た、相手の名前に、浅野の眉間に、皺が寄せられる。
「淋しいだけだ」
 そう、そうに違いない。独り語と以外で自分が喋ることは、ほとんどない。一日一度は診察に訪れる医師と看護士に、ふたことみこと言われるのに、うなづく程度。あとは、ほぼ定期的に訪ねてくる昇紘を相手に、すこしばかりの会話をする程度だ。なぜだか、身の回りの世話をしてくれている男に、嫌われているような、そんな雰囲気のために、話しかけることもできない。
 ここが、昇紘が理事をしている療養所だということは、聞いている。自分が、何故、ここにいるのかということも、知っていた。
 三ヶ月近く眠り続けていたという自分が、目覚めて、記憶がなくなっているというパニックもどうにか落ち着いてしまえば、あとは、昇紘に教えられたことが本当だと、そう、信じるしかなかった。
 たとえ、教えられたことが、信じられないようなことであったとしても――である。
 昇紘の説明は、昇紘の愛人で、養子だという自分が、昇紘の弟の自殺に巻き込まれ、怪我をして、そのまま、昏睡していたというものだった。
 自殺したという昇紘の弟は、昇紘とは母親違いで、二十歳ほど年が離れていたのだそうだが。末期癌だと、そう、宣告された挙げ句、自殺してしまったのだという。最先端の医療でも、治療は不可能だったのだそうだ。
 昇紘が聞かせてくれた話の、どこかが、浅野の記憶を、ノックする。だから、浅野は、昇紘の話を、信じることにしたのだ。それに、なにかを信じていなければ、耐えられそうになかった。なにかに、縋っていなければ、平静にしては、いられなかった。
 愛人ということばは、浅野にとって、重すぎるものだったが、最初以外、昇紘の行為自体は、しつこくはあったものの、苦痛ではなくなっていた。どうにか、浅野が受け止めきれそうな、激しさに、変わっていた。だからといって、浅野が慣れたかといえば、疑問ではあった。どうしても、怖さと、不安が先に立つ。それを、ひとつひとつ、くちづけとピロウ・トークとで、昇紘は、根気強く宥めてゆく。だからだろうか。結局、浅野は、最後まで、昇紘を拒絶しきることができないのだった。


「今日は、来られなくなったそうだ」
 世話係の男が誰のことを言っているのか、確認するまでもない。
 ホッとするような、淋しいような、複雑な気分になる。
 昇紘が来るということは、自分を抱きに来るということで、自分には、拒否権は、ほとんどない。それでも、この、事務的な男と病室とは思えないような豪華な病室にいるよりかは、はるかに、ましなことのように思えるのだ。それに、来てすぐ、自分を押し倒すほど、昇紘に余裕がないわけではないことを、浅野は、知っている。それが、浅野には、救いに思えるのだ。昇紘と食事をしたり、お茶を飲んだり、会話らしきものをする時間が、単純に、楽しかった。だから、自分は、イヤだと思う反面、昇紘が来るのを、待っているのだろう。
「これを、渡すように、秘書から預かってきた」
 無造作に差し出されたのは、長細い包みと、重そうな花束だった。
 その花束に、浅野の視線が、奪われた。
 そうして、次の瞬間、浅野は、悲鳴をあげて、花束を振り払っていた。
 赤い花。
 赤い花びらが、ほろほろととろけて、床に赤い溜まりをつくってゆく。そんな、錯覚が頭を過ぎり、そうして、その中から、なにかが現れそうな、そんな恐ろしさに囚われたのだった。
 赤は、イヤだ。
 赤は、嫌いだ。
 特に、赤い花なんか、見たくもない。
 自分の口から、いまだ悲鳴が出ていることに、浅野は、気づいてすらいなかった。
 世話係の男に呼ばれて駆けつけた医師と看護士が、浅野に、鎮静剤を与える。
 ほどなくして効いてきたのだろう、浅野は、ベッドに仰臥したまま、医師の質問に、答えはじめた。
 ゆるゆるとした浅野の返答をカルテに書き付けながら、医師の眉間に、縦皺が刻まれる。
「赤い花ですか?」
