逃 亡




 目が合った。
 細い、薄情そうな一対の瞳が、彼に気づいて、大きくなる。
 浅野を組み敷いている痩せぎすの全身が強張りつくのが、離れた場所からでも、確認できた。
 小司馬が、床に縫い止めた浅野の上からぎこちなく退くのを、黙したままで昇紘は見下ろしていた。
 小司馬が離れるのを待ちかねていたかのように、浅野が上半身を起こすのを目に留めながら、昇紘は、なにごともなかったかのごとく、その場を離れた。



 朝まだき。
 冬間近である。鳥の、甲高いさえずりが、薄暗い空の下、遠く近く、聞こえる。
 葉をすっかり落としている木の幹に背凭れ、浅野は荒い息をついた。息が白く、空へと霧散してゆく。
 そんなに長時間歩いたとも思わないが、心臓が、苦しい。
「なまっちまったな」
 自嘲しながら、歩いてきたばかりの方を振り返った。昇紘の官邸が、小さく見える。
 官邸内を好き勝手にうろついてはいたが、それ以外はほとんど知らない自分に、溜息が出る。
 右も左も――どころか、ことばすら通じない場所でひとりでやってゆく覚悟は、なかなか、できなかった。しかし、これ以上ここにいたくもない。だから、これまで食わせてもらっておいて恩知らずだとは思ったが、ここから出ようと、浅野は決意したのだった。
 急用だとかで、昨日から、昇紘は帰っていない。まだ、帰っていないはずだ。そうだと、思いたかった。
 昇紘が不在の隙に、誰にも告げずに、逃げ出す。そうでもしなければ、これ以上ここにいたら、自分がどうなってしまうのか、不安でならなかった。
 自分が、なにをされたのか、それを思い出しかけて、浅野の全身が、大きく震えた。
「思い出すな。だすんじゃない」
 しかし、そうつぶやけばつぶやくだけ、思い出したくもないもろもろが、記憶の中から滲み出してくるのは、なぜだろう。
 昇紘にされたことが、一昨夜の小司馬の行為が、まざまざと、脳裏によみがえる。自分の身の上に起こった変化もまた。
 浅野の背筋が、粟立った。
「あんなっ」
 吐き捨てる。
「大丈夫だ………。まだ……まだ、オレは、だいじょうぶ」
 こみあげてくるものを飲み下そうとする浅野の不健康そうな顔が、引き攣れるように歪んだ。


 内環途(ないかんと)をうろついていた浅野は、どうにか、郷城(ごうじょう)の四つある門のひとつにたどり着いた。
 聳え立つ石造りの城壁は、威圧感ばかりを与えてくる。
 頑丈な木と鉄の門は、まだ、開いてはいない。
 物見に立っている門卒(もんばん)がひとり、浅野に気づいて、近づいてきた。
 ことばが通じるのか――と、構えた浅野が、思い出して、懐を探る。
 以前、和州ならどこの門でも開くと言って昇紘に渡された、木の札があったはずである。おそらくは昇紘の名と印とが記されているのであろう、三センチほどの大きさの薄い木切れ。それを取り出して、門卒の目の前に、差し出す。
 門卒が、浅野と木切れとを、見比べ、頷いた。
 通じたことに、安心した浅野が、詰めていた吐息を吐き出した。
 門卒が、浅野を手招きする。どうやら、門の脇の、くぐり戸を開けてくれるようだ。
 浅野が、一歩、門卒に答えて歩き出す。
「そいつを出すな」
 いましも浅野がくぐり戸を抜けようとした、瞬間だった。
 朝の静けさを破る、大声と、複数の足音が、浅野の背中をしたたかに、蹴たぐった。
 弾かれたように門を走り抜けようとした浅野の腕を、門卒が脊髄反射なみの速さで、掴んだ。
 腕をきつく掴まれたことで全身を駆け抜けたものが、浅野の動きを、刹那、封じる。  それは、怖気だった。
 刹那よりもはるかに短い須臾(しゅゆ)の間に、浅野の脳裏を過ぎったもの。それは、無理矢理教え込まされた、意思を持って触れてくる、他人の体温だった。
 恐怖、でもあった。
 自分は、逃げようとしている。それを、おそらくは、知られたのだ。
 全身が、ぶざまに、震えてくる。
 逃げられなかった場合のことなど、考えてもみなかった。あんなことをした昇紘である。逃げられず捕まってしまえば、昇紘は、いったいなにを、するのか。
 イヤだっ!
 怖くてならない。
「……このっ。はなせっ」
 我に返った浅野が藻掻く間にも、足音が、近づいてくる。
「いやだっ」
 焦れば焦るほど、藻掻けば藻掻くほど、門卒の腕は強く、浅野をまるで郷城に忍び込んだ不埒者とばかりに、逃がすまいと、縛める。
 頼みの綱の銃を取り出そうにも、両腕を掴まれてしまっては、どうにもならない。
 目の前に迫った、小司馬と、記憶にある、大男に、浅野はくちびるを噛みしめ、項垂れた。
 浅野の頭の上で、小司馬が、門卒になにやら命じる。
 門卒の手が弛んだのを感じた浅野が、もう一度と、身をよじった。


