狂恋 桜の庭
あれは、秋の終わりのことだった。
私の心を奪ったのは、ひとりの海客だった。
たどたどしいことばと、上目遣いの、戸惑いがちの笑み。たったそれだけで、あの海客の少年は、この私、止水郷長、昇紘の心を占めたのだ。
恋など信じたことはなかった。ましてや、一目惚れなど、あろうはずがない。そう、見切ってしまっていた私の心のどこかに、隙があったのか。あの少年は、わずかあの一瞬で、するりと、私の中に入り込み、そうして、私のすべてを支配してしまった。
思い返すだに恥ずかしい、そうしてまた、腹立たしい。片恋におぼれた男の愚かしい恋文を、どれだけ、花束と共に贈っただろう。
返事は、返ってはこなかった。
使者より手渡されるのは、自身したためた恋文ばかりだった。もとより、それが、少年の返事ではあったろうが。
私は、それが、彼の、手管だと思ったのだ。いや、違う。そう、思い込むことにしたのだ。
私を焦らす、愛しくて、憎い、あの少年。彼を、必ず、私のものにしてみせよう。そう決意したのは、最初に、文と花束とを返された時だったのかもしれない。
眠ることも、食事をすることも、忘れるほどに――いや、仕事の最中でさえ、彼は、私の脳裏に現われた。いつしか、思いの比重は、憎しみのほうへと傾いていたのかもしれない。
私を惑わせる、あの少年を、恋しいと思いながら、それ以上に、自分を惑わせる憎い存在に思えてならなかったのだ。
あのくちびるを味わった後に、あの、とろけるほどの甘さを知った後、その思いは、いや増した。
この身のうちを焦がす熱を冷ますために、妓楼で間に合わせることなど、もはや、不可能だったのだ。
だから、彼が身を寄せる廻船問屋の奇禍を耳にした際、その店に残された莫大な負債を把握した後、私の心の中に、企みが芽生えた。
それは、最初、企みというには、いまだ、児戯に等しいものでしかなかったのだ。が、しかし、仙でありながら市井に混じって暮らしている弟が、件の店に金を貸しているのだとそれを知ってしまっては、もはや、私の企みを自身で思い留まることは、不可能であった。
弟をも巻き込んで、そうして、私は、ついに少年――浅野郁也を、この手に、捉えたのだ。
そこまでしておいて――などという危惧がなかったとは言わない。
それは、手に入れたが最後、浅野に飽きてしまうのではないかというものだった。
しかし、それは、杞憂に過ぎた。
私は、郁也を手放せなくなっていたのである。
一度私を刺して逃亡に失敗してから、郁也は、伏せりがちになった。その責任が自分にないとは言わない。それでも、つけた医師に、生きる気力がなくなっているとまで言われて、憤らないほどではない。
そう。
この関係は、郁也自身、承知の上でのものだ。
あれが内心、この関係を唾棄すべきものだと考えていようと、あれがその身に換えても守りたいと思っている少女がいるかぎり、それは無理な話でしかない。
それでも、一度の逃亡には、目をつむろう。――柄にもなく、理性を飛ばした私にも、非はあるのだから。
思いつめた相手が、目の前にいる。その肌が、体温が、こぼす吐息のひとつまでもが、自分のものなのだと、その嬉しさに、自制の箍が外れた。それ以前、弟の少々過剰なまでの行為で、郁也が少しばかり血を流していたことも、無関係ではなかった。郁也の血の匂いはとても甘く、容易く、私の理性をとろかせた。
そうして、虎の半獣である私は、文字通り、獣になったのである。
郁也にとっては始めてであったろう行為は、私のせいで、苦痛を、おそらくは恐怖すら覚えるものになってしまったろう。だから、一度の逃亡は、かまわない。しかし、二度目、三度目の、それは、許さない。
私自身、自覚してしまっているからである。
なにを?
私が、他人から言われるまでもなく、郁也におぼれているということを―――だ。
春とはいえ、外の空気は、まだ冷たい。
書類より逸らした視線の先に、私は、郁也の姿を認めた。
執務室の窓の外、ふらふらとした危なっかしい足取りの郁也が、桜の林を散策している。
今朝、熱が高かったはずだが、大丈夫なのか?
孫医師の苦言で、私は、とりあえず、郁也を外に出すことにした。とはいっても、ひとりで出すつもりも、敷地から出すつもりはない。今も、郁也の後から、あれの侍女につけた桂花がついて歩いている。
薄い色の花が咲き零れそうな木々の間を、あれは、なにを考えて歩いているのだろう。その思考の狭間に、私のことが少しでも含まれているだろうか。
そこまで考えて、私は、我に返り、自嘲した。
そんな余裕が、あれにあるはずもない。
泣いて許しを乞うあれを、また、夜が明ける前まで、この腕にしていた。馴染んだ肌重の感触に、吐息の熱さに、容易く劣情が目覚める。虎へと変わることは自制しているものの、だからこそ、行為自体に手心を加えることは、私にとっても、難しいものだった。
―――あれの泣き顔が、存在のすべてが、なによりも、そそる。
最初が最悪だったからだろう。あれのからだは、行為に慣れようとしない。辛そうに、堪えようと、全身を硬くしてくちびるを噛みしめる。頑なになればなるほど辛いというのに、あれのからだは、竦みあがる。そんなあれのくちびるを抉じ開けて、そこからこぼれ出る音色を吐息と共に味わう。その甘美を、どう表現すればいいのだろう。
あれが気を失うまで責めて、そうして、私は、あれを抱きしめたまま、眠りに落ちたのだ。
私が目覚めた時、既に、あれは、ぼんやりと牀榻の天井を眺めていた。
私を見ようともしない郁也の態度は、いつものことである。
そんな郁也が、いやでも私を見るように、ほんの少しだけ戯れて、私の朝は、いつも、そうしてはじまるのだ。
食事を摂ったのかどうか、郁也の頭は、まだ、目覚めきってはいまい。
ただ、牀榻にいたくないから、庭に出た――そういうところだろう。
じきに、昼の休み時間だ。
閃くものがあった。そのためにも、私は、郁也から視線を、書類へともどしたのである。
おわり
start from 11:12 2005/04/04
to end 15:46 2005/04/04
あとがき
久しぶりのお話が、昇紘さんのモノローグというのが、う〜ん……微妙ですよね。
すっかり、浅野くんにおぼれてる昇紘さんでした。
少しでも楽しんでくださるといいんですけど。