「姉さん」
ゆったりとカウチに落ち着いている姉に、郁也は声をかけた。
侍女が、香の爪を飾りつけている。
ツンと鼻を射るマニキュアの匂いは、すぐに、梅のかおりに紛れてわからなくなる。
姉、香の好きな白梅が、室内のそこかしこに活けられている。
籍の前大君、
壽盡の妻として、満たされている姉の姿は、郁也にはまぶしすぎた。
「なに?」
にっこりと微笑まれて、郁也は、数度口ごもる。
姉と共に籍の本宅に引き取られて、すでに十年近くが過ぎていた。その間、姉と会えたのは、数えるほどでしかない。
姉は、強大な貴の一族、籍の前当主壽盡の何度目かの正妻で、おそらく、その生涯を共にすることになる最後の愛妻だろうとささやかれている。
貴は鬼であり、奇であった。
人ならざる、異形の存在。
時に彼らは、人を喰らい、笑いながら、屠る。
しかし、同時に、人を恋し、人を娶り、人と共にあろうとする。
貴は昔から、人界に混じっていたのだという。それが、あるときを境に、存在を隠すことをやめた。
さまざまな力において、人よりも優れた存在である貴はたちまち、人界を手中に収めた。
ここは、そんな貴の一族の西の雄、籍一族の本拠地、その、前当主の隠居所である。名前からもわかるように、古の中国風にしつらえられた広大な城が、壽盡とその愛妻香とが住む場所である。
「あの、さ。お願いがあるんだけど」
香が、郁也のことばに、庭を眺めていた視線を、室内にもどした。
「郁也がお願いなんて、珍しいわね」
「うん。これ、サインもらえるかな」
郁也が差し出した薄い紙に、泳がせた香の目が、大きく見開かれてゆく。
「留学? コンセルバトワールって、あなた」
「お願いだよ。オレ、ずっと、ピアニストになりたかったんだ。で、この間のコンクールで、どうにか、優勝できたんだ。いい機会だと思う。姉さんにもう迷惑かけなくてすむようになるし」
「馬鹿。わたしが、あなたのこと、迷惑なんていったことがある? たったふたりっきりの姉弟じゃない。そりゃ、ここにこうしてきてからは、そうそう会えなくなったから、あなたがピアノしてるなんて知らなかったけど………でも」
マニキュアの乾いていない爪が、頬にねっとりと触れる。
「あなたがやりたいことなら、なんだって、応援する。ええ。留学費用なんて、気にすることないの。コンクールなんてまどろっこしいことしなくったって、言ってくれさえしたら、ちゃんとふつうに留学させてあげれたのに。あなたは、籍壽盡の、妻の、たったひとりの弟なんだから」
抱きしめられて、鼻先に、梅の花のかおりがたちこめる。
「姉さん、ありがとう」
変わったように思えた姉が、実は昔とそんなに変わっていないことに気づいて、郁也は、笑った。
「あ、それで、オレが留学するってこと、誰にも内緒にしていて欲しいんだ」
「どうして?」
「知られたくないヤツがいるんだ。オレは、そっと、ここから出て行きたい」
真摯なものを口調に感じ、香は、
「いいわ。でも、壽盡には、言っておかないと駄目だけど」
「うん。姉さんが、打診してくれたら、壽盡さまに都合のいいときに、オレが言ってもいいし」
「オッケー。今日にでも聞いておくから」
にっこり笑って、香は、書類にサインした。
「郁也が、立派なピアニストになれるようにって、祈ってるから」
「うん」
ふたりは抱き合い、しばらくして別れた。
ふたりは、その場にいた侍女のことなど、すこしも、意識してはいなかったのだ。
夜の闇に紛れて、女が走る。
その速度は、並の人間がおよびもつかぬものだった。
もちろん、彼女も、貴の一族である。ただし、籍に仕えることで力を得た、有象無象の奇に過ぎなかったが。
西洋風のレンガ造りの瀟洒な館に、女は姿を消した。
「誰だ」
ソファに腰を下ろして、膝の上の端末を覗いていた男が、ふいに、誰何する。
オレンジ色に絞った照明の室内には、男以外に人の気配もないようである。
しかし、いつ現われたのか、中国風のひらひらとした衣服を身に着けた女が、男の足元に跪く。
「香さまの侍女だな」
明るい日差しの中、香の爪を彩っていた侍女だった。
「昇紘さま」
「今日は、あれが、そちらを訪ねたことは知っている」
昇紘と呼ばれた壮年の男は、端末を閉じ、眼鏡を、外した。
侍女が、それらを受け取り、部屋の隅へと運ぶ。
