夏 翳  4







10


 喉を締め上げてくるのは、白い、手だ。
 吹き降りの雨の向こう、赤い、血のような、まなざしが、ある。
 殺される――――
 浅野は、もがいた。
 全身がずぶ濡れなことも、全身を打ちつける雨粒の痛みも、気にならなかった。
 ただ、喉に絡む冷たい掌の感触ばかりが、浅野の意識を奪っていた。
 なんで、殺される。
 こいつは、なんだって、オレを殺そうとするんだ。
 死にたく、ない。
 イヤだ。
 死にたくなんかない!
 見知らぬ幽霊に殺されようとしている自分が、信じられなかった。
 見知らぬ幽霊が、「い・く・や」と、自分の名前を何度もつぶやき、赤い血を目からしたたらせるのを、白い雷光の輝きの中に見た―――と、浅野は思った。

「うわっ」
 喉を絞められた感触の生々しさに、浅野は飛び起きようとして、ベッドの上に蹲った。
 目が回る。
 全身が痛くてだるい。
「気がつかれましたか」
「ドクター」
 喉が、ひりひりと痛かった。
 栄養剤なんですが、と、独り言のようにつぶやきながら、主治医が、浅野の腕に針を突き刺した。
「オレ、どうしたんだっけ」
 くらくらと目の前が揺れている。からだまでもが揺れているような感触に、浅野は、気持ちが悪くなる。注射されていないほうの手を、額に乗せて、浅野は、ぼんやりと、ベッドの天井を見上げた。
「あんな嵐の夜に外に出るだなどと、自殺行為ですよ」
 窘めるような医師のことばに、浅野の手が、喉元に泳いだ。
「さいわい、発見が早くて、肺炎にまでは至りませんでしたけど。体力が落ちているのですから、少しは、ご自分を労わってあげてください」
 医師のことばが遠い。
 耳鳴りが、気持ち悪い。
 喉を、絞められた。
 殺されると、思った。
「……なんで………せいりゅう……………」
 無意識にこぼれ出した名前に、心臓が大げさに、跳ねる。
「え? あ………」
 頭から、冷水をかけられたような、そんな不快感に、浅野の鼓動が、次の瞬間、止まった。そんな錯覚があった。
「せ……い、りゆう…………」
 うつろに周囲を見渡していた浅野が、突然、
「ひっ」
 短い悲鳴をあげた。
「どうしました?」
 突然痙攣を起こして震えはじめた浅野に、医師が慌てる。
 全身を縮こまらせて、小刻みに震えている。
「君? 籍くん?」
「イヤだっ」
 低く歪んだ拒絶のことばは、悲鳴じみて、室内に響いた。
「イヤだイヤだ……あっ」
 ベッドから転がり落ちるように床に倒れた浅野に、医師の手が伸びる。それを拒むように、浅野は、尻でいざるように、後退する。
 隣室のドアが開いたのは、ベッドの四隅にある支柱の一本に浅野がしがみついた時だった。
「なにをしている」
 低い声が、室内に、流れた。
 浅野の、医師の、動きが、止まる。
 浅野の伏せた顔が、ゆるゆるともたげられ、声の主を、探るように動いた。
「しょうこう」
 呆然と、浅野が、綴る。
 そのまなざしに、時折り浅野が見せていた、昇紘を認めての、安堵したような色はなかった。戸惑いと、不安、それに、屈辱や恐慌。最後に、怒りだろう色がじわりと混じってゆく。
 浅野の視線を受けて、何かを感じ取ったのだろう、昇紘の口角が、もたげられてゆく。
 にやりと太い笑みを向けられて、浅野の双眸が、()ぜるように、揺らいだ。
 突然、張り詰めた空気を引き裂くように、昇紘が、笑った。
 浅野の全身が、震える。
 青ざめていた頬が、なにを理由にか、真っ赤に染まった。
 ベッドの支柱を支えに、必死になって、立ち上がろうとする。しかし、浅野は知らなかったが、彼は、雨に打たれてから三日の間、高熱で意識がなかったのだ。
「な、んで」
 思い通りにならないからだに、涙がこみあげてくる。悔し涙を袖口で拭いながら、必死に、立ち上がろうと、浅野がもがきつづけている間に、昇紘は、すぐそこに、やってきていた。
 そら――と、差し出された手を、反射的に、浅野は打ち払っていた。
「いやだっ」
「どうした。なにを拗ねている」
 ことさらにやわらかく、昇紘がささやく。それに、全身が、鳥肌立つのを、浅野は、感じていた。
「触るなっ」
 二の腕に伸びてきた腕を振り払おうとして、逆に、腕を捕らえられた。
「オレのこと、騙したなっ」
「ああ。やはり、思い出したのか」
 浅野を引きずり起こしながら、昇紘が、(うそぶ)く。
「あ、んな……ひどい。あんな、酷い嘘つかなくたっていいだろう。なんだって、オレのこと、放っておいてくれないんだよっ! 誰がっ! 誰が、おまえの愛人なんだっ」
 涙が、とめどなくこみあげてくる。泣き顔を見られる屈辱に、止めようとしても、とまらない。
「あんたたちふたりして、ひとのこと好き勝手しやがって、なんでだよっ! オレに、オレになんか恨みでもあるのかっ」
 しゃくりあげつづけて、息が苦しい。しかし、浅野は、言わずにはいられなかったのだ。
「恨みというのではないがな」
 しばらくの沈黙の後に昇紘がつぶやく。
「言っただろう。おまえは、私のものだ――と。忘れたとは言わせない。なのに、なぜ、このからだを、清流の好きにさせた」
「し、しら、ない」
 鋼のまなざしに、目を射抜かれそうで、それまでの勢いが、嘘のように、おぼつかなげなものになる。
「私に頼るおまえは、可愛かった。不安に震えながらしがみついてくるさまは、たとえようがないほどだった。だからこそ、同時に、憎かった。そう、よく言うだろう、可愛さあまって―――と。まさに、おまえはそれだった」
 わかるか?
 覗き込んでくる昇紘のまなざしのきつさに、浅野は、視線を逸らすことすら思いもつかなかった。
 脳を犯される。そんな恐怖に、全身が、どうしようもないくらい、震えてやまない。
「だから、あれは、罰だ。本来の主人である私以外に足を開いた、淫乱な、愛人に対する―――な」
「あいじん、なんか、じゃ、ないっ」
 叫んだ途端、浅野の全身に、電流のような痺れが走った。
 背中を滑った昇紘の掌が、腰に回されたのだ。
「たったこれだけで、こんなになる淫蕩なからだをしておいて、私のものでは、ない――と?」
 笑いさえ含んだ声音で、昇紘が、ささやく。
「抱いてくれるなら、誰でもかまわないのか?」
 浅野の背中を、冷や汗が、流れ落ちた。
「そうなら別に、淫乱な娼婦に対するようにしてやってもかまわないが」
 変な風に、腰に回されている昇紘の手が、動いた。
「い、いやだ」
「なら、おとなしくしていろ」
 ベッドの上に縫いつけられて、浅野は、首を横に振る。
「まだ、治ったわけではありませんから……」
と、医師のとりなしを、
「何のためにおまえを雇っている」
と一蹴して、昇紘は、部屋の外へと追いやった。


From 13:49 2005/08/03 to 15:40 2005/08/03

 いつもながら、色っぽくないですね。前回の昇紘さんとの関係が、一気に悪化した感じですが。さて、いつになったら、浅野くんに平穏な日々が訪れるのか。実は、既に、魚里にはわからなくなっているのでした。ごめん。
 少しでも楽しんでくださるひとがいると、嬉しいです。
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