鍋の中
パチパチと薪が燃えている。
それでも、寒い。
板壁一枚隔てただけの外は、怖いくらいに吹雪いていた。
オレがこの山小屋に無断で泊まって、まだ二日目だった。
衝動的な行動だったから、食料も何も持たないで、オレは冬山に登った。
―――死にたいって、思ってなかったとは、言えない。
だって、オレ、絶望してたからな。
けど、オレは、自殺するような根性も持ってなかった。
たどり着いた山小屋は緊急避難用の小屋らしかった。水も食料も燃料も置いてあった。
オレは、もう、考えるのすら億劫だった。
山小屋にたどり着いて少ししてから、雪が降りはじめた。
そうして、スキーヤーが狂喜しそうなくらいの積雪になった。
薪ストーブの上に乗っけた鍋の沸いた湯の中に、レトルトのカレーを突っ込んだ。
レトルトのカレーと、無洗米ってパッケージに書いてある生の米。あとは、ジャガイモとタマネギが、小屋の中の木箱には置いてあった。マジな話、助かったって、思った。どんなに絶望してたって、腹は減るんだ。それに、オレは、よく考えてみたら、ここのとこ、マジで、物食ってなかったし。
ほんの少しの、ラッキー。
飯ごうで炊いた飯に、温もったカレーをかけてたら、木戸がガタンと大きな音をたてて揺れた。
情けないくらい、オレは、震えた。
隙間から、冷たい風が入ってくる。
全身が、スッと、冷えた。
風で揺らされる音とは明らかに違ってた。
オレは、こわごわ、小さなガラス窓から外を覗いてみた。
したら、雪に埋もれるみたいに、誰かが倒れてたんだ。
オレは焦って、木戸を開けた。
ひとが死ぬのは、イヤだ。
思い出した光景に、ゾッと、震えた。
オレは、誰か知らないそいつを、小屋の中に引きずり込んだんだ。
――倒れていたのは、男だった。
ちょっと、躊躇はあったけど、冷え切って震えてる男は、温めてやらないと、やっぱだめだろう。
布で拭いたくらいじゃどうにもならない。
くちびるなんか真っ青だし。
しかたないから、オレは、服を脱いだんだ。
裸の自分を見ないように気をつけながら、オレは、男の服も脱がして、厚手の毛布にふたりして包まった。
ああ、飯、無駄にしちまったな。
電気が通ってないから、レンジでチンなんて、できない。
時々ストーブに薪を放りこみながら、オレは、眠っちまってたらしい。
大きく舟をこいだ衝撃で、オレは、気がついた。
ストーブは赤々と燃えている。
薪を頬リ込んだ。
ぼっと、赤い火が、貪欲に、薪を食い尽くそうとかぶりつく。
大分あったまったと思うんだけどな。どーなんだろ。
こんなシチュエイションなんか、ドラマや漫画くらいでしか知らないから、よくわからない。
でも、多分、大丈夫だとは思うんだ。もう震えてないからな。オレは、男を起こさないようにと、できるだけ静かに毛布から抜け出して、脱ぎ散らかしてた服を着込んだ。
男が目が覚めたら、あったかいものがいいよなと、オレは、ジャガイモの皮を剥いて、コンソメキューブと一緒に水に放りんだ。ジャガイモが煮えたら、飯の残りを突っ込んで。………勿体無いから、カレーのかかってるの入れたら、カレー雑炊くらいになるだろうか? 味が薄かったりするかな? なんて、オレは、考えてた。
「なにやってんだ?」
雪は止んだ。
久しぶりの晴天に、窓の外が、眩しい。
オレの問いに高村って男はスケッチブックをかざしてよこした。
スケッチに来て遭難したという高村が、オレを描いていた。
「オレって、こんなか?」
紙の上のオレは、メチャクチャ頼りなさ気で、我ながら、うんざりしちまう。
「も、いい」
オレは、首を振った。
高村は無口だったし、オレもあんま喋りたくなかったから、狭い小屋の中は、薪のも燃える音と、食い物の煮える音、男が鉛筆を走らせている音や、再び吹き出した風の音くらいしか聞こえなかった。
オレは、何も考えたくなかった。
思いだしたくもなかった。
逃げだってなんだってかまわない。
ただぼんやりとしてたかったんだ。
けど、オレがこの山小屋に来て五日目の夕方だった。
オレの望んだ平穏は、破られた。
