Mariage



 そっと、その頬に触れてみた。
 熱い。
 あまりに下がらない熱に、脳に影響がおよぶのではないか――と、自分の心配に、瞠目した。
 どうでもいいことだ。
 貴珠の体調は良いにこしたことはないにしても、狂っていようが、白痴であろうが、さしたる問題ではありはしない。まぁ、凶暴なのは、困るが。
 褥に仰臥しているのは、血の気とてほとんど感じられない、青白い顔をした貴珠である。
 汗に濡れ寝乱れた黒髪に、こけた頬。苦しさにか薄く開かれているくちびるのあわいからは、忙しなく浅い息が繰り返されている。
 かすかに香る甘い香に導かれるようにして、見下ろしている私の視線が、どうにかふさがりかけた赤い傷跡へと、移動する。
 ――――喋れないかも。
 連れてきた人間の医師が、震えながらそう告げたのを思い出す。
 傷は思いのほか深く、声帯を損ねているらしい。
 自ら喉を突いたのであろう傷を痛々しく感じている自分を、意識せずにはおれなかった。
 変だ。
 おかしい。
 私は、こういう性格をしていたろうか。
 私は、死に瀕した貴珠に、笑いながら牙を立てることができる。
 もがき苦しむさまを楽しみながら、最後の血の一滴を啜るために、より深く牙を突きたてることを、好んでさえいた。
 貴珠の断末魔の喘鳴すらもを心地好いものと感じながら。

 褥に仰臥する顔色の悪い貴珠に後ろ髪を引かれながら、あることを確かめようと、私は、部屋を後にした。

「昇紘さまっ」
 幾日ぶりですね――――と、声を弾ませて、先ほどの貴珠とはうって変わって顔色のよい貴珠が、駆け寄ってくる。
 屋敷から庭を隔てた離れの貴珠の館に、今はただひとりきりで住まっている。少年の見掛けをしたその淡い褐色の双眸にたたえられている媚に、私の心が動くことはない。
 これまでも。
 そうして、これからも。
 ずっと、お待ちしていたのですよ―――しおらしげな態度と、線の細い少女めいた外見に隠された本性を、私は、知っている。
 かつてここには、入れ替わり立ち代り、十を数える貴珠がいた。そのすべてを、彼は、平然と、いや、笑いながら、追い落としてきた。
 それは、私にとって、暇つぶしになる芝居ではあったのだ。
 貴に血を啜られた貴珠は、ある種の不老不死となる。貴珠を葬り去れるのは、唯一、貴だけである。私の知る貴珠といえば、他人よりも優れた容姿を持っているからか、それに執着していた。容貌の変化を恐れる貴珠は、それを知った途端、進んで、血を吸われようとする。そうして老いる恐怖を忘れ、暇をもてあました貴珠は、ある時ふと気づくのだ。老いるはずのない自分の容姿の衰えに。たった一つの例外を除いて、貴に血を吸われた貴珠は、定期的に、貴に血を啜られなければ、一気に、老いるのだ。その事実を知れば、だいたいにおいて、貴珠は性格が歪む傾向にあった。自分たちに与えられた不老不死が、貴の気まぐれにかかっているのだと、気づいたために、歪まざるをえないのかもしれないが。
 ともあれ、彼に追い落とされたものの首に絶命の牙を打ち込みながら、私はほくそえんだものである。
 絶望の味付けは、貴珠の血に、独特の刺激と苦味とを与える。
 その味を、私は、堪能した。
 彼の、してやったりといった雰囲気は目障りではあった。が、私は、見て見ぬ振りをする。それは共犯である私の、礼儀であったのだ。
 彼――名前すら知らない貴珠の着衣を引き裂き、いつもとは異なる私に青ざめた少年の左胸に、爪を立てる。
 ドクドクと手の中で、貴珠の心臓が悲鳴をあげている。
 怯えた表情にも、それ自身にも、私の心は、なにひとつとして、感慨を覚えることはなかった。
 では―――――――なぜ、私はあの貴珠に、あんなにも心を動かされたのか。
 心の中、浮かび上がってくるのは、あの貴珠の苦しげな表情ばかりだった。
 目覚めた顔を一刻も早く見てみたい。
 おそらくは褐色だろう双眸に、私を映させたかった。
 見た目ならば、この貴珠のほうが、はるかに美しいというのに。

