夏 翳  6



12


 あてがわれている部屋から出たことがあるのは、あの嵐の夜一度きりだった。しかも、無謀にも、庭に面している窓からである。
 昇紘が書斎に使っている部屋のドアとは別の、医師たちが出入りしているほうのドアを開けたのは、はじめてだった。ドアの外がどうなっているのかすら、実を言えば、浅野は知らないままだった。
 逃げられると思ったわけではない。ただ、部屋にいたくないだけだった。このままいれば、いつものように、なし崩し的に昇紘に抱かれるだけなのが、目に見えていた。そうして、いつものように、昇紘が帰った後、清流の霊に、首を絞められるのだ。それらが、突然嫌でたまらなくなったのは、事実だった。
 思い切って開けたドアの外は、また部屋だった。リビング兼応接間といった趣の、シックな部屋を、浅野は横切り、いくつもあるドアを、手当たりしだいに開けた。
 某が使っている部屋のものらしいドアを、慌てて、閉める。幸い、某はどこに行っているのか、不在だった。
 悪いことをしているような気分に駆り立てられながら、浅野は、違うドアを、次々と開けていった。
 やっと、廊下に出られるドアを開けた浅野は、しばらく、呆けたように、ぼんやりとしていた。
 廊下には、青白い光が天窓から差し込んでいる。
 カーペットの敷かれた廊下を、息を殺すようにして歩きながら、浅野は、不安になっていた。
 人気のない廊下の壁には、絵画まで掛けられていて、まるで、高級なホテルかどこかのようだ。
 直角に折れ曲がっている角を何度か曲がり、浅野は、ようやく、息をついた。
 これまで歩いていた、深海めいた廊下とは違う、明るく広い廊下とドアが並んでいる壁が、そこからは、続いていた。
 思わず、浅野は、窓に近寄った。
「海?」
 青い海が、きらきらと光って、眩しい。
 空も青く、雲ひとつない。
 窓の外は、断崖絶壁で、遠く、白い波しぶきが飽きることなく岩に当たって砕け散っている。
    船が水面に航跡を引きずりながら、少しずつ動いている。
 海鳥が、空を舞い、飛行機が、飛行機雲を描く。
 どれくらい、ぼんやりしていただろう。
 ごつんと、なにかが足にぶつかる気配に、浅野は、我に返った。
 見下ろせば、かなり大きな、ネコだった。耳や顔の真ん中手足の先と尻尾がチャコールグレイで、他の部分うっすらと茶色がかったようなクリーム色の、サイアミーズ――要は、シャムネコである。
「………」
 なんでこんなところに、ネコがいるんだろう。
 しゃがみこんで、浅野は、手を伸ばした。
 ゴロゴロと、ブルーの目を細めて、ネコが、浅野の掌に顔を寄せる。
「おまえ、なつっこいな」
 ぐりぐりと、ネコが望むままにあちこちを撫でてやっていると、不思議と、心が穏やかになってくるような気がしてならなかった。
「抱いていいか?」
 そっと、脇の下に手を入れて、抱き上げる。
 ずっしりとした重みと、喉鳴りの音、それに、和毛の感触が、寄せた頬に心地好い。
 ネコも気持ちがいいのか、嫌がりもせず、目を細めて喉を鳴らしつづけていた。
「こんなところにいた」
 突然ふってきた声に、浅野が全身で反応する。ネコも、ブルーの目を開け、喉鳴りがぴたりとやんだ。
 自分がなにをしていたのか思い出し、声のほうを見れば、ひとりの背の高い女性が、立っていた。浅野より頭半分高いだろう位置にある、刈り込まれた色の薄い金の髪が、窓の光に透けそうに見える。白衣を着ているところを見ると、ここの関係者なのだろう。が、浅野は、女性のことを知らない。
「勝手に部屋から抜け出したらダメだよ」
 伸びてくる手に首を竦めた浅野の腕の中、ネコの頭に、女性の手が、乗せられた。
「ごめんね、君。このやんちゃ、脱走しちゃってね」
 ご主人が探してたぞ〜と、言いながら、浅野の腕の中から抱き上げる。