「……見たくない」
 顔を背ける浅野と、これです――と、世話係の男に差し出された乱れた花束とを、医師は、見比べる。
 もう処分してくれていいと、手で合図して、医師は、看護士に、耳打ちする。うなづいて部屋から出て行った看護士は、数分経たずに戻って来、手にしたものを、医師に手渡した。
「こちらを向いてください」
「花、ない?」
「片付けましたよ」
 医者のことばに、浅野は、背けた顔を、元に戻した。
 酷くゆっくりとした動作で、浅野が、医師を、見上げる。
 いつもは、青白い頬が、熱で上気している。伸びた髪の毛が、汗で額や頬に貼りついている。医師を見上げる目は潤み、雇い主の愛人だという認識のためなのか、少年は医師にひどく、艶めいて見えた。
「これは、何色に見えます?」
 医師が手にしているのは、何の変哲もない、色紙だった。
「……白?」
「これは?」
「緑……だろ」
 次々に差し出される色紙の色を答えながら、浅野の眉間が、寄せられる。苛立ちが募っていた。
 鎮静剤を打たれた後は、ひどくぼんやりとなる。だから、いちいち答えるのが、辛いのだ。なのに、なんだって、こんな質問に答えなければならないんだろう。
「……赤………なぁ、もう、いいだろ」
 赤い色紙をなるべく見ないようにしながら、浅野は、それでも、律儀に答えた。
「次でおしまいですから」
 これは? と、医師が差し出したものに、浅野の全身が、弾かれたように、震えた。
「あか。赤だってば。………ヤ……だ。や、めて。お願いだから……しまってくれ」
 顔を背ける浅野に、
「わかりました。もう、片付けましたからね」
 医師がつまんでいたものは、先ほど浅野が払いのけた花束からこぼれ落ちた、花びらの一枚だった。色は、白。決して、赤などではない。
「ほ、んと、に?」
「嘘など言いませんよ。ほら」
 恐る恐る確認する浅野に、両手を開いて、かざしてみせる。
「ねっ」
と、にこやかに笑いながら、
「後は、もう、ゆっくり休んでください」
 医師は、浅野にそう言うと、部屋を出て行った。
 浅野に背中を向けた途端、医師の眉間に、深い皺が刻まれたことを、浅野は、知らなかった。

 枕元が、うるさい。
 静かにしてくれ。
 オレは、眠いんだ……。眠るくらいいいだろ。
 せっかく寝てるのに、なんだって、邪魔をするんだ。
 眠りが破られそうになる不快感に、浅野は、ベッドの中で、輾転反側を繰り返していた。
 誰だ……。
 耳に入ってくるのは、聞きたくないような、会話だった。
「あの忙しい籍大人(ターレン)が、休みができると、必ず来るわけだし。来たら、来たで、ヤッちまうわけだ。大人がきた次の日なんか、コイツは、起き上がれねーってんだから、ふるってるよな」
 聞きたくない。
「養子でしょ?」
 やめろ。
「同性同士で養子ってなると、ほとんど、入籍だけした夫婦みたいなモンだろう」
 なんなんだよ。
「それは、暴言でしょ」
 なんで、そんなこと……。
「ま、な。でも、こんな、どこにでもいるようなガキが、籍の兄弟を手玉にして誑かしちまうんだから、わかんねーよな」
 なんだ、それ。
「挙げ句、弟は、コイツを拉致って目の前で自殺しちまうんだし。兄は兄で、これ幸いと、記憶なくしちまってるコイツを自分のものにしちまったってわけだから、自殺した弟のほうは、浮かばれねーよな」
 なんなんだよ、それって。
 ひそひそと声をひそめた会話は、まだつづいていて、浅野の神経を、一方的に逆なでしている。
 聞きたくない話なのに、勝手に、意識にはいってくる。
 耳を塞いでしまいたい。けれど、動けば、聞いていることを知られてしまうだろう。
 聞きたくもないのに、聞かされつづける苦痛を、どうやって宥めればいい。
 飛び起きて、止めろと、そう、怒鳴りたい。しかし、いざ動こうとして、意識だけが、覚めていて、からだが、動かないことに、浅野は、呆然となった。
 くそっ!
