狂  恋〜後編〜




 装飾格子の向こう、貴重品らしいガラス窓の外は、赤く染まっている。まるで、狂ったような、火桶に踊る炎すらもが色を失くすような、日没だった。
 居心地好くしつらえられた室内は、外の寒さがうそのように、あたたかく、家具や調度品の類が、どれもこれも夕焼けに染められていた。
 こちら風に手の込んだ彫刻が施されたソファ・セットと、花が生けられている、子供がひとりくらい悠に隠れられるだろう大降りの花瓶が、うるさくないていどに置かれている。床には織物が敷き詰められ、防寒のためなのだろうが、これでもかとばかりに毛皮が、随所に敷かれている。そうして、部屋の片方を占めているのは、薄い紗の帳(とばり)がかけられている、牀榻(しょうとう)――ベッドにしては大きく、寝室としては少々狭い、寝るためだけの空間――である。
 この部屋に通されて、小半時が過ぎていた。
 まるで動物園の白熊のように、浅野は、室内を歩き回っている。
 落ち着かない。
 当たり前だ。
 落ち着けようはずがないのだ。
 郷長さま―――と、以前に明蘭が呼びかけたあの男が、なにを考えているのかなど、改めて推測するまでもない。
 あの男を思い返すたびに記憶の中から浮かび上がるのが、独りで留守番をしていた時の、あの情景だからだ。
 突然現われた男にいきなり、詰るかのように詰め寄られ、ディープ・キスをされた、あの、忘れたい記憶である。
 今更ながらに浅野の全身が、ぶるりと震えた。
〔いやだ………〕
 覚悟を決めていたはずなのに、なにをされるのか、考えるだけでも、気が遠くなる。
 そういう嗜好があるということは、情報には事欠かない二十一世紀の青少年として、浅野も知っている。けれど、自分には関係ない。無縁のことだ――と、考えたこともなかった。
 なのに、自分は、男と―――そういうことをするのだ。おそらくは、あの男が自分に飽きるまで。
 逃げ出したい。
 いたたまれない。
 しかし、逃げたりは、できないのだ。
 自分が逃げれば、明蘭に、すべてが、かかる。
 明蘭が、妓楼に売られてしまう。
 脳裏を掠めるのは、あの、小司馬とかいう、目の細い、ぎらぎらとした雰囲気の男である。
 老人相手の、最初の数分を見れば筋書きが読めてしまう、できの悪い時代劇のようだ。でも、それならば、主人公が助けてくれる。しかし、自分の場合は、誰も、助けには現われない。
 別れる時自分に抱きついて、いやだと頑是無く頭を振りつづけていた明蘭の泣き顔を、思い出す。
 彼女の後ろで、自分に手を合わせていた蓮雫老人の、つらそうな表情をもまた、浅野は、思い出していた。
 見知らぬ世界で、苦労せずに済んだのは、彼女たちのおかげだった。
 言葉もわからない、右も左も、何もかもわからない世界で、自分がひとりで道を切り開けるほど器用でないことなど、浅野は、知っている。
 明蘭たちに助けてもらわなければ、この寒さだ。どこぞで野垂れ死んでいただろう。
 可愛らしい明蘭と、忠実な蓮雫老人。
 どんなに感謝しても、したりない。
 だからこそ、明蘭が苦界に身を沈めることだけは、なんとしても、阻止したかった。そのためなら、自分が代わりになってもかまわない――あの衝動は、本心からのものだ。明蘭の身代わりに売られてもかまわない。そんな決意が、ここにつれて来られるまでは、確かに、存在した。
 それが、今になって、なぜ、こんなにも、苦痛に感じられてならないのか。
 苦痛――いや、より正確を期するなら、これは、今から起きるだろうことに対する、嫌悪だろう。
〔まったく……へたれだよな〕
 自分で自分を、嘲笑う。
〔情ないっちゃないぜ〕
 叱咤する。
〔いいか、よく覚えておけよ、オレ。これで、明蘭が、助かるんだ〕
 別れ際に、蓮雫老人に縋りつくように顔を伏せて震えていた明蘭を、思い出す。
 相手は、自分に、恋文をよこしていた男だ。小司馬にどこかに売リ払われて、そこで不特定多数の客の相手をしなければいけなくなる――よりは、はるかに、ましなはずである。
 明蘭のためだ―――と、浅野は、褐色のまなざしの奥に怯えを押し込め、火桶の炎を見下ろしたのだった。


 ふと、外を見れば、とっぷりと日は暮れていた。
 浅野は気づいてさえいなかったが、室内を照らしているのは、火桶の炎だけだった。
 窓に近寄り、空を仰いだ。
 見知らぬ月が、雲間から顔をのぞかせる。
〔明蘭〕
 もう会えないのかもしれない。そんな予感がした。
 つぶやいた時だった。
 凍りつくような外気が、大きく火桶の火を揺らめかせた。
 浅野の全身が、哀れなほどに、強張りつく。
 振り向けなかった。
 窓硝子(ガラス)には、手燭の灯りに照らし出された、郷長の姿が映っていたからである。
 声もなく、男が近づいてくる。
 ゆっくりと、郷長が、歩を進める。
 後数歩で、浅野のすぐ後ろである。
 郷長の存在を全身で感じ、からだが無様に震えていた。足元が、揺れる。
(くそっ)
 今にも足から力が抜けてしまいそうに、怖い。
 こんなにも誰かを恐ろしいと感じたことなど、なかった。
 立っているのが辛い。
 しかし、醜態をさらしたくはなかった。それは、最後の、意地だったろう。
 浅野の視線が、腕が、縋りつけるものを求めて惑う。窓枠にかけた指先から、血の気が失せた。
「浅野」
 耳元でささやかれて、心臓が大きく脈を打つ。
 目を閉じる寸前に、ガラスに映っている男の双眸が手燭の灯りを弾いたのが、残像となった。
「やっと、捕まえた」
 喜悦をにじませた声が、ぞろりと脳髄へとからみつく。
「これで、おまえは、私のものだ」
 逃しはしない―――――独り語ちながら、男が、浅野の耳朶をくちびるに含んだ。
 刹那、背中に走った戦慄に、浅野が、短い悲鳴をあげた。
「いい反応だ」
 クックと、喉の奥で押し殺しそこねたかの笑いをにじませ、男は、浅野の膝裏を掬い上げるようにして、抱きかかえた。