高村がオレをスケッチしている鉛筆の音は気になったけど、ひとの趣味に文句をつけてもしかたないから、オレは、ほっぽっといた。それに、オレに見せないんなら、別にかまわないや―――って、思ったんだ。
好きにさらせ――っていうのが、本音だった。
オレは、イモとタマネギを睨んでた。
さすがに面倒になったオレが毎食レトルトしか作らなかったので、ストックが切れかけている。や、高村は、料理は致命的に駄目みたいでさ。鍋焦がされたし。びっくりしたのは、レトルト知らないんだ。って、いつの時代の人間だよ。それとも、金持ちなのかね。色々言うのもイヤになって、飯はオレが作ってた。ま、以前は、オレ、自分で家事一切やってたから、慣れたもんっちゃ、慣れたもんだから、かまやしねーし。
ただな、イモとタマネギで、なにを作れって? コンソメキューブ放りこんでスープくらいかね。せめて、ベーコンくらいほしいとこだけど、贅沢ってもんだろう。誰か知らねーけど、小屋の持ち主に感謝すべきだな。
そんで、オレが、鍋に水を張って、中にイモとタマネギを放り込んでると、近いなって思ってた、パリパリっていう音が、メチャクチャでっかくなったんだ。
木戸も窓もガタピシ言ってるし、オレは、小屋がぶっ壊れるんじゃないかって、怖かった。
ちょっと、オレ、呆けてたのかも知んない。
五日間、こんな小屋にこもってて、勘違いしてたんだ。
あいつから、逃げられたんだって。
馬鹿だな。
スンと、鼻を鳴らす。
雪の中、あいつが、こっちに近づいてきていた。
目を痛めそうな銀世界、あいつがやけに黒々と見える。
「どうかしたのか」
窓のとこに立ち尽くしてるオレを、高村は変だと思ったんだろう。
「なんでもない」
そんなことはない。
そう。
そんなことはないのだ。
連れ戻されちまう。
痛いくらいに怖かったけど、だからって、何ができる。
出入り口はひとつきり。
開けると、あいつとご対面だ。
こんな狭い部屋。隠れるとこなんか、たかが知れてる。
ああ、こげちまう。
窓から、ストーブのとこに移動して、オレは、鍋を掻き混ぜた。
どうしよう。
どうしようもない。
おたまで掬って、味見をする。
も少し、コンソメ入れとこうか。
これくらいが、ちょうどいいか。
悩んでいると、木戸が、外から叩かれた。
高村が、それまで座ってた木箱から立ち上がる。
「開けるな」
叫びは、遅かった。
高村がオレを見返す。
外から空けられた木戸の外に、黒々とした影が、立ってる。
銀世界の光を浴びて、際立つ影。
窓からの光に、男の顔が、見て取れる。
一言で言えば、鋭い顔つきだ。
男らしいといって、いいだろう。
ただ、薄い口元や、堅い頬の線に、神経質さが、垣間見える。
カン。
オレの手から、おたまが、落ちる。
男の鋭い視線が、オレを捕らえる。
眉間の皺が、深くなったように見えた。
鋭い視線が、険をはらんだような気がして、オレは、その場に立ち尽くしていた。
高村が、オレとあいつとを見比べている。
一歩だけ、あいつが、小屋に足を踏み入れた。
すっと、上質なコートの袖と手袋とに包まれた手が、オレに向かって差し出された。
「郁也」
オレを打ち据えるような、厳しい声だった。
自分からこの手を取れと、オレに命じている。
五日。
こいつに囲われるようになってから、三年、それだけの期間こいつから離れたことは、なかった。
「イヤだ」
オレの口からこぼれだしたのは、拒絶だった。
「妹は、死んだ。もう、いない」
五日前、オレは、妹の骨が入った白い壷を、できたばかりのささやかな墓に収めたのだ。
「だから?」
あいつが、目を眇めてオレを見た。
「だから、もう、あんたと一緒にいる必要は、ない」
たったふたりきりの家族だった。
妹の病気の治療には、大金がいった。けど、オレがどんなに必死で稼いだって、未成年ではたかが知れていた。そんなオレに、手を差し伸べてくれたのが、オレが歳を誤魔化してバイトをしていたバーの常連だった、こいつだ。
妹を、最新医療設備の整った病院に入れてやろうと。
代価は?