 早朝の逃亡をしくじり、銃を取り上げられたうえで、浅野は昇紘の私室に押し込められた。抜け出そうにも、院子(なかにわ)側の戸口にも、廊下側にも、見張りが立っている。
(なんで………こんなっ)
 半ば呆然と、浅野は、壁を殴りつけた。
 昇紘の私室は、彼の好みだろう、豪奢で、広い。その片方を占めている、牀榻を見ないように、近づかないように、浅野は、室内を歩き回った。
 逃げられる場所も、隠れる場所も、ない。
 昇紘が来れば、なにをされるのか。―――浅野の全身を、怖気が走りぬけた。
 この部屋へと閉じ込められるまえに、小司馬に言われたことばが、頭の中で渦を巻いていた。
(あんなこと……うそだっ)
 しかし、小司馬のことばを真実だと考えれば、昇紘の行動も、納得がゆくような気になる。
 納得がゆくからといって、そんなこと、受け入れたくもないのだが。
 自然、浅野の思考は、考えないようにしていたほうへと向かっていった。
 昇紘がなにを思って、自分を抱いたのか。それを思うたび、全身に冷水をぶっかけられたような、寒気が走る。
 興味本位なら、一度で済んだろう。せめて、そうであれば、どんなにか、ましだった。たとえ、正堂に引きずり出され、見世物のようにされても、二度目がなければ、官邸で浅野を見かけるたびの訳知りそうな視線やささやき交わす声は、ほどなく消えただろう。なのに、昇紘は、毎晩のように、浅野を呼んだのだ。二度目以降、嫌がる浅野を、召使なのだろう大男に引きずってこさせ、押さえつけた。
 叫ぼうと喚こうと、意味がなかった。
 哀願も、懇願も、昇紘の手をとどめることはなかった。
 ただ、昇紘の、強(こわ)いほどのまなざしに、憎悪を向けられているような熱を感じて、目を逸らすことしかできなかったのだ。
「くそっ」
 何度、昇紘に、頭から喰らわれただろう。
 痛みだけを感じていれば、恐怖だけを感じていれば、まだしも。
 しだいに身のうちに芽吹いてきた、あれは、間違いなく、快感だった。
 自分の口から出る、信じられないような、甘ったるい、声や喘ぎ。翌朝、ひとりの牀榻の中で、断片的に思い出してしまう、媚態。
 ぞっと、した。
 まるで、悪友から回されてきたアダルトビデオの女優たちがフィルムの中で演じる嬌態のようだった。いや、自分の態度が、それらよりも、はるかに、いやらしく思えて、悔しくて、泣くに泣けなかった。
(中嶋を助けてあっちに帰っても、二度と、アダルトビデオは見ない)
 どんなに面白いといわれても、そそるといわれても、見れないに違いない。
 ふと視線を感じて、浅野は、振り返った。
「っ!」
 院子側の、窓の透かし彫りの外に、小司馬が立っている。
 小司馬の、刃物のように細い瞳が、浅野をじっとりと捉えていた。
 浅野の、全身が、ぶるりと震える。
 門卒から小司馬へと、自分を捕らえる手が変わったあの時、浅野は、門卒の顔つきに、不快なものを感じたのだ。
 じろじろと、自分の頭から足までを往復する、視線が、ねっとりとしているような、そんな気色悪さに、
『なにを、言った』
と、訊ねずにはいられなかった。
『いや。おまえは、昇紘さまの、お気に入りだから、逃がすと、お目玉を喰らうぞとね』
 小司馬の薄いくちびるが、にやりと、いやらしそうに歪んだ。
『お気に入り?』
 その単語にこめられている、微妙なニュアンスを、浅野は敏感に、感じていた。
『そうだろう。おまえを探してつれてくるようにと、昇紘さま直々の命だ』
『帰って………るのか』
 青ざめた浅野の顔を、覗き込み、小司馬が、嗤う。
『一つ、教えといてやろう。いまや、おまえは、昇紘さまの、愛人だ。屋敷の人間は、そう見做してるからな。今度逃げようなんてしたら、昇紘さまに恥を掻かせたってことになる。どうなるか……オレは、知らんぞ』
 小司馬らしからぬ忠告に、その内容に、呆然としているうちに、浅野は、昇紘の私室に閉じ込められたのだった。
 小司馬の、細く剣呑な瞳が、浅野の褐色のまなざしを受けて、ふいと、逸れた。
「あっ………」
 思わず、窓の透かし彫りを握りしめ、浅野は、
「待ってくれっ」
 叫んだ。
「ここから、オレを出してくれっ」
 しかし、小司馬は、一度も振り返りはしなかった。
 窓の飾りを握りしめたまま、浅野は、その場に頽(くず)おれた。
 男の自分が、いつの間にか、同じ男である昇紘の愛人になっているだなどと、冗談もきつすぎる。
 しかし、そうだったのだと思えば、夜毎の昇紘の行為も、腑に落ちる。
 腑に落ちはするが、だからといって、なぜ、自分が、それを受け入れなければならないのだ。しかも、暗黙のうちに、強制的に――なし崩しである。
「オレだけがしらなかったってか………」
 誰も彼もが、自分を、昇紘の愛人だと、そう、見做していたのだと思えば、羞恥も過ぎてしまう。
 ますます、ここから逃げなければと、強く思う。
 しかし、どちらの入り口にも、見張りが、立っている。
 このまま、昇紘の愛人などという立場に、追いやられてしまうのか。
 それは、あまりにも、理不尽なことに思えてしかたがなかった。
「逃げよう」
 立ち上がった浅野の目に、幼児ぐらいの大きさの、高価そうな花瓶が飛び込んだ。
 持ち上げ、活けられていた花もろとも、床に叩きつける。
 見張りが入ってきた隙に、浅野が、戸を、すり抜けた。
 しかし、
「さっき、オレが忠告してやったばかりだろうが」
 腕組みをして、壁に背もたれていた小司馬が、ゆらりと、身を起こした。
「くそっ! はなせっ、はなせって」
 藻掻く浅野を牀榻に押し付けて、小司馬が、
「昇紘さまはな、そうそう甘っちょろい方じゃない。あまり、聞きわけが悪すぎると、いまに、悔やんでも悔やみきれなくなるぞ」
 そう言いながら、浅野の腕を一まとめに束ね、牀榻の枕元に、括りつける。
「おとなしく、昇紘さまのお情を受けていろ。そうすれば、おまえも、甘い汁が吸えるってすんぽうだ」
 ま、いつまで、昇紘さまの気まぐれが続くのかが、問題だがな。
 そう笑うと、小司馬が、部屋を出てゆく。
 浅野は、小司馬の背中を、くちびるを噛みしめて、睨みつけていた。


