夕方近く、ざわり――と、けっして狭からぬ空間の空気が揺らいだ。
 天井には大きなシャンデリア、大理石張りの床の上には、どこぞのシルク絨毯が敷き詰められている。
 あちこちに配置されたソファに腰を下ろすさまざまな年齢性別の人々。
 制服をまとった、男や女。客の荷を運ぶ、ボーイの姿。
 やはり大理石らしいカウンターの向こうには、下品にならない程度のにこやかさをまとわせた男女が、客の相手をしている。
 ここは、とある、老舗のホテルのロビーである。
 待ち合わせなどでソファに腰をかけている人たちの視線の先には、十名ほどの黒尽くめの男たちが二列に並び、彼らに守られるようにして傲然と背筋を伸ばした、ひとりの男がいた。
 何歳くらいなのか、老成した雰囲気の男から正確な年齢を推し量るのは、難しい。四十代前半から、五十代後半、そのいずれかではあるのだろうが、ギラギラとしたものの感じられない男だった。
 見るからに上質なスーツをまとい、エレベーターホールに向かう足取りに、迷いもなにも見受けられない。
 黒服のひとりが、男よりも先に進み、エレベーターのボタンを押す。
 ドアの前に、別の黒服がふたり佇む。
 それらの物々しさからも、男が、ただものではないことが推測された。
 やがて、ドアが開くと、黒服がまずふたり、そうして残りの黒服が順次、訓練された手際のよさで、エレベーターに踏み込む。悠然と男が入ると、最後の一人が入り、そうして、ドアが、閉まる。
 ロビーの気を呑まれたような雰囲気が、一気に弛み、ざわざわと波紋が広がりはじめた。
「君、さっきの男性は?」
 トレイを手に、ビジネススーツ姿の客のテーブルに薫り高いコーヒーを置いたばかりのウェイターは、
「S――からのお客様でございます」
 ゆっくりと頭を下げて、きびすを返した。
 ウェイターの後姿を見送りながら、
「ああ。籍の当主が来日していると言う噂は、本当だったのか」
 客が、ひとり語散る。
「では、彼が?」
 連れの男に、
「そう。つい先だって、籍を継いだ、籍恩氏だな」
「しかし、何のための来日だ」
「さて。ただ遊びに来るほど暇ではないだろうしな」
「S――屈指の大財閥の当主ではな」
「所詮別世界の人間だ」
 肩を竦めたついでに、男は、コーヒーカップを取り上げた。



 白地に深い藍色と金彩のカップを口元に運んだ男、籍恩は、一口だけ、口をつけるとカップをソーサーに戻した。
 ソファから立ち上がり、赤黒い夕焼けに染まった異国の地を見下ろす。
「この地のどこかに、いるのだな」
「何も旦那さまが御自らはこばれる必要はございませんでしたでしょう」
 独り言を拾い上げたのは、三十ほどの女である。
「そうはいかない。探しているものが何か、お前は、忘れたのか」
「しつれいいたしました」
 女が頭を下げるのを尻目に、
「“門”が、見つからなければ、籍の存在の意味はなくなる」
と、静かにつぶやいた。