 ―――愛しい。

 思いもよらぬつぶやきだった。
 いとしい――――――――?
 私が、この私が、ことばすら交わしていないあの貴珠のことを?
 あまりにもらしくない感情に、名前を与えることは、それをそうと認めることは、まだ、私の貴としての矜持が、よしとはしない。
 貴珠など、利用価値があるというだけの、ただの糧だ。貴の力を強くすることができる力が、わずかばかり、香よく味わい深い血に含まれているというだけの、ただの、喋る家畜に過ぎない。
 そう。
 家畜に過ぎないことを知らない、憐れな…………。
 私は、己の感情に目をつぶり、手の中でぴくぴくと震えている心臓を、握りしめた。
 鋭い悲鳴が、貴珠の口から、迸る。自然、こみあげてくるのは、なんともわからない、哄笑だった。
 私は、貴珠から手を離し、館を後にした。

 誰もいなくなった部屋で、貴珠がくちびるを噛みしめ、私が出て行った後の扉を凝視していることなど、その双眸の宿す剣呑な光など、私のあずかり知らぬことであったのだ。

 その日も、また、私は、貴珠のもとにいた。
 いまだ目覚める気配のない貴珠は、私の寝室の隣に移していた。
 私の元に来て、十日になる。
 熱は下がっていたが、頑ななまでに、覚醒する気配はない。
 いっそうのこと、頬がこけ、顔色が悪い。
 私は、迷っていた。
 目覚めを待たず、私のものにしてしまおうか。
 あの日、私の気を惹いた血を、吸ってしまおうか―――と。

久しぶりに結界から出ていた私の鼻先をふと過ぎったものは、聞き覚えのある薫香だった。
 貴珠の流す血の匂いだと、わかる。
 貴珠の血も、千差万別である。
 ただ匂いだけがよいものもあれば、逆もある。濃い匂い、淡い香。まろやかな、後を引く味わい。ねっとりと濃い、一度口に含めばしばらくは口にしたくないと思うような味もある。
 しかし、それは、これまで聞いたどれとも違う。
 独特な、匂いだった。
 なんと表現すればいいのか。はかなげでさえあるのに、妙に無視することができないような、不思議な吸引力を持つ、香だったのだ。
 だから、もうすでに、貴珠には興味もなくなっていた私ではあったのだが、行ってみる気になったのである。
 炎に照らし出された、紅蓮の地獄絵図の中で、今しも鬼が、少年に喰らいつこうとしていた。
 赤と黒の壮絶なまでの明暗に魅せられていた私は、なぜか、鬼の行動を止めていた。
 そうして、捧げられた、貴珠を、受け取ったのだ。
 鋭いもので傷つけられた首から流れる血は、固まりかけていた。
 そっと、私は、それを、舌先で、舐めた。
 その瞬間、口内に広がった芳しさを、いったい何にたとえればいいだろう。
 死にかけの貴珠など、血を最後の一滴まで絞り取り、打ち捨ててしまえばいい。そう考えるともなく考えていた私を圧しとどめたのは、その、血の、味の故だった。
 結界に戻る途中、私は、町から、人間の医師をひとり攫った。
 死なせるには、少年の血の味は惜しい――そう、思ったからに過ぎない。

