金波宮の怪



 その日、蝕でもないのに、金波宮が大きく揺れた。
 揺らいだと思えば、すぐに止み、宮内にいた大勢の人々は、安堵に胸を撫で下ろした。
 王宮の奥の奥、ほとんどのものがその存在を知らない、古い廟の壁がわずかに崩れ落ちていたのに、気づいたものは、いなかった。木立に囲まれた奥にひっそりと佇む廟は、いつの頃からかここに位置し、そうして忘れ去られている。何者とも知れぬものの霊廟は、ほとんど手入れもされることなく、ところどころに皹が入り、装飾も剥がれ落ちていた。
 揺れが起きる前に、一匹の鼠が、破れた壁から霊廟の中に入り、輪のような物を咥えて現れたことを知るものは、いない。鼠を狙って現れた猛禽が、鼠を捕らえ、鼠が悲鳴をあげた瞬間、輪は、地面に落ちた。緑の下生えに落ちた輪に編みこまれた貴石が輝く光を一羽の小鳥が目ざとく見つけ、咥えて去った。
 誰も見ることがなかったささやかな出来事は、やがて、金波宮を恐怖に陥れる先触れだった。



 月の冴えた夜だった。
 桓堆は、夜着の前を掻き合わせながら、庭に出た。
 広い王宮内にある、禁軍左軍将軍の官邸である。
 冴え冴えと白い月は、雲海にその姿を余すことなく映し、照り映える。小波にきらめく小さな月の光は、やわらかに周囲を照らしていた。
 夜、月を見て想うのは、ただ、己が主、ひとりぎり。
 その夜の月光にも似た、冴えた光を宿す、至高の緑眸を想い、溜め息をつく。
 今頃、主上は、正寝でお休みだろうか。
 双眸を閉じた主の表情が、いまだ稚い少女のものであることを、桓堆は、思い出す。
 艶めいたくちびるも、なめらかなその肌重も、まなざしを瞼が遮るだけで、あどけないものへと、変貌を遂げるのだ。
 それを知るのは、おそらくは、己だけ。
 身内に小波立つ熱は、その事実に、しばし、宥められる。
 忙しさにかまけ、肌を合わせずに、幾日になるだろう。
 ちろちろと小波立つ熱は、己が主に対する、情欲以外のなにものでもない。
 ほんの少しでかまわない。主上、あなたは、この、哀れな虜囚のことを、思い出してくださっているのでしょうか。
 我ながら女々しいと、そう、鼻で笑いながら、その思考は、桓堆の頭の中を離れない。目覚めた情欲もまた、しばらくの間は、消える気配がなかった。
 眠れぬままに、桓堆は、庭をあてどなく、歩きはじめた。
 耳に心地好い波の音。
 ふと、波の音に混じって、何者かのすすり泣く気配を感じて、桓堆は、歩みを止めた。
「誰だ」
 誰何する声に、刹那、泣き声が止む。
 しかし、いくばくもせぬうちに、再び、むせび泣くような、切ない泣き声が、桓堆の耳に届いた。
 足音を立てぬよう、気配すら殺し、桓堆は、声のする方向へと、足を向けた。
 波の音が、不意に止んだような、そんな気がして、桓堆は、立ち止まった。
 月が、雲間に顔を隠す。
 静まりかえった宵闇に、桓堆は、人影を見出していた。
 庭の奥、こんな場所があるとは、桓堆でさえ知らなかった、ささやかな平地に佇む人影は、ほぼ同じくらいの丈のある石に顔を伏せるようにして、泣いていた。
 いくぶんか猫背気味の背中は、絹物とわかる薄い布越しに、肉の薄い少年のものだと、桓堆に告げる。その後姿に、桓堆は、記憶がない。
 泣き声を殺しそびれるたびに、背中が、そうとわかるくらいに、引き攣れ、すすり泣きが、耳を打つ。
「どうした。誰かに、叱られたのか」
 そんなことがあるはずはないと、頭の中で、警鐘が鳴り響いていた。
 叱られて、泣く場所を探したとして、そう簡単に、ここまで入ってこれるはずがない。それに、月は隠れているというのに、こうもはっきりと見えるのか。
 ここは、金波宮内。仮にも、禁軍左軍将軍の、官邸なのだ。不審人物の進入を、容易に許しはしない。
 しかし、訊かずには、おれなかった。
 泣き声は、それくらい、切なそうだったのだ。
 桓堆の問いに、薄い背中が、ひくりと震えた。そうして、首が、左右に振られる。
「では、どうしたのだ」
 ことさらにトーンを落とした桓堆の声音の穏やかさに惹かれたのか、人影が、振り返った。
 雲間に顔を隠した月が、吹きはじめた風に、姿を現す。
「どこに戻ればいいのかが、わからない」
 固唾を呑んだ桓堆の目の前で、無残にも右半分が腐り爛れ、流れ落ちる血にまみれた、少年が、告げた。
「オレは、どこに帰ればいいのだろう」
 そう独り語ちるようにつぶやくと、血まみれの少年は、かき消えるように、その場から、姿を消した。
   後には、なにごともなかったかのように、ささやかな平地が、月に照らされている。
 しかし、桓堆は、それを、見つけた。
 石の下に手を伸ばし取り上げたものを、月光にかざして見る。
 細い褐色の紐のようなもののところどころに、赤い貴石が編みこまれている。
「これは……腕輪か」
 桓堆は、それを懐にしまうと、自室に、引き返したのである。