 照明を落とした店内に、シェイカーを振る小気味のよい音が、聞こえていた。
 客たちのささやき交わす声と、シェイカーからグラスに注がれる液体の音。
「お待たせいたしました」
 そっと、無色の液体が入ったグラスを、客の前に置いたのは、長めの前髪で目元を隠した、若者である。
「ありがとう」
 にっこりと笑う客に頭を下げて、若者は、すっと、カウンターからわずかに距離を置く。
 そんな彼に、別の客から、
「ギムレット」
 新たな注文が伝えられた。
 ささやかな隠れ家といった趣の店内に、今夜の客は八名ほど。酒壜を取り出しながら、浅野郁也は、そっと、死角にある時計に視線を送った。
 まだ午後八時を回ったところである。
 こうして夜、郁也の手伝いは、八時半まで。
 それだって、法律には違反しているのだ。
 十九と、言っているが、実はまだ、十六の郁也である。郁也を拾ってくれたこの店のマスターもそこはうすうす感づいているらしく、衣食住の礼に仕事を手伝うといった郁也に、時間がくれば戻るようにと、厳しく言い渡されていた。
 こうしておだやかな時間を味わうことができるようになってまだ数日。
 バーテンダーにもそれなりの修行期間というものがあるらしく、素人の郁也など、本来ならシェイカーなど触ることも許されない。だが、いかんせん、マスターが手を傷めたうえに、正規のバーテンダーがひとり、近所の店のヘルプに入っているとなっては、人手が足りない。もうひとりの店員は、八時半から仕事である。治るまで店を休むといったマスターに、手を傷めることになった原因である自分がと、言ったのは、申し訳なさからである。付け焼刃のシェイカーさばきは、何度やっても、冷や汗ものだった。