 噛み殺しそこねた悲鳴が、荒々しい息遣いが、牀榻の内部を照らしている炎を揺らめかせる。
 薄ぼんやりとした灯りに牀榻の中に映し出されているのは、ふたつの陰影だった。逃げを打つほっそりとした影が、逃がすまいとする獣めいて大きな影に、呑み込まれるかのように重なった。



〔ひっ〕
 浅野の喉から、鋭い悲鳴がほとばしった。
 牀榻の天井から垂れ下がっている角灯(ランタン)を背後に、男は黒々と影になっている。しかし、それを見てなどいられなかった。必死に、瞼を閉じる。くちびるを、食いしばる。
 目を閉じたままで、着衣が解かれてゆき、温まってはいても体温よりは低い空気を、ひんやりと冷たいものに感じた。
 男の指が、掌が、手触りを確かめてでもいるのか、触れてくるのに、ざわざわと、肌があわ立つ。
 全身が慄きに震える。
 涙がこみあげて、目の裏が熱くなった。
 男に触れられ、浅野のからだが爆ぜるように大きく震えるたびに、男が、喉の奥で、笑う。
 羞恥と悔しさに、全身が熱くなる。いたたまれなさに、全身を硬く強張らせる。
 しかし、それは、どれほども、保ちはしなかった。
 ひたすら男の意のままに操られ、喘ぎさえも噛み殺しそこねはじめたころ、浅野は、違和感を感じた。
 それは最初、嗅覚に訴えてきた。
 男の体臭が突然強くなった。
 そうして、喉の奥のいかにも余裕あり気な笑いが、こもったような、絡んだような、唸り声に、変わった。
 頑なに閉ざしていた瞼を、浅野は、恐る恐る、もたげていった。
(?)
 最初、それがなになのか、闇に慣れていなかった浅野には、わからなかった。
〔つッ〕
 突然、戸惑う浅野の首筋を、ざらりとしてあたたかく濡れたものが、擦りあげた。
 擦られた箇所には、ひりりとした痛みが残り、しんとした冷たさに取って代わる。
〔く……〕
 肩口に、何か、鋭く尖ったものが複数食い込んだ。
〔いやだっ〕
 掠れた声は、その場に、砕けた。
 悲鳴もなかった。
 痛みすらも、刹那、感じなかった。
 息をすることすら忘れて、浅野は、闇に慣れた視界に映っているものを、呆けたように見上げていたのだ。

 浅野を見下ろしているもの。
 それは、爛々と光る、ひとならざる、一対の、瞳であった。
 猫のような。しかし、猫などよりは、数倍も大きな、双眸が、闇の中緑色に底光りしながら、浅野を凝視している。
 郷長は―――と、疑問を感じる余裕などなかった。
〔うわ……〕
 掠れた悲鳴が、こぼれ落ちた。
 生命の危機に、浅野の鼓動が活動を再開する。
 全身の熱が一気に冷め、恐怖に脂汗が滴り落ちた。
 いざり逃げようとするも、足が笑って、立ち上がれない。
 なにより、肩口に食い込んでいるものが、人間など簡単に引き裂いてしまえるだろう、剣呑な破壊力を潜めた、合計十本の爪なのだと、悟っていた。
 厭々と、頑是無い赤子めいたしぐさで、浅野が首を横に振る。
 首を振るたびに、視界に、白々とした爪が映り、涙がこみあげてくる。
(いやだ……死にたくない)
 こんな、わけのわからない世界で、状況で、虎に食い殺されるのが自分の運命だなどと、そんなことがあっていいのか。
 そう。
 浅野を組み伏せているそれは、まがうことなく、黄色い毛皮に黒い縞模様もみごとな、巨大な一頭の、虎だった。
 ぞろりと、これもまた大きな舌が虎の口から現われ、涙に濡れた浅野の顔を舐めあげた。
 ゴロンゴロンと、ネコ科の生きものになれていなければ、怒って唸っているのかと勘違いしてしまいそうな、からだに見合った音量の喉鳴りが、浅野の鼓動を震わせる。
 ぎゅう――と、両肩に、爪が食い込む。
 その痛みに、
〔た、助けて………〕
 浅野は、逃げをうった。
 弾みで片方の肩が裂け、少なからぬ血が、浅野の白い肌に、爪の数だけの糸をひく。
 虎の嗅覚には、それでさえもが、濃厚な甘い誘惑となって届いたのかもしれない。
 喉鳴りがやんだ。
 緑の輝きの奥、瞳孔が、縦長に収斂した。
 そうして、口のあわいから舌が、唾液をしたたらせながらはみ出し、己の口を舐め湿した。
 しかし、腹這いになって、なんとか虎のからだの下から抜け出そうと藻掻いている浅野は、気づかない。
(もう少し)
 牀榻の枕元、飾り彫りの格子に、あと少しで手が届きそうだった。
 右の肩が、焼けつくように痛んだが、それくらい、虎に食い殺されるよりは、はるかに、ましに思えていた。
 何かが、浅野の後ろ首に、落ちてきた。
 熱く、ぬるりとしたそれが、糸を引くかのように、首筋を伝い、二の腕にまで流れた。
 自分の二の腕を、透明な粘液が、てらりと濡らしている。場合を忘れて振り返った浅野の喉を、小鳥の末期(まつご)の一声めいた鋭い悲鳴が、引き裂いた。
 と、同時に、虎は、浅野の後ろ首に、その鋭い牙を当てたのだ。
 浅野の双眸が、眦(まなじり)が裂けんばかりに見開かれた。