 声に出して罵りたいというのに、それもできない不自由さに、浅野は、ただ、耐えるよりなかった。
 そうして、いつしか、意識とからだとが、同調したのだろう。浅野は、再び眠りに落ちていったのだった。

 浅野は、低く呻いた。
 突然の雷に、今度こそ、浅野は、飛び起きた。
 あれから、どれくらい眠っていたのだろうか。室内は闇に沈み、雷光と雷鳴だけが繰り返しとどろいていた。
「何時だ」
 枕もとのスイッチを押して、小さなランプを点す。オレンジ色のともし火が、まだ闇に慣れたままの目に痛い。浅野は、目を眇めて、枕もとの時計を見た。アンティークなアナログの時計は、夜中の二時ごろを示しているようだった。
 厭な時刻だ……。
 夜の闇が深く、静寂が支配しはじめる頃合である。
 目覚めて何度目かの、ひときわ大きな雷鳴に、思わず、首を竦めた浅野は、
「!」
 目の前に、白くにじむような影を見出し、硬くなった。
 冷たい印象の、青白い光にも似た影は、ぼんやりと、人の形をとっていた。
「だ、誰だ……」
 震える声で、誰何(すいか)するのは、ほとんど、条件反射なのかもしれない。
 ゆるり――と、白い影が、動いた。
 刹那、耳を聾さんばかりの雷鳴と、あたりを照らし出す雷光とがほぼ同時に、降りた。
 目を閉じる寸前に、白い影が両手を上げて、近づいてくるのを、浅野は、見た。
 怖い。
 素直に、そう、感じた。
 無表情に、浅野を見下ろしている一対の双眸。それだけが、血の色を宿して、ただ、浅野を見下ろしていた。
 咄嗟に、それができるとは思いもしなかったが、首に触れている両手を、振り払う。
 い・く・や――――と、白い影のくちびるが、動いたような気がした。
 もう一度伸びてくる手を避けるように、浅野は、ベッドからまろび出た。
 わからない。
 なぜ、名前を呼ばれるのか。
 誰なのか。
 この、おそらくは、霊なのだろう存在が、なぜ、自分の名前を知っていて、自分の前に現れたのか。
 首に絡み付いてくる両の手に、殺される――と、浅野は、恐怖した。
「しらない」
 しゃり――と、霜の浮いた何かで喉元を撫で上げられるような感触に、身震いする。
「オレは、おまえなんか、知らないっ」
 そう叫んだ瞬間、喉を撫で上げていた手が、ぴたりと、動きを止めた。
 浅野は、必死だった。
 どこでもいい。
 そう、思った。
 逃げられるのなら、どこでもいい。
 そうして、浅野は、窓から、外に出たのだ。
 雷光が、空を、引き裂き、雷鳴が、耳をつんざく。
 大粒の雨が、浅野の全身を打ち据え、強い風が、浅野をどこへも逃がさぬよう、押しとどめようとする。
 そうして、風に、雨に、花びらを散らす芥子の花群が、浅野を、絶望へと追いやろうとした。
 雷鳴に照らし出される花びらは、闇の中にもかかわらず、赤い血の色をして見えた。
「くっ」
 浅野が、息を呑む。
 しゃり――と、耳もとに、冷たい感触を覚えた。
 振り向けなかった。
 目を閉じる。
 耳も、塞ぎたかった。
 荒れ狂う風雨と雷鳴にもかかわらず、影が、浅野の名を呼ぶ声が、脳へと、送り込まれるのだった。
 い・く・や――――
「いやだっ」
 浅野は、絶叫し、嵐の中に、足を踏み出したのだ。


From 12:06 2005/07/14 to 17:50 2005/07/18
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