散華月 1




「だ、だめだっ。やめてくれ」
 鋭い牙が、震える白い肌を裂こうとしていた。
 今、まさに、目の前に広がるだろう血の赤に、最後の最後で、足が、動いた。
 喉に、衝撃を、次いで、灼熱。痛みがやってきたのは、それから、だった。



 オレは、追われていた。
 なにがなんだかわからない。
 それが、正直な気持ちだった。
 なんで、こんなところにいるのかも、なんで、手に凶器を持った男たちに追っかけられなきゃならないのかも、まったく、わからなかったんだ。
 なぜって、ことばが通じないから。
 目が覚めたら、見たこともない場所で、怖そうな顔をした変な服装の男たちに見下ろされてた。
 ここはどこだ――って、訊いたオレのことばは通じなかった。変な顔をして男たちは何かを相談しだして、そのまま、オレは、殺されそうになった。
 疑問符だらけのオレの頭は、たちまち、恐怖であふれかえった。
 だから、ただ、逃げたのだ。
 いや、逃げているのだ。
 舗装なんかされていない細い山道は、足首を捻ってしまいそうにでこぼこしていて、あちこちに石が転がっている。
 いったいどこの田舎だという疑問なんかより、息が、苦しいってことのほうが、より切実だった。
 心臓が悲鳴をあげている。
 足だって、もう、ジンジンを通り越してる。
 ただでさえ、マラソンなんか嫌いだって言うのに、オレは、なんだって、こんな山道を走って上ってるんだろう。
 逃げてるからだけど、も少しましな道があったんじゃないか。なんて、つい、思っちまう。
 オレが、いったい、何をしたって言うんだ。
 喚きたかった。
 帰りたかった。
 中学から愛用してる腕時計を見れば、もう、夜の九時だ。蛍光塗料が黄色く光ってる。
 オレってば、三時間近く逃げてんのか。そりゃ、隠れたり、止まったりを、何度もしてるけど、駅伝や、マラソンコース完走って時間じゃんかよ。しかも、山道だぜ。も、ヘバっちまう。
 いつもだったら、家に帰ってる時間だ。
 学校帰りに塾行って、それも終わって、飯食って風呂はいって、宿題やってるか、ゲームやってるか。そういえば、毎号読んでる雑誌、帰りのコンビニで買ったってーのに、カバンなくしちまってら、読めやしない。くそっ。続きが気になってる連載があったのに。
 今日は、せっかく、塾のない日だったってーのに、オレはいったいなにやってるんだろう。
 逃げてるっていうのに、オレってばいったいなにをやってるんだろう。
 目の前に、白い小さなウサギがへたってたんだ。
 血が、後足から流れてる。
 全身が、ひくひくと、荒い呼吸に引きつってる。
 多分、それが、オレの未来の姿のひとつに見えたんだ。きっと、男たちに見つかっちまったら、オレって、こんな風になってしまうんだろうなって、そう思ったら、ほっとけなかった。