 桓堆が、腕輪を懐に自室に戻ったのとほぼ同時刻、金波宮の奥で、ひとりの女官が、恐怖に引きつった悲鳴をあげていた。
 地面に倒れこみ、目の前に迫り来る、黒い影に、顔を背けることもみじろぐことすらできずにいた。
 夜回りの番の、別の女官が駆けつけるまで、ただ悲鳴をあげつづけていたのだ。


 その夜を境として、金波宮の奥、鬼が彷徨うと、噂がたった。
 そうして、惨劇は起きたのだ。
 女史のひとりが、首を捻じ切られて、死んだ。
 女史の死が発見されたのは、明け方近く、発見したのは下働きの女だった。
 ことはひとの死であったから、警備強化と犯人捜索を命じた冢宰によって、速やかに王に、知らされた。
 執務室には、王宮の主だったものたちが集まっていた。
 窓を背に、赤い髪の女王は、家臣たちを見渡す。
「問題は、景麒、おまえだな。しばらく直轄領に避難しているか」
 緑の双眸が、その半身を見やる。
 金の髪の若者が、衝撃を受けたかのように、半身たる主を見返し、
「それは、お受けいたしかねる」
 表情ほどには衝撃を受けていないかのように、硬く、答えた。
「おまえ、血に弱いだろ」
 麒麟は仁獣。故にだろう、ひとの流す血に、血に混ざっている怨嗟の念に、病む。
 景麒の紫の双眸が、緑の双眸を見返す。
「私は、主上の半身。なればこそ、主上の身をお守りいたさねば」
 健気なことばではあったが、女王は、つれない。
「わたしとしては、だ。景麒。こういうときに、おまえが役に立つとは、思えないんだ」
 だから、おとなしく、避難していてくれ。
「私だとて、主上をお守りするくらいは」
「おまえな。……わたしを守るというなら、避難してくれ。おまえが死ねば、わたしも死ぬんだぞ」
 半身といいながら、意思の疎通がなかなか適わない相手に、女王の顔が、引き攣れる。
 王が死んでも、半身たる麒麟が必ず死ぬというわけではないが、半身たる麒麟を亡くした王は、必ず、死ぬ。これは、世の理である。
台輔(たいほ)。大丈夫ですよ。禁軍左軍は全軍をあげて、王をお守りいたします」
 助け舟を出したのは、禁軍左軍将軍、桓堆である。
「いざとなれば、拙めが、この身に換えましても、必ずや、主上をお守り申し上げますゆえ」
「な、景麒。(せい)も、こう言っている。おまえは、直轄領で、無事にこの事件が解決するように、祈っていてくれ」
   な。と、念を押すように、女王が、台輔の双眸を覗きこんだ。
「わかりました。主上がそうまで仰られるなら、私は、おとなしく、事件の解決を祈っておりましょう」
 台輔が頭をかるく下げ、退出する。
 それを見送る面々の顔には、明らかに、安堵の表情が宿っていた。



