貴の一族 後編






 郁也は、ピアノを弾いていた。
 スポットライトを浴びた、高い壇上で、グランドピアノを弾く。
 鍵盤の上を、指が走る。
 この時ばかりは、郁也の心も、解放される。
 憂いも、悩みも、なにもかもから、郁也は乖離できるのだ。
 耳に心地好い、クラッシクの調べが、広いホールに、反響して消えてゆく。

 今は、郁也のピアノには、教師がついている。
 誰にも言わずにコンクールに出場しては、いつも、上位にはいる。しかし、いつも、昇紘は知っている。どこで知るのか、教師が告げるのか、そんな時、タイミングが合えば、昇紘は、郁也を外食に連れ出す。そうして、教師以外には誰からも贈られない、「おめでとう」を、くれる。
 十年前のあの次の日、昇紘が訊ねてきた時も、郁也は、ピアノを弾いていた。
 そうして、翌日、郁也は、昇紘に雇われたと言う、ピアノ教師と会っていた。
 あれから、十年、郁也は、同じ教師についていた。
 いつの間にか、郁也の身の回りのことは、昇紘が決める。それが、当然になってしまったのは、それがあってからだ。
 通う学校も、昇紘が決めた。
 相談する相手も、郁也にはいなかった。
 送り迎えも、昇紘が決めた運転手と車だった。
 寄り道は、許されなかった。
 時折り、時間ができたのか、昇紘が郁也を送り迎えすることがあった。
 そうなると、昇紘の弟や妹が、黙ってはいなかった。
 郁也は知らなかったが、昇紘の後を、人間風情に継がせるのではないかと、そんな、噂が、広まっていた。
 貴の一族では、なによりも、血脈が、尊ばれる。母親よりも父親の血が重要視される。
 ありえない、そう、一笑に付されるはずだった。なぜなら、郁也は、あくまで、壽盡の妻の弟だからだ。―――しかし、ひそかに、ささやかれている噂があった。実は、郁也は、香の子供だと言うのである。そうして、なぜ、壽盡が香を、わざわざ日本まで迎えに行き、正妻に迎えたのか。それは、香が、壽盡のこどもを生んでいたからではないのか―――と。壽盡がそれより以前日本に滞在していた時期から逆算すると、郁也に、その可能性がでてきたのだ。
 そうなると、郁也は、壽盡の血を受け継いでいることになる。
 その上に、昇紘の、溺愛振りである。
 弟妹に、危機感が芽生えたとしても、不思議はない。

 ピアノが壊れた。
 壊された。
 朝起きて、朝食前に軽く指を慣らしておこうと練習室に向かった郁也を迎えたのは、愛機の無残な姿だった。
 十年近く愛用していたグランドピアノは、執拗なほどに破壊されていたのだ。
 呆然と、郁也は、部屋で立ち尽くした。
 次いで、しゃがみこみ、部屋中に飛び散ったピアノの破片を、拾い集めた。
 悲しかった。
 悔しかった。
 自分は、ただのおまけだ。お情で置いてもらっているのに過ぎない。
 そう思っている郁也には、どうすることもできない。
 白い鍵盤を、郁也の涙が、濡らした。
「おまえでも泣くんだ」
 残骸の上に、いつか、人影が佇んでいた。
 見上げれば、音たてて、ピアノを、踏みにじる。
「やめろっ」
 瞬間、怖さを忘れていた。
 食ってかかって、逆に、残骸の上に、倒れる。
 残骸が、郁也のからだを、擦る。
 人影は、壽盡の末の息子だった。銀瑯と言っただろうか。歳は郁也よりも二つ上だが、見た目は、中学生ていどにしか見えない。
「おまえがっ」
 脇腹を蹴り上げられて、呻きも出せず、身を丸く縮める。
「おまえなんかが、なんで昇紘にいさまのお気に入りなんだ」
 ぎちぎちと頭を踏まれ、藻掻く。
 人の形をしていても、相手は、人ではないのだ。
 郁也に勝ち目はない。
「このまま、踏み潰してやろうか」
 そうしたら、おまえなんか簡単に死ぬ。
「たかが、人間のくせに」
 人間風情が、なんだって、にいさまに大切にされるんだ。
 幼い頃の、傷が、掻き毟られる。
 いつもは、心の奥底に閉じ込めていた、恐怖心が、郁也を捕らえる。
 なりふりかまわずもがいて、手に触れたものを、郁也は振りかぶっていた。
「うわっ」
 ピアノの破片が、銀瑯の足を切り裂く。
 怯んだ隙に、郁也は立ち上がり、
「出て行け」
 銀瑯を突き飛ばす。
「ここは、オレの部屋だ。勝手に入ってきて、勝手にピアノ壊しやがってっ! そんな権利、おまえなんかに、ないっ」
 何度も押しやり続ける。
 しかし、力でかなうはずもない。
「生意気な」
 片手で、郁也を押し飛ばす。はずみで、郁也のパジャマが大きく開く。少年は、倒れた郁也の剥き出しの腹を、踏みつけた。
「本当に、殺してやろうか」
 郁也の目の前が、真っ赤になる。
 このまま、腹を踏み抜いてやろうか。
 喰らってなんかやらない。
 苦しみにのた打ちまわればいい。
「いやだっ」
 その時だった。
「なにをやっている」
 場違いに冷静な声が、響いた。
 昇紘だった。
「兄さん」
 銀瑯の顔が、青ざめる。
「なにをやっていると、聞いている。銀瑯」
 籍の末弟ともあろうものが、他人の部屋に無断で入って、大切にされている楽器を破壊するのか。
 それでまだ足りず、相手を、殺そうとするか。
「だ、だって……」
「なんだ」
 昇紘の、闇を宿した鋭い双眸が、銀瑯を射抜くように、見る。
「おまえには、失望したよ。銀瑯」
 そうして、静かに、冷ややかな裁断を、昇紘が告げる。
 銀瑯は、ひとつ大きく震え、走り去った。
「郁也」
 振り返って、穏やかな、昇紘の声に、しかし、郁也は顔をあげられない。
 怖いという意識が先に立つ。
 いつもは、どうにか隠し通せていると思っている、貴に対する恐怖が、こみあげて、収まらない。

 細い手だった。
 女のような、白い、肌。
 長く尖った爪。
 赤い、くちびる。
 ぞろりと剥き出しになった、鮫のような、歯列。
 ――いい匂いがする。
 首筋に鼻を寄せられた。
 犬のような顔をした、異形だった。
 くすぐったさに、首を竦めて、郁也は笑う。
 しかし、笑いが凍ったように途切れたのは、
 ―――可愛いから、食べてあげる。
 そう言われて、郁也は、逃げなきゃとは思ったのだ。
 けど。
 悲鳴もあげられなかった。
 足が、動かなかった。
 それどころか、すとんと、他愛なく、腰が抜けたのだ。
 腕を掴む手が、伸びた爪が、背中に当たる爪が、痛いくらいに肌に食い込む。
 やっと、足をばたつかせることができるようになって、泣き喚いた。
 そうして、首筋に、鋭い痛みを、感じた。
 その時には、郁也の意識は、現実から遠のいていた。

 真っ青になって震えている郁也の背中に、そっと、昇紘は、手を触れた。
「ひっ」
 小さく、胎児のように縮こまる。
 イヤを繰り返す郁也に、昇紘の表情が、強張りつく。
「郁也っ」
 肩を掴み、抱き上げる。
 うつろなまなざしが、大きく見開かれた。
「いやだっ」
 腕の中で藻掻く郁也の頬を、昇紘が、軽く、叩く。
「あっ」
 小気味よい音がして、郁也の頬が、赤くなる。
「大丈夫か」
「しょ……うこ……う…………」
「弟が、酷いことをしたようだ」
 すまなかったと、そう言いながら、郁也の赤く腫れた腹部をなでる。
「ひっ」
 刹那、郁也は大きく震えた。
 治まっていた震えが、酷くなる。
「お、おりる」
 下ろされて、息をついた郁也は、
「どうする。一息ついたら、新しいピアノを見に行くか」
 部屋を出ようとした瞬間、背中に声をかけられて、その場で、固まった。
 声を出せば、悲鳴になりそうで、必死に口を押さえた。
 昇紘は、あの時の、あの、異形ではない。
 わかってはいても、怖いのは変わらない。
 目が――――
 そう。自分に向ける、昇紘の目が、あの異形を思い出させるのだ。
 必死で、郁也は、首を横に振った。
「なぜだ」
 背中に、昇紘の気配を感じる。
 自分を見ているだろう、あの、何かを圧しひそめたような視線が、脳裏によみがえる。
 何かを、答えなければ。
「ピアノがないと、困るだろう」
 答えなければ。
 涙が、こみあげてくる。
 目を閉じて、首を振った郁也は、いつの間にか、昇紘が目の前にいることに気づき、息を呑んだ。
「………おまえはっ」
 ぐっと、顔を近づけられ、背けようとした顔を、昇紘の両手が、掴みこむように、両側から、つつみこむ。
 目を覗き込まれて、掠れた悲鳴が、ごまかしようもなく、くちびるを突いた。
 背中を流れ落ちる冷たい汗の感触に、自分はまだ震えているのだと、止まったと思った震えを意識する。
「いつになったら、この私を見る」
 私が、こんなにも、おまえに捕らわれているというのに!
 ぶつけるように、そう告げられて、息を奪われるかのような激しいくちづけを受けた。
 そのまま、ピアノ室の床に、横たえられる。
 どんなに暴れても、昇紘にかなうはずもない。
 郁也は、自分が、昇紘に喰らわれるのだと、痛いくらいに、思った。

 翌日には、新しいピアノが、届けられた。
 しかし、体調の悪さから郁也は、しばらく、ベッドから起き上がることすらできなかった。
 気は焦るものの、今は、ピアノを見るのも苦痛だった。
 それを自分から弾こうという気には、なれなかった。
 せめて気分を変えようと、ピアノを別の部屋に移動させたのは、体調が戻った二日後のことだった。
 そうして、郁也は、ピアノの椅子に座った。
 楽譜を開く。
 目を閉じて、深呼吸を繰り返す。
 ピアノに触れるのは、十日ぶりになる。
 指が、前のとおりに動くとは、考えられない。
 それでも、ピアノの感触は、郁也を、励ます。
 ピアノが、ささやく。
 大丈夫――と。
 わたしを、弾いてください――と。
 郁也が、そっと、鍵盤に触れる。
 やわらかな音色が、部屋に、響いた。
 それからは、迸るように、郁也は、鍵盤を叩いた。
 ピアノ教師が、ドアを開けたことも、佇んでただ郁也の奏でるピアノに耳をかたむけていることにも、気づいてはいなかった。

 あれから、何度も昇紘に抱かれた。
 無理矢理の情交は、怖かった。イヤだった。からだも辛い。なのに、どんなに言っても、昇紘は、許してくれなかった。
 ほんの少しの自由すら、今の、郁也には、なかった。
 いつも、昇紘の目がある。
 なにをしていても、学校にいてすら、昇紘に見られているような気がしてならなかった。
 昇紘の束縛から逃れる術は、郁也には、なかった。
 けれど、それは、天恵のように、郁也の目の前に現われた。
 世界的なピアニストだった日本人を偲んで設立されたという、コンクール。その優勝者には、コンセルバトワールの留学が待っている。
 ピアノ教師も、郁也に、それを薦める。

 郁也は、今、その舞台に立っていた。
 最終審査だった。
 自分を励ましつづけてくれた、ピアノのやさしい音色を、今だけは、郁也は、楽しんでいた。
 そうして、気がつけば、スタンディングオべーションが、郁也を包みこむ。
 呆然と、郁也は、ただ、涙を流していた。





 ぼんやりと目を開けると、そこは、見知らぬ場所だった。
 どうして――
 起き上がろうとして、からだが動かないことに気づいた。
 全身に激痛が走る。
 しかしそれよりも何よりも、手が、動かないことが、郁也を追い詰めていた。
 まさか、と、思った。
 なぜ。
 なにが起きたのだ。
「気づいたのか」
 ドアが開く音と共に、誰かが入ってきた。
「…………」
 郁也が、男を食い入るように凝視する。
「どうした。まさか私を忘れたとは言わせない」
 クツクツと狂ったような笑いを喉の奥で噛み殺すこの男が、なにをしたのか、郁也は思いだしていた。
 飛行機の中に、郁也は人質の一人として残されていた。
 何がどうなったのかは、わからない。
 ただ、突然の煙と共に、踏み込んできた武装した男たち。
 阿鼻叫喚のどさくさに紛れて、郁也は、手に、痛みを感じていた。
 気がつけば、自分は、死者となって、昇紘の別荘に、閉じ込められていたのだ。
 自分の葬儀のようすを、郁也は、昇紘に見せられた。
 嘆き悲しむ姉に連絡を取りたくても、携帯も、電話も、パソコンすらもない。
 外部との連絡は、見張りの男のひとりが持っている携帯で済ますらしい。
「ふつうに弾くぶんには、大丈夫だそうだ」
 昇紘のことばに、郁也が震える。
 そのほかにも、全身、打ち身や、捻挫、脱臼と、骨折がないのが不思議なくらいだった。ただし、両手の腱を傷めていた。
「鬼っ」
 吐き出すような罵りに、昇紘が、笑いで答える。
 楽しそうに。
「私のために弾いてくれ。私だけのためにな」
 郁也の嗚咽が、昇紘の、狂った笑みを深くする。

 鬼に囚われた少年がひとり、鎖された館で、ピアノを弾く。
 絶望に鎖された旋律に、鬼だけが、楽しそうに、耳をかたむけていた。


おしまい



start  9:56 2006/02/18(09/54/2006/02/17)
end           19:53 2006/02/18

◇あとがき◇

 もう少し、ロマンティックで納得のいく話になるかなぁと思ったのでしたが。どうも、冗漫で、今一かな。
 無駄な設定かもしれない。鬼にする必要があったのだろうか?
 少しでも楽しんでいただけると、御の字です。
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