 ――――――だというのに。

 私は、自分を、呪った。

 目覚めた貴珠の血を、しかし、私は、啜らなかったのだ。
 何故かはわからない。
 暗い、黒に近いような、褐色のまなざしだった。
 私を見ても、驚きもしなければ、恐れもしない。
 ただ、無機物を見るかのように、その双眸に映しているだけだった。
 私は、手をこまねいていた。
 まったく、私らしくないことに、だ。
 毎日、少年のようすを見、食事をさせた。
 そう。この私が、手ずから、貴珠に――である。
 口元にやわらかく煮込んだ食事を運んでやれば、一口か二口は、食べる。しかし、それ以上は、頑として、食べなかった。いや、食べれないというのが、真実ではあったろう。一度、無理に食べさせた時、少年は、苦しげに、吐き戻したのだから。
 ―――心の病です。
 少しはここに慣れたのだろう、医師が、以前よりは落ち着いた風情で、こともなげにそう、告げた。
 心の――――――。
 貴珠とは、人とは、なんと脆い存在なのだ。
 このまま、私が血を啜れば、この少年は、永劫このままである。そう。心の病に囚われたまま、私が飽きるまで、生きつづけることになる。
 ただの貴珠なら、それでもかまいはしない。そう思う心が、確かに、私にはある。
 しかし、これは、違うのだ。
 何故かはわからないが。
 いや、違う。理由なら、すでに、わかっている。
 そう――認めよう。
 私は、この貴珠に、心を奪われているのだ。
 愛している。
 愛しているのだ。
 私のことを、この貴珠が認めぬまま、生きつづけることなど、私には、堪えられそうになかった。
 そう。
 いまだ、この貴珠は、私の存在すら、知らないままなのだ。

 そんなことが、どうして、許せるだろう―――――――――――

 少年の記憶をさぐった私は、珍しく、後悔した。
 虐げられた過去が、母親の死が、少年を、苦しめていた。
 私が記憶を探ったせいなのか、少年は、突然、正気を取り戻した。
 滂沱と流れ落ちる涙が、少年の頬を濡らしている。
 苦しさに胸元を押さえても、少年のくちびるが、うめきを漏らすことはなかった。
 震えるからだの細さが、痛々しく思えてならなかった。
 知らず、私は、少年―――記憶の中で、少年は郁也と呼ばれていた―――を、抱きしめていたのである。

 少しずつ、私は郁也を、屋敷から外に連れ出した。
 首の傷はふさがり、しかし、結局、声を出せるようにはならなかった。
 ただ、骨ばかりが目立っていた体形が、わずかではあったが丸みを帯びてきていた。―――それだけが、私には救いに思えたのだ。
 郁也――と、呼びかければ、ゆっくりと振り返る。
 しかし、そのまなざしは、暗いままである。
 その表情が、動くのは、ただ、過去が脳裏を過ぎるのだろう、辛そうに顔をしかめるときだけだ。
「笑え」
 顎をもたげて、そう見下ろせば、郁也は、私の腕の中から、逃れ出ようとする。
 花々で満ちた結界の中、郁也だけが、黒々とした影をまとっているように、私には思えたのだ。
 まさに百花繚乱と呼ぶにふさわしい、季節も何も無視した花々の狂い咲きすら、郁也の双眸には映っていないのだろう。
 ただ、過去に、母親の死に囚われているのだ。
 ちりちりと、胸が、焼ける。
 これが、嫉妬の焔なのだと、私は、ひっそりと自嘲する。
 郁也の母親に、私は、嫉妬しているのだ。
 喉の奥にこみあげてくる苦い笑いを、おさえる術は、なかった。
 それでも、日々は穏やかだった。
 胸に渦巻く思いはあるものの、私は、存在してはじめての、愛しいものを手に入れた。
 もう少し、もう少し郁也が健康を取り戻せば、そうすれば、私は、郁也に、永劫を与えるのだ。
 郁也が私と共にあってくれることを、私は、強く望んでいた。
 いつかは、郁也も、私に微笑んでくれるだろう。
 我ながら女々しいまでの願望にすがる自分に、苦笑を、禁じえなかった。

 しかし。

 こんなことになるのなら、吸ってしまえばよかったのだ。
 見る影もなく老いた貴珠が、足元には、転がっている。
 私は、まだ脈打っている手の中の貴珠の心臓を握りつぶした。
 饐えた匂いを撒き散らして、かつては貴珠であったものの血が、飛び散った。
 郁也を汚した血を拭いながら、私は、胸から血を流す郁也を抱きしめたまま、屋敷へと急いだ。