「では、あの方が、留学をなさると言うことは………」
侍女は、みなまで言うことができなかった。
手入れの行き届いた男の爪が、刹那にして、鋭く伸びていた。
握りしめたソファの肘掛の革が紫檀が、容易く、断たれる。
エグゼクティブはかくあらんとばかりに、撫で付けられていた短い黒髪が、たちまちのうちに、腰までのたうち伸びる。のたうち伸びた髪の間から、一対の長い角が、現われていた。耳の上辺りに一本ずつ、それは、男が、紛うことのない貴の一族であることをあらわしていた。
侍女の顔が、青ざめる。
「そうか―――そうまでして」
クッと、喉の奥で絡みつくような笑いが、爆ぜた。
クツクツと、押し殺す笑いは、気味悪く、室内に響いていた。
見送りはいいから――と、そっと屋敷を抜け出した郁也は、手荷物ひとつで、飛行場にいた。
何も持っていかなくていいようにと、コンセルバトワールの近くに、姉がすべてを整えてくれたからだ。
ぼんやりと、ショッピングモールを歩く。
さまざまな免税品や、ブランド物、レストランや喫茶店まである。
暇つぶしにゲームか本でもと、郁也は、数軒回って、喫茶店に落ち着いた。
奇のウェイトレスに、軽食を注文する。いつもなら、緊張するそれも、楽にできた。
「久しぶりだ」
郁也は、肩の力を抜いた。
あいつから、離れられる。
――――それだけで、郁也には、充分だった。
その上、やりたかったピアノの勉強に集中できるのだ。
ピアノを弾いていれば、たいていのイヤなことを忘れることができた。
逃げだと言われてしまえば、それまでだったが、それでも、郁也には、ほかに逃げ場所などなかったのだ。
搭乗時間何分前のアナウンスに、郁也は、我に返った。
いつの間に運ばれていたのか、テーブルの上の軽食は、とっくに冷めてしまっている。
ごめん――と、手だけ合わせて、郁也は、喫茶店を出て行った。
飛行機に乗ったのは、十年位前、姉と、姉を迎えに来た壽盡と一緒だった時以来だった。
はじめて見た、最高位に属する貴に、飛行機の乗り心地などは覚えてはいない。
だから、今回初めてといってもいいだろう。
ゆったりと座れる広いシートで、郁也は、窓の外を眺めた。
本当に、空を飛んでいる。
雲が、眼の下にあるのだ。
雲の上に、飛行機の影が、落ちている。
やがて雲海を見ているのに飽きた郁也は、買ったばかりの本を鞄から引っ張り出した。
「奥様っ」
壽盡の館で、香が、倒れた。
侍女たちが悲鳴をあげ、彼女らを取り締まる老女が、叱りつける。
老女に助け起こされ、カウチに横たわった香が、必死になって、画面を見つめる。
巨大な液晶画面には、他の乗客の名前と共に、浅野郁也という名前が、映されていた。
アナウンサーは、機械的に、人名を読み上げている。
旅客機がテロリストに襲われ、人質となった男たちの名前が、テレビ画面に映し出されている。
刻々と移りゆく状況の中、人質は疲弊し、犯人達は苛立つ。
対テロの組織がどこかの飛行場での給油中の旅客機に、突入する。
テロリスト達は、取り押さえられたが、その際に、死傷者が出た。
読み上げられる名前に、震えながら、テレビを凝視していた香が、今度こそ、短い悲鳴と共に、気を失った。
画面には、唯一の死者の名前が、忌々しいほどはっきりと映し出されていた。
浅野郁也―――――と
老いらくの恋――か。
前籍大君のありさまに、現籍大君である昇紘が、眉間に皺を寄せた。
貴の一族でも一、二を争う雄であったはずの、実の父親である。
壽盡が、歳若い人間の娘に、とろけそうな笑みを振りまいていた。
壽盡の新たな花嫁の披露の宴だった。
広い庭のあちらこちらに、招かれた、貴、鬼、奇、それに、いくばくかの人間が、集っている。
子供たちが、歓談する大人の間を縫うように、歓声をあげて走る。
古の中国風の音曲が、うるさくないていどに、流れていた。
目を楽しませる、さまざまな趣向。
酒、食い物、女。
もとより、壽盡の女色はつとに有名ではあった。相手は、貴であり、鬼であり、奇であったこともある。最近では落ち着かれたと周囲も、昇紘も、安心していた矢先の、新たな花嫁の登場に、昇紘の眉間に皺も深くなる。
新たな花嫁は、その上、人で、まだ二十二才なのだ。
これでは、人間から鬼と謗られてもしかたないかもしれない。
