混 乱




 夜の間中、内環途(ないかんと)の東に面して建つ止水郷郷長の官邸には、篝火が盛大に焚かれている。それは、ひっそりと静まりかえった里(まち)の暗さとは、天と地ほどの隔たりを示しているかのようだった。
 しかし、その明るさが、浅野には、邪魔でしかない。
 要所要所に焚かれた篝火に、宵闇が照らされて、官邸の敷地は、まるで真昼のようである。同じく、時間交代の衛兵があちらこちらに二人一組で寝ずの番に立っている。
 ひとに、見られたくない。
 小司馬に破られた、着衣の前を手で掻き合わせながら、浅野はふらふらと、官邸の庭をさまよっていた。
 どこかで、小さく蹲ってしまいたかった。
 蹲れるなら、誰にも、見られることがないのなら、どこでもかまわない。
 浅野は、無意識に身を潜めることのできる闇を求めていた。
(くそっ!)
 口を、手の甲で、乱暴に擦る。
 浅野は意識していなかったが、あまりに頻繁に擦りすぎたせいで、くちびるはいつもよりも赤く、血さえもがにじんでいた。
 口の中にふと酒の味がよみがえり、浅野の背筋に粟を立てる。
(くっ!)


 つい先ほどまで、自分がどういう状況にあったのか、思い出し、浅野は、足を止めた。


 火桶に火のともった、簡素な部屋で、ぼんやりと浅野は、銃をもてあそんでいたのだ。なのに、突然小司馬に触れられ、見上げれば、あの細い目が、ぎらぎらと、燭の光を弾いて、自分を見下ろしていた。
 見ろと言われて見ただけなのに、顔を伏せた途端に頬を張られ、混乱せずにいられなかった。
 なぜ、突然、叩かれなければならないのか、まったく、理由がわからなかった。突然の小司馬の行動に、咄嗟には抵抗することすらできなかった。
 喉の奥を焼く、強い酒に、咽(むせ)た。
 口移しで飲まされたそれに、からだの内側に、嫌悪と共に恐怖が芽生え、同時に、なんでこいつまで! と、疑問が頭の中を埋め尽くす。
 酒の味のする舌が、ぞろりとぬめりを帯びて口の中に入り込んでくる。その不快さに我を取り戻したときには、遅かったのだ。
 藻掻こうにも、手首を床に押し付けられ、足の間には、小司馬の片膝が捻りこまされていた。
 覚えのある体勢に、全身が強張りつく。
 自分の身になにが起こっているのか、この後どうなるのか、それがわかる自分が、情けなくて、悔しくてならなかった。
 必死になってもがいても、力で小司馬には適わない。
 これは、現実じゃない――と、自分で自分を騙しながら、浅野はきつく目を閉じた。くちびるを噛みしめ、ねばりつくような視線から顔を背けるのが、精一杯の抵抗だった。
 布が無理矢理断たれる小さな音さえもが、悲鳴じみて耳に痛い。
 襟元から胸にかけて、冬の冷気がじかに触れてくる。
 クツクツと笑う、小司馬の声にすら堪えられず、肌が、うっすらと羞恥の色を宿す。
 浅野の眉間に、ひときわ深い皺が刻まれ、悔しさと恐怖のあまり、にじんだ涙が睫を濡らしていた。
 外気にさらされた肌重の冷たさとは別に、ちろちろと炙られるかのように、身の内に、熱が生まれていた。
 小司馬の髪が、首筋をくすぐり、思いもよらないざわめきを、生んだ。