 夢とも現実ともつかない光景が、浅野の混乱を激しくした。
 
 浅野が経験したのは、初めての行為にもかかわらず、手酷い、蹂躙だった。
 殺されるかと思った。
 虎に、食い殺されるのだと。
 しかし、そちらの方がましだったのかもしれない。
 あまりの苦痛に、なんとか意識を闇に逃げ込ませようとあがいていた間中、浅野は、そう、思っていた。
 なぜ?
 こんな酷い目に。
 虎を受け入れた箇所が、虎の動きにあわせて、激痛に引き攣る。
 ただ、痛いだけだった。
 怖いだけだった。
 涙が、声が、ひっきりなしに、溢れ出す。
 乾きかけた血が、揺さぶられる動きに開いた傷口から、どれほど、にじみ流れだろう。
 いつの間に、郷長が虎と摩り替わったのか。
 美文調だ――と、明蘭を感心させた恋文をいくつもよこしておきながら、最初から、あいつは、こんなことを、させるつもりだったのか。
 どこかから、ヤツは、虎に犯されている自分を見ているのだろうか。
 こんな目に合うのだったら、あの、小司馬という男に、売り払われたほうが、よっぽどましだったのに違いない。
 ぐるぐると、浅野の思考が、あちらこちらと、とりとめなく彷徨(さまよ)う。
 獣に翻弄されつづけた浅野が、ようやく意識を失うことができたのは、夜が白々と明けかけた頃だった。
 何も考えられなくなった浅野が、ただ、やっと与えられた解放に、身をゆだねようとしたその刹那、彼は、それを見ることになったのだ。
 それは、さんざん浅野を蹂躙しつくした虎が、牀榻から飛び降りた。そんなシーンだった。
 しかし、浅野の視線を釘付けにしたのは、その虎が、妙に人間くさいしぐさで床に座り込んであくびをしたからではない。
 あくびをしながら、虎の輪郭がぼやけていった。
 虎のからだが、縮んだと見えた。
 そうして、浅野が見たのは、一頭の巨大な虎が、ひとりの男へと変貌を遂げるという、信じられない、光景だったのだ。
〔ごうちょう………〕
 かすれた声で、叫ぶほどに、それは、浅野にとって衝撃的なものだった。
 見てはいけないものを見たのかもしれない。そう気づいたのは、男が浅野を振り向いてからだった。
 男として完成された裸形を恥ずかしげもなく曝したまま、男が、浅野を、見下ろした。
 伸ばされた手から逃げようとして、浅野はただ苦痛に呻いた。
 動けなかった。少しでも身じろげば、散々に貪られた箇所に、激痛が走る。
 痛みのために脂汗を流しながら、浅野は、相手の手を、避けることすらできずにいたのだ。
 なにをされるのか。
 秘密を見たものは、殺される。
 今度こそ、殺されるのか。
 そんな、浅野の危惧は、ことごとく杞憂に終わった。
 男の手は、浅野の額や頬に貼りついていた髪の毛を、梳き上げただけだった。
「私のことは昇紘と呼べ。おまえの下の名前は、何というのだ?」
 それに自分が答えたのかどうか。浅野の記憶は、そこで、途切れていた。
 そうして、気がつけば、
〔いやだっ! 来るなっ! オレに、触るなッ〕
 牀榻の隅に縮こまって、浅野は叫んだ。
 情けないくらいに、かすれた声だったが、役には立った、伸ばされていた二対の手が止まったのだ。
 全身が、痛みと熱と、寒さとに、震える。
 頑なに、見知らぬ手を拒んでいた浅野は、不意に、牀榻の上に腹這いに押さえ込まれて、悲鳴をあげた。
 牀榻に上がってくる、もうひとりの気配に、浅野は、絶望に駆られた。
 なにをされるのか。
 もう、考えるのも、ごめんだった。
 明蘭。
 蓮雫。
 この世界に来てからの、あたたかい記憶を、掻き集める。
 差し伸べられた、無償の手。
 その、やさしさを、忘れることなどできはしない。
〔ひっ〕
 痛みと熱とを訴えている、昨日散々な目にあわされた箇所に、何かが、触れた。
 何かを塗りこめるように動くそれが、事務的に感じられ、浅野が、全身の力を、抜いた。
「そう。緊張していると、痛むだけだ」
 何を言っているのか、判らなかったが、その穏やかなトーンの声に、浅野は、大きく、詰めていた息を吐いたのだ。
「そら。こっちは、だいじょーぶだ。次は……ちと痛いぞ」
 からだの上で、なにかやり取りがあったらしい。
 ぐっと、押さえ込む手に、力が入った。
 咄嗟にもがきかけて、
「これ。暴れるでない。怖いことなどありゃせん」
 頭を優しくなでられた。
〔う……ああ〕
 右の肩が、燃えるように、痛んだ。
「よし。消毒は完了だ。これから縫うからな。しっかり抑えておれよ」
「はい。孫医師」
 押さえ込む力が、一層強くなった。
 突然右肩を襲った、鋭いもので肉を刺される痛みに、浅野が口を大きく開く。
 しかし、悲鳴は、出なかった。
 喉は、掠れ、渇き、ただ、悲鳴の形に、口が、固定されるばかりである。
 涙に霞む目を見開き、自由なほうの手を力任せに伸ばす。
 浅野は、右肩を襲うあまりの激痛に、敷かれている夜具を噛みしめた。
 左手が、何かに触れる。それを、力任せに、引っ張った。
 癇に障るような音をたてて、帳が、引きちぎれる。
〔も、う、イヤだっ〕
 そう、吐き捨てたはずの声は、声になっていない。
 背中の人間を落とそうと、必死になって、浅野が身をよじった。