壽盡の歳は、人間に換算すれば、三千を悠に越えるものだ。
(これ以上、弟だの妹だのが増えてはたまらない)
胸のうちで、昇紘がつぶやいた。
昇紘は、ただでさえ、こどもが苦手だった。はっきり言ってしまえば、煩わしい人間関係が、嫌いだった。
おそらくは、誰よりも間近に、壽盡の行状を見て育ったせいもあったろう。昇紘は、一度だけ妻を娶り、妻と子を一時になくしてからは、二度と、妻を娶ろうとも、愛人をつくろうとも、しなくなった。
貴は、寡産ではあるが、壽盡には、自分以外にも子供がいる。一番年下の、今年八才になる弟を入れて、五人いるのだ。これは、貴としては、破格である。自分の後継は、弟妹かその子供たちであっても、かまわないだろう――と、昇紘は、考えていた。
壽盡好みの、花であふれた庭を散策していると、この外での忙しなさが、薄らいでゆく。
掌の上で、人を転がすゲームであるかのような遣り取りは、楽しくはあったが、煩わしい時もある。人間のしたたかさに舌を巻くこともあれば、意外な貴の打たれ弱さに目を疑うこともある。
昇紘は、ゆっくりと、庭を歩く。
白梅、紅梅、蝋梅がみごとに咲き誇る緩急のある庭は、まるで、梅で埋め尽くされたようだった。
庭を覆いつくすのは桃ではないが、桃源郷とでもいえばいいだろうか。
足元では、落ちた梅の花首の間に、水仙が花開いている。
馥郁と、心が穏やかになってゆく。
池の淵に沿って、歩いている時だった、ふと、なにかが、足に触れたような気がした。
水仙でも踏みしだいたのだろうか。
気にせず進む昇紘の足に、再び、三度と、なにかが、触れる。
見下ろせば、蝋梅の落ちた花が、放物線を描いていた。
放物線の元を辿れば、ひとりの幼い少年が、つまらなさそうに、蝋梅の花を毟っては、投げていた。
あの子は…………。
こざっぱりとしたシャツとズボン。やる気なさげに木の幹に凭れて、池に向かって、千切った花を投げている。
コントロールを失った花首が、昇紘に当たった。
それだけのことだった。
少年が時折り見上げる、視線の先には、遠く、壽盡と花嫁の姿があった。
それで、昇紘は、思いだす。
あの少年は、花嫁がここに連れられてきた日、花嫁に手を引かれていた子供であったことを。
花嫁の弟だとか言っていた。
名前は、確か。
「郁也」
と、言ったはずだ。
突然呼ばれて驚いたのだろう。
弾かれたように昇紘を見返した顔の中、あどけない褐色の双眸が、転がり落ちそうだった。
「おじさん、誰?」
今にも、逃げ出してしまいそうに怯えている郁也に、昇紘は、ゆったりと近づいていった。
「私は、昇紘―――おまえの、甥になるか。よろしく、叔父さん」
昇紘は、そういって、ニヤリと笑った。
貴、奇、鬼と呼ばれるモノが、郁也は怖ろしくてたまらなかった。
なぜか、郁也は、そういうモノと縁があった。
もっとも、貴は、そう簡単に市井で出会う確率はない。貴は、文字通り、支配者クラスだからだ。
視線を逸らした先の路地裏で、鬼が野良犬や野良猫を千切っているシーンを見ることがよくあった。
怖くて目が離せないでいると、にやりと笑いかけられて、手招きされることもあった。
血をしたたらせた笑顔でだ。
良くも悪くも縁があったせいで、そういうモノに対する恐怖心が、強まった。
幼稚園にも、保育所にも、ふつうに、奇や鬼はいた。
少しだけ人間と姿かたちの違う奇の先生などもいたし、鬼の園児なんかもいる。
そうして、角の生えたやんちゃな園児は、なぜか、郁也をターゲットに選ぶのだ。
相手は遊んでいるつもりでも、郁也は、毎日苛められてるような気になってしかたがなかった。
だんだんと、郁也は、貴や奇や鬼を避けるようになっていた。
そうして、ついに、決定的な出来事が起きた。
人ならざるものに、攫われ、食べられそうになったのだ。噛みつかれ、もう駄目だと思った時、警察組織の忌課に救われたのだ。
あの時の恐怖は、カウンセラーにかかった後も、郁也の心の中に、トラウマとなって、住み着いている。
それなのに―――である。
目の前にいる、銀の髪に、赤い目の貴の男が、姉をお嫁にする――と言うのだ。
年齢不詳に見えた。
年寄りにも見えたし、若くも見えた。
三千歳を越えてると聞いた時には、目の前がくらくらした。
独りになるのかと、郁也は怯えた。
