名  前 〜狂恋〜



 ああ、桜だ………。
 こっちの世界にも桜があるんだなぁ。
 オレは、ぼんやりとそんなことを考えてた。
 このごろ、ヤツはなにを考えたんだか、オレをかなり自由にさせてる。もっとも、オレが、門に近づこうとすると、どっからともなく、いかつい顔した男が何人かやって来て、オレを屋敷のほうに引っ張ってくけどな。
 こっちに桜の林があるなんて知ったのは、ついさっきだ。
 ふらふら歩いてて、行き行き当たっただけだ。
 もう春だったんだ。……………。胸の中に、色んなもやもやが吹き溜まってたが、そんなものを一掃してくれるような――そんなこと錯覚だってわかってるけどさ――すっげー綺麗な、満開の桜の林だった。
 懐かしいって、そう、思っちまった。
 鼻の奥がツンと、痛くなって、目頭が、熱くなった。
 オレは、慌てて、空を見上げた。
 真っ青じゃなく、灰色っていうのか、花曇の空だ。花見日和だよな。
 あっちの世界じゃ、桜が満開になると、その下は、だみ声のオヤジたちとかがカラオケやら酒やらかっ喰らってる、なんつーか、変なお祭空間になっちまう。ほんとに花見をしてるのやら、ただ単に酒が飲めて騒げる口実を作ってるだけなのやら。まぁ、そういうオレだって、悪友なんかとつるんで、ナンパに出かけたりしたけどさ。OLかなって感じのきれいなおねーさんたちに声をかけて、一緒にカラオケ行ったりさ。まぁ、やってることは、結局、オヤジたちとそんな変わんなかったわけだが。
 あっちじゃ、狂騒って印象の桜だが、こっちじゃ、団体で見ようなんて物好きもいないのか、しんと、冷たい。それは、淋しいくらいに、冷ややかで、静かだ。それでもって、人目を離させない。オレは、魅かれるように、林の中に入っていったんだ。
 一歩進むたびに、足の下がふわりと定まらないような気配がする。これは、オレの足が覚束ないのか、それとも、地面がよく肥えているのか。どっちなんだろう。
 そんなこと、マジになって考えるまでもないけどさ。バランス感覚が、変調をきたしてるんだってことは、オレにだってわかってる。このごろすぐにバランスを崩しちまうオレは、そのたび侍女だっつう桂花という年下の女の子に支えられる。情けないって言う気持ちも、失せちまった。だってな、オレは、年下の女の子に、身の回りの面倒をみられているんだ。それは、朝起きる時から、寝るまで。一日中だ。風呂の世話までされている。つまりは、オレとあいつとのことも、知られてるわけだ。今更だろ。
 ぐらり――と、視界が、ぶれる。
 ああ、まただ…………。
〔わりぃ〕
 礼を言うたびに、律儀に頭を横に振る桂花の襟元から、痛々しいくらいの引き攣れが横一文字に刻まれてるのが見える。これのせいで、喋れなくなっちまったんだろうか。
 ちょっと疲れちまったみたいだ。
 背中をさする、小さな掌の感触に、オレの全身が、震えた。
 駄目だ。
 首を、オレは、横に振った。
 馬鹿だよな。そうすると、なおさら、目が回るっていうのに。
 ほとんど抱きつくように、桜の幹にしがみついたオレの半分閉じかけてた目の隅に、桂花が、何か、伝えようとしているゼスチュアが映った。
 林の外とオレとを指差しで何度か往復して、何かを羽織るまねをしてる。
 ああ。わかった。さっきの震えを、寒いからだって勘違いしたんだな。
 いい子なんだから、優しくしてやりたいんだけどな……。
 オレは、わかったって、頷いた。
 そうして、オレは、木の幹に背中を預けたまま、ずるずると、腰を落としたんだ。
 ひらひらと、灰色の空から、うっすらと灰色がかったような薄いピンクのはなびらが降ってくる。
 仰け反った首や頬や額、ちょっとだけ湿気てるはなびらが、滑ったり、とどまったりしてる。
〔しんどい………〕
 オレは、目をつむった。
 どっか、悪いんだろうなぁ。
 食欲もないし、立ってるだけでもくらくらする。ヤツに抱かれちまうと、次の日なんて、オレってば爬虫類(あ、と。爬虫類って、朝とか日光浴を一定時間しないと普通に動けないって聞いた記憶があるんだけどさ。)かよ――と嗤っちまうくらい、からだが動くようになるまでかなり時間かかる。これって、なんだろ。不安だったりする。けど、ほとんど毎日ってくらいオレの往診をしてる孫って医師は、オレには何も言わない。いや、言われても、挨拶程度しかできねーオレに、医者の使う専門用語がわかるはずもないんだけどさ。孫医師にとって、オレに説明するのは、焼け石に水ってか? いや、違うか。ともかく、無駄ってモンだ。結局、オレの頭の上を素通りして、オレの体調は、ヤツのほうが、詳しいんだろう。
 ヤツ――昇紘、の、無表情な顔が、オレの脳裏を占める。憮然と、いつも機嫌がよくない顔をして、オレを見る目だけが、やけに、生々しく光ってる。そんな、男の顔だ。
 毎晩、ヤツはやってくるから、オレの体調は、そんなに、深刻なモンではないと、オレは、思ってる。
 いくら、ヤツが無茶をするって言っても、重病人を相手に、ンなことはしないだろう。少々体調が悪いくらいは、まるっと無視するみたいだけどな。
 はっきり言って、抱かれるのは、イヤだ。
 なんか、もう、他人と接触するのすら、怖くてならない。さっき、桂花が背中をさすってくれてただけだっていうのに、オレの全身を駆け抜けたのは、悪寒だったんだ。
 けどさ、怖いからってオレが逃げたりしたら、多分、間違いなく、ヤツは、明蘭にオレが逃げたことの落とし前をつけろって言うに決まってる。落とし前って、やっぱり、明蘭に、妓楼かなんかで年季奉公とかをさせたりするってことなんだろうけど。それとも、オレの代わりって言って、ここに連れ込むとか? ――そういう展開って、なんか、ベタなやくざモノの映画とかみたいだけど、確実な気がする。別に、一度逃げた後、ヤツにそう言って脅されたってわけじゃない。けど、なぁ、オレがここにいる原因が、明蘭家(ち)の借金だし。そういう流れになるのが、自然なんだろう。
 オレ、明蘭にはしあわせになって欲しいんだ。好きなヤツと一緒になってさ、それで、こどもを持って、平穏無事に毎日を過ごしてくって言うのが、きっと、本当に、幸せなことなんだろうなって、最近、そう思うんだ。
 だから、オレは、逃げないって、決めてる。
 踏みとどまってるんだけど……けど、これが、結構しんどいんだ。
 ここにいるってことは、ヤツの相手をするってことだ。それが、辛い。からだも辛いけど、なにがって、精神的に、つらくてなんねー。
 逃げたい。
 本音は、これだ。
 けど、それだけはしちゃだめだ。
 じゃあ、オレは、どうすれば、いいんだろう。
 誰か、誰でもいいから、教えてくんねーかな。
〔誰か………〕
 瞑った瞼の向こうが、翳った。
 足音してたっけ?
 まぁ、最近のオレの感覚って、鈍くなってたりするから、聞き落としてたんだろうな。
〔桂花〕
 上着を持ってきてくれたんだろう。
 目を開けるのすら億劫で、オレは、目を閉じたままで、名前を呼んだ。
 けど、反応がない。
〔桂花?〕
 あいかわらず、不精にもほどがあるって感じで目を開けもせず、オレは、桂花を呼んだ。
〔上着、持ってきてくれたんだろ?〕
 通じはしないってわかってるけど、さ。喋りながらゆっくりと差し出したオレの手に、何かが触れた。
 と、
 オレは、叫ぶまもなく、引きずり上げられて、立たされてたんだ。
 なにが起きたんだ。
 心臓が、ただただ、自己主張して、がなりたてる。
 苦しい。
 ぶれる視界に、オレは、ヤツを見出していた。
〔!〕
 悲鳴もなにもない。
 オレは、ヤツの腕の中に、抱き込められていた。
 苦しくて手を突っ張ろうとするんだが、すればするほど、ヤツの腕はきつく、オレを、締めつけてくる。
 抵抗するのを諦めて、オレは、強張りついたまま、ヤツを、目に映してた。
 ヤツは、何か、怒ってでもいるのか、いつもより、きつくオレを見下ろしている。
「郁也」
 こもったような声で、低く、ヤツが、オレの名を、呼んだ。
〔な……なんだよっ〕
 オレは、別に、なにもしちゃいないだろ?
「……を呼べ」
〔は?〕  オレの周囲ではただひとり、オレと話すことができる男のことばを、オレは、咄嗟に理解することができなかった。
「私の名を呼べ」
〔………〕
 頭の中が、真っ白だった。
 なんで突然、ヤツがそんなことを言うのかわからなかったからだ。
「呼ぶんだ」
 まるで駄々をこねるかのように、ヤツがオレを揺さぶった。
〔しょ……昇紘〕
 オレが、ヤツの名をつぶやいた途端、オレは、ヤツに口を塞がれた。
 長い、ディープなキスが途切れると、
「もう一度だ」
 低く、逆らえない強さで、要求してきた。
〔昇紘………〕
「もっとだ」
 わけがわからないまま、オレは、ヤツが満足するまで、ヤツの名を、呼ばされつづけたのだった。


おわり



start from 17:05 2005/04/10
to end 21:50 2005/04/10
あとがき
 ちょこっと、進んだか、後退したか。
 取り様な気がしますが……。
 いつものごとくですが、少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。
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