 貴珠の館のことなど、忘れていた。
 なにが起きたのか、気づいたときには、条件反射のように、貴珠の胸から、心臓をつかみ出していた。
 貴に血を吸われなくなって久しい貴珠の血は、どろりと、濁っていた。
 死を間直に感じた恐怖から、貴珠は、暴挙に出たのだろうか。すでに、まともに喋ることすらできないほど老いていた貴珠は、ただ、喚きながら、郁也を、その手にかけたのだ。
 貴珠の骸は、花々が、貪欲に、貪るだろう。
 数日もすれば、骨さえもぼろぼろに、砕けてしまうに違いない。

 ―――かすり傷ですよ。
 郁也の胸の傷を見てのあきれたような医師の口調に、私は、カッとなるどころか、緊張がほどけてゆくのを感じていた。
 よかった。
 心の底から、私は、そう思ったのだ。
 なのに。
 郁也は、
「死にたかったのに………」
 掠れた、か細い声で、そう言ったのだ。
 刹那、私は、自分を抑えることができなかった。
 私がはじめて聞いた郁也の声がつむいだことばが、私の逆鱗に触れたのだ。
 目の隅では、医師が、よろめきながら、後退さる。
 気がつけば、私は、郁也の心臓を、掴み出していた。
 郁也の悲鳴が、不思議なほど耳に心地好かった。
 脈動を繰り返す心臓に、私は、口を寄せていた。
 芳しい香が、鼻腔を満たす。
 私は、郁也の心臓に、牙を突きたてた。
 郁也の、甲高い悲鳴。
 これ以上はありえないだろう美味が、口の中にあふれ出す。
 それを飲み下し、ぞろりと、心臓を舐めた。
 それだけで、郁也が、跳ねるように、慄いた。
 クツクツと、笑いが、わたしの口からこぼれ落ちる。
 そうして、私は、私の左の心臓を、引きずり出したのだ。
 医師が、腰をぬかして放心したように、こちらを見ている。
 あまり、知られてはいないことだが、貴の心臓は、右と左にひとつづつ、一対あるのだ。

 そうして―――――――――――

 ああ――と、郁也のひときわ甲高い悲鳴が、かすれて、消えた。
 私は、私の左の心臓を、郁也の心臓があった場所へと押し込んだ。
 郁也の心臓を、私の左の心臓があった場所へと。
 ―――これが、唯一の例外だった。
 そう。貴珠が、定期的に貴に血を啜られなくとも、老いる心配のない。
 ただし、その負担は、貴珠に、壮絶な負荷をかけることになる。
 郁也が、苦しげに、蹲り、藻掻いている。
 それを、私は、愛しく、見下ろす。
 大丈夫だ。
「死なせはしない」
 これから郁也は、一ト月かそれ以上、仮死状態になるだろう。しかし、それを過ぎれば、私の心臓は、郁也に馴染み、郁也に、貴と同じ不老不死を与えるのだ。
 そうなれば、郁也、おまえは、
「私の永劫の伴侶だ」
 私は、藻掻く郁也を抱き上げ、額にくちづけた。
 うっすらと開かれた郁也のまなざしの中に、くちびるをゆがめた私の顔が映っていた。



おわり

start 23:08 2006/04/14
up 1:26 2006/04/16


あとがき
珍しく、昇紘さま独白。
う〜ん。浅野くん溺愛を目指したのですが。
いえ、魚里的には、溺愛だと思われます。が、やっぱ、マイウェイな人なのね〜。いや、貴か。
強引過ぎます。しかも、残酷。でも、人じゃないからね〜。強調してみました。
郁也くんってば、あれだけしか喋らないしね。
この後喋れない設定なので、これが原因で、声帯が本格的に傷ついたと。や、文中で書けよ魚里xx
少しでも、楽しんでいただけるといいのですが。
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