最 期
ぼそぼそと言う声に気がついて、オレは、泥の中から沸きあがるようにして、目を覚ました。
視界が、やけにかすんでいる。いや、ぼやけてるとでも言ったほうが正しいだろうか。
暗い。
ぼわんぼわんと、海の底で声を聞くみたいに、誰かのしゃべってる声が、こもっている。
耳をそばだててみるが、まるっきりわからない言葉だ。
なんでだ?
あまりよく動かない脳みそを叱咤して、オレは、必死に考える。
と、不意に、ただでさえ暗い目の前が、何かに遮られた。
なんだろう。
ぼんやりと見上げつづけて、どうやらひとの顔みたいだと、あたりをつける。と、少しずつ、輪郭がはっきりしていった。見覚えのない、男だった。男は難しそうな顔をして、オレの額に手を当て、下瞼をめくり、口をあけさせる。
なんか医者みたいだなぁ………。
そこまで考えて、オレは、ようやく、思い出した。
なんで、オレが、ここにいるのかを。
最後の記憶は、いつまでもつづくオレ自身の投げやりな笑い声と、男前と青い髪の美人だった。
そうして、脇腹の、焼け付くような、痛み。
流れ出る、オレの、血の、熱さ。
――――――オレを殺そうとした小司馬の、両眼。死ぬ寸前のヤツの細い目にひそめられていた、オレに対する、憎悪――のようなもの。
鈴の顔。
オレが助けようと虚しく固執していた、赤い髪の少女。この国の女王、中嶋陽子。
そうして―――――――――オレを、郷城から、東の閑地なら安全だろうと、逃がそうとした、あの男。
オレが、一番恐れた、不機嫌そうな顔が、脳裏をよぎった。
オレを騙して、犯しつづけた、昇紘――――
昇紘こそが、中嶋の敵だったのだと、騙されていたのだと、逃げそびれた広い郷城の中、中嶋自身から聞かされた。
オレは、罪を償わなければならないと。
以前は気弱な少女だった中嶋の、今は凛と澄んだ緑色のまなざしがオレの罪を、糾弾した。
鈴が連れていたひとりの少年を、オレのこの手で傷つけた、その罪を。
戦火の只中の郷城から、援軍を呼んでくると、オレが心を決めたのは、だから―――だった。他に償う方法など、思いつきもしなかったから。
そこまでを思い出して、オレは、こみあげる笑いに口許を歪めた。
結局オレは、負け犬以外の何にもなれなかったけれど、それでも、援軍は、駆けつけたに違いない。あの男と青い髪の美人が、自分たちは今向かっている途中だと、請け負ってくれたのだから。
だから、中嶋たちは、心配ない。
たぶん、いや、絶対に、中嶋たちは、勝つだろう。
けど、そうなれば?
夜は眠れないと、オレを苛んだ男を思い出す。
どうして、こんなにも、気になるのだろう。
嫌がるオレを、無理やり犯した男だというのに。
思い出すのは、あの夜。
逃げた罪だと、背中を鞭打たれた夜のことだ。
手当てされたオレを膝枕して、手や頭を、撫でていた、昇紘のことだ。
しんと冷たい夜の寝室で、そのまま、二人、夜を明かした。
初めて抱かれてから、昇紘に抱かれなかったのは、あの夜と、その後、用事で昇紘が出かけていたもう一夜だけだった。
不思議に静かな夜だった。
酷いことをされたというのに、なぜだか、とても穏やかな気持ちで、オレは、昇紘の膝に頭を預けていた。
そんな自分が信じられなくて、もう一度、逃げもした。
男に抱かれる自分が許せなかった。
男に抱かれて、感じるようになった自分が、信じられなかった。
そうして―――――――
怖いと思う男を、憎むことすらしない自分がわからなかったのだ。あまつさえ、あいつを探して郷城をうろつき、目で追うようになっていた自分自身が。
なんでなんだ。
その疑問には、答えがひとつしかないみたいで、それを認めることは、しかし、オレには、できないことのように思えてならなかった。認めたくなかった。だから、考えないようにした。必死で、疑問にも、答えにも、気づかないふりをしつづけて、混乱しきって、疲れきって、そうして、あの日が来たのだ。