 犯人は、杳として捕まらない。
 捕まらないままに、男女老若の区別なく、首を捻じ切られた死体が、次々と、出現する。
 ひとが殺されてゆくからといって、政務を滞らせるわけにはゆかない。これまでに山積みの案件を片付けながら、の、探索である。
 王を囲む面々の眉間には、深い皺が寄せられ、王は、溜め息の回数が増えた。
「台輔を避難させてようございました」
「褒められるのはそれだけだな」
 冢宰のことばに、王が皮肉気に返す。
「……ああ、すまない」
 自分のことばに気づいて、王が、慌てて謝った。
「いいえ。主上も、お疲れでございましょう」
「おまえたちほどではないさ」
 冢宰の目の下の隈を見て、女王は、やわらかく、微笑んだ。
 目の前の書類に没頭しようとして、そういえば――と、ふと、頭を過ぎったのは、愛しい男のことだった。
 最後に肌を合わせてから、十日くらいになるだろうか。
「不謹慎だな………」
 自嘲しながら、女王は、頭を振る。
 当の相手は、禁軍をあげての警備に、余念がない。
 顔を見たのも、最初の死者が出た朝が最後だった。
 怖くないといえば、嘘になる。
 禁裏の奥に、殺人者がいるのである。しかも、どうやら、無差別の殺人。――幾日もかかって、わかっているのは、犯人が男だろうということ以外には、それだけである。
 できれば、好きな男に抱きしめていて欲しい。しかし、自分は、王である。王ともなれば、人前で怯えたさまなど、見せられはしない。いつなにが起きようと、毅然とした態度でいなければ。登局したばかりのころの、手痛い失態を、噛みしめる。
「いったい、犯人は、誰なんだ。何が目的で、殺人を犯す」
 決意を秘めた緑のまなざしが、宙のある一点を凝視した。