訊ねたオレに、太い笑いを口元に貼りつけて、オレを指差した。
オレが、欲しいと。
――――妹は、きられていたリミットを乗り越えた。
けれど、結局、はかなく逝ってしまった。
「あんたに、抱かれることも、ない」
妹がいたから、こいつに身を任せていた。
なにをされても、耐えていた。
妹がいない今、オレは、もう、こいつに、身を任せる必要はない。
耐える必要はないんだ。
なのに、妹の面影が、オレの心の奥で、空洞になる。
オレは、ひとりだ。
ひとりになっちまった。
悲しい。
辛い。
淋しい。
そう、訴えるのだ。
これから先を、オレはひとりで歩いてゆかなくちゃならないのに。
「私は、おまえを手放すつもりなどない」
一歩、あいつが、小屋の中に足を進める。
押されるように一歩、オレはさがった。
「妹がいようがいまいが、おまえは、私のもの―――私だけのものだ」
背中が、壁に当たる。
オレは、動けなかった。
ただ、見上げていた。
オレの顎を掴んで、オレを見下ろしてくる、こいつの苛立たしげな双眸を。
ダメだ――と、思った。
オレは、男なんだから。
妹という枷が取り払われた今、男に抱かれるわけにはいかない。
妹という理由がなくなった今、こいつのところには、いられない。ひとりで、立たなければ。
「イヤだ」
「駄目だ」
一刀両断だった。
「それとも」
まだ戸口のところに立っている高村を見やって、
「新しい男ができたとでも」
そう、言った。
オレは悩んだ。
高村に悪いかと。
けど、背に腹は返られなかったんだ。
「そうだ」
腹に力を入れて、オレは、見上げた。
身を切られるような沈黙。
痛いような、沈黙だった。
オレの目の前で、こいつの喉が、震えた。
クッと、押さえつけていたものが弾けるような音が耳を打つ。
クツクツと、こいつが笑った。
笑って笑って、ひとしきり笑い終えると、
「下手な冗談だ」
そう、言った。
そうして、くるりと雰囲気が変わった。
「もし仮にそれが本当なら、私はなにをするかわからない」
ゾッとするような声で、そう言ったんだ。
高村を殺して、その血の中でオレを抱いてやろうか―――――と。
結局オレは、鍋の中のスープがこげる匂いが立ち込めはじめた山小屋から、引きずり出された。
しばらくしてから、オレは、あいつに家から連れ出された。
わけがわからないまま連れて行かれた場所は、展覧会会場みたいだった。
そうして、オレは、一枚の絵の前に立たされた。
額の中に納まっているのは、窓の小さな薄暗い部屋。その中で後ろを向いている、誰かの裸の後姿だった。
「これは、おまえだろう」
と、耳もとでささやかれた。
「そこを見るといい」
示されたのは、額の下。
画家の名前とタイトルとが記された四角い紙が、貼りつけられている。
高村敏。
雪女郎――――と、売約済みの印がつけられた四角い紙が、オレの目に飛び込んできた。
おしまい
start 9:29 2006/02/09(06/01/25)
end 16:40 2006/02/09
◇あとがき◇
しょせん温暖地方在住の魚里ですので、雪深い地方の感じは、勘違いが多々あるかと。よくわからんので申し訳ないんですが。
あんまりなタイトルですけど、最初は、雪女郎ってしようかなぁと……。どっちもどっちかなと。
幻想譚にしたかったのですが、失敗。
揺れまくってる浅野くんを描きたかったらしいのですが。玉砕。
少しでも楽しんでいただけると………xx
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