 小司馬の動きが止まったことに浅野が気づいたのは、小司馬が、彼の上から上半身を起こしたからだった。
 反射的に立ち上がった浅野は、震える全身を自分自身で抱きしめることで宥めながら、ようやく小司馬から離れることができたのだ。  引きずり倒されでもするか――と、危惧したものの、それは杞憂に過ぎた。
 とにかく、小司馬から、ここから、昇紘から、逃げてしまいたかった。
 できるなら、消えてしまいたくてならなくて。
 ふらふらと、園林(ていえん)にさまよい出た浅野は、寝ずの番を避けて惑い歩きつづけたのだ。
 広い園林は、人工なのだろう。まばらな木立が続いたと思えば突然空き地が開け、池があり、五重塔らしきものや石像までもが設けられ、築山がささやかな起伏をみせてさえいる。散策するにはちょうどいいのだろうが、隠れ場所を探すとなると、落ち着かない。ここはどうだろう――と、石像の足元に蹲ってみたものの、ざわめく木々の音や、なにものとも知れないケダモノの気配、地面に落ちるさまざまなものの影が、想像力を掻き立てる。
 少しの物音にも、誰かが来たのではないかと、全身で、反応する。
 疲れているのだ。
 寒さが身に染みはじめたというのに、足の裏だけが、やけに、熱くて、痛い。
「帰りてぇ……………」
 寝ずの番が替わる隙に、どうにか、これこそはと思える木々の隙間に紛れ込むことができた。木々の影に蹲り、浅野は空を仰いだ。
 星々は、見知らぬ配置で、そ知らぬ顔をして、瞬きを繰り返している。それでも、郷愁がこみあげるのだ。
 ここでのことなど、なにひとつなかったことにして、普通に――高校生に戻りたい。
「心配、してるだろうな………」
 家で、家族と一緒に、多忙な両親のせいでめったに全員揃うことはなかったが、テーブルを囲んで、食事をしたい。くだらないテレビ番組を見て、笑うのもいい。母の小言が、父の、寒いオヤジギャグが、心底恋しかった。
 進路指導の教師や、なかなか上がらない成績なんかで、落ち込んだりしても、そんなこと、どれほどのことでもない。たった今ここに自分がいることに比べれば、あちらでどんなことがあったとしても、耐えられる。
 なぜなら、元の世界、自分のいる場所――狂っていない、日常なのだから。
 喉の奥が、カッと熱くなる。感情の塊が、その場所にわだかまり、涙がこみあげてきた。
「会いてぇ………よ」
 熱く、次の瞬間には冷めてひんやりと、涙が、ズボンの膝に、染みこんでゆく。一旦解けてしまった感情の塊は、浅野の全身を駆け巡り、昂ぶりのままに、彼を揺さぶり、震わせた。
『こちらです!』
 しゃくりあげていた浅野は、突然の大声に、なにが起きたのか、わからなかった。いきなり二の腕を掴まれて、引きずられるように立ち上がらされた。
「あ……」
 驚愕に、心臓が跳ね上がった。
 浅野の褐色の瞳が、近づいてくる人物を認め、怯えのままに揺らぐ。
 鋼色の切れ上がったまなざしが、自分に向けられたまま、微塵も離れない。
「っ!」
 浅野の身の内を、この夜何度目になるのかわからない慄(おのの)きが、駆け抜けた。
 昇紘の視線に射竦められ、浅野は、抵抗すら思いつかなかった。ただ、力なく、イヤだと、首を振るばかりだったのだ。
 伸びてきた手に、思わず目を閉じた。
 顎に強い力を感じ、瞼に力を込める。
「なんという格好だ、浅野」
 降ってきた声音に昇紘の潜められた感情を感じ、熱病にでもかかったかのように、勝手にからだが震えだす。
「これも――ここも。小司馬につけられたのだな」
 首筋で、胸元で、小司馬に裂かれた着衣のせいで昇紘の指先が他愛なく、次々と暴いてゆくものがなんなのか。それに思い当たり、ようやく、弱々しいながらも、浅野が藻掻く。
 恐ろしくてならなかったのだ。
 嘯(うそぶ)くような声とは逆に、押し当てられた指先には力がこもっている。時折り痛いくらいに力を込めるのは、多分、そこに、小司馬が吸った痕があるからなのだろう。
「や、めてく………ださい」
 搾り出すようにして、ようやく口にしたその一言に、
「今更だ。浅野」
 鞭打つように鋭い声だった。
 浅野の閉じたまなざしが、弾かれたように、瞠らかれる。
 思いもよらぬほど間近に、昇紘の瞳があった。
 のぞき込んでくる鋼色のまなざし。
 それが、とてつもなく、恐ろしくてならなかったのだ。
「お願い、お願いです。どうか、もう……もう、やめてください」
 なりふりなどかまっていられなかった。
 知らぬ間に、二の腕を掴む手は、なくなっていたらしい。その場に這い蹲り(はいつくばり)、浅野は、頭を地面にこすりつけた。
 そうして、そのまま、昇紘に、懇願する。
 耐えられない。
 これ以上、男に、昇紘に、抱かれたくなかった。
 抱かれて、なによりも、思いもよらなかった自分を見出したくなどないのだ。
「あれ以外だったら、なんだって、言うことを聞きます」
 昇紘の沈黙をどう受け取ればいいのかわからないまま、
「だから、もう、しないでください」
 声が、おかしいくらいに、歪んでいる。
 じゃり――と、土がきしる音がたった。
「浅野」
 穏やかに、名を呼ばれた。
 背中に、昇紘のだろう掌の温度を感じて、浅野が、おそるおそる顔を上げる。
 片膝をついて、昇紘が見下ろしていた。
 背中にあてられていた手が、顎に移動し、浅野のからだが小さく震えた。
 昇紘の親指が、うっすらと開かれ赤くかすかに腫れているくちびるに触れた。
 反射的に身を引こうとし、強引に、上向けられた。
 厭な汗が、背筋に沿って、流れおちた。
 悪い予感だった。
「景王のところに、行きたいのだろう?」
 昇紘のことばが、やさしげに、ねっとりと、耳朶を舐めあげた。
(いやだ)
「景王――を、助けたい。それが、おまえの望みだったな」
 ことさらゆっくりと、歌うような口調だった。
(いやだっ)
「私は、それを、叶えてやろう。だから、わかっているな」
(聞きたくないっ!)
 イヤだ―――――と、浅野が首を振る。
「浅野を私の房室(しんしつ)に連れてゆけ」
 姿勢よく立ち上がった昇紘が、鋭く、命じた。