 最後に化膿止めの薬湯を飲ませて、医師とその助手が帰った後、魂が抜けたかのように、浅野は、呆然と、ただ、牀榻に横になっていた。
 泣きつかれて、目は重く熱い。
 叫びすぎたせいか、喋れない。
 縫われた肩の傷が、ずくずくと疼くせいで、眠ることすらできないのだ。


 カクン――と、からだが揺らぐ感覚に、浅野は目覚めた。
 薬湯の中に、遅効性の痛み止めでも含まれていたのだろう。眠ることができていたらしい。
 室内には、火桶の火だけがいこっていて、それ以外は薄暗い。
 浅野は、ゆっくりと、からだを起こした。
 ぼんやりと、意識が、はっきりしない。
 とろとろと、手近なものに縋るようにしながら、牀榻を出る。
 寒い。
 見れば、いつの間に着せられていたのか、薄い寝巻きらしきものをみにまとっているだけで、他には何も、身につけてはいなかった。
 全身が、大きく震える。
 とにかく、寒かった。
 きちんとした服でなくてもかまわない。上着でいい。羽織りたかった。
 吐く息が、白い。
 牀榻にいれば、少なくとも、布団に包まっていれば、寒さはしのげる。ちろりと、流しやった視線を、浅野は、牀榻から逸らした。
 あんなところに、いたくない。
 あんなことがあった場所である。
 怖い。
 どうしようもなく怖いのは、ここの人間が、全員虎に化けるのかもしれないという考えが、頭の隅にこびりついて離れないからだ。だから、傷の手当てをしてくれた医師ですら、いつ虎に変わるのかと、恐ろしくてならなかった。
 明蘭だって、蓮雫だって、変身したりはしなかった。気づかなかっただけかもしれないが、そんな気配など、なかったと思う。だいいち、人間が虎に化ける、虎が人間に化ける、それはどちらでもかまわないが、いくらここが、二十一世紀の日本でない、異邦の地だからといっても、そんなことは、ありえない。はずだ。あれは、恐怖と疲れのあまりに見てしまった、夢に過ぎない。
 しかし、どんなに否定しても、どうしても、虎が、昇紘と名乗ったあの男へと化けたあの光景を、忘れ去ることなどできなかった。
 たしかめよう。
 どうやれば確かめられるのか、浅野にはわからなかった。まさか、〔虎になるのか?〕などと、訊ねられるわけもない。しかし、この不安を、どうにかしなければ。
 ふと、なにか、ささやかな違和感が、浅野の記憶をノックしたような気がした。しかし、すぐに、浅野は忘れてしまった。なにより、自分で導き出した決意に、気をとられていたのである。
 不安をなくすためにも、確かめよう。建設的な方向へと傾いた結論は、単にこの部屋にいたくないから思いついただけかもしれなかった。
 それでもよかった。
 ここではないどこか。
 ここにはいたくなかった。
 とにかく、ここでさえなければ、どこでもかまわなかった。
 この部屋から、出よう。
 それには、まず、着替えなければ。
 のろのろと、切れのない動きで、浅野は、着る物を探し回った。
 ようやくのことで浅野が見つけたのは、つい昨日まで、彼が着ていた服だった。牀榻脇の、行李(こうり)の中に、それはきちんと畳まれて、しまいこまれていたのだ。