 夜の繁華街は、まるで大きな祭のようだ。
 色とりどりのネオンと、人ごみ。
 客を引く、男や女の声。
 マスターの家に戻る道すがら、郁也は、なるべく人目を避けるように、気配を殺して、歩く。
 もしも、面倒を引き起こせば、今は、マスターに迷惑がかかる。
 そうでなくても、酷いことになるだろう。
 そうなれば、呪われた身を自らも呪わずにいられない。
 何度経験しても、慣れない苦痛を思って、郁也は、慎重に歩く。
 ひととぶつからないように、ひとを刺激しないように。
 しかし、そんな郁也の態度こそが、ある種の人間の興味を引くのだと、郁也は気づいていなかった。
 そうやってどれだけ歩いたのか。繁華街を抜けた途端に、景色は、寂しく暗いものになる。
 背後の喧騒と、眼前の静寂。
 明と、闇。
 不安だった。
 月のない夜が近づいている。
 細く頼りのない月が、人工の明かりに押されて、今にも消えてしまいそうだ。
 思わず全身を震わせて、郁也は足を止めた。
 からだの奥底で、何かが、うごめく。
 駄目だ。
 早く帰ろう。
 マスターの部屋まで、ここから、徒歩で十分ほど。
 手をズボンのポケットから出して、郁也が走ろうとしたときだ。
 ガラスが盛大に割れる音がして、郁也の全身が、はじかれるように震えた。
 郁也の足が竦んだ。
 同時に、何かのうごめく気配が濃厚になる。
 駄目だ。
 もう嫌なんだ。
 頼むから。
 出ないでくれ。
 全身を抱え込むようにして、その場にしゃがみこむ。
 気が狂いそうだった。
 再びガラスの割れる音がして、
「なにびびってんだぁ?」
 平坦な、それでいて、悪意の滴る声が、郁也の耳を舐めた。
「へたれだねぇ」
「びくびくくんかぁ」
 げらげらと笑うのは、六人の若者たちである。
 彼らは、繁華街から、郁也の後をつけて、来たのだ。
 楽しいおもちゃが見つかったと、舌なめずりしながら。
 しかし、必死に、自分の中からあふれ出そうとする気配と戦っていた郁也は、ジャケットの首を掴まれるまで、抵抗と言う抵抗もできなかったのだ。
 いきなり後ろ首を釣り上げられ、なにが起きたのかわからないまま、引きずられた。
 そうして、突き飛ばされたのだ。
 したたかに腰を打ち、眩む目の前が、涙でかすむ。
「まぁ、しばらく、オレらと遊んでくれ」
 暇なんだよなぁ。
 しまりのない笑い声が、郁也に降りかかる。
「抵抗もなしですか?」
 襟首を掴みあげられ、ずるりと、立ち上がらされる。
 顔を覗き込まれ、もう一度、突き飛ばされる。
 チッと、誰かが、つばを吐く。
「少しは、抵抗くらいしろよな」
「面白くないだろうが」
 固い靴のつま先が、郁也の脇腹を抉りこむ。
「あ〜あ、つまんないの選んじまったな」
 呻く郁也の背中を踏みつけ、にじる。
「まったくだ」
「おい、あんちゃん、金くらい持ってるんだろう」
「よこしな」
「オレらを楽しませられなかった慰謝料だよ、慰謝料」
 そう言った若者が、郁也のジャケットのぽけっとをまさぐる。
 何でもいいから、早くどっかに行ってくれ。
 痛みに朦朧となりながら、郁也が考えるのは、それだけだった。
 限界が近い。
 意識を失った後に起こるだろう事に、郁也は、必死でくちびるを噛み締めた。
「大丈夫か」
 場違いに落ち着いた声が、郁也の耳に染みたのは、その時だった。
 涙を拭い、開いた目の前に、黒い瞳があった。街灯の明かりを受けて、剣呑な光を宿している。
 いつの間にか、若者の数が増えていた。
 崩れた雰囲気の若者たちが、舌なめずりをせんばかりの表情で、威嚇している。
 顎を逸らし、下目使いで。
 なにか薬でも使っているのか、目はどろりと濁り、口元はだらしなく開き声もくぐもっている。
 郁也の背筋が、びりびりと震える。
 からだの奥深くに、ぞろりとうごめくものがある。
 駄目だ―――
 別にそこからというわけではないのに、郁也は、先ほどまでよりもより深く、腹部を抱え込むように、からだを折り曲げた。
 そんな郁也を見下ろす、黒い一対の瞳が、ふと、場に似合わぬ困惑に揺らいだ――かと思えた。
 しかし、悠揚迫らざる時に、困惑にとらわれ続ける余裕などありはしない。