物心ついてから、郁也には、姉しかいなかった。
不安で、姉に擦り寄った郁也に、壽盡が『一緒に連れて行く』と、言ってくれなければ、郁也は、どうなっていたのかわからない。
そうして、つれてゆかれた、籍という貴の一族の屋敷はとてつもなく大きく、広く、たちまち、郁也を不安にした。
どこを見ても、貴や奇や鬼ばかりだった。
人間はいない。
姉と一緒に眠っていた毎日から、与えられた広い棟の一室で眠るようになった。
闇の中に、鬼や奇が潜んでいるようで、郁也は、落ち着けなかった。
震えが、止まらない。
自分を食べようとした、あの異形の存在が、ここにはたくさんいるのだと。
夜。
どうしても郁也は眠れなかった。
あっちを向いても、こっちを向いても、仰向けになっても、うつ伏せになっても。
目が冴えて、眠れない。
郁也は、ベッドから抜け出した。
ひんやりと冷たい空気が、郁也を震わせる。
毛布をまとって、郁也は、庭に出た。
赤い月が、郁也を見下ろしている。
どれくらい歩いたのか、黒い鉄でできた門があった。
開かれていた唐草模様の門を、郁也は通り抜ける。
そうして、郁也は、悲鳴を聞いた。
全身が逆毛立つような、絶叫だった。
逃げればよかったのだが、足が、動かなかった。
ぶちっ、ぴちゃっという、ゾッとするような音が、耳に届く。
クツクツと嗤う、笑い声。
見たくないのに、まるで、見なければいけないものがそこにあるかのように、首が、動く。
赤い月に、刳り抜いたように黒い影。
手にした異形は、奇なのか、鬼なのか。それとも、人間なのかもしれない。
生臭い匂いが、鼻に届く。
血を流しながら、まだ、痙攣しているそれを、黒い影が、口元に、引きずりあげた。
郁也が見たのは、そこまでだった。
郁也が気づいたのは、自分の部屋のベッドの中。
郁也は、泣き叫ぶこともできなかった。
ただ、震えて、姉に会いたいと、つぶやきつづけるだけだった。
しかし、姉に会いたいといっても、いつも、姉は忙しいらしかった。
花嫁修業をしていると、そう聞かされて、ここにつれてこられた理由を思い出す。
自分は、姉の、おまけなのだ。
だから、あまり我儘を言ったりしたら、姉が困る。
ぼんやりと、そんなことを考えてから、郁也は、おとなしく、部屋で過ごすようになった。
そんな時、姉からと言って、たくさんの、玩具が、郁也に届けられた。
たくさんの玩具の中で、郁也を虜にしたのは、一台のピアノだった。
絶対音感があったのか、郁也は、CDを聞けば、ピアノの鍵盤を確かめながら、音を再現できた。
ピアノは、郁也を、慰めてくれた。
鍵盤を叩けば、鍵盤は、嫌がることなく答えてくれる。
誰も何も言わないことをいいことに、郁也は、一日中ピアノを弾いて過ごすようになったのだった。
姉の結婚式は、盛大で、華麗で、郁也は、くらくらした。
ここにつれてこられて、三ヶ月目の、二月下旬のことだった。
なぜか、結婚式は洋風で、姉は真っ白いウェディング姿だった。隣に立つ、壽盡もまた、白いタキシード姿が、恐ろしいくらい様になっていた。
姉はとても綺麗で、近寄りがたかった。
式が終わり、披露宴に移ったときも、郁也は、姉を遠目で見るだけしかできなかった。
幸せなんだ。
そう思った。
中国風の極彩色の衣装に着替えた姉が、向こうのほうで、微笑んでいる。
姉さんは、ぼくなんかいなくても、幸せなんだ。
黄色いつやつやした花を、郁也は、毟った。
目の前の池に、投げる。
水音をたてて、魚が、飛び上がる。
馬鹿だ――
食べられないのに。
そう思って、次々投げる。
しかし、二度と、魚は飛び上がらない。
やけになって、郁也は、花を、投げ続けていた。
「郁也」
と、呼ばれたのは、その時だった。
知らない声に振り向いた郁也は、その場から、逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
黒い髪をきっちりと撫で付けた顔に、怖いと思った。
視線が、怖ろしいくらいにきつい。
なぜか、あの、月の赤い夜に見た光景を、郁也は思い出していた。
ゆったりと近づいてくる男に、
「おじさん、誰?」
そう言うのが、精一杯だった。
「私は、昇紘―――おまえの、甥になるか。よろしく、叔父さん」
昇紘がニヤリと笑うのを、郁也は、蝋梅を背に、見上げていた。