 どんなに腕を引っ張っても、藻掻いてみても、小司馬が括りつけた皮のベルトは、弛みもしない。
「なんでオレがこんな目に………」
 これでは、中嶋を助けるよりも先に、自分のほうが壊れてしまいそうだ。
「……助けて」
 弱音が、こみあげた涙と共に、こぼれ落ちた。
 その時だった。
「誰に、助けを求めている」
 浅野が顔を背けるよりもわずかに素早く、昇紘の手が、浅野の顎を捉えた。
 無言で首を振る浅野の吐息を掠めるほど間近まで顔を寄せ、
「今度、私から逃げようなどというそぶりを見せれば……いいか、浅野、よく覚えておくがいい。私は、おまえを、去勢させるぞ」
 いつも伏せ目がちにしている褐色の瞳が、大きく見開かれ、昇紘の鋼色のまなざしを、見上げた。
「私は、私のことばを、違えることは、決してない」
 そう言うと、昇紘は、硬く強張りついた浅野のくちびるに、噛みつくようなくちづけを落とした。



おわり



from 15:07 2004/10/18
to 16:09 2004/10/24


あとがき
 う〜ん。微妙。
 どこがじゅーにこくきなんだろうと思いつつ、描いてる本人は楽しかったりvv
 しかし、濡場寸前が、ワンパターン。どうやら、こういう拘束系好きらしいですxx
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