「あ………」
 思わず手が動いていた。
「ご、ごめん……」
 握りしめてしまったネコの尻尾から、手を離す。
「ネコが好きなんだ。……君はここの患者さんだよね」
 色の薄いグレイの目が、浅野の上から下までをスキャンするかのように、見る。
「う、うん」
 そのままでは、ちょっとね。―――独り語ちると、
「ちょっと待っておいで」
 ネコを抱いたまま、ひとつのドアの中に入り、しばらくして出てきた。あいかわらず、ネコは抱いたままだ。
「女物で悪いんだが、とりあえずこれを羽織っておいで」
 浅野を手招く。
 思い立って部屋から抜け出した浅野は、シルクのパジャマのままである。こんな格好でどこに行こうと思ったのだろうと、頭を抱えたくなった浅野は、手渡されたガウンを羽織った。
「じゃ、これ」
 彼女は浅野に、ネコを譲り、
「私の名前は、メレディス・シンクレア。ここのドクターの一人だ。君は?」
「え? ……あ、と。浅野…………郁也」
 浅野郁也ね。噛んで覚えるように、つぶやきながら、先立って何度目かの角を曲がる。
「この療養所は広いからね。迷わないように」
 知ってるとは思うけど。
 私も先週着任したばかりの頃は、迷って困ったよ。
 おおらかに笑うシンクレアの白衣の背中を見ながら、浅野は、既に、どこの角をどう曲がったのか、わからなくなっている自分に気付いていた。
「さて、ここだ」
 浅野に笑いかけると、シンクレアは、クリーム色に塗られた木のドアをノックした。
「ミス・オパール。シンクレアです」
 ドアを開けたのは、藤色のワンピースをゆったりと着た女性だった。
「ドクター・シンクレア。わたしのミスター・ブルーはまだ見つからないんですよ」
 泣きはらした目元に白いハンカチを当てながら、ミス・オパールと呼ばれた女性は、シンクレアだけを見ていた。
「その件ですが、ミス・オパール」
 ぐいと浅野の肩を抱き寄せて、自分とミス・オパールの間に、浅野を押し出す。
「彼が見つけてくれましたよ」
と、シンクレアが言い切る前に、ミス・オパールの表情が、ピンク色に輝いてゆくのを、浅野は、呆然と見ていた。
「ああ! ミスター・ブルー」
 細い腕が、浅野から、ネコを当然とばかりに抱き上げる。
「どこに行っていたの、いけない子ね。おかーさんは心配で心配で、あなたがいなくなってから三日間少しも眠れなくて、そこのドクターに叱られたのよ」
 メッ! と、口調は叱っているものの、表情はとろけんばかりの笑顔である。
「ドクター・シンクレア。それに、あなた。ミスター・ブルーを見つけたくださって、ありがとう」
 ネコに頬擦りしながら、お茶でも―――と、誘われて、浅野は怖気(おじけ)たが、シンクレアに背中を押されて、逆らえなかった。
 ミスオパールの部屋は、淡いピンクと藤色それに白いレースとで統一されていた。少なくとも、通されたリビングはそうだった。
 広いリビングの真ん中には、白いグランドピアノが、置かれている。
 ピアノの上、藤色のクッションの上に、床に下ろされたミスター・ブルーが当然とばかりに飛び乗った。
 ソファを勧められ、浅野は、居心地悪く腰を下ろす。
 とんでもない展開に、どうすればいいのか、わからなくなっていた。
 六十代か七十代くらいだろう、小さなミス・オパールに、どう接すればいいのか、これまで機会のなかった浅野にはわからない。隣に座っているシンクレアに対しても、同じだった。
 どうぞ――と、ミス・オパールが、紅茶を手ずから淹れて、クッキーを進めてくれる。
「緊張しなくていいのよ」
 そうウィンクして言うと、ミス・オパールは、ピアノの前に腰を下ろした。
 目を瞑る。
 そうして、おもむろに鍵盤に指を走らせはじめたミス・オパールは、単なる小さなネコ好きの女性ではなくなっていた。
 背筋を伸ばしただけなのに、ピアノの前のミス・オパールは気品さえ漂わせて、ピアノを弾く。
 あの細い腕で――と、驚愕するほどに、豊かな音色がミス・オパールの指の先から紡ぎだされてゆく。
 きらきらと、音の光が踊る。
 音が、洪水のように、浅野を押し流してゆこうとする。
 あたたかく、浅野をつつみこむ、ささやかな、ぬくもりさえ、音は、感じさせた。
 最後の音が鳴り止み、シンクレアが拍手の体勢をとったのを、ミス・オパールが人差し指をくちびるに当てることで止めた。
「これは……」
「顔色が悪いとは思っていたけれど………そっと寝かせておいてあげましょう」
 苦笑するふたりの女性は、音をたてないようにティーセットを持って、場所を移動した。ピアノを挟んで、反対側のテーブルに移動して、ふたりは、静かなひとときを楽しみはじめた。
「ドクター。見てごらんなさい」
 シンクレアがクッキーをつまんだままの格好で、ミス・オパールの示す方向を振り返った。
   いつの間にピアノから下りたのか、ミスター・ブルーが、ソファの上に横たわっている浅野の伸ばした腕を枕に丸くなっている。
「ミスター・ブルーはあの子がお気に入りのようね」
 にっこりと、ミス・オパールが、微笑んだ。

 浅野が気付いた時、既に、周囲は薄暗くなっていた。
 ぼんやりと、浅野は、ベッドの上に上半身を起こした。
 寝すぎたみたいに、頭が重い。
「え……と…………」
 なんか変だ――と、浅野が思ったとき、
「ミス・オパールのピアノを聴いたそうだな」
 静かな声がかけられた。
「しょうこう……」
 いつからそうしていたのか、ベッドサイドの椅子に腰掛けて、昇紘が、浅野を見ていた。
「どうした。寝ぼけているのか」
 顎を掬われて、目と鼻の先に、昇紘の顔が迫る。
「!」
 掠めるような、触れ合うだけのくちづけは、すぐに離れていった。
「ミス・オパールのピアノを子守唄にしたのか」
 昇紘が、口角を持ち上げて、笑っている。
「さぞかし、気持ちよく眠れただろう」
 現役引退したとはいえ、彼女は世界でもトップクラスのピアニストだったのだぞ。
 ミス・オパール………。
 ふわふわと、雲の上をただよっているかのような、不思議な感覚に包まれたまま、浅野は、小さな白とピンクの老婦人と、シャムネコとを思い出した。
(そうだ…………)
 背の高い女医、ドクター・シンクレアのことも、浅野は思い出していた。
「たしかに、顔色がいつもよりは、いいようだな」
 ふん――と、しばらく何かを考えていたらしい昇紘は、ベッドサイドに腰を下ろすと、
「夕飯は食べられるか」
と、訊ねた。
 ここで、いつもの浅野なら、首を左右に振ることで否定を伝えるのだった。が、この日は、違っていた。
 浅野は、黙ったままだったものの、首を縦に振ったのだ。



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start 10:55 2005/09/27
up 16:02 2005/09/28
あとがき
 少しだけですが穏やかに進みました。
 この2回ほどやけに、第三者視点が多いです。しかも、脇役。この期におよんで、新登場人物を出すか、魚里! やっと、場面が、浅野くんの病室から動いたと思ったら、療養所の断片。
 流石に、浅野くんに視点を固定しただけでは、なかなか進まないなぁと、焦れてきたのかもしれません。といいつつ、どれほども進みはしないのでした。
 このあたりで、少しは浅野くんにも休憩をあげないとね。でも、このキャラはずっと温めてはいたのでした。ちょっと唐突だとは思うんだけどね。
 少しでも、楽しんでもらえていることを祈りつつ。
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