 煮炊きに揚げ物焼き物など、十人からの人間が立ち働いている土間は、戦場のようだった。
 さまざまな香辛料の匂いや、油や肉魚、野菜などの調理される芳しい香にまざって、人いきれがむっとするほどこもっている。
「ほら、もたもたしないで、水を汲んできておくれ」
「酒の準備はできているのか」
「あのかたは、たいそうな酒好きだときいているからね。ケチったりしたら殿さまの名前に泥を塗るよ」
「控え室のほうの、お客のお連れさまがたには?」
「そっちはあとだよ。とにかく、殿さまたちのほうの準備が済んでからだ」
「あ!」
 十二、三才ほどに見える少女が、飛び上がった。
「なんだい」 
「あの」
 地面を見ながら、つま先で土間を蹴る。
「しゃきしゃき喋りな」
 大きな声に弾かれたように顔をあげ、
「あのお部屋のかたには?」
 とたん、忙しそうに立ち働いていた厨房中が静まりかえった。
「うわっ」
 バチバチと、油に水でも落ちたのか、料理人の悲鳴が、静けさを破る。
「あ、ああ。そうだね。精のつくものでも準備するかね。それとも、粥のほうがいいかねぇ」
 恰幅のよい、賄い頭らしい女性が、腰に手をあてたまま、つぶやいた。
「お部屋のほうに運びますか」
 寝室に食べ物の匂いがこもるのを、昇紘は嫌う。
「かまわないだろう。あの部屋のかたは、暫く動くのも辛いだろという話しだし。ということはだよ、今夜は―――さすがに、ない、だろうしね」
 にやりと口角に意味深な笑いを刻んだ女のことばに、
「ちがいない」
 あちこちから、好色な笑いを含んだ合いの手が飛ぶ。
 なにしろ、昨日からの騒ぎは、一夜が明け、再びの夜がきた今でも、騒ぎの中心から取り残されていた彼らにとってすら、信じられないような出来事だったからである。
「まったく。なにを好んで殿さまも、男の妾をつくりんさったかね」
 腰の曲がった老爺(ろうや)が、白い皮に具を包み込みながら、ぼそりとつぶやいた。
「妾?」
「だろ? 今まで私邸に他人を入れたりなさらなかった殿さまが、突然一番日当たりのいい部屋を模様替えしろと命じたくらいだからね。これから、あの部屋にいるひとは、ずっとここで暮らすということだろう。ということは、だ。妾以外にないだろう」
「なんでも、凄い豪華なしつらえだそうだが」
「あんた、手伝ってきたんだろ?」
 賄い頭が、ちろりと少女を見下ろした。
「あ、はい。すごかったです〜。敷物をたくさん重ねて、その上に毛皮までひくんですよ。すっごいきれいな彫刻の卓子に、鮮やかな色の織物が座るところになっている椅子でしょ。象嵌までしてある牀榻に、極上の薄絹を帳にして、夜具も、縫い取りしてある絹で、綿がたくさん詰められてふかふかです。それでもって、部屋の四隅におっきな花瓶が据えられてて、そこの花を絶やしちゃいけないって、絶対の命令があったんですよ」
 頬をまっかに染めて、少女が身振り手振りも大きく、一気に喋りきった。
「花ぁ? この季節に花を絶やすなっちゃ、殿さまもむちゃをおっしゃるね」
 呆れたように言うのに、
「相手は海客(かいきゃく)だろ? わかるのかねぇ。しかも、いいとこの嬢ちゃんとか姫さんとか、妓楼からひかされたとかってわけでもねぇ。男ときたもんだ。勿体無い」
「よほど惚れなすったか、具合がいいかのどちらかだろ」
「さあて。殿さまの考えることは、下々にはわからんね」
「どちらにしても、あの部屋のかたにとっては災難かもな」
 声が低くなる。
「殿さまは、お強いという噂だからな」
 にやにやと、口元がだらしなく歪む。
「なにせ、虎の半獣であらせられる」
「たしかに」
 好色な笑いが、どっと、厨房に、湧き上がった。
「さ。いつまでも喋ってちゃ、女中頭から怒鳴られちまう」
 賄い頭が手を打ち合わせたのを期に、一同は仕事に戻っていった。


 浅野がその扉を開いた時、どっと、部屋に笑いが沸き起こった。
 むっとするあたたかさと、鼻をつくさまざまな匂い。
 手を叩く音が合図だったのか、さまざまな音が、耳を打った。
 ぼんやりと戸口で立ち尽くしていた浅野に、後からきた誰かが、ぶつかった。
〔つっ〕
 悲鳴と、物の落ち砕ける音。
「す、すみません」
 余所見をしていた女ふたりにぶつかられただけで、浅野は、膝をついてしまった。
 陶器の破片やさまざまなものが散乱した床に蹲った浅野に、鈍い痛みが、存在を主張する。
「大丈夫ですか?」
 痛みは次第に大きな波のようにうねり、必死になって堪えている浅野の額や頬には、脂汗が流れていた。
 ふたりの心配そうな声に、〔大丈夫だ〕と、浅野は首を振る。
 背中にやわらかく触れられて、浅野の背中を、戦慄が駆け抜けた。
 怖い――と、そう、思ってしまったのだ。
 頭を大きく振って拒絶を伝え、扉の枠に縋って、なんとか立ち上がろうと藻掻く浅野の目の前で、何かが、きらりと光を弾いた。
 女たちは、拒絶されたことで肩を竦め、砕けた茶器や食べ残された果物などを、拾い集め始めている。
 浅野は、なぜだか、それから、目を離すことができなかった。
 女たちではなく、目の前に、足のすぐ先に、誘いかけるかのようにきらめいている、銀の刃である。
 まるで、怖いのならどうぞ――と、ささやいているかのように、細身の小さなナイフが目の前にある。
 それは、疲弊しきっている浅野には、魅力的な誘惑と思えたのだ。
 実際、小さな果物ナイフのようなもので、身を守ることができるのかどうか。それに、自分の境遇を鑑みれば、使えない、使ってはならないはずである。けれど、ふたりの女を目の隅に映しながら、そっと懐に忍ばせた途端、浅野の中に、なんともいえない安堵が芽生えたのだ。
 全身を苛みはじめた痛みを、浅野は、忘れた。
 ほんの少しだけ、自分は強くなったのかもしれない。―――そんな錯覚を錯覚と判断できないまでに、この一両日で浅野は、病み疲れ果てていたのである。
 ゆらりと立ち上がった浅野は、口角に、奇妙な歪みを刷いていた。
 浅野は笑っているつもりだったのだが、それは、ただの引き攣れにしか見えなかった。