 思わず、拾い上げて、
「うわっ」
 傷ついてる後足で蹴られそうになって、オレは、大声をあげそうになった。
 だ、大丈夫だ。
 周囲の気配を探る。
 とりあえず、気配はない。
 ちょっと前に、もしかしたら、振り切れたかと、思いはしたんだ。
 まだ、安心はできねーけど、でも、多分。
「だいじょうぶだって。いじめやしねーよ」
 こそこそと手近の繁みに這いずりこんで、オレは、小声でウサギに話しかけた。
 まぁ、ウサギの傷の手当て、できやしねーけど、致命傷だったら、アウトだけど。けど、なぁ。なんか、身につまされて、ほっとけなかったんだ。しかたないよな。
 なんかないかと、制服のポケットを探る。
 出てきたのは、ハンカチ、学生証、それに、小銭入れに、銀紙に包まれてるチョコレート。それだけだった。
「なんか、役に立つものないよな」
 サバイバルの達人だったら、これだけあったらどうにかなったりするんだろうか? いくらなんでも、無理って気がする。まぁ、オレだって、チョコレートがいざって時の非常食に最適ってことくらいは、知ってるけど。
「興味なかったしなぁ……」
 血止めの草だって、わからない。
 とりあえず、ハンカチを細く千切って、ウサギの傷口を縛ってやる。心臓に近いほうを縛るんだったよな。保健体育で習った知識を総動員だ。けど、
「こんなでいいんだかどうだか……」
 独りごとが多いなと思いながら、止められない。
「ごめんな。手出さなかったほうがよかったか?」
 話しかけてみる。返事がかえってくるわきゃないけどさ。
 半月よりも細い月の頼りない光が、ウサギの目をちょこっとだけ光らせた。
 ふわふわで、あったかい。ウサギの心臓が、せわしない脈を刻んでる。
 なんか、オレは、ぼんやりしてた。
 自分以外の生きもののぬくもりに、トクトクと動く心臓に、ほんの少し、安心しちまってたのかもしれない。
 もしかしたら、寝ちまってたのかもしれない。
 がさりという物音に、オレは、全身で反応しちまった。
 と、ウサギが、オレの手の中から、もがいて逃げた。
「ちびっ」
 叫びそうになったけど、かろうじて、オレは、自分の口を押さえることができたんだ。
 けど、なんつうか、それって、結局無駄だったみたいだ。
 オレは、今、オレの目の前の現実を、認めたくなかった。
 なぜ?
 なぜって……。
 オレの目の前には、緑に光る、一対の目玉。
 荒々しい、呼吸。
 そうして、むっとするほどの、獣の匂いと、熱。
 月の光を遮って、オレを覗き込んでくる、なんなのかはわからないでっかい、獣の顔が、まさに、目と鼻の先にあったからだ。
 結局、オレの意識は、緊張感に耐えられず、そこでぶっ飛んじまった。
 オレは、自分で自分の軟弱さを呪いながら、気絶しちまったんだ。