あの日を最後に、昇紘とは会っていない。
オレは、小司馬に殺されかけて、そうして、ここに運び込まれたのだろう。
昇紘さまとオレを、裏切るのだな。
小司馬の剣で貫かれる寸前、あいつが投げつけた言葉を、思い出す。
昇紘は、捕らえられたのか。
それとも―――――
その先を考えた途端、オレの胸が、酷く痛んだ。
全身を鈍く苛んでいる絶え間のない疼きとは別の、酷く鮮明な、痛みだった。
どれくらいの間、オレは、考え込んでいたのだろう。
不意に腕をとられた感触に、オレの思考は、途切れた。
医者が、オレの脈を取っている。
オレの手を、寝台の上にそっと乗せて、助手らしき男に、何かを告げている。深刻そうな表情に、オレは、ああ、そうか――――と、思った。
医者の助手が、オレの上半身を抱え起こして、椀を口許にあてがってくれた。
冷たい水が、とても、気持ちよく思えた。
甘い――と、そう、思った。
そのまま、オレは、瞼を閉じた。
全身の力が抜けてゆく。
真っ暗な闇の中、オレは、オレの全身が溶けてゆくような心地に捕らわれていた。
痛みもさして気にならなくなり、そうして、大きく息を吸って、吐いたんだ。
これで、オレの一生は終わったんだ。
痛いくらいに感じながら。
けれど、死の刹那、オレの脳裏に浮かんだのは、誰でもない、昇紘だった。
あの、酷薄で不機嫌そうな顔だ。
オレを見据える、黒い瞳だ。
オレの最後の気がかりは、あいつのことなのか。
そう思った次の瞬間、オレは、あいつを見下ろしていた。
生きていた。
薄ら暗い殺伐とした印象の部屋で、昇紘は、ただ、端然と座っている。口許には満足げな笑みさえ浮かべている。
どう見ても獄舎だろう場所で、鎖につながれて、昇紘は、軽く目を閉じていた。
隣につながれている男は、青ざめ怯えた表情をして肩を落としていると言うのに、どうしてだろう。
オレは、ただ、昇紘を、見つめた。
いつもはきれいに撫でつけられていた髪が、乱れて、額にかかり、肩に落ちている。
頬もこけ、やつれている。
なのに、なぜ。
オレの心配は、なんだったんだろう。
死の寸前に感じた胸の痛みを思い出して、オレは、どうすればいいのか、わからなくなった。
わからないままで、オレは、ただ、昇紘を見つづけた。
もういいと思ったというのに、縫い付けられたかのように、離れることもできなくなっていた。
見下ろすオレの視線の先、昇紘は、ただ、目を閉じている。
このまま死ぬつもりなのかと、昇紘――――と、呼びかけていた。
聞こえるはずがない。
オレの喉は、空気を震わせないだろうから。
なのに、目の前で、昇紘の瞼がゆっくりと持ち上げられた。
黒い瞳が現われ、周囲を確認するように、動く。
やがて、ぴたりと、焦点が合わさった。
まるでそこにいるオレを捕らえたとでもいうかのように。
「郁也………」
がちゃりと耳障りな音をたてて、鎖につながれた両手がオレに差し伸べられた。
オレを紛うことなく見つめて、オレを抱きしめるかのように両手を伸ばして、そうして、
「愛している」
と、ささやいた。
オレをその場に縫いとめていたものが、音もなく消えてゆくのを、オレは、感じていた。
オレは昇紘の言葉に答えるように、オレから、最初で最後のキスをした。
くちびるを離す瞬間、
「私も遠からずお前のもとに行く。待っていろ」
昇紘がそう言ったのを心に刻み付けて、オレは、自分が今度こそ穏やかな闇の中に溶けてゆくのを感じたのだった。
おわり
up 19:52 2007/05/06
あとがき
一度消えたのにチャレンジしたんだけど、イメージと違いましたね。
このラストは、最初から考えてたのですが、やっと形にできました。
少しでも楽しいと思ってくださると、うれしいです。