 奇声を発して襲い掛かってきた若者を、古武術に似た動きで受け止め、投げつける。骨の折れる音と、悲鳴、残るものの威嚇が、交差する。
 男たちの体臭が、興奮のために、ひときわ強くなる。
 場を支配するのは、闘気だった。
 張り詰め、高まり、砕かれる。たびに、血の匂いが、立ち込めてゆく。
 それらは、ただ蹲って震えている郁也にも嗅ぎ取れるほどの濃密さだった。
 そうして、それらが、郁也の恐怖を、煽ってゆく。
 かなわぬ相手に立ち向かうことに戦きを覚えはじめた若者たちの意識が、ふいに、郁也に、向けられた。
 蹲り震える姿は、組し易いと、先ほどまでの郁也の無抵抗を思い出したのに違いない。
 逃げなければ――――
 しかし、焦れば焦るだけ、からだは言うことを聞かない。
 ただ引き裂かれるだけの犠牲者でしかありえないものと、郁也を見做すものたちが、郁也に、魔の手を伸ばす。
 さすがに、多勢に無勢では、いかに強いとはいえ、身ひとつで、二手に分かれた若者たちを止める手立ては、ない。
 逃げろと、叱咤する鞭のような声が、夜気を裂く。
 叶うことなら、従いたかった。
 しかし。
 もはや、うごめくものを押しとどめることは、困難だった。
 にじむ脂汗が、しとどに、全身を濡らす。
 駄目だ――と、ただ馬鹿のように念じつづけることさえも、意味がないように思われ始めたころ。
 ―――――――それが、起きた。
 郁也のからだが、ひときわ大きく震えた。
 断末魔の痙攣にも似たそれが、すでに、郁也の意識がないからであると、誰ひとりとして、知るものは、いない。
 それがなにを意味しているのかも、また。
 郁也に触れた若者が、
「ぐえっ」
 カエルが潰れるかの悲鳴を上げて、弾けた。
 血が、千々に千切れた細切れの肉片が、周囲に異臭を放ちながら降りそそぐ。
 若者たちが、本能的に動きを止める中、黒い瞳の男――籍恩だけが、その口角に、歪みを刷いていた。それは、まがうことのない、笑みである。
 籍恩が、自分を囲む若者たちを、たいらげ、郁也を、見やる。
 郁也は、幾対ものまなざしが凝視する中、青白い光をまとわせていた。
 オーロラのように揺らめく光が、身をよじるようにして、ひとつの形を成そうとしている。
 形を取り損ね零れ落ちた青白い光が、無数に散った、肉片や血液に、貪りつく。不定形のその光が、血や肉を食べているのは、間違いない。少しずつ光が血肉の色へと変色してゆくのは、悪夢めいた光景だった。
 しかし、籍恩は、満足そうに、笑いを顔に貼り付けて、眼前の光景を眺めている。
 それは、怯え、逃げることさえも忘れた若者たちと、異様な対比を見せていた。
 やがて、郁也を取り巻く光が、巨大な、獣の姿を成す。
 ひどくゆるやかに思えた時間も、実際には、数瞬のことであったのだろう。
 青白く輝く虎に似た、鋭く伸びた犬歯を持つ獣は、若者たちを、ことごとく、屠っていった。
 久方ぶりの饗宴を楽しむかのように獣が首を振るたびに、悲鳴が、夜の闇へと、消えていった。そうして、飛び散る血肉を、嬉々として漁るのは、血肉の色を帯びた、あまたの光である。
 ――――
 どれほどの時が過ぎたのか。ついに、血の色をした一対の目が、籍恩を、捕らえた。
 殺戮の喜びに酔いしれた、それが、籍恩との間を、詰める。
 前傾姿勢の、狙いを定めたさまは、籍恩が、これまでの、たやすく屠ることができていた血肉とは違っていると、悟ったからだったろう。
 籍恩もまた、動くことはできない。
 隙を見せれば、若者たちと同じ目に遭う。
 これには、理性などありはしないのだ。
 あるのは、ただ、破壊の衝動と、血肉を求める、恒久的な飢。“門”と呼ばれる、それを解き放つことができる者への、本能的な、守護。なぜなら、“門”が死ねば、それは、再びの“門”の出現まで、こちら側の世界へ来ることができなくなるためである。
 そちら側が、どんな世界かは、籍恩は知らない。知らなくてもいいことなのだ。彼は、ただ、“門”を見つけ出し、そうして、“鍵”である使命を果たせばいいのである。
 “鍵”とは、“門”を閉ざす存在である。ために、それらに、敵と、看做されている存在でもあった。
 それは、籍恩に“鍵”の気配をかぎつけたのだろう。
 鼻面に皺を深く寄せ、牙を、剥きだした。