 鋭い音が、空気を切り裂く。
 浅野の悲鳴が、甲高い音の合間に、響いた。
 柱に括りつけられた浅野の剥き出しの背中には、既に、数条の赤い痕が刻まれている。
 昇紘が振り上げた乗馬鞭が、浅野の背中に鋭く爆(は)ぜるたび、浅野の喉を、苦痛が震わせる。
 ―――これは、罰なのだ。
と、既に上着を脱がされ柱に括りつけられていた浅野の耳元で、そう、昇紘は、ささやいた。
 なんの罰――だと、これからおきるだろうことに震える浅野に、
 小司馬に触れられたことに対する罰なのだ―――――と、問わず語りにささやいてその手に握っていた、細い鞭を撓(しな)らせた。



 背中が、まるで、 燃えるようだった。
 痛みに、意識が浮上する。
 痛くて、じっとしていられない。
「ああっ!」
 突然、背中に何かが、触れた。その痛みに、浅野は、叫ばずにはいられなかった。
「動くな」
 聞き慣れてしまった、昇紘の、声に、全身で反応した。途端、先刻の痛みの後嘘のように引いていた痛みがぶり返す。
 涙にかすむ視界に、昇紘のものらしい膝が見えた。
 浅野が、震える。
 牀榻(しょうとう)に浅く腰かけた昇紘が、自分の頭を膝に乗せているのだ。
(ひざ、まくら……されてんのか?)
 昇紘の手が、自分の手を、握っている。
 では、これは?
 見知らぬ手が、包帯を巻いている。手際よくするすると巻きつけて、きつくなくゆるくなく、絶妙の固さに、仕上げたのは。
『では、これで。何かございましたら、また、お呼びくださいますよう』
『うむ』
 部屋の扉が開き、冷たい風がはいってきた。
「寒いのか」
 あの恐ろしかった激情が悪夢ででもあったかのような、穏やかさに、浅野は、ゆるゆると、首を横に振る。
 寒くはない。
 熱がでているのだろう、ひんやりとした風が、心地好いくらいだった。
 昇紘の手が、浅野の手を撫でている。
 焦って引こうとして、きつく握られた。
「うろたえるな。今宵は、もう、せぬ。……ただ、今しばらく、このまま」
 力を抜いた浅野の手を、手首を、剥き出しのままの腕を、そうして、頭を、昇紘の手が、やわらかく、撫でさする。
 それは、不思議と、心休まる行為だった。
 浅野が、安心したかのように、瞼を閉じた。
 膝の上に、浅野の重みを感じながら、昇紘は、ただ、浅野の腕を、頭を、撫でつづける。


 しん――と、静かな房室に、火桶の火だけが、かすかな音をたてていた。


おわり



start 15:33 2004/11/01
up 19:27 2004/11/02
あとがき
 虐めすぎました。
 ごめんね、浅野くん。叫んだり喘いだり、うろたえたり、ひたすら、単音を繰り返させてしまいましたxx 挙げ句、悲鳴まであげさせてしまって、返す返すも、ごめん。
 これも、愛ゆえ――と、いい切れるといいんだけど………。相手が悪すぎですね。
 悪女の深情け(えっ、違う?)に、からめとられて、ひたすら混乱してる浅野くんでした。
 ちょっと、アニメの浅野くんに近づいたかな?
 少しでも楽しんでくださると、嬉しいのですが。


 えと、もしかしたら、”内環途”というのは、郷城の塀の外側のことなのだろうか。だとすると、漠然と、『逃亡』では間違って使っていたのかもしれない。
 う〜ん。どうしようか。
 内環途ってくらいだから、塀の内側だって勘違い?
 ちなみに、愛用の『新潮国語辞典』には、載っていない。あたりまえかxx
 
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