 気がついたとき、オレは、やっぱり、まったく知らない場所にいた。
 気絶しちまってから、一晩まるっと眠っちまったのか、明るい日差しが、凝った細工の格子が嵌ってる窓から差し込んでくる。
 眩しくて目をつむっていられなかった。からだの向きを入れ替えようとしたオレは、呻く羽目になっちまった。全身が、ミシミシいうんだ。これは、どうやら、筋肉痛らしい。痛みが、昨日のこと―だろう―出来事を、思い出させる。
 知らないところ、に、オレは、いるんだ。理不尽な目に合ってるって怒りより、淋しさや不安ばかりが、押し寄せてくる。
「くそっ」
 鼻の奥がきな臭くなって、目頭が、痛い。
 泣きたくなんかない。みっともないだろ。でも、こらえられなかったんだ。
 しゃくりあげて、気持ち悪い。
 誰もいないのが、とりあえず、救いだろうか。
 横寝のまま、オレは、泣いた。
 気が済むまで泣いて、オレは、手の甲で目を拭った。何度も深呼吸をした。脇腹が、痛い。そりゃあんだけ、しゃくりあげたら、当然だ。
「起きよう」
 自分で自分に命令する。
 ぎしぎしと、軋むような痛みが、からだのあちこちに、芽生える。
 昨夜逃げ回ったからだろう。足の裏が痛くてだるくて、熱いっていうのにも、遅ればせながら、気づいた。
「運動不足か……」
 でっかいベッドの上に起き上がって、オレは、くらくらと目が舞うのを感じた。
 立てた膝の上に、うつむいて、オレは、眩暈(めまい)が去るのを、おとなしく待ってた。
 でっかい獣の顔が、オレの目と鼻の先に迫ってた。それが、昨夜―だろう―の、最後の記憶だ。
 あの後、結局、オレは、助かったわけだ。
 誰か知らないけど、親切なひとが、助けてくれたんだろう。
 ことばが通じりゃいいけどな。
 でなきゃ、昨日みたいに追っかけられたり、殺されかけたりしてしまいそうだ。
 でも、あんなでっかい獣から助けてくれたりするんだったら、問答無用で、殺そうとはしないだろう。――希望的観測か?
 逃げる算段くらいはつけといたほうがいいかもな。
 オレは肌触りのいい布団を剥いで、寝台から、降りようとして、目を剥いた。
 いや、なんだ。オレってば、薄っぺらいさらさらする肌触りの、着物みたいなものを着てるだけだったんだ。よく年寄りのばーちゃんとかが寝るときに着てるみたいな、腰のところで縛るだけってタイプの、要は踝丈の寝巻きだよな。それだけだったら、まだしも。下着を、つけてない。すーすーするんだ。勝手に脱がされたっていうのが、ショックだった。そりゃ、昨日オレが着てたのは、泥やら汗やらで汚れてるだろうから、豪華な部屋の、寝台が汚れるのは、イヤだって思ったのかもしれないけど。オレが気絶してたって理由もあるかもしれないけど。けど、なんか………。
「う……オレの服」
 足が痛くて、ふらついたけど、眩暈も去ったことだし、大丈夫だ。
 ゆっくりと立ち上がったオレは、やけに広くて豪華そうな家具や調度であふれかえりそうな部屋の中を、服を探してまわったのだった。
 寝台とは離れた位置にある、凝った彫刻のしてある飴色の机の上に、オレの持ち物が、丁寧に並べられているのを見て、なんか、泣きたい気分に襲われた。
 破れたハンカチ、学生証と、小銭入れ、腕時計に、それに、チョコレート。
 オレの持ち物は、それで、全部っていうことになる。
 心もとないって、こんな感じなんだ。
 オレは、これから、どうすればいいんだろう。
 あまりに突然突きつけられた、現実に、オレの、胃が、からだの中で、悲鳴をあげる。
 オレは、腹を押さえて、その場にしゃがみこんだ。
 脂汗が流れてくる。
 不安と、恐怖。それに、孤独。それが、すべてだった。



 オレを助けてくれたのは、昇紘って名前の、四十才くらいだろう、渋いっていうか、苦みばしってる男だった。ふつーだったら、ちょっと、近寄りたくない。そういうタイプだ。けど、ことばが通じるのが嬉しくて、オレは、なんか、すげーホッとしたんだ。
 だから、ヤツが言うままに、外が恐かったってこともあるけど、オレは、ずるずると、この屋敷に留まっちまった。
 それが、オレにどんな災いをもたらすかなんて、どうして、オレに推測することができただろう。
 オレは、ただ、昇紘の親切を、信じきってたんだ。



 昇紘の屋敷は、山の奥にある。
 めちゃくちゃ人里離れてるってーのに、めちゃくちゃ豪華だ。
 だから、使用人ってーのも、何十人っている。
 昇紘一人に、何十人もの召使が傅いていってわけだ。
 その中には、オレに親切なひともいるけど、なんか、意味ありそうな視線でオレを見るヤツもいる。
 小司馬って男が、その代表格だ。目の細い、人相のよくない、なんか、剣呑そうな男だった。小司馬は、なにをやってるのか、よくわからない。いつも、ぶらぶらと、暇そうで、昼間っから酒の匂いをさせてるときもあった。なんだろう、時代劇で豪商なんかに飼われてる、雇われの剣客、食客とかってパターンなんだろうか。ほら、小遣い銭貰って、酒飲んで、ぶらぶらしてる、浪人だ。
 小司馬は、オレと出くわしたりすると、にやにやと、厭な表情でオレを見る。
 だから、なるたけ、会わないようにって、気をつけてはいたんだけどな。いくら広い屋敷ったって、そうはいかない。相手だって、生きて意志をもって動いてるわけだから、オレが部屋にこもってるんじゃないかぎり、どっかで、出くわしちまう。
「なんだよ」
 昼間っから酒なんか飲んで。
 渡り廊下の、腰まである高さの欄干に軽く腰かけて、腕組みまでして、オレを見てくる小司馬に、オレの機嫌がたちまち下がる。
 ここんとこずっと雨ばっかだったから、オレの気分もなんか、ナーバスでさ。この先オレってどうすればいいんだろうとか、益体もなく悩みたくってばっかいたんだ。
 昇紘が、文字とか言葉とかは教えてくれたけど、なんか、いっこうに覚えられなくて、それが、また、悩みに拍車をかけてた。
 この渡り廊下から見る庭っていうのは、オレのお気に入りの場所で、昇紘の書斎からオレの部屋に帰る途中、オレは、ここでちょっとの間、ぼけーとするのが、日課みたいなもんだった。
 で、だ。久しぶりのいい天気に、オレの気分は、なんとなく、復活してたんだ。なのに、まるで、待ち構えてるみたいにここにいる小司馬と出くわしちまうなんて、なぁ、オレの気分が下降するのも、しかたないってもんだろう。
 クックックなんて、悪人笑いまでしやがって。止めろよ。似合いすぎて、気色悪い。
 けど、さすがに、そこまでは、オレも口にはできなかった。
 なんか、妙に迫力あるんだ、こいつ。
 なにをするかわかんねーあぶないヤツ。そんな雰囲気が、酒気にまじって、全身に漂ってる。
 お近づきに、決して、なりたくないタイプだ。
 いつまでオレのこと見てんだよ。
 相手にしてらんねーと、オレは、その場から立ち去ろうとした。
 ゆらり――と、小司馬が、欄干から下りて、オレのまん前に来た。
 酒の匂いが、強くなる。
 背中が、いや、全身が、ゾワリと、粟立った。
 何故か、動けないでいたオレの顎が、小司馬に持ち上げられる。
 パシン。
 オレは、反射的に、小司馬の手を叩き落していた。
   ヤバい―――と、思ったが、後の祭りってヤツだった。
「まだのようだな」
 そんなオレをどう思ったのか、口の端を歪めて、小司馬が嘯いた。
「まだって、なにがだよっ」
 腹立ちまぎれに、オレは、小司馬に食ってかかっていた。
 ヤツの細い双眸が、腰をかがめて、オレの目を覗き込んでくる。
 背けようとした顔は、逃げようというオレの目論見と同時に、もう一度顎を捕らえられることで、阻まれた。
 顎を掴んでくる手の強さに、オレの全身が、震えてしかたない。
「昇紘さまも物好きな―――と思いはしたが、こうして見ると、おまえも、見れる」
 小馬鹿にするような口調だった。
 少し顔を離して、オレを見下ろしたままで、小司馬が肩を竦める。
「そうだな――きっかけになってやろう」
 歌うように言うと、小司馬は突然、真面目な表情になった。そうして、いきなり、ちろりと、ヤツは、舌先で、オレのくちびるを舐めたのだ。
 びっくり、なんてもんじゃない。
 過ぎる衝撃に動きが止まるってことが、本当にあるんだって、オレは、はじめて、知った。
 まるで瞬間冷凍されたみたいに硬直しているオレの口に、ヤツのくちびるが本格的に重なったのは、オレが、まだ、息を吹き返せずにいる間のことだ。

 実際、これが、きっかけになった。
 あの後のことなど、オレは、覚えていない。いや、違う。覚えてなんかいたくないんだ。

 夕飯だと知らせが来るまで、オレは、あてがわれてる部屋で呆然としちまっていたらしい。扉の外の声に我に返ると、部屋は、真っ暗だった。
   気がかりそうにオレを見てくる召使の赤い目に、オレは、何かが引っかかったような気がして、首を傾げた。
「ご気分でもお悪いのですか?」
 ひそやかな声に、
「あ、や、ごめん。ぼんやりしてただけだから。……今日の飯はなにかな」
 へらりと笑って返してた。
 男にキスされたのが、とにかく、滅茶苦茶ショックだったのだ。
 面白がっているだけに違いない小司馬を突き飛ばして、オレは、部屋に駆け込んだのだろう。そうして、このひとが来るまで、ベッドに腰かけてた。
 なんで男に――そんなことばかりが、頭の中にあって、他のことに気がまわっていなかったんだ。
 たかが、キスだ。けど、あいつは、舌まで入れてきやがった。
 所謂、フレンチ、ディープ……そんなのは、どうでもいいが、なにが厭って、オレは、男にされたキスに感じてしまっていた。
 ぞわぞわと、ヤツにされていることがオレに引き起こした感覚が、そこを拠点に、全身に広がってゆく。フルフルと鳥肌立っているのが、嫌悪からばかりでないことを、オレは、感じていた。そうして、
(あれは、絶対、ヤツにもわかっていたに違いない)
 あのまま、ヤツを突き飛ばさなければ、オレは、どうなっていたのか。怖い考えに、オレの頭は、思考を放棄しかけていた。
「どうした?」
 かけられた低い声に、オレは顔を上げた。
「食欲がないようだが?」
 カチリとかすかな音をたてて、箸を置き、席を立つ。
「昇紘―――さん?」
 オレの傍に来た昇紘の視線が、オレを見下ろしてくる。
 なんだろう。産毛がちりちり逆毛立つ。全身が小刻みに震えるのは、昇紘の視線が、怖く感じられてならないからだった。
 ねっとりと重く、滾るように熱い。それが、ひりひりとオレの全身を灼くのだ。
「なにを考えていた?」
「?」
 そんなこと、親にでも訊かれたのなら、「なんでもいいだろ」と、返すところだ。けれど、おざなりな返事では許されそうにない雰囲気が、昇紘からはにじみ出ていた。
 穏やかに静かに、けど、それは、本当の昇紘の姿じゃないだろう。本当は、激しい、苛烈な性格じゃないだろうか。引き結ばれている口角とか、眉間に刻まれている深い皺とか、召使たちの態度とかが、それを物語っているような気がして、仕方がない。
「小司馬のことか?」
「へ?」
 目が点になる。なんでヤツのことなんか――――そりゃあ、関係なくはないかもしれないけど、考えたくて考えてたってわけじゃない。
 そんなオレの動揺を敏感に感じとったのか、
「勉強の後、小司馬となにをしていた」
 ゆっくりと、昇紘が、それを口にした。
 オレの目が、大きく見開かれてゆく。そんなことしたら、バレバレじゃないか――なんて突っ込みは、後になってのものだ。
「な……にを」
 動揺しまくって、誤魔化すことなんか、できなかった。
 オレの忘れたいことを、昇紘は、知っている。
 渡り廊下の、あの位置は―――――ああ、オレって、まぬけっつーか馬鹿だ。あの位置は、昇紘の書斎からよく見える。あの時のオレの後ろ、庭を隔てた向い側が、昇紘の書斎なのだから。
『そうだな――きっかけになってやろう』
 小司馬は、歌うように嘯いた。
 きっかけ?
 きっかけって、いったい、何のだよ。
「おまえが、誘ったのか?」
 ぐるぐると頭の中に回る、小司馬の声に、低いトーンの昇紘の言葉がからみつく。
「さ、そった?」
 いったい、何を、誰――を?
 ぐるぐると。
「おまえを救ったのは、この私だ」
 ぐるぐると、声が、ことばが、趣味の悪い踊りを踊る。
「あのままでは、おまえなど、殺されるまでもない」
 野垂れ死にでもしていただろう――と、そう、言いたいのだろう。それは、オレにも、感じ取れた。
「だから」
 とても、感謝している。
「ならば、何故」
 昇紘の両手が、オレの肩に乗った。その強さに、不安を覚えたオレが顔を上げるまでもなく、片方の手が、オレの顎をきつく掴み、仰向けさせた。
 記憶に新しいその体勢に、息切れしそうだった。
 まさか――。
 そんな。
 嘘だ。
「このくちびるを、小司馬になぞ、許したのだな」
 昇紘の親指が、オレのくちびるを、なぞる。
 ガンガンガン……と、どこかで誰かが、銅鑼を、気忙しげに叩いている。
 逃れようと、首を振るオレの抵抗は、しかし、ただ、昇紘を怒らせるだけのものだった。
 イヤだ。
 信じたくない。
 全身の震えが、こみあげる涙が、止まらない。
 オレは、上から抑え込まれるようにして、昇紘のくちびるの感触を、痛いくらいに感じさせられていたのだ。
 そのまま、オレは、昇紘に抱かれた。
 荒々しく引き裂かれ、遠慮などはなからなく、ただ貪ってくるかのような行為に、オレの拒絶など、ないも同じだった。
 殺されるほうがましだ――そんなふうに、全身を苛む熱と痛みとに、オレの意識は、何度となく途切れては、引きずりもどされ続けた。
 辛くて、苦しくて、何度も、本当に、今度こそダメだと、慄かずにいられなかった。
 恐怖も苦痛も憤りも、なにもかもが、昇紘の欲望に飲み込まれて――――――

 ―――そうして、オレは、果てたのだ。



 オレが目を覚ましたのは、翌々日のことだったらしい。
 生きていたことを喜ぶべきか、悲しむべきなのか、オレには、判断できなかった。

 からだの痛みや昇紘に裏切られたような気持ちに苦しんでいたオレに、追い討ちをかけるようにして、ヤツが爆弾を投下してくれた。
 ヤツ――小司馬のことだ。
 部屋に誰かが入ってきた気配に、オレは、固く目を閉じた。
 鼻先を掠めた酒気に、全身が震える。
 クツクツと独特の笑い声が、入ってきた人物が小司馬であるのだと、告げていた。
「目は、覚めているんだろう」
 顔を覗き込まれた。そんな、気配があった。
 こいつのせいで―――と、思えば、目を開けたくなんかなかった。
 そんなオレの耳元で、
「俺のせいだと思っているな」
 面白がっているのを隠しもせずに、ささやく。
「それは、間違いだ。俺は、あくまで、きっかけを作って差し上げたに過ぎん。俺がきっかけを作らなかったとしても――だ。浅野、どうせ、そう遠からず、おまえは、昇紘さまに抱かれることになっただろうよ」
 あいつが、オレを抱きたいと、そう思っていたって、こいつは言いたいらしい。
 そんなことは、嘘だ。
 オレは、胸の中で、つぶやいた。
 けど、すぐに、本当に? と、疑問が頭をもたげてきたのだ。
 耳の底の昇紘の声。
 ―――ずっと、こうして触れたかった。
 ピロウトークにもなりはしない、苦痛の中にささやかれた、あの、声が、よみがえる。
 疑問は、証明にしかならなかった………。
 ずっと?
 いつから?
 オレは、昇紘に、感謝していた。
 そう。助けてくれたし、家に置いてくれている。それも、身内みたいな扱いだ。言葉も文字も、教えてくれてさえいる。
 ここまで親切にされて、感謝しないヤツなんていない。
 信頼してるって、言ってもいい。いや、していたんだ。
 昇紘に任せていれば、大丈夫―――なんて、いつの間にか、思ってた。
 もしかして、だから、なのか?
 オレが、あんまりにも、あいつに頼りすぎてしまったってことなのか。
 勘違いされた?
 だとしたら、悪いのは、誰でもない。
 オレってことになる……………。
 自業自得なのか?
 オレは、頭を抱えたかった。
 そんなオレの耳に、
「ま、動けるようになれば、おまえさんの部屋は、昇紘さまの寝室の奥ってことになる」
 今、部屋のしつらえ中だ。
 この意味が、わかるか?
 たたみ掛けるように言った小司馬の、オレの顔を覗きこむような気配が、強くなった。
 そんなこと、オレが、知るわけないじゃないか。知りたくもない。とっとと部屋から出てってくれ。
 耳を塞いでしまいたかったが、狸寝入りをしているのがバレちまう。
 まぁ、とっくにバレちまってるとは思うけど。
 イヤに耳につく、喉の奥での笑いは、こいつの癖なんだろう。
 聞きたくもない。
 何もかも、聞きたくない。
 けど、そんなオレを、文字通り嘲笑いながら、コイツは、オレを、爆撃してくれたのだ。
 コイツ、オレに、なにか恨みでも持ってるんじゃないか。そう、思わずにはいられなかった。
「喜べ。おまえは、晴れて、昇紘さまの、愛人だ」
 オレのおかげだぞ……などと、戯言をぬかしながら、小司馬が、やっと部屋から出てゆく気配がした。
 オレはといえば、動くことも、喚くことも、できないくらい、真っ白になっていた。

 その夜。



つづく

start 11:42 2005/05/15
あとがき
 見切り発車の『散華月』。アップだけはしとくか。
 やってることはいつも一緒なんですけどね〜。自覚ありあり。シチュエイションプレイってとこか? われながら………xx
 これ、『巷説 百物語』萌えから派生したんですよね。う〜ん、どこがだろう。逃げてるとこだけかも。
 少しでも、楽しんでもらえていることを祈りつつ。
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