 夜。
 ふわふわと不定形の青白い光が、郁也を取り囲む。
 それが、凶悪極まりない存在だと知ったのは、いつだったろう。
 ひとりぎりの夜、寂しさに身震いする郁也をあやすように、光が、擦り寄る。
 けれど、その本性は、残忍極まりない、獣なのだ。
 郁也を害するものが一人でもいれば、容赦なく、引き裂く、獣。
 最初の被害者は、郁也の両親だった。
 次は、郁也を引き取ってくれた、親戚。
 そうして、施設の子供たち、先生。
 いつも、血まみれの只中で、郁也だけが、生き残った。
 収監された精神科の病棟が、血にまみれたとき、郁也は、死を選んだ。否。選ぼうとして、叶わなかったのだ。
 引き裂いた手首の傷がみるみる塞がってゆくのを呆然と見、屋上から飛び降りた傷が一晩で完治したことを知った後、郁也は、人気のなくなった病院を抜け出した。
 死ぬことすらできないのだと、絶望した郁也を救ってくれたのが、バーのマスターだった。
 長く頼ってはいけない。
 そう己を戒めながら、居心地の良さにずるずると、いついてしまった。
 獣には、悪意と善意からの叱咤との、区別がない。
 だからこそ、郁也は、ずっと、ひとりを余儀なくされてきた。
 寂しくて、寂しくて。
 そんな夜には、郁也をひとりにした元凶の獣であっても、そばにいて欲しかった。
 冷ややかな、血肉のぬくもりを持たない、月のように青白い獣を、抱きしめる。
 獣の冷たいからだが、そのときだけは、少しだけ温かみを帯びたような気がした。
 男たちに絡まれたのは、早、二週間前の夜のことになる。
 気がつけば、やたらと豪華な部屋のベッドに寝かされていた。そこが、ホテルの一室で、自分を助けてくれた、あの黒い目の持ち主が、部屋の借主だと知ったのは、少し後のこと。
 そうして、郁也は、彼、籍恩と名乗った男が、自分を探していたのだと、知らされた。
 その、理由も、また。
 そのまま、傷が癒えるのを待って、籍の屋敷につれてこられた。
 S――国にあるという、広大で豪奢な屋敷の一室に、郁也はいる。
 中洋が交じり合ったような、エキゾチックな室内は、広く、快適だった。
 しかし、郁也は、落ち着けない。
 それは、見張る目があるからだろう。
 彼を遠巻きに、見張る、幾つもの視線。
 籍恩には、自由にしていいといわれていたから、好奇心も手伝って部屋から出たものの、郁也は、部屋のすぐそばの庭から外に出ることができなかったのだ。
 自分を探していたという、男。
 その、黒い瞳。
 それを思い出すたび、なぜか、全身に震えが、走った。
 ねっとりと、自分のことを見る男の瞳は、物言いたげで、それでいながら、何か肝心なことを奥底に隠している、そんな気がしてならなかったのだ。
 そう。
 なぜ、自分を探していたのか。
 それは、わかった―――と、思う。
 自分が、異界との“門”になる存在だったから。“門”が開け放たれたままになっては、飢えた獣のためにおびただしい血が流れるから、それを止めるために、“鍵”である男は、自分を探していたのだ。
 けれど、郁也にわかるのは、それだけだった。
 ある儀式を済ませれば、郁也はこれまでのように苦しまなくてすむようになると、告げる口調は穏やかだった。しかし、その儀式がどんなものなのか。その後、郁也がどうなるのか。その辺を、教えてはくれなかった。また、教えてくれるものも、彼、以外には、存在しない。
 寒い。
 それでも、部屋に戻ろうという気はわいてこなかった。
 ぼんやりと、郁也は、空を見上げた。
 皓々とあたりを照らす青白い光。
 月光に照らし出された庭は、白々として、寂しげだった。
 不安ばかりが、つのってゆく。
 郁也は、きつく、冬の庭で、青白い光の獣を抱きしめた。