「ことは、うまく運びましたか?」
 あたたかい室内で、豪華な椅子に腰をかけて、小司馬が、口を開いた。
 女たちが、卓子の上を片付けて出て行った後である。
「ああ」
 言葉少なに、昇紘が、答える。
「それは、上々。俺も兄者に手をお貸ししたかいがあったというもの」
 知られてはいないことだったが、小司馬と昇紘とは、実の兄弟だった。
 昇紘は、ぜひにと頼み込まれて、両親の師父の養子となったのだ。もともと何かと二家族は仲がよかったが、それを期にいっそう親しくなった。そうして、昇紘が郷長になった時、実の両親に頼み込まれて、小司馬を仙の位につけた。そうしなければ、小司馬に甘い両親が嘆くことを、昇紘はよく知っていた。
 珍しく気もそぞろなようすの昇紘を、小司馬は、無遠慮に眺めた。
 小司馬は、上機嫌である。
 昔から比較されつづけたできの良い兄が、自分を頼ったのだ。頭を下げて、「たのむ」と、そう言った。
 それだけでも気分がよかったが、お堅い兄がとち狂った相手が、海客で男だということが、なんとも面白かった。―――もともと、女性嫌いなのか、女性に興味がないものか、それとも、どうでもいいと思っていたのかもしれないが、もてた割りに、兄は特定の恋人なり愛人なりを作ったことは、彼が知るかぎりでは、ないようだった。ただ、そういう欲は男でも女でも当然あることで、その処理のために、定期的事務的に妓楼で欲望を解放しているふしがあった。―――その上、兄が思いを寄せる相手は、同性愛手に当然のことだと思うが、兄を拒んだ。
 これは騒動があるな――と、そう踏んで、何気に注意していれば、兄は、徒に手をこまねくばかりだった。
 拒まれても、手紙と花束を贈りつづけるだけ。
 悪人には容赦なく苛烈と恐れられている郷長の、なんとも弱腰な求愛に、小司馬は、爆笑した。
「しかし、あれは、やりすぎだ」
「あれ?」
 ぼんやりと指摘されて、考える。
 はたと手を打ち、
「すみませんね。でも、へたに手加減して、やらせがばれたら、計画は失敗でしたよ。それに、あなたも、少なからず楽しんでいたんじゃありませんか? 出てくるのが少々遅かったと思うのですがね」
 虎の半獣である昇紘は、常にはきちんと身を律しているのだが、ごく稀に、箍が外れたようになることがあった。血を見ることが、好きなのだ。
(ああ。そういうことか。だから、恋人も愛人も、ましてや伴侶など、つくらなかったわけだ)
 長年の疑問が解消されて、小司馬はすがすがしい気分だった。と、同時に、昇紘を変えてしまった海客の少年は、これからどんな目に合わされることになるのかと、彼らしからぬ同情心が芽吹いていた。
「おかげで、煽られて、虎になってしまったではないか。酷くしてしまった」
 彼の想像を補う以上の昇紘のことばに、
「それは」
 小司馬ですら、あの少年を気の毒だと、思わずにいられなかった。しかし、所詮は他人事である。
「あなたの責任ですから、そんなことまで俺は知りませんよ」
 小司馬の口から出たのはそんな台詞だった。
「わかっている」
 口をへの字に曲げて、昇紘が小司馬をまっすぐに凝視した。
 自分の中で、なにかに折り合いをつけたのだろう。
「とりあえず、礼を言おう」
 きっぱりと、いつもの態度を取り戻して、昇紘が言った。
「ま、こっちも、手間が省けましたけどね」
 妓楼に娘をどんなに高値で売ったとしても、あの娘の店の借金には、足りないことが判っていた。だから、兄をたきつけたというのもある。まぁ、小司馬にしてみれば、貸した金に利息をきっちりつけて返してさえくれれば、金の出所などどうでもいいことに違いなかった。

〔なんなんだ、これは〕
 大きな音と共に、冷たい風が、部屋の灯を揺らした。
 同時に聞こえてきた声に、男たちが、部屋の入り口へと視線をやる。
〔いったい、あんたら………最初っからグルか〕
 青ざめた少年が、肩で息をしながら、ふたりを凝視していた。



 懐に呑んだナイフが、浅野の体温を吸って、あたたまる。
 まるで、自分の分身のように服の内側にあるナイフに、頼もしさを感じないではいられなかった。
 自分はしっかり歩けているつもりでも、浅野の足取りは、実はかなり危うげなものだった。すれ違う使用人たちが、ちらりと浅野を見やって、逡巡する。けれど、結局、浅野の口角に刻まれたものに気づいて、手を差し出すのを諦めるのだ。
 浅野は、当初の目的を忘れて、ただ、憑かれたように、屋敷内を彷徨(さまよ)っていた。
 廊下側に、灯が揺れている窓があった。
 からだは凍えきっていた。無意識に、あたたかさに惹かれるように、浅野はふらふらと、窓へと近づいていったのだ。