 静まりかえった廊下に、三つの影が伸び縮みしていた。
「ねぇ、陽子、やめましょうよ」
「やめたほうがいいわ」
 ひそやかなささやきに、
「だから、ついてこなくてもいいって」
「馬鹿ね。こんな時に、女王をひとりで外出させるほど、呑気な家臣なんていないわよ」
 青い髪の美少女が、スパッと、言い放った。
「そうよねぇ。陽子が外に出たってばれたら、大変よ」
 黒い髪のおとなしそうな少女が、賛同する。
「わたしたちが、叱られちゃうわ」
 ふたりで、ハモっての、どこか悪戯めいたことばに、
「わるい」
 女王が、頭を下げた。
「誰かさんも、冢宰に叱られちゃうんだからね」
「ああ、そうだった」
「なら、引き返しましょう。今なら、まだ、誰も気づいていないわよ」
「……そう…………だな」
 三人が踵を返しかけたときだった。
「ちょっ」
「陽子っ」
「しっ」
 三人は固まり、廊下の先を凝視した。
 廊下の曲がり角は、うすぼんやりと、照らし出されていた。
 そこに、黒い影を、見たのだ。
「陽子、こっち」
 ことばと同時に袖を引っ張られ、陽子は、廊下にいくつも置いてある椅子や飾り棚の下に身を隠した。
「なに、あれ」
「さぁ」
「わからない」
 ゆらりと揺らぎながら、近づいてくる黒い影。
 不安と恐怖にいたたまれなく、三人はぼそぼそとことばを交わす。
「ひと……みたいだけど」
「でも」
「生きてないみたいな……」
「陽子、あれ」
 指し示す先を見て、陽子の双眸が大きくなる。
 黒い影の足元には、影ができてはいない。
「まさか……」
「あの噂」
「本当だったんだ」
「噂って」
「ああ、陽子は知らないんだ」
「あのね」
 そうして、黒い髪の少女、鈴が話したのは、あの地震があった夜から、金波宮内を鬼が彷徨っているという話だったのである。
「ばさばさの髪、血走った目。なんか、とっても怖ろしい鬼なんだってよ」
「なんで、そんなのが、王宮内に……」
「馬鹿ね。陽子。王宮内なら、何がいたって不思議じゃないのよ。鬼も化け物も、ケダモノだってね」
 かつて亡国の王女だった青い髪の祥瓊は、時々、ひやりとしたことをさらりと言ってのけることがある。祥瓊の突き放すようなことばに、思わず、陽子は、友の顔をまじまじと、見やった。
「ね、あれ。やばくない」
 何か用事でもあったのだろうか。怯えたようすの女官がひとり、影が現れたほうの曲がり角から姿を現したのだ。
 女官に気づいた影が、進行方向を変えた。
 女官の引き連れた悲鳴が、夜のしじまを、引き裂く。
 その場にへたり込む。
 ゆらゆらと、近づく黒い影が、音もなく、女官の前で、止まった。
 上半身を傾け、なにやら思案でもしているような、風情である。
「…………」
 かすかに、何かを、影が口にしたような、そんな気配があった。
 ふるふると、女官が、首を振る。
 声もない。
 鉤のように曲げられた、影の腕が、すばやく、女官の頭を捕まえようと伸びた。
「止めろっ」
 限界だった。
 鈴と祥瓊とが止めるまもなく、陽子は、椅子の下から、飛び出していた。
 ぐりんと振り返った、影に、鈴と祥瓊とが、悲鳴をあげる。
 顔はよくわからないが、その、両眼の宿す光の禍々しさ。
「おまえは何者。何が目的だ」
 凛とした声で、陽子が誰何する。
「……を知らないか」
 陽子が耳にしたのは、そこまでだった。
「主上!」
 耳に馴染んだ叫び声が、陽子の耳に届いた時、既に、影は、掻き消えるかのように、その場から消え去っていたのである。
「ご無事でしたか。無謀なことをなさいます」
「桓堆」
 抱きしめられたぬくもりに、陽子の全身のこわばりが溶けてゆく。

 とりあえず、この場での凶事は起こらなかったが、四人は、あとでしっかりと冢宰からお目玉を貰ったのだった。

 冢宰が書庫に籠ったのは、四人に厳重注意を与えたすぐ後だった。
 女王たちの意見には、なにひとつ証拠と呼べるものがあるわけではない。ただ、冢宰もまた、おそらくは、そうだろうと、直観したのだ。
 出現した時をほぼ同じくする、鬼と、殺人鬼。
 この二つを別物と考えるよりも、同一と考えるほうが、自然な気がしたのだった。
 慶国の歴史が始まってよりの王宮の出来事が記録されている一角で、冢宰とその部下たちは、すざまじいスピードで巻物を紐解き始めた。