 世界四箇所に存在する、四人の“門”と、四人の“鍵”。異界の獣の恐怖から世界を守っている、四家のうちで、対が揃っていない家は、西の籍だけだった。
 籍から“門”が失われて、すでに百年。
 百年目の“門”の帰還に、籍は、末端の血族に至るまで、歓喜に沸いていた。
 “門”と“鍵”がそろってこそ、籍の一族は、完全になるのだ。
 しかし、“門”を見て、一族の歓喜は、その場で、凝りついた。
 なぜなら、“門”が、“鍵”と性を同じくしたからである。
 対である以上、“門”と“鍵”は、異性であることが、好ましい。同性の対は、何かと、問題を引き起こしてきた。百年前の、“門”の失踪もまた、互いが同性であったから起こったことだと、血族は、信じて疑っていなかった。
 ――――――――それでも。
と、当主は、言う。
 “門”は、“門”であることに間違いない。と――――――
   百年の不在よりは、はるかにましだと。
 しかし、不安は残る。
 同じことが起こらないとは、言い切れない。
 記録に残される、“門”の失踪のあらましが、彼らを、不安のうちに沈黙させるのだ。
 


「そら」
 光る獣に、郁也が腕を差し出した。
 いつからだったろう。
 光る獣が、郁也の腕に牙を立てる。
 痛みに、郁也が、全身をこわばらせ、顔をしかめる。
 流れ出す血を、ざらりとした舌が、舐めねぶる。
 誰もいないから、怯える心の半分が、獣の存在に、縋りついていた。
 こいつがいなければ、自分は、完全にひとりきりなのだと。
 痛いほどの寂しさを癒すために、獣の飢えを癒すために、自分の血を舐めさせた。
 このときばかりは、傷は、癒えない。
 光る唾液に、傷口から流れる血液さえも、凝るようすを見せなかった。
 心ゆくまで舐めさせた後、郁也は、いつも、めまいを覚える。血が足りなくなるのだろう。
 けれど、自分の血を飲めば、、獣は、穏やかになるのだ。
 なぜかは知らない。しかし、郁也の血が、獣の飢餓を、満たす。
 満たされて、獣は、まどろむのだ。姿を消すことなく、郁也の傍らに。
 うっすらと笑んだ郁也が、獣の首に顔をうずめる。
 獣に抱きつくようにして、郁也は、いつしか、眠りに落ちていた。

 その一部始終を、籍恩は、見ていた。
 胸の奥が、思い石を飲み込んだように、重い。
 それは、自らの対が、よりによって、敵対するものに思慕を寄せている有様を、見たためだった。
 儀式を早めなければ―――
 “門”が、獣に取り込まれては、百年前の二の舞である。
 儀式は、もう少し時間をかけて、“門”の信頼を得てからにするべきだと、心の奥ではわかっているというのに、あの光景を見た後では、無理だった。
 “門”を見つけ出して、まだ、二週間。
 心を通わせる対の間でこそ行われるべき儀式を、一週間後と決めたのは、紛れもない嫉妬からだと、籍恩が気づくのは、まだ少し先のことだった。



「浅野。儀式だ」
 言葉とともに、郁也は、腕を掴まれた。
 いきなりのことに、郁也の思考が瞬間、焼きつく。
 引きずられるように部屋から連れ出され、郁也は、何度も長い階段を下りた。
 荒削りの岩肌に、松明に照らし出された二人の影が揺らぐ。
 荒くなる鼓動に、からだの奥深くで獣がざわめく気配があった。いまだ郁也の血に満たされている獣の気配は、緩慢で、しかし、郁也の不安に確実に目覚めようとしていた。
「この先だ」
 示されたのは、建物三階分はありそうな、巨大な扉だった。
 とぐろを巻く竜が浮き彫りにされた重そうな扉が、音もなく、開かれてゆく。
 現れたのは、がらんとした、丸い空間だった。周囲の壁は、荒削りの岩盤で、奥の滝らしい箇所から水がとうとうと流れている。暗い色調の古風な服装をまとった男女が、手に手に松明をかざし、空間の中央、黒曜石でできた石舞台のようなものを取り巻いて立ち尽くしている。
「こちらへ」
 ひとり進み出た、声から女とわかるものが、郁也の手を捕らえ、奥の滝へと導いた。
「えっ?」
 郁也の戸惑った声が、大きく響いた。
 影に控えていたらしい女たちが、郁也の服を、脱がせてゆく。
 抵抗も何も、郁也にはできなかった。ただ、視界の隅で、籍恩もまた、自分と同じように服を脱がされているのを捉えて、ほんの少しだけ、胸を撫で下ろしていた。
 籍恩が、自ら、滝つぼへと身を沈める。
 差し出された手を取って、郁也はそのまま、滝つぼの中へ進んでいった。
 水の冷たさに、全身がしびれるように痛む。
 それでも、周囲の雰囲気の厳粛さに、声を上げることも、できない。
 どれくらい水に浸かっていたのか、籍恩に先導されるように、郁也は、滝つぼから、出ることを許された。
 からだを拭われ、手術着のような、簡単な衣装に着替えさせられる。
 小さな銀の高杯から、何か甘い液体を飲まされると、しばらくして、からだが温まった。
 そうして、郁也は、これからなにが起こるのかを、知ったのだ。
 逃げようとしたときには、すでに遅かった。
 黒曜石のように光る石舞台の上に横たえられた時、郁也のからだからは、力が抜け、からだの芯が熱く、疼いてしかたがなかったのだ。
 もがこうとして、もがけない。
 覆いかぶさってくる籍恩を、押しのける力すら出なかった。
 ただ、からだの奥深く、獣が、剣呑な咆哮を上げるのを、郁也は、聞いた気がした。
 しかし、それも、周囲に集った男女が、鈴の音とともに詠唱しはじめたことで、麻痺したように、途切れた。
 頬に、籍恩の手が、触れる。
「浅野……いや。郁也、これでお前は、名実ともに、籍の、私の、“門”だ」
 顔を覗き込んでくる強い光を宿した瞳に、郁也は、目を閉じることすら忘れて、ただ、籍恩を見上げていた。
 くちびるが、触れてくる。
 目元に、額に、頬に、そうして、食いしばろうとしてできないでいるくちびるに。
 歯列をくぐって、舌が、差し込まれる感触に、郁也の全身が、鳥肌立った。