 そうして――――――

 窓から覗き込んだ浅野は、室内で談笑しているふたりに、目を剥いた。
 それは、自分がここへ来る直接のきっかけになったふたりだったからだ。
 自分で選んで来たにせよ、きっかけは、きっかけだ。
 あの日――つい昨日のことなのに、まるで自分が何年も年を経たかのように感じずにいられない、あの日、今思い返せば、あまりにタイミングがよすぎた。
 では、自分は、
(オレは……嵌められた……のか?)
 そう思うと、あんなに酷いことをされたのだと思い出されて、どうにかなってしまいそうだった。
   本来、するべきじゃないことを無理強いされ、あまりの苦しさに、痛みに、恐怖に、狂ってしまいそうだった。
 それなのに、自分にあんな恐怖を覚えさせた相手は、こんなところで、もうひとりと笑って話をしている。
 それは、錯覚だったのだろうが。
 じわりと、胸にあるナイフが、熱を持ったような気がした。それは、まるでナイフが、ここに味方がいるのだと、そうささやいているかのように感じられたのだ。

〔いったい、あんたら………最初っからグルか〕
 懐に手をやりながら、浅野は、ふたりをねめつけた。
 昇紘が静かに、ただ浅野を見返してくる。小司馬は、面白いことになったとでもいわんばかりの風情で、口の端をもたげている。
 全身の震えは、恐怖ではない。
 怒りだった。
「郁也。部屋に戻っていろ」
 名前を呼ばれたことに、頭が、真っ白になる。
〔……な〕
「聞こえなかったのか。部屋で休んでいるんだ」
 ふるふると、首が自然に左右に振れる。
「郁也っ!」
 厳しい声に、弾かれるかのように浅野は、
〔名前を呼ぶなっ!〕
 叫ぶと同時に、昇紘に体当たりしていた。



 どうしてこんなことになったんだろう。
 覚えているのは、手に伝わってきた、肉を絶つ、怖気のするような感触と、敷物を濡らした、数滴の血の赤。
 この手で、ひとを刺したのだ。
 昇紘は、死んだろうか………。
 小司馬は、あれからどうしたろう。
 もしも捕まってしまえば、やはり裁かれてしまうのだろうか。そうなれば、いったい、どんな、罰を与えられるのだろう。
 浅野は、激しい動悸とどうしても震えてしまう全身を抱えて、細い路地の影にしゃがみこんでいた。
 全身が、痛い。
 震えるくらい寒いのに、からだの中は、煮えるように熱い。
 ばたばたと自分を探しているだろう、複数の足音と、意味のわからない声が聞こえる。
 寒い。
 厚い、フエルト地のような上着の前を掻き合わせ、浅野が掌に息を吹きかけた。
 しんしんと、肌に染み入るような空気の冷たさに、浅野は、途方に暮れていた。
 雪でも降るのかもしれない。
   暗い夜空を見上げて、浅野は、ふらりと立ち上がった。
 からだが、苦痛を訴えたが、かまわなかった。
 疾うに縫合が損なわれた肩からも、無理をしすぎた他の箇所からも、浅野は意識してはいなかったが、血がしたたるようににじんでいた。
〔明蘭………〕
 とても、会いたかった。
 しかし、今の浅野は、自分がどこにいるのかすら、知ってはいない。
 どうやって、この疲れきったからだで、昇紘の屋敷から逃げ出すことができたのか。それさえも、記憶に残ってはいなかった。
 このままここで一晩を過ごして、翌朝には冷たくなっている自分の姿ばかりが、脳裏にちらついた。
 死ぬのは怖い。
 かといって、どこに行くあてがあるというのか。
〔明蘭……〕
 それしかことばを知らないかのように、つぶやく。
 よろめきながら立ち上がった浅野は、まるで幽鬼めいた動きで、路地から一歩を踏み出した。