 どこに戻ればいいのだろう………
 ささやかれるような、ひそやかな声音に誘われるように、桓堆の意識が目覚めた。
 意識を張り詰める警備中の、数時間の仮眠だった。警備するものが倒れてはなんなので、あらかじめ、班を分けた上で時間割を作っている。
「なんだ。おまえか」
 長椅子の上に上半身を起こして、桓堆は、少年を見上げた。
 少年の霊は、あの日から、ほぼ毎晩のように、桓堆の前に姿を現していた。
 おそらくは、あの腕輪に憑いているのだろう、右半分が血まみれの少年は、
(主上と同じ歳くらいだろうか)
 帰る場所がわからない………
 そうつぶやいて、項垂れるさまは、いつものことながら憐憫の情を誘う。
 帰りたい………
「帰してやりたいがな」
 できるなら帰してやりたい。しかし、突然現れた少年の霊に、なにができるのだろう。
 名前すらわからないのである。
 意思の疎通ができるのかどうかも、謎である。
 ただ、こうして死んだのだと、一方的に、少年の死ぬ間際のできごとが、桓堆の心に、流れ込んでくるばかりだ。
 それは、あまりに、惨い死だった。
 幾人もの男たちになぶり殺しにされる、そんな断片ばかりだった。
 男たちの歪んだ顔が、憎々しげに、見下ろしてくる。
 まるで、自分が、憎まれているような錯覚すら、桓堆は、覚えずにいられなかった。
 不憫だが、どうにかしてやりたいが、しかし、今は、それどころではない。
「おまえがどこの誰かわからないのでは、到底無理だ」
 幾晩目かにしてそれが通じたのか。
 少年は顔を上げた。
 褐色の双眸が、桓堆を見下ろす。
 い・く・や………
「いくや……それが、おまえの名前か」
 淋しげな少年のまなざしが、ほんの少しだけ和らいだような、そんな気がして、桓堆はなんとなく嬉しくなった。
「そうか。名前はわかるんだ」
 そう独り語散ながら見上げた先に、しかし、少年の姿は、なかった。
「まいったな」
 桓堆は、頭を掻いて、苦笑したのだった。



 冢宰たちが書庫の中で、膨大な記録の中からようやくそれらしい文献を見つけたのは、彼らが籠ってから、ちょうど十日目のことだった。

 主だった面々の集った執務室で、冢宰は、携えてきた古い巻物を、広げた。
「どうやら、犯人は、主上たちの仰られたとおりのようです」
「それで」
 集った者が固唾を呑む中、冢宰が、巻物を読みはじめた。
「ことの起こりは、太綱(たいこう)以前の王が、恋に狂ったことだったようですな」
 名前は、残されておりません。ただ、その(いみな)が狂恋の王と残るのみです。
 朗々とした冢宰の声が、執務室に流れる。
 集った者たちは、時と場合を忘れて、冢宰の語る昔語りに耳をかたむけたのだった。



 それは、十二の国々に、いまだ太綱(たいこう)定まらぬ頃の出来事。
 ひとは、混沌の中に、生きていた。
 景東国の王は、ひとりの海客に心惹かれた。
 ことばもわからぬ、歳若い海客の少年は、王に召し出され、その寵愛を受けるようになった。
 それが、混沌の中にあって景国をまとめていた王が、堕ちてゆくきっかけだったのだ。
 少年だけを見て政に見向きもしなくなった王は、誰の諌めも聞かなくなった。
 傾城、傾国と、少年はひそかにささやかれ、やがて、暗殺された。
 寵童の亡骸を見て、王は、目を覚ましたかのように思われた。
 しかし――――
 嘆きのあまり、王は、少年を喰らったのだ。
 亡骸を安置した霊廟に夜な夜な通う王の後をつけた、時の禁軍将軍が、泣きながら睦言をささやき、腐りかけた少年を抱くさまを見、喰らわれた痕を、確認したのだった。
 やがて、ある朝議の席に現れた王が手にしたものに、その場は、静まりかえった。
 玉座に腰をかけ、王は、愛しげに、その、白いものを撫でさすったのだ。

 十二の国のひとつ、景東国の王宮の奥で、今しも、王が弑されようとしていた。
「景王。お命頂戴つかまつる」
 玉座に座った王は、しかし、己に突きつけられた剣に、少しも動揺していない。否。違う。動揺していないのではない。あきらかに、気づいていないのだ。
 王は、手にした何かを、執拗に撫でさすり、茫洋と、笑んでいる。
 王に剣を向ける、男も、彼に従う軍人だろう男たちも、一様に、痛ましげな表情をしていた。
 しかし、このまま徒に時を過ごしては、国は荒れ、民人草(たみひとぐさ)たちは、つぎつぎと死んでゆくだろう。
「御免」
 男は、冬器を振るった。
 王の首が、飛ぶ。
 流れ出る己が血潮に浸かりながら、王の首は、いまだ玉座にある胴を茫洋と眺めている。
 血にまみれながら、それでも、手放すことのなかったそれを、ただ、その、鋼色の狂ったまなざしは、見つめつづけていたのである。
 それを、男たちは、汚らわしいものでも見るかのように、見下ろし、王の腕の中から無言で取り上げた。
 男たちが取り上げたものは、人間の、しゃれこうべ。
 肉も皮も、頭髪すらも、すべてが剥げ落ちた、白くなめらかな、一個の頭蓋骨だった。
 男たちは、それを、その場で打ち砕き、そうして、雲海に投げ捨てたのだ。
 (いみな)を狂恋の王と号された王は、王宮の奥深く、霊廟に葬られた。
 しかし、ひとは、恐怖することになる。
 弑したてまつられた王は、何かを求めるかのように、夜な夜な、王宮に彷徨(さまよ)い出たからである。
 亡王を見たものは、首をもがれて、ことごとく、死んだ。
 慌てたのは、玉座に着いた、簒奪の王である。
 先王を知るものならば、彼が何を探しているのか、わからないはずがない。
 先王が、恋着した、寵童の、首。
 それは、疾うに、海の藻屑と化したであろう。
 ほかならぬ、彼らが、砕いたものである。
 後悔したとて、先王の求めるものは、ない。
 手をこまねく簒奪の王の前に、ひとりの天仙が現れたのは、とある夜のことだった。
「惨いことをなさった」
 おそらくは、頭骨を砕き雲海に投げ捨てたことを指すのであろう、そのひとことを口に乗せ、薄絹に包まれたものを、簒奪の王に差し出した。
「これを、先王に渡されるがよい。すみやかに、怪異は収まろう」
 それだけを告げると、天仙は、掻き消えるように、姿を消した。
 薄絹を持ち上げ、王は、大切そうにそこに置かれているものを確認する。
 細かく編まれた、細い紐状の物のところどころに、赤い小さな貴石が編みこまれている。
「これは……腕輪か?」
 人差し指と親指とで摘み上げ、灯にかざすようにして、矯めつ眇めつしていた王は、やがて、それを、薄絹に戻した。
 褐色のそれが、何なのか、見当がついたのだ。
「……頭髪か」
 彼は、覚えている。
 先王を狂わせた少年の髪の色を。
 頭髪でできた腕輪を懐に仕舞い、王は、霊廟へと出向いたのである。
 天仙の言ったとおり、王が腕輪を先王の亡骸の上に乗せたその夜から、王宮を寒からせしめた怪異は、収束したのである。
 その日より数年の歳月が経ち、太綱が定まった。
 簒奪の王は、麒麟に選ばれた王に玉座を渡し、野に下った。
 そうして、十二国の歴史は、太綱に沿って刻まれてゆくことになったのである。



「―――と、まぁ、こういう話ではあるのですが」
 静まりかえった執務室に、冢宰の声だけが、大きい。
「そんな古い話が、よく、今まで残ってたな」
 運がいいのかな。
 独り語ちて、王が、
「もがれて殺されるとか、今の状況に似てるな」
 冢宰を見上げる。
「ただし、この話が、どこまで真実なのか――が、問題ですな」
 虫食いだらけの、今にも破れそうな巻物を見下ろして、冢宰が答えた。
「昔と今では、埋葬の方法が違ったようですね。霊廟とやらがあるのなら、探し出して、狂恋の王を鎮めなければなりませんな」
 何故今頃、突然蘇ったかという問題もありますが。
「なにかは、わからないけれど、恋人、じゃないかしら」
 鈴が、慎重に口にする。
「あの時、主上は、お耳になさったのでしょう。あの影が、誰か、何かを、探しているようなことばを」
「あ、ああ。そうだ。なにかを知らないかと、そう、言っていた、と、思う」
「どうしてかはわからないけれど、それがなにかも、わからないんだけれど、多分、恋人のなにかを探しているんだと思う」
「狂恋の王と諱されただけのことは、ある――か」
 死んでもなお執着する存在。
 王の視線が、泳ぐように、桓堆に向かった。
「青。どうかしたのか」
 なにやら難しい顔をして腕を組んでいた桓堆が、王の呼びかけに、弾かれた。
「女御殿が言われたことに、心当たりが」
「あるのか」
「はい」
 そう応じて、桓堆が、ふところから布に包んだ何かを取り出し、机の上に置いた。
 布を開くのを、集まった者が、息を呑んで、待ち構える。
「まさか」
 現れたものを見て、だれかが、感嘆の声をあげた。
 そこには、先日桓堆が、庭で拾い上げた、幽霊憑きの腕輪がある。
 一同が、食い入るように、腕輪を見つめる。
「どうしたんだいったい」
 王の問いに、桓堆は、腕輪を拾ったいきさつを、口にした。
「幽霊憑きの腕輪――――ね」
 しばらく、腕輪を凝視していた王は、
「金波宮をあげて、狂恋の王の霊廟を探し出せ。鍵がかかっていようと、怪しいと思えるところはことごとく開けてかまわない。これ以上被害者を出さないことが最優先だ。いいな」
 一同を見渡した。
「御意」
 執務室に集った者達が、頭を下げた。



「ここが、そうか」
 かたむきはじめた日に、赤く染め上げられた、今にも崩れ落ちそうな廟を見て、王がつぶやいた。
「おそらくは、そうではないかと」
 冢宰が、(うべな)う。
「開きました」
 ひんやりとしてかび臭い空気が、一同の鼻腔をくすぐる。
 先に火をつけた松明をかざして、
「空気は大丈夫です」
 桓堆が入るのに、一同が続く。
「足元、お気をつけて」
 差し出された桓堆の手を取り、王が、数段の階を降りる。
 桓堆の部下たちが四隅の壁に、蝋燭があるのを見つけ、松明の火を移した。薄暗い中のあたたかな色の灯しに、廟に下りた者たちは、知らずつめていた息を吐き出した。
 がらんとした、空間だった。
 奥に祭壇のような箇所があり、その前に、棺がひとつ置かれている。
「今とは、やはり埋葬の方法が違ったのだな」
 冢宰が、興味深げにつぶやいた。
 長細い箱のような石棺には、びっしりと彫刻が刻まれている。しかし、彫刻はあちこちが剥落し、中が見えそうな箇所がいくつもあった。
「開けて、いいんですか」
 恐る恐るといった風情で、禁軍の兵士が、将軍の返事を待つ。
「開けろ」
 桓堆が、鷹揚にうなづいた。


 しばらくの間、だれひとりとして声を出さなかった。
 棺の中に眠る、古の王は、朽ちた布をあちこちにまとわりつかせた、ただの、骨と化している。
「首を刎ねられたとあったのは、正確のようですね」
 ここ、断たれた跡があります。
 冢宰が冷静に、指摘した。
 と、突然、一陣の風が廟の中に吹き込み、蝋燭の光を、揺らめかせ、消し去った。
 不安なざわめきが、霊廟内に満ちた。
 いつしか、日は暮れていたらしく、周囲は、闇に包まれたのだ。
 残るは、桓堆が手にする松明の炎だけである。
「火を……」
 蝋燭に火を移そうと、動こうとした桓堆を止めたのは、王の手の震えだった。
「主上?」
 ふっと、桓堆の口角が、やわらかく弛む。主を見つめるまなざしには、愛しいというその想いだけがこめられていた。
「すまんが、蝋燭に火を移してくれ」
 思いびとの手を握り返しながら、桓堆は、部下に松明を渡した。
 四隅の蝋燭に火が灯り、一同が安堵の吐息を漏らした時、
「………を知らないか」
 殷々とした声が、霊廟内に、響き渡った。
   悲鳴がそこここで発せられ、視線が、一か所に集まる。
 黒々とした影が、一同の目の前に、姿を見せていた。
 ひとの形を保ちながら、どこか、歪んだその姿は、それだけで、見るものの背筋を粟立たせる。褐色の骨ばった腕の先、五本の爪を染めるものは、おそらくは、これまでに、それが屠ったひとの血なのだろう。
 乱れた黒い蓬髪が、動きに連れて、ざわりと、揺れる。その隙間から、垣間見える一対の双眸は、赤く、どろりと濁っていた。
「狂恋の王よ。おまえが探しているのは、いくや――か」
 桓堆の声が、廟内に、響いた。
 きろりと、赤い双眸が、桓堆を捉える。
 咄嗟に王を背後に庇いながら、桓堆は、狂恋の王に対峙した。
 桓堆の目の前に、狂恋の王の歪んだ顔があった。
「おまえ。おまえ――――」
 悲鳴のように、狂恋の王の声が、とどろく。
「おまえが、我から、いくやを奪ったのか――――――いくやを、我に返せ」
 喉元に、黒く染まった爪が、当てられた。
 氷のように冷たく尖った爪が、桓堆の喉を貫こうと、じわりと、皮膚に食い込んだ。
 赤いまなざしが、桓堆の、脳を焼く。
 濁ったまなざしは、その苦痛を、哀惜を、喪失を、直に桓堆の頭の中に伝えてくる。
 桓堆は、懐を探り、腕輪を包んだ布を取り出した。
「いくやは、ここにいる」
 桓堆が、布を開いたと同時に、赤い双眸が、揺らいだ。
 桓堆の手にするものを見た刹那、喉に食い込んでいた爪が、外された。
「いくや」
 影は、腕輪を奪い取り、頬擦りせんばかりに顔を寄せる。
   やがて、ぼんやりとした少年の姿が、一同の目の前に、姿を現した。
 あれが傾国の寵童かと、目を凝らす彼らの前で、右半分を血で濡らした、その姿を、影が、抱きしめる。
 少年の双眸が、狂恋の王を捉える。
 かすかに、笑んだような気配があった。
 しかし、それは、錯覚だったのかもしれない。
 一瞬の後に、少年の霊は、解け消えるように姿を消したのだ。
 狂恋の王も、また、少年が消えると共に、その歪んだ姿を消し去っていた。

「この霊廟は建て直しだな」
 あっけない幕切れに、静まりかえった霊廟で、女王が、そう言った。
 視線の先には、あちこち崩落した、石棺と、骨、骨がしっかと握りしめている腕輪とがある。
「石棺も、ですね」
 冢宰が、応じる。
「今度のようなことが二度と起こらないように、頑丈で、長持ちするものをな」
 さて、引き上げるか。
「禁軍は、しばらく、ここの警備に当たります」
「たのむ」
 戻ってゆく王の姿を見送りながら、桓堆は、ふと、空を見上げた。
 どこに帰ればいいのかわからない―――
 いくやのつぶやきが、桓堆の脳裏に浮かんだ。
 郁也の帰る場所は、狂恋の王だったのだろうか。
「もしも、俺が死んだら、帰る場所は、主上、貴女のところだけです」
   桓堆のつぶやきは、夜の闇に溶けて消えた。



おわり



from 16:20 2005/07/19
to 17:07 2005/07/26


あとがき
 う〜ん。微妙。
 長くかかったんだけど、面白くないか。う〜ん。捏造激しすぎですね。
 オールスターキャストにしたかったのが、敗因かもxx す、少しでも楽しんでいただけるといいんですが………。
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