 からだの奥深く、飢えた獣が、咆哮をあげる気配があった。
 ごめん………
 涙が流れる。
 自分の血であんなにも満たされることができる獣に、何もしてやることができない。
 自分は、“門”でしかないのだ。
 閉じると同様、開けることができるのは、ただ、ひとり………。そうして、それは、決して、“門”を開けることはない。獣の叫びを聞くことのない“鍵”は、ただ、無情に、“門”の奥に、獣を閉ざすのだ。
「なにを考えている」
 耳元で不意にささやかれて、郁也は、大きく震えた。
 涙でかすんだ視界の先に、黒い一対の目があった。
 郁也の目を、考えを読み取ろうとするかのように、覗き込んでくる。
 逸らそうとして、顎を捕らえられた。
「獣のことか」
 わかっているのだと、籍恩が、口にする。
「獣に同情する必要はない」
 あれは、ひとを害するものでしかないのだからな。
「………」
「それとも、百年前と同じく、獣にひきずられた裏切り者として、処刑されるか」
「いやだっ」
 大きく見開いた褐色の瞳から、涙が流れ出るのを、残忍な気分で、籍恩が、見下ろす。
 同性ということで、“鍵”を受け入れられなかった、百年前の“門”は、あろうことか、獣に情を移し、対の存在を、裏切った。その結果、多くの人間が死んだのだ。
 初めて聞かされた、百年前の顛末に、郁也が、呆然と、籍恩を見上げた。
「だから………」
「そう。だから、お前のすることは、すべて、誰かに、見張られている」
 百年前の二の舞にならないようにとな。
「そんなっ」
「今更だろう」
 口調は甘く、目は、笑っていない。
 するりと、腰を撫でられる感触に、敏感になった肌が、ざわめく。
「お前の心が獣に捕らえられているのは、私が、誰よりもよく知っている」
 だからこそ、逃がしはしないがな。
 そう言って、籍恩が、腰を進めた。
 いまだになれることのない衝撃に、郁也が、堪えきれずに、悲鳴を上げた。
 のけぞる喉元に、くちびるで触れながら、籍恩は、郁也を、強く、抱きしめる。

 全身をさいなむ熱い痛みに犯されながら、郁也は、遠く、獣の咆哮を感じていた。




おわり

start 10:05 2006/11/16
up 12:46 2007/01/02
◇ いいわけ その他 ◇

 元旦に間に合いませんでした。
 まぁ、年末は忙しいからということで。
 そんなこんなで、年明け一本目。相変わらずの郁也くんです。
 途中で、獣に感情移入しそうになって、焦ったあせった。おかげで、籍恩さんが、完璧悪役っぽいですね。郁也君ってば、籍に来てもぜんぜん楽になれないし………。
 所詮、異形好きだからなぁ、魚里ってば。
 あ、籍恩と昇紘さんの名前を書いたのは、深い意味ありません。というか、最初の思惑が、狂ったせいです。懺悔。しかも、最初彰晃さんってば年下設定だったりして。意味ないことに気づいて、直しましたが、少年ってな表現が残ってたら、すみません。一応、見直してるんですけど、見落としがないとは言い切れないので………。駄目ですねぇ。
 こんな物ですが、少しでも楽しんでいただけると、うれしいです。

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