 ………
 海鳴りが聞こえる。
 錯覚だろうか。
 それでもかまわない。
 海の近くの、河の岸辺に、明蘭と蓮雫の店はある。
 熱に冒されて朦朧とした頭のまま、浅野は、音のする方向へと、足を進めた。
 しんと凍てつくような寒さを、浅野は感じていなかった。
 ただ、海鳴りに導かれるように、足を進めているだけというありさまだったのだ。
 ふと、頬に、睫に、気がつけば全身に、なにかが触れてきた。
 手をもたげ、広げた掌に、ふわりと降りてきたもの。
〔雪…………〕
 すぐに溶けたそれを、不思議そうに浅野は見つめた。
 顔を上げると、雪が、音もなく、降っている。
 そうして、いつの間にか波の音がとても、大きく聞こえていた。
 海風に、浅野の髪がもてあそばれる。
 顔に吹き寄せる、幾片(いくひら)もの冷たい雪が、心地好く思えた。
 暗い海を、浅野は、波打ち際に佇んで、見つめていた。
 海からの客―――自分のようなものをこの地ではそう呼ぶのだと教えてくれたのは、明蘭だった。
 ならば、この向こうに、自分がいた世界があるのだろうか。
 あえて考えないようにしていた、家族が、この向こうで、自分を探しているのだろうか。
 心配しているのだろうか。
 帰りたい。
 口にしていたらしい。
「帰さない」
 突然の声だった。
 驚愕は、ゆるゆると、あとから追いついてきた。
 振り返った浅野の目の前には、大きな、一頭の虎がいた。
 見上げてくる、緑に底光りする目。
 浅野が、首を、横に振った。
 ぞろりと、大きな舌が、虎の口から、はみ出した。
「どこへもやりはしない。おまえを、これから先、私のもとから、逃がしはしない」
 虎の口から人間の言葉がつむぎだされる不思議な光景になど、浅野は、もはやなにも感じない。ただ、じりと、本能の命ずるままに、一歩後退するばかりだ。
 虎の姿をした男がゆたりと一歩近づけば、その分だけ、浅野が後退する。
 それが、どれほど続いただろう。
「郁也」
 虎が、否、昇紘が、浅野の名を呼んだ瞬間だった。
 浅野が、くるりと背中を向けた。
 水音をたてて、浅野は、水際(みぎわ)を越えた。
 冬の凍てんばかりに冷たい海に、浅野のたてる水音が響く。
 しばらく浅野の好きにさせていた昇紘の目が、眇められた。
 夜目の利く虎の目が、ひときわ大きな波を捉えたのだ。
 あれに呑まれれば、浅野は、少なくとも今の体力では、自力で泳ぐことなどできはすまい。
 浅野もそれに気づいたのか、足を止め、ただ、佇んでいる。
「逃げろ」
 叫びは、無視された。
 しかし、昇紘は、浅野が、ちらりと振り返ったのを、確かに見たのだ。
 口元に、かすかな、笑みさえ浮かべていた。
「馬鹿がっ」
 吐き捨てた昇紘が、浅野を追う。
 わずかに一度の跳躍で、虎は、浅野の襟首を捕らえた。
〔はなせっ〕
 藻掻く浅野を砂の上に放り出し、塩水に咽る背中に、
「それくらいで逃げられると思うてか!」
 怒りをぶつける。
 仙である自分には、冬器でなければ、傷を負わせることなどできない。しかし、それを知らない少年は、それが自分を傷つけることができると信じて、他愛のない刃物で、自分を刺したのだ。そればかりか、ようやく手に入れたこの少年は、こんなにも、愛しいと思っている自分の下から、逃げたのだ。
 自分にこんなにも手間をかけさせたこの、どうしようもないくらい欲しいと思いつめた少年に、目が眩むくらいの憎悪が滾る。そうしてまた、同時に、どうしようもないくらいの、恋着と執着、身の内を焦がすほどの劣情までをも感じるのだ。
「どうしてくれようか…………」
 低い、すべての欲望を抑えて喉に絡んだ声が、浅野の鼓膜を振るわせる。
「兄者、風邪を引くぞ」
 足音を立てて近づいてきた小司馬のなかばからかうかの口調に、
「仙が風邪など引くものか」
 律儀に答えながら、昇紘は、獣形を解いたのだった。
「はは……小僧がだ」
 差し出された着衣をまといながら、昇紘は、いまだ蹲ったままの浅野を見下ろした。



 昇紘の腕に抱かれている浅野を見て、女たちが悲鳴をあげた。
 意識をなくした浅野は、海水と血にまみれている。
 屋敷を出る前に、湯の準備をさせておいたのは正解だった。そう安堵しながら、昇紘は、女たちの悲鳴を気にもかけず、孫医師が来れば浅野の部屋に通して待たせておくよう指示を出す。もちろん、部屋をあたためておくことも忘れずにと、命じておいた。
 蒸気の立ち込めた湯殿でもそうとわかるくらいに、浅野の顔色は、青い。
 昇紘が獣形をとった理由に、浅野の血の匂いを辿るというものがあった。人間であれば感じ取れない血の匂いも、獣であれば、敏感に嗅ぐことができる。しかも、その血は、一度、心ゆくまで味わったものである。昇紘が、浅野の血の匂いを間違うはずがなかった。
 違(たが)うことなく、昇紘を浅野へと導いた血は、結局、浅野の体内からどれほど流れ出てしまったのだろう。
 心配ではあったが、今は、冷え切ったからだを温めることと、汚れたからだを清めることが先だろう。
「郁也、おまえは、私のものだ」
 聞くもののいないささやきが、蒸気のなかに呑みこまれた。
 昇紘は、浅野を抱きかかえたまま、満々と湯を満たした湯船に、ゆっくりと身を浸していった。



おわり



from 11:59 2005/01/13
to 20:46 2005/01/16


あとがき
 自分では決着着いたかなと思うんですが。う〜ん。少なくともひと段落はついたはずです。
 思った話と微妙に展開が違うように進むので、困ってしまいました。海辺でのキスシーンが、没ったのは痛いかも。
 この後どう書いてもだらだらにしかならなかったので、昇紘さんに締めて頂くことにしました。
 昇紘と小司馬が兄弟xx まぁ、この世界なら、ないことはないですね。
 個人的に、虎に押し倒される浅野くんというのは、思いも寄りませんでした。昇紘さん、半獣じゃないのに、半獣設定でvv パラレルですから、いいかな。でも、獣○苦手なひとがいたら、申訳ありません。魚里の中では、なんとなく、獣の姿=本能みたいな図式があるんですけど。つまり、思わず虎になっちゃうくらい、浅野くんが好きなんだってことなんですけど。もっとも、この図式は、楽俊や桓堆さんには当てはまりませんよね。この設定は、この話の中だけということで。改めて、お詫びしておきます。
 少しでも楽しんでくださる方がいれば、飛